第36話 あの世の月
柳の枝がゆるく揺れて、春浅き風が橋を抜けていく。
往来には土煙が立ち、飛脚や物売り、買い物客の喧騒が広がっていた。満開の後の桜の花びらが足元に吹き溜まる。
橋の袂にある団子屋の軒先では、焼けた餅の香りがふんわりと鼻をくすぐった。
「鴉、今日も時間あるかい?」
のれんをくぐり、笑顔をたたえた男が顔をのぞかせる。風呂敷包みを小脇に抱え、片手には緑の塊。浅葱色の着物に濃紫の羽織をまとい、結い上げた髪が涼やかな目元を引き立てていた。
——俺が奉公している呉服屋の若旦那だ。年の頃は、二十を少し越えたばかり。
名前も声も、夢では、ぼんやりとしてしまうのに、香の匂いだけは鮮明だ。
白檀と梅の混じったような、あの春の夜の匂いだ。
「暇ではない。納品の途中だ」
素っ気なく返しつつも、俺は男の手元を見る。団子を二串、笹の葉に包んでいる。
「鴉は甘いものが好きだからな」と言わんばかりの、いたずらっぽい笑顔だった。
「ほれ、ひとつ」
くしゃりとした笑顔と共に串団子を手渡される。俺は受け取り、黙って頷いた。
何度目のやりとりだったろうか。これが、いつもの流れだった。
俺はふと、最初にこれを手渡された日のことを思い出していた。
彼から拾われたときも、こうして串団子を渡された。雨が続いて泥だらけの草履を見つめながら、俺は途方に暮れていた。
酒屋に潜り込んで奉公人を二年勤めた。跡取り娘に気に入られた俺は、自分など身分違いゆえと断り続けて、解雇された。
また新たに才蔵市に紛れ込むのか、日傭座に申請するのか……、と気が重くなっていたところへ、渡りに船でその日のうちに雇い入れられた。
子守と、丁稚奉公。一通り慣れたところで、手代となり、主人の代行を任されるようになった。
ふたりで橋を渡る。
小さな川にかかる石橋で、向こう岸には呉服屋の裏門がある。
桜の花びらが川面を流れていく。
夢か幻か。
けれど、彼は確かにそこに、いた。
橋の真ん中まで来ると、男はいつも立ち止まる。川にはまだ冷たそうな水が流れていて、何羽かの鴨が、ゆったりと浮かんでいた。
「……今日もいますね、鴨」
「いつもの鴨だな」
「仲がいい。……まるで、見習いたくなるくらいに」
俺は串から団子をひとつ、口に運んだ。醤油の香ばしい味が舌にひろがる。江戸時代の砂糖は高級品だ。
キビが混ぜ込んであるのか、ほんのり甘い。
「旦那、今日は奮発したんでしょう。団子が甘いじゃないですか」
無言のまま、並んで鴨を見上げた。雲の切れ間から、昼の白い月がうっすらと浮かんでいるのが見えた。
「鴉。……もう少しだけ、いいかな」
「……」
「ねえ、こうして橋の上で立ってると、時間を忘れられそうじゃないか。自分が何者かとか。……鴉みたいな、時間を超えた存在は川の流れと同じだな」
「俺は、少し長生きしすぎているからな」
「ふふ、そうだねえ」
男は口の端を上げて笑った。
隣の男が少し痩せたことに気づいていた。目の下の影が濃くなり、顔の血色も悪いようだった。けれど、団子を持つ手は揺れず、橋の上の時間にしっかりと立っていた。
「今日は、浅葱屋に納めたら、その後は?」
「大店に戻って、寺子屋から戻ってきた子らをまとめて、服を着せたり風呂に入れたり。飯を食わせたり、だな。知っているだろう、旦那」
「へえ……。鴉は元気だな、相変わらず。こうしてぼーっと鴨と川の流れを眺めてる時間が、いっとう私は好きだ」
「なら、ここにいればいい。俺は次の仕事がある」
「つれないなあ。私は鴉といる時間が楽しいと言っているのだが。案外、鴉は子煩悩なのだな」
若旦那は言いながら、拗ねたようにチラリと俺を見上げて笑う。
「あの世の月は、夢の中では見えるが、手には取れないからねえ。月が川面に映るのを鴉も見てくれるかな」
返す言葉が、見つからなかった。
言葉にすれば崩れてしまいそうで、鴉はただ、黙って隣にいた。
まるで命の火が消えるかのような台詞だ、と思った。
団子のしょっぱさと、遠くの鐘の音が共に、今も記憶に残っている。
若旦那が倒れたと聞いたのは、次の日だった。
寝かされた夜着の彼は、いつもより落ち窪んだ目元に死相を滲ませていた。
俺にできることは、何もなかった。
ひそひそと後ろで話す声がする。
「手代といつも団子を食べていたそうな。あの団子が怪しい」
「手代は仕事も放り出して、……」
——人の言葉は、いつもあとから追ってくる。
誰もが正しさの旗を持ちながら、背中を撃つ。
ああ。俺がしてきたことが、若旦那の命を縮めてしまったか……。
その流れを止められなかったのだろうか。
ただでさえ人の命は五十年ほどで終わるというのに。
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