第37話 白檀の夜

 鴉の昔の話を聞き終えて、グラスの中の赤ワインをゆっくりと回した。

 喉の奥が、乾いたように熱い。

(……まさか、そんな話やったとは)


 鴉は、静かに座っている。

 その大きな背中と、おそらくは江戸時代から変わらない顔立ちの奥に、どれだけの悲しみが宿っているのだろうか。幾度、そのような憂き名を流し、逃亡の日々を繰り返したのか。


 ••✼••

 

 僕の部屋の棚の上には、小さな壺と、白い布に包まれたお札が置かれている。

 墨で書かれた「春翔(ハルト)」の名。

 それは、僕が自分で書いたものだった。


 「神社でな、僕の分のお札は貰えるけど、亡くなった子のはもう貰えへんねんて」

 そう言って、僕は肩をすくめたが、鴉は静かに頷いた。

 ちょうど彼が居候を始めた頃だ。

 墨と筆と色紙を買ってきて、夜中に何度も練習していた。最初は字がにじんで、バランスも崩れていたけれど、何枚か捨てた末に、ようやく書き上げた札だった。


 帰宅して静かな夜、僕は蝋燭に火を灯し、白檀の線香に火をつける。

 ふわりと立ちのぼる香煙が、部屋の空気をやわらかく変える。

 「ただいま。……おかえりって、言うてな。いつか帰ってきたら、そう言うてくれるといいなぁ」


 鴉は、祈る僕を見ていた。春翔ハルトへの挨拶は欠かさないが、いつも帰宅できるとは限らなかった。

 だから、家が整うだけでなく、鴉が線香をたいてくれているのを本当に感謝している。

 誰もいない部屋ではあったけれど、僕にとっては、弟がいる部屋のように感じていたのだ。



 ••✼••


 僕はふと気がつくと、ベッドの上で眠っていた。

 布団はちゃんとかけられ、頭には低反発の枕が差し込まれている。大の字に寝かされていて、少しだけ恥ずかしくなる。

 (また……お姫様だっこされてもうた!)

 酔いにまかせて2人でワインを空けた後、表情の動かない鴉の顔を眺めながら弟のことを喋り、そのまま眠りに落ちた――はずだった。

 僕がそれで起きないというのは、鴉にとってはもう常識だった。

 鴉はタカヤナギさんと同じくらいの背の高さ。見た目は華奢だが、力はある。

 酔いつぶれた僕を軽々と抱き上げ、当たり前にベッドに乗せて自分はロフトの寝室に戻っていく。


 引き戸の閉まる音。

 流しで水を止める音。

 それが消えて、部屋の空気がまた静かになる。

 (……こっち来たな)


 どろりと濁った意識のなかでも、僕は、空気の揺らぎを感じ取っていた。

 重い気配。やさしい匂い。ふわりと白檀に似た、でもどこか違う、濃い香りが混じっていた。

 「……ソウジ、もう寝たか」

 しゃがれた声が、すぐそばで落ちる。

 ベッドが軋む音。

 しゃがみ込んだ影が、僕の首元に近づく。

 (あ、ヤバい。コレなんか……)

 息を呑む間もなく、ふいに首筋に温かな吐息がかかる。

 そして、その皮膚のすぐ上に――生温かいが押し当てられた。

 「……っ」 

 微かにピリっと痛みがあったような気がする。


 すん、と匂いを嗅いでから枕元に座り込んだようだった。


 しゃらしゃらと布の擦れる音がして、小さな甘い吐息が漏れてきた。
薄く目を開けて伺うと、うつむいて髪が揺れるのが見えた。

 
身動きできなくなる。そうして鴉から小さく、細く溜め息が発せられて、どきんとする。



(えー、僕、ここおったらあかんやん。そんなんめっちゃ甘えとった)

