第3話 陳宝という漢(おとこ)

 紅紅フォンフォンの一言に場が静まり返ったかと思うと、途端に謁見の場が失笑の渦に包まれた。

 文官、武官問わず袖で口元を覆いはしていても、こうした笑いは周囲に伝播でんぱする。


 朱治しゅちも苦笑いを浮かべつつ、陳パオに声を掛ける。

「これは私の娘が無礼な物言いをして申し訳ない。……」


「待たれよ。われはとうの昔に字(あざな)などは使ってはおらん。あんなものは所詮、心の弱き者が使うもの。我ら義侠の者には無用のものでござろう。今後は陳パオと呼び捨てにして貰って結構ですぞ。ガハハハハッ!」


 陳パオはひとしきり豪快に笑い飛ばすと、自らの衣服を鼻に近づけてクンクンと匂いを嗅ぐ。

 視線を隣に移し、チョコンとかしこまって座る紅紅フォンフォンに向き直り声を掛ける。


君理くんり殿のお嬢ちゃんかな。われはそんなににおうかな?」

 いかつい双眸そうぼう紅紅フォンフォンを捉える。


「あなたはお父上とも旧知の仲のようだけど、孫殄冦てんこう将軍の正式な使者を名乗るんだったら、湯殿ゆどのくらい入ってから来なさいよ!」


「お嬢ちゃん、その正式な使者とやらに湯殿ゆどのは必要かな? ずっと戦場暮しだったので、前に湯殿ゆどのを使ったのはいつの頃やら?」


 そう言って小難しい顔をしたかと思うと、両手の指を一本づつ立てていく。

 そして両手の指を見詰めていたかと思うと、今度はおもむろに両足を投げ出して更に足の指を数え始める。


「そんなに何日も湯殿ゆどのを使ってないの?」

 紅紅フォンフォンが呆れ顔で訊くと、陳パオは大きく首を振って答えた。


「そう言えば、ここ一年以上は湯殿ゆどのなんて使っちゃいないな」


 その一言で紅紅フォンフォンは呆れて、口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。


 そんな光景を、温かい眼差しで見守っていた朱治しゅちが口を挟んで言う。

「いやはや。此度こたびの案内は私の名代として、この紅紅フォンフォンに任せようと思っておったのじゃがの。二人がこんなにも早く意気投合してくれるとは、私も肩の荷が一つ下りたような心地ここちじゃよ」


「あたしは全然! 意気投合なんてしてないわっ」

 相変わらず鼻を摘まみながら、頬っぺたをプクっと膨らませて見せる。


 気を利かせた文官が進み出て、県令の朱治しゅちに深々と拝礼しながら奏上する。

貴人きじんをお迎えするのなら、それなりの格式の二輪車馬にりんしゃばや物資、丈夫な荷馬車なども用意せねばなりません。急ぎの用向きとは存じますが、準備に一両日は掛かるでしょう。その間にちん隊長とその御一行の皆様には、県衙けんがに備え付けられております大型の湯殿ゆどのにて長旅の疲れとあかを落として頂き、新たに英気を養ったところで、明後日にご出立いただく手筈にしては如何でしょう」


「なんて素敵な提案なのかしら、全員の衣にもシッカリ香を焚き込むと良いわ」

「おお! それは助かる。我もあの御方に臭いなどと思われたくはないのでな」

 紅紅フォンフォンの無邪気な明るい声と、陳パオの野太い声がシンクロする。


 二人の視線が自然に交差すると、どちらからともなく思わず吹き出すような笑い声に包まれた。



***



 その後の紅紅フォンフォンは、出立の支度したくに目が回るほどの忙しさであった。

 そもそもしゅ家の姫サマとしては、県の城門を超えることすらまれなことである。


 更には陳パオからの要望で、女人が大人数で同行することは足手まといになるため、道案内を兼ねて侍女頭じじょがしら翠蓮すいれんだけが唯一女性として付き添うことに決まった。

