第2話 プレッシャー

体育祭まで残り三日。


校庭では各クラスがテントを張り、放課後もクラスごと、赤と白の組ごとの練習が続いていた。


俺は、グラウンドの隅でスタートの姿勢を何度も繰り返す。体力を削るほどの練習ではなく、フォームを整える確認だ。足の角度、手の振り、呼吸のリズム。目を閉じれば、当日のトラックが脳裏に浮かぶ。


アンカー。最後を任されるということは、組のみんなの努力を背負うということ。

責任を考えれば考えるほど、喉の奥がひりつく。スタートダッシュで転んだりしたら、それで全部が終わる。俺はそれが怖かった。


「翔ー!」


グラウンドの反対側から、また大声が飛んできた。声の主はもちろん、早瀬菜月はやせ・なつき

応援団の練習を終えたのか、赤い腕章を外して走ってきた。顔には汗が光り、ポニーテールは少し乱れている。


「一人で黙々とやってるとさ、余計緊張するでしょ?」

「……放っといてくれよ」

「放っとけないから来てるんだって!」


息を切らせながらも笑顔。まったく、この人はどうしてこんなに元気なのか。

俺が首をかしげていると、菜月は俺の隣にしゃがみ込んだ。


「はい、スタート構えて」

「は?」

「いいから! 私が合図出すから!」


強引さに押され、渋々スタートラインに立つ。


菜月の声が飛ぶ。


「位置について――よーい、ドン!」


俺は地面を蹴り、直線を十数メートル駆け抜けた。砂埃が舞い、呼吸が乱れる。止まるとすぐに、菜月が両手を叩いた。


「うん、速い! けど最後の三歩で力が抜けてる!」

「……そんな細かいとこ見てんのか」

「そりゃ毎日見てるからね!」


悪びれずに言われて、言葉が詰まる。毎日? そんなに俺を?

顔が熱くなりそうで、俺は咳払いでごまかした。


「……まあ、意識してみるよ」

「うん。あとさ、笑って走るともっといいよ」

「走りながら笑えって?」


「そう! 翔って真剣になると眉間にシワ寄るでしょ」

「寄ってないし」

「寄ってるよ! ほら、こーんなかんじ」


菜月は両手の指を使って自身の顔にシワを作ってみせた。


「そうかよ!」

「そう、それだと身体も固くなっちゃうよ。だから、笑ってさ。笑顔の方が身体もしなやかになるんじゃないかな」


笑う菜月。

笑顔のまま走るなんて、めちゃくちゃ難しいぞ。でも、彼女の言葉は不思議と胸に残った。


* * *


翌日。


クラスではリレーの作戦会議が開かれていた。

第一走の太田が「俺はスタート苦手だから、無理に前出ないようにする」と言えば、第二走の佐伯が「カーブ得意だから内側攻める」と意気込む。


みんな真剣だ。普段はだらけているやつまで、体育祭となると顔が変わる。この高校では紅白対抗リレーは毎年の目玉的な種目であり、最も盛り上がる競技なのだ。


「アンカーの翔にバトン渡すまでに、二位以内につけよう!」

「最後は翔がぶち抜いてくれるからな!」


男子がそう言って背中を叩いてくる。俺は曖昧に笑い返した。

こうやって期待が集まるのは、正直プレッシャーでしかない。


でも――


「ほら、聞いた? みんな翔を信じてるんだよ」


横から囁いたのは菜月だった。

俺は小声で返す。


「信じられるほど俺、すごくないけどな」

「じゃあ私が保証する。翔はすごい。だって私の幼なじみだもん」

「なんだそりゃ」


さらりと言うその一言に、鼓動が跳ねた。

俺は視線を逸らし、机の落書きを見つめた。


* * *


放課後。


俺は再び校庭で練習していた。


今日はクラスのリレーメンバーが全員揃っていた。第一走から順に、実際にバトンを渡して試す。

俺はアンカーとしてゴール付近に立ち、仲間の動きを目で追う。

息が荒く、手が震えているのが遠目にも分かる。みんな必死だ。


バトンが回ってきた。俺の前に迫る第四走の佐伯。彼の腕が伸びる。

俺は駆け出し、右手を後ろに差し出す。


――パシッ。


確かな衝撃。次の瞬間、地面を蹴る足に力が集まった。


「翔、行けーー!」


菜月の声がグラウンドに響く。

その声に背中を押され、俺は全力でゴールを駆け抜けた。


ゴールテープを切る瞬間、ほんのわずかに笑っていた。

昨日、菜月が言ったとおりに。


走り終えて振り返ると、菜月が両手を大きく振っていた。

笑顔の菜月。その姿を見て、俺の胸にも熱が広がった。


――期待は、もう怖くなかった。

それは重荷じゃなく、背中を押す風になっていた。


体育祭の朝、空は抜けるように青かった。

校庭にはクラスごとのテントが並び、スピーカーからは軽快なBGM。太陽は容赦なく、汗は容赦なく流れる。


スピーカーが甲高く鳴り、校長の挨拶が短く終わる。


「それでは選手宣誓!」


マイクを握った三年の先輩が、澄んだ声で言う。


「我々選手一同、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々戦い抜くことを誓います!」


拍手と歓声が渦を巻く。空は高く、今日の声はどこまでも届きそうだ。


「赤組ー! 声出してこー!」


菜月の声が広がる。


リハから本気。誰より本気。腕を振るたび、ポニーテールが空を切る。

俺はその様子に苦笑しつつ、胸の奥にほんのり火がつくのを自覚していた。


(……大丈夫。やれる)


プログラムが進む。玉入れ、綱引き、借り物競走、応援合戦。

俺は出番の少ない種目の合間、日陰でストレッチを繰り返した。足首、ハムストリング、肩甲骨。無心になって呼吸を数える。


昼休み。

水飲み場まで歩いた俺は、蛇口に口をつける勢いで冷たい水を飲んだ。頭の熱が少し引く。顔を上げたところで、背中を軽く叩かれる。


「おつかれ、翔」


振り向けば、菜月。

周りには誰もいない。校舎の壁がひんやりして、二人の影が並ぶ。


「……緊張してる?」

「してる。正直、胃が死んでる。さっきまでは良かったんだけどな」

「じゃあ、生き返るおまじない」


菜月は両手で、俺の手を挟んだ。

指先が一瞬、熱を持つ。驚いて目を瞬かせる俺に、彼女はいつになく真っ直ぐな目で言った。


「翔ならできるって、信じてるから」


音楽でも流れ込んできたみたいに、胸が跳ねた。

喉が、言葉を弾いた。


「……プレッシャーが倍増なんだけど」

「半分にするって、昨日言ったじゃん」

「言ったのは菜月だろ」

「なら、倍増した分も半分こだよ」


笑い合う。


目の前の人は、無邪気に見えて、ちゃんと人の背中を押す言葉を持っている。


俺はそこで、決めた。


(みんなの視線は、いったん無視だ。菜月にだけ、見せる。俺の走りを。それくらいの方が楽だ)


「菜月、見ててくれ」

俺は彼女の目を見て言った。


「……うん!」


テントに戻ると、リレーのメンバーが集合していた。


「おい相馬、どこ行ってたんだよ!」

「悪い」


第一走、第二走……順番に名前が呼ばれ、肩を叩き合う。俺は最後列で大きく息を吐いた。


「アンカー、相馬!」

「はい」


返事は思ったより張りがあった。


コースに向かう足取りが軽くなる。菜月のいる応援席の前を通りかかると、彼女が両手で大きな輪を作って見せた。


“まる”――心配ない、の意味。

俺は親指を立て、笑った。

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