第1話 江東の朝焼け

 江東こうとうは大陸でも温暖多湿な地域である。

 残暑厳しい季節には早朝から朝霧が立ち込め、辺りの静寂と共に幻想的な光景が広がる。

 そんな江東こうとうの地、県の堅牢な城郭の外から静寂を打ち破るように、土埃《つちぼこり

》を巻き上げて数十騎の一団が城門に向かってひた走る。


 城門との距離が詰まるにつれて、夜警の門候もんこう門卒もんそつたちに緊張が走る。

 物見ものみからは門候もんこうが営舎に向かって伝令として走り、門史もしは警戒を知らせる鐘を打ち鳴らす。


 騎乗の一団は各々が自前の革鎧を身に纏い、その肩越しに背負う得物えものも様々であるが、それらは一様に使い込まれたものである。


 とりわけ先頭をひた走る大柄なおとこはひと際目を引く。

 総髪そうはつを粗野に束ねるだけでかぶとも被らず、顔の輪郭がふた回りも大きく見える剛髯ごうぜん頬顎ほほあごを包み込む。

 特に目を引くのは背にたなびく重厚な真紅のマント。特に金糸で何やら大きな文字が刺繍ししゅうされている。


 大柄なおとこは片手でマントを紐解ひもとき、そのまま鷲掴わしづかみにすると高々と掲げて、野太い声で名乗りを上げる。

「我は孫殄冦てんこう将軍の配下で陳パオと申す。県の県令、しゅ太守への目通りを願う。早急に取り次がれよ!」


 まだ城門からは遥かに距離があるにも拘らず、大漢おおおとこが発する口上こうじょうはたから聞こえるかのように地鳴じなりのように轟き渡る。


 更には騎乗の一団は各々片手に、真紅に『そん』の文字の書かれた旗を握り締めて、高々と掲げ出す。

 まるで騎馬一団の頭上に、真紅の巨大な布が棚引たなびくように見える。

 その光景を目にした城門を統率する県の城門校尉じょうもんこういは、城壁の上から狙いを定める弓兵きゅうへいや城門を固めて槍を構える門卒もんそつを慌てて制止する。


 騎乗の一団は城門の前でピタリと騎馬を停めると、先頭の大漢おおおとこが胸元から書状を取り出して城門校尉じょうもんこういに向かって目の前に突き出す。

 城門校尉じょうもんこういはおずおずとその書状に手を伸ばすと、再び騎乗の大漢おおおとこに大音量で制される。

「無礼者! 我は孫殄冦てんこう将軍の使者であるぞ。これはしゅ太守宛の親書じゃ! そのほうは直ちに城門を開いて、県衙けんがまで案内すればよい」


 先に報告に出ていた門候もんこうが戻ると、城門校尉じょうもんこういに何やら小声で囁く。

 すると城門校尉じょうもんこういは目を見開き、急ぎ城門を開くように指示を始める。


 重厚な城門が地鳴じなりのようにきしむ音を響かせながら、ゆっくりと開いて行く。

 開かれた城門からは幅広く固められた大路が、市井しせいの街並みを横手に県衙けんがまで真っ直ぐと延びている。


 県の城門校尉じょうもんこういは自らも馬をき、大漢おおおとこくつわを並べる。

「孫殄冦てんこう将軍の使者殿、ご無礼つかまつった。これよりしゅ太守の元までご案内申し上げる」


 陳パオ率いる一団が県に入城すると、再び城門は固く閉ざされる。

 初秋の穏やかな風が朝霧を晴らし、柔らかな陽光が江東こうとうの城壁をあかく染め始めていた。



 県の県衙けんがには、高官らが住む屋敷が建ち並ぶ。

 その中でも県衙けんがに隣接するひと際大きな屋敷には、県令を兼任する朱治しゅちの一家が住んでいる。

 特にしゅ家の屋敷の中でも、ここ紅紅フォンフォン寝所しんじょからは女性の声が甲高く響く。


「姫サマ、お起き下さいませ。旦那様からの火急かきゅうのお呼び出しにございます。紅紅フォンフォン様! お早くお目覚め下さいませ」

 妙齢の侍女頭じじょがしらがけたたましく呼びかけながら、紅紅フォンフォンの身体を揺さぶり続ける。


翠蓮すいれんったら、まだお日様も昇ってないわ。お父様もきっと寝ぼけてるのよ。だ、か、ら、お休みなさ――い」

 紅紅フォンフォンは再び、掛布団にくるまろうとする。


「今日ばかりは、そうはいきません!」

 侍女頭じじょがしら翠蓮すいれんは布団ごと紅紅フォンフォンを担ぎ上げ、寝台から引きずり下ろす。

 その弾みで紅紅フォンフォンは、したたかに床にお尻を打ち付けてしまう。


「痛ったたたたた。翠蓮すいれんったらひどいわ。お父様が呼んでるからって、こんなに朝早くから起こすことなんて、今まで無かったじゃない!」

 紅紅フォンフォンはお尻を擦りさすり、頬っぺたを大きく膨らませる。


「本日は急な特使が参られているのです。旦那様も県衙けんがの謁見の間に向かっているはずです。このたびは普段の政務とは異なる印象でしたから、きっと重要な内容だと思いますわ」


 翠蓮すいれんは、息吐いきつく暇なく話を続ける。

「直ぐに御髪おぐしを整えて、装におめし替え頂きますよ」


 次々と侍女たちが集まり、紅紅フォンフォンの髪をかしたり、絹仕立ての長衣ちょうい曲裾袍きょくきょほうを帯で着付けていく。

 やがて髪は両側をお団子に結い上げられ、紅玉付きの銀のかんざしを挿し、薄紅うすべに色の曲裾袍きょくきょほうの着付けも済み、薄っすらとべにを引かれる。


 紅紅フォンフォンはまだ、今年七歳になったばかりだ。

 それでも正装に身を包むと、それなりの姫君に見えるから不思議なものである。

 それは名家の跡取りとしての教え、立ち居振る舞いの賜物たまものと言えよう。


 侍女頭じじょがしら翠蓮すいれんも自ら深い緑色の深衣しんいに着替えて、身嗜みだしなみを整えている。

 化粧の類いは、あくまで控えめに品よく整えている。


「それでは参りましょうか」

 翠蓮すいれんが先導して母屋を離れる。

 向かう先は県衙けんが内での政務区画にある大堂だいどう、謁見の間である。


「ふあぁあ……」

 大欠伸おおあくび紅紅ふぉんふぉんには、これから起こる出来事など微塵みじんも気にしてはいなかった。



***



【人名註】

・孫策:字は「伯符」。孫堅と呉太妃の長男。孫堅戦没後、若くして家督を継ぐ。

・陳パオ:字は後述。兄の陳武と共に孫策に出仕。義侠団を率いる。


【用語註】

殄寇てんこう将軍:賊徒討伐を名目とした将軍。孫策の役職。袁術が皇帝を蔑ろに任命。

県衙けんが:地方行政機関(行政・司法・徴税・治安)のこと。県令が執務する役所。

城門校尉じょうもんこうい:城門の治安・警護責任者。

門候もんこう:城門校尉に従う実務担当官。

門卒もんそつ:城門校尉に従う監視・警備兵。

門史もし:城門校尉に従う記録・雑務担当。

深衣しんい:上衣とスカート状の布を縫い合わせたもの。下級女官の正装。

曲裾袍きょくきょほう:深衣の一種。スカート状のシルエットがより長く優雅。


【イラスト】

・朱 紅紅(フォンフォン):https://kakuyomu.jp/users/souji-syokunin/news/822139837251364399

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る