第2話 思わぬ大役

 翠蓮すいれんに続いて、行政区画を真っ直ぐ進む。

 幾名かの夜勤明けの文官が、進む先々で道を開けて両手を袖に収めて頭上に高々と掲げて拝礼の姿勢をとる。

 紅紅フォンフォンたち一行は、謁見の間のある大堂だいどうに足を踏み入れる。

 天井の高い板葺いたぶきの広間は、足元からひんやりとした冷気を感じる。


 最奥に一段高く設えられたうるし塗りの黒檀こくたん太守席たいしゅせきには、既に父の朱治しゅちが正装の漢服かんぷく戴冠佩刀たいかんはいとうして腰掛けている。

 紅紅フォンフォンは静々と父親の前に進み出ると、拝礼の姿勢でひざまずく。

 背後には侍女頭じじょがしら翠蓮すいれんを始め、侍女たちもまたそれにならう。


 そんな愛娘まなむすめしばし穏やかな眼差しで見詰めていたが、意を決するようにおもむろに口を開く。

紅紅フォンフォンや。朝早くから呼び出してしまったが、これから私が言うことを心して聞きなさい」

 優しい声音こわねではあるが、決意に満ちた険しい表情の父を初めて目にする気がする。


「はい、お父様」

 紅紅フォンフォンは緊張した面持ちをひた隠して、穏やかな口調を心掛けて答える。


「これより、孫殄冦てんこう将軍の使者が謁見の間に訪れる。私にとっては旧知の者だ。多少……ゴホン、豪放磊落ごうほうらいらくなところもあるが、先ずは丁重に迎えることじゃ。要件次第ではあるがのぉ」

 そこで朱治しゅちは再び柔らかな顎鬚あごひげを一撫でして、束の間の思索の時を過ごしたが、直ぐに再び険しい表情になったかと思うと言葉を継いだ。


紅紅フォンフォンにはしゅ家当主たる私の名代みょうだいとして、これから来る者と共に阜陵ふりょう県まで、さる御方おんかたのお迎えに同行して貰いたい」


阜陵ふりょう県といえば、長江ちょうこうの大河を渡って遥か北の地ですね。昔、叔母様の屋敷に遊びに行った覚えがございますわ」


「そう、今回向かう先は正にその屋敷となるじゃろう。今は引き払って施ランだけが留守居るすい役をしておるはずじゃ」


「せ、施ラン様!」

 紅紅フォンフォンは驚きのあまり声を上擦うわずらせたかと思うと、途端に見る見るうちに耳までほんのりとしゅに染まる。


「そうじゃ、従兄妹いとこの施ランじゃ。昔はよく遊んでおったじゃろう」


「は、はい! お父様」


(えっ? や、ヤバッ。 昔から立ち居振舞いがスマートでカッコ良い施ラン様! そう言えば何か有ると、必ずあたしのことを助けてくれてたわ。ひょっとして施ラン様もあたしのことが気になってたとか? ここのところ一年以上も音信不通だったから心配になってたけど、きっと大事なお役目を課せられてたに違いないわ。まさかの再開なんて、これって運命なのかしら?)


 なにやら挙動不審な動きと共にモジモジしだす愛娘まなむすめを目の前にして、朱治しゅちは腕を組みながら更に暫し思考の渦に沈み込んでいたが、やがて意を決した面持ちで言葉を継いだ。


紅紅フォンフォンはまだ齢七歳。お前の不安な気持ちはよく分かる。だから無理いも出来ぬ。本来ならあの御方おんかたの迎えには、私が自ら赴きたいところだが、政情不安なこのよう州の治安を一刻も早く正常化するためには、まだまだ余人に任せる訳にもいかん。それに今後は曲阿きょくあ県の治安維持も手掛けねばならぬかも知れん。しかし此度こたびの任の重要性をかんがみるに、私の名代みょうだいは唯一の子女である紅紅フォンフォン以外にも思い当たらん」


