第11話 沈黙の商都 ― 海上取引網を追え

 海は、息をしていた。

 四で吸って、八で吐く――そう数えるように、うねりは規則正しく盛り上がり、砕け、また戻っていった。

 だがその呼吸は、どこか苦しそうだった。潮の匂いに、うっすらと甘い鉄が混じる。俺の鼻腔は、その微妙な揺らぎを嗅ぎ分ける。


 「潮のにおい……じゃない」

 俺――神宮司零は、医療艦アトラ・メディカの舷側に手をかけ、風上へ顔を向けた。「香の成分が乗ってる。乾いた甘さ。血香の揮発分……しかも、新しい」


 「風上はヴェルネスト商都よ」

 王女リュシアