森に捧げられた神子 ④

 幾夜が過ぎたのか、もうわからなかった。


 空腹の痛みはとうに薄れ、いまはただ、重い倦怠だけが全身を包んでいる。

 木の洞の中で膝を抱いて、リディアは小さく息を吐いた。白い指先は土と落ち葉に汚れ、唇は乾いて割れている。


 最初の夜は、王国の繁栄を祈った。

 二度目の夜は、神殿の仲間たちの幸福を祈った。

 三度目の夜は、もう、何も祈れなかった。


 胸の奥を、冷たい風が吹き抜けていく。

 王国のため、神殿のため、神のため――そう言い聞かせても、もう心は動かない。

 ただ静かに、己の終わりが近づくのを感じていた。


「……いや……」


 乾いた声が漏れる。

 自分でも驚くほど小さな声だった。


「死にたくない……」


 涙がひとしずく、頬を伝い落ちる。

 その瞬間、森の空気が微かに揺れた。


 葉擦れの音が波のように広がり、肩を撫でる風が、どこか温かい。

 リディアは、霞む視界の向こうに柔らかく光るものを見た。

 それが幻かどうかも、もうわからない。


 重く閉じかけたまぶたの裏で、森の奥が息をつく。

 そして――誰かが、静かに目を開けた。


 青緑の瞳が、微かな光をたたえながら、沈黙の中でこちらを見つめていた。

 リディアは息を呑む。

 闇の奥から現れたその存在は、ひと目で“人”ではないと知れた。

 青緑の瞳が湖面のように揺れ、光を宿した姿は、恐ろしいほど清らかだった。


「……あなたは……精霊様……?」


 かすれた声には、畏れと敬意が入り混じっていた。

 若葉のような淡金色の長い髪の麗人は首を傾げ、湖のような瞳で彼女を見下ろしている。

 光に包まれたその姿を見つめるうち、リディアの頬をまた涙が伝った。


 美しい――あまりにも、美しすぎる。

 手を伸ばせば、触れる前に砕け散ってしまいそうなほどに。


 ああ、やはり精霊はいたのだ。

 自分の命は、この御方に捧げるためにあったのだ。

 胸の奥に安堵が広がる。

 けれど、消えきらぬ恐れが滲んだ。


 ――死にたくない。

 ――けれど、精霊に抱かれて果てるなら、それも運命なんだ。


 震える唇で言葉を紡ごうとしたとき、エリオーンがゆるやかに口を開いた。


「――君の命に、それほどの価値があると思っているのかい?」


 その静謐な声が、森の奥に響く。

 嘲りでも怒りでもない。淡々と、ただ事実を問うような声音だった。


「人間はいつもそうだね。一人の命を差し出せば、秩序が保たれると信じている。

 だが、ここは“秤”ではない。命と引き換えに加護を授ける契約の場ではないよ」


 リディアははっと顔を上げた。

 青緑の瞳が、湖面の底からゆらりと光を放ち、彼女の恐怖を映し出す。


「……では、わたしの死には、意味がないのですか」


 かすかな声に、エリオーンはゆっくりと視線を伏せる。

 風が木々を渡り、森がため息をつくようにざわめいた。


「意味を求めるのは、人の勝手だ。

 だが私は、君の命を秤にかけるつもりはないよ」


 ――帰りなさい。


 冷たい声が響いた。

 リディアは息を呑む。

 そんなことを言われても。帰る場所など、もうどこにもない。

 生贄として森に送られた時点で、彼女はすでに死者だった。

 生きて戻れば、王命に背いた反逆者として処刑されるだろう。


 だから――目の前の精霊に縋らずにはいられなかった。

 膝を折り、泥に濡れた手で裾を握りしめる。


「精霊様、お願いします……どうか、私を森に住まわせてください……っ」


 震える声が夜の森に吸い込まれる。

 エリオーンはその姿を、静かに見下ろした。


「……なんでもいたします。貴方様のために、私の命を……」

「命を差し出すことしか、知らないのかい?」


 怒りではなかった。

 ただ、どこか寂しげな、呆れにも似た響き。

 必死な瞳に、エリオーンはふと既視感を覚える。


 ――あの時の、森に迷い込んだ王子も、同じようなことを言っていたな。


 森に住まわせてほしいと、懇願する人間を前に懐かしさが胸に広がる。

 この少女は、あの王子の血を引く者なのだろうか。

 森の理から見れば、人の命など一瞬の煌めきだ。

 だが、その一瞬に宿る祈りが、エリオーンは嫌いではなかった。


「森で生きるといっても……君は、人が一人で生きていけると思うのかい?」


 エリオーンの声は穏やかだが、問いの重みは鋭い。


「死ぬまで、どれほどの年月になるかはわからない。

 だが、こんな場所で生きることが、君の幸福なのかい?」


 湖面のような瞳が、リディアの祈りを映し出す。

 同時に、冷たく現実を映す鏡でもあった。


 本当の願いを、考えてごらん。


 そう促すように、エリオーンは掌から熟れた果実を差し出した。

 ひと口かじると、甘みと森の香りが広がる。

 命の匂い、命の温度。

 リディアは果実を受け取り、目を伏せた。

 生きたいという想いと、祈りの狭間で、心が揺れ動く。


 ――私は、本当に何を望んでいるのか。

 ――生贄として死ぬことが、幸福なのか。


 エリオーンは静かに見守る。

 危うい命の光が、今まさに芽吹こうとしているのを。

 森の闇の中で、ひとり。

 けれどその胸には、確かな光が差し込み始めていた。

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