「お父様! あたしにお任せくださいませ」


「じゃが、此度こたび遊山ゆさんの旅とはならんであろう。まだまだ幼き我がに危険がないとも限らんのだ」


「大丈夫ですわ! い、いえ大事なお役目とあらば、あたしだってしゅ家の一族。この大任を無事に全うしてみせますわ」


 朱治しゅちには立派な口上こうじょうとは裏腹に、あどけない表情を浮かべる愛娘まなむすめの姿を改めて目の前にして、やはりおさな過ぎるのでは? との懸念が沸き上がるのを感じずにはいられない。

 しかし今は、その感情すらも唯々ただただ押し殺すしかなかった。


「これより使者を迎え入れる。紅紅フォンフォンは私の名代みょうだいとして、隣の席に座りなさい」


 侍女頭じじょがしら翠蓮すいれん朱治しゅち太守に対して深々と拝礼を行うと、残りの侍女たちを引き連れて静々と謁見の間から引き下がる。

 入れ替わるように県の重鎮じゅうちんの文官、武官が入室し始める。


 紅紅フォンフォンは父の隣の一段下がったところにしつらえられた、朱塗りの椅子にチョコンと腰掛ける。


 やがて銅鑼どらを打ち鳴らす音色の響きと共に下座の大扉だいひが、ギイイ――ッときしむむ音を立てながら開かれていく。


 その大扉だいひの向こうには、七尺七寸(約180㎝)は有ろうかという見上げる程の大漢おおおとこが待ち構えていた。

 正装である真紅の漢服かんぷくを身に纏ってはいるが、頭の総髪そうはつは無造作に一つに束ねられ、針鼠はりねずみのように剛毛に覆われたひげ頬顎ほおあごに手入れなく生い茂っている。

 丸太のような足が板葺いたぶきの床を踏み締めるたびに、ギシリギシリと重厚なきしむ音が響き渡る。


 太守たいしゅ席の前まで進み出ると、その大きな体躯たいくを屈めるように深々と拝礼しながらひざまずく。


「お久しぶりでございますな、君理くんり殿。いや失礼つかまつった。今は県県令のしゅ太守でございますな」


「いやお主と私の仲ではないか、以前のように君理くんりとお呼びなされ。貴殿の兄上、子烈しれつ殿もご壮健であるか?」


兄者あにじゃは相変わらず孫殄冦てんこう将軍と共に、最前線で戦争三昧の日々でござろう。もっとも我も手勢の義侠団を束ねて、各地を飛び回っておりましたがな。ガハハハハッ!」


 豪快ごうかいにひとしきり笑い飛ばすと不意に真顔に直って、再度拝礼の姿勢に戻りながら胸元から書状を取り出しうやうやしく頭上に捧げ上げた。

「こちらは孫殄冦てんこう将軍から、県県令のしゅ太守への親書にござる」


 直ぐに文官が黒盆くろぼんを携えて丁重に盆上に移して、朱治しゅち太守に捧げ上げる。

 朱治しゅちうやうやしく親書を受け取ると、封を紐解いて書状に目を落とす。


伯符はくふ殿もようやく悲願の第一歩を成し遂げられたご様子。先ずは上々じょうじょう。それでは此度こたびの来訪は、私が大切にお預かりしている御母堂ごぼどう様をお迎えする任ということでよろしいかな」


 朱治しゅちは顔をほころばせて、陳パオ両眼りょうまなこを見詰める。

 両者の口元に笑みが零れたかと思うと、隣からトンでもない声が響いてきた。


「ふぅわわわ、くっ、くさぁ――い! ずっと息を止めてたけど、もう我慢できないわ」

 紅紅フォンフォンが鼻を摘まみ、しかめっ面でひざまずく陳パオを見詰めている。



***



【人物註】

・陳武:字は「子烈」。官位は別部司馬。寿春県に赴き孫策に出仕。不敗の精鋭部隊を率いる。


【用語註】

・別部司馬:別動隊の指揮官。信頼できる者を充てることが多い。

・義侠団:「義侠」は義を重んじ弱きを助ける理念。義侠の理念と精神をもつ集団。

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