 唯でさえ女性の支度したくは何かと物入りである。


 任務遂行のために、陳パオとしては余分な障害は省きたかったからに他ならない。

 それでも紅紅フォンフォンからの口添えもあって、荷物は最小限度で準備することとなった。

 もちろん、陳パオの軽口による挑発に対抗心を燃やした結果に過ぎなかったのではあるが。


 正装の薄紅うすべに色の曲裾袍きょくきょほう葛籠つづらに畳んでしまい、銀のかんざしも外して底の方に隠すように仕舞い込んだ。

 髪はいつものお団子に結い上げて、同じ薄紅うすべに色でも麻の平服で身支度みじたくを済ませる。

 しかし父から預かった親書だけは、唯一大切に何重にも油紙で巻き付けて竹の筒に入れて仕舞い込む。

 それを肩越しに結わえ付けて、紅紅フォンフォンなりに万全な準備を行う。


 朱治しゅちからも県から武官を同行させると申し出たが、陳パオはやんわりと断りを入れる。


「孫殄冦てんこう将軍からも、『義賊の集団ということなら隠密に動くのに丁度良い』との理由で、此度こたびの大任を拝命しておるのでな。正規兵が付き従っては目立って仕方がない。そこへ行くとお嬢ちゃんの同行なら、片田舎の名士が遊山ゆさんするようなもの。私的に家人と護衛が付き添うように見えて好都合という寸法だ。この戦乱の世でも、ちゃんと無事に目的地に辿り着いてみせるぜ。ガハハハハッ!」

 そう言うと平服の上から、分厚い胸板をドンっと叩き付ける。


 義賊団の面々も各自の得物えものは携帯しているものの全員が革鎧を脱ぎ捨てており、傍目はためには家人の一行に見えなくもない。


 そんなやりとりを経て、あっという間に出立の日を迎えた。

 当日は朝霧が晴れるのを待って、阜陵ふりょう県に向けて旅立つ運びとなっている。


 県の城門まで見送りに来た、父の朱治しゅちと母上が紅紅フォンフォンと別れの抱擁ほうようわす。

「きっとしゅ家の名に恥じることなく、立派にお役目を果して参りますわ」

 紅紅フォンフォンの元気の良い挨拶の背後から、翠蓮すいれんが決意を噛みしめるように静かにお辞儀をしている。


「それじゃあ野郎共、出立するぞ!」


おおぉぉ――っ!


 四十余名の義侠団は高らかに雄叫びを上げると、紅紅フォンフォン翠蓮すいれんの乗る二輪車馬にりんしゃばや荷馬車を取り囲むように隊列を組む。

 

 陳パオが駆るひと際大きな葦毛あしげの馬が、二輪車馬にりんしゃばの横に付ける。

小紅シャオフォンの嬢ちゃん」


「誰が小紅シャオフォンよ! 未だ若いからって、馬鹿にしないでよねっ」

 紅紅フォンフォンが頬っぺたを膨らませて不機嫌そうに答える。

 隣に腰掛ける翠蓮すいれんの視線もけわしい。


「いやなに、道中で朱紅紅フォンフォンのお姫サマなんて呼んでたら、どんな悪人に狙われるとも知れねぇ。それに……」


「それに?」


「目的の屋敷まで片道たっぷり二週間の行程になる。その間に姫サマ気取りで愚図ぐずられたら、こっちも溜まらねぇからな。ガハハハハッ!」


 思わず翠蓮すいれんが口を挟もうとするのを察して、紅紅フォンフォンが言い返す。


「まぁ、呼び方くらいなら好きに呼んだらいいわ。あたしはそんな些細なことにこだわるほど、お子様じゃないんですからねっ!」


 紅紅フォンフォンはプイっと不機嫌そうな表情のままそっぽを向くと、次第に顔の表情がニヤけてしまう。


(これで憧れの施ラン様にまた会えるのね。ちょっと見た目はバッチい供回りになっちゃったけど、それであたしのことが余計にえるって考えれば、寧ろ好都合って発想まで有るわよね)


 少しばかり変わった隊列は二週間余りを掛けて、無事に目的の阜陵ふりょう県に辿り着くこととなる。



***



【用語註】

二輪車馬にりんしゃば:主に貴人が利用する座席が付いた二輪の車。馬に直接御者が乗り車を曳く。


【イラスト】

陳宝パオhttps://kakuyomu.jp/users/souji-syokunin/news/822139837390969403

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