 そんなことを考えながらも、ううんと伸びをしながら眠ったふりを続けると、鴉はすうっと立ち上がり部屋を出て行った。


 僕は疲れた身体に行き渡った酒のせいで、再び眠りに落ちた。眼を覚ますと鴉はとうの昔に起きて、朝食をいつものように整えてくれていた。




「おはよ」


「ん、おはよう」



 挨拶は静かに返され、昨晩のできごとが夢みたいだった。


 トーストとコーンスープ、トマトのスライスにオムレツ、あたたかいカフェオレ。
 腹のなかがあたたまり、ほうっと溜め息をつく。



    

 ••✼••


「マスクよし、ハンカチティッシュよし、財布よし、スマホよし、自転車と家の鍵よし。あっ鴉」




 玄関を出る間際、なんとなく呼び止めた。



「なんだ」



「アンタ、僕に何か隠してるやろ」



「うん?」




 こちらをまっすぐ見つめる双眸は妖しく光りを灯している。
自分の好きな男を、好きなのかと、鴉に問えるのか。

 匂いはタカヤナギさんのものだから、僕と彼を混同しているんじゃないかな、って思ったんだけど。

 もしタカヤナギさんを好きだとわかったとして何を言える?せっかくの居心地の良い関係を壊す必要があるんだろうか。

 こんなタイミングで言うより上手く言えるように推考する必要があるか。いや上手く言う必要があるのかないのか、どうなのだ。




 「あ~、何か言うことあったんちゃうかなぁって」



 「だから何だ」



 何をどう言おうとしたのか、こんがらかって口をつぐむ。



 「いや、なにもないんやったら、ええわ」


 

そらした視線を鴉が追いかけてくる。見られている気配はするのに、黙ったままだ。鴉はもともとそんなお喋りじゃないから、どないしよかな、と小さく溜め息をついた。


 

思えば、鴉がウチへ転がり込んできてから、食事を作って貰って、食べさせてもらうのが当たり前になっていた。

 和洋中華に韓国、スペイン風にタイにベトナム風、程よく口当たりの良い味になって目の前に並ぶんだ。僕はちょっとパクチーは苦手なんだけど、あとはなんでも美味しかった。

僕は、たいていはタカヤナギ邸にいるから、ひとり残した鴉を寂しがらせたんじゃ、と思っていたが鴉はどう思っていたんだろう。


 鴉はタカヤナギさんの着物の匂いを追って、僕のあとをつけてきた。何百年の時間をかけて。

 血の繋がったタカヤナギさんのこと好きやったら、僕、めっちゃ邪魔もんやん。


 そんなことを考えながら、

食器を片付けるために長身をかしげて手を伸ばした鴉の、その黒い髪、黒いシャツに、ペーズリー柄のついた黒っぽい革パンツ、黒いジャケットのホスト服を身につけた後ろ姿を、見るともなしに眺めた。


 そしたら急に、目についたパンツの素材が気になって、つい声をかけてしまった。




「鴉ー。鴉は相変わらず面白い素材の黒もってくるなぁ。そのパンツ、ちょっと触ってええかな?」


「構わないが」


 鴉は、穏やかに僕を見て、ウェルカム、と両腕を開いて待ち構えた。

 いつも通り、出会った頃から変わらない鴉の淡々とした空気で、僕は近寄ってしゃがんで、太ももの外側を撫でさせてもらった。


「このパンツつるつる素材やと思たら意外にごついなぁ。おー、なるほど。ペーズリー柄は印刷加工か。手触りええやん。あー、せや、明日はあっちに行くから、ごはんもあっちでなぁ」


 静かに見つめられている気配がくすぐったくて、話しかけたようなものだけど、素材フェチな自分の行為が、ちょっとわがままがすぎるかもと、ふと我に帰る。

 慌てて見上げて、向こうに泊まると誤魔化した。




「ああ了解」


 

眼だけを合わせて、いつもと変わらず柔らかい無表情で、素っ気ない返事が戻ってきた。

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