第4話

 結局その日はソファーで寝落ちしてしまい、目が覚めるとすでに朝になっていた。

 カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。

 なぎは急いで掛けていた布団を剥がすと床に落ちていたスマホを拾って、画面を確認した。時刻は午前十時を過ぎている。

 あいわらず洞弥からの着信もメッセージの既読もないままだ。

 朝から肩を落とした後、凪は立ち上がるとスマホをソファーの上に放り投げた。

 窓に近付いて行き、カーテンを半分開ける。自分の顔を照らす朝日が眩しい。凪は思わず目を細めた。今日もよく晴れた秋空がどこまでも広がっている。

 残りのカーテンを開けてソファーに戻ると、ふと目に止まったのは壁掛けのカレンダー。今日は二十八日、凪の誕生日だ。空白の部分は数日前に見た「凪 HB」の文字とその文字を囲む赤丸。 

 凪はカレンダーから目を反らすと、溜め息を吐いた。


 有休を取得していて良かったと思ったのも束の間、すぐに不安と焦燥感が押し寄せて来た。

 洞弥は一体どこに行ってしまったのか。なぜ連絡が着かないのか。


 もやもやとした気持ちを抱えたまま朝食の準備に取りかかる。

 トースターで焼いたパンとカフェオレで適当に朝食を済ませると、そのまま歯磨きと洗顔を終わらせた。

 着替えも済ませてスマホ持つと玄関に向かう。玄関を出てアパートの階段を下りていく。どこから探そうかと考えながら。


 階段を下りると凪はある場所に向かって歩き出した。

 向かう先は昨日断念した繁華街。今は朝なのでさすがに酔っ払いは歩いていないだろうし、人通りだって少ないはずだ。


 途中にある公園の前を歩いていた時、凪が何気なくそちらに顔を向けると一人の男性がベンチに腰かけているのが目に入った。

 思わず目を見開いてベンチの彼を凝視する。

 服装や靴も昨日出勤した時と全く同じだ。

 

 「洞弥……?」


 呟いた瞬間、凪は走り出していた。

 

 「洞弥!」

 

 凪が名前を呼ぶと男性は不思議そうな表情でこちらに顔を向けた。

 

 「どこ行ってたんだよ、昨日からずっとあんたのこと探してたんだぞ?」

 

 「え? 僕のことを?」


 「当たり前だろ」


 凪が怒るようにそう口にしても、何だか反応が薄い。

 違和感を覚えつつも、座ったままの洞弥の左腕を掴んで立たせようとする。


 「とにかく帰るぞ。ったく、こんな所で何やって……」


 「あの、君は誰?」


 「はぁ? 何言ってんだよ?」


 洞弥の腕を掴んだまま、凪は素っ頓狂な声を上げる。しかし、洞弥の表情はふざけているようには見えない。


 「僕のこと知ってるの?」


 不思議そうな様子でそう尋ねる彼に凪は言葉を失った。

 

 「洞弥、一体どうしちまったんだよ……」


 明らかに普段と様子が違うことに凪の中で不安が広がる。

 どんな反応をしたら良いのか分からずにいると、今度は洞弥が口を開いた。

 

 「分からない。何も思い出せないんだ。当てもなく歩いて気付いたらここにいて」


 「何も思い出せないって……」


 洞弥は伏せていた顔を上げると、


 「君は僕のことを洞弥って呼んだだろう? 僕の名前で合ってる?」


 確認するようにそう言う彼に凪は頷いて答える。


 「合ってる。本名は我妻あがつま洞弥とうや


 「アガツマ……」


 洞弥は独り言を言うようにそう呟くと、続けて、


 「分かった。君の名前は?」


 「凪。栗栖くりすなぎ


 「ナギ……」


 洞弥に名前を呼ばれた瞬間、ひどく懐かしい感覚に襲われた。

 会っていない期間はたったの一日だけだというのに、何故こんなにも懐かしさを感じるのだろう。

 凪はその理由が分からなかった。


 その時、一人の女性の声が聞こえた。

 振り向くと、薄手の茶色のコートに身を包んだ四十代くらいの女性が心配そうな表情でこちらに駆け寄って来るにが見えた。


 「さっきからずっとここにいるでしょう? 何かあったの?」


 肩にはショルダーバッグを掛けている。どうやら出勤途中のようだ。

 凪と洞弥の様子を気にして声をかけてくれたらしい。


 「あっ、いや。大したことじゃないんで」


 「本当に? 何だか深刻そうに見えたけど……」


 女性の背後、公園の入り口付近には数人の人がこちらを気にかけた様子で視線を向けている。


 このままここにいたらまずい、と凪は直感で思った。


 「えっと、これから帰るところだったんで。気にしないで」


 それだけ言うと、洞弥腕を掴んで無理やり立たせた。

 

 「洞弥、帰るぞ」


 「えっ?」


 「今度は酒呑みすぎんなよ、ほどほどにしろ」


 とっさに思い付いたことを適当に言って、逃げるようにその場を離れた。

 その場を離れる直前で声を掛けてくれた女性には「すみません」とだけ伝えた。


 洞弥の腕を掴んだまま一目散に自宅(アパート)へ向かったのだった。


 ♢♢♢


 アパートの三階の部屋に着くと暗証番号を打ち込んで部屋の中に入った。

 靴を脱いで廊下を進み洗面所に入ると、手洗いとうがいを済ませる。   


 リビングに入ると凪はポットのお湯を沸かし始めた。食器棚から二人分のカップを出した後は、棚からお茶のティーバッグが入った箱を取り出して中身をカップに入れていく。


その間、洞弥が珍しそうに部屋の中を見回していると、ふと壁に掛けられたカレンダーが目に留まった。二十八日の下に「凪 HB」の文字とその文字を囲む赤マル。


洞弥がカレンダーに書かれた文字についてこうとした時、凪から白いカップを渡された。

 中身はほうじ茶らしく、香ばしい良い香りが漂ってくる。


 「熱いから気を付けろよ?」

 

 「ありがとう、いただくよ」


 洞弥はお礼を口にすると、カップを受け取った。一口飲むと、温かいお茶が冷えた身体に沁みていくのを感じた。


 凪がふーふーとお茶に息を吹きかけて冷ましながら飲んでいる様子を見つめながら、洞弥が言った。


 「ねぇ、あのカレンダーに書いてある凪HBって……」


 「ああ、あれは俺の誕生日だよ」


 何でもないことのように口にする。


 「え? 今日何日?」


 驚いて尋ねる洞弥に凪があっけらかんと「二十八」と答えた時、部屋のインターホンが鳴った。


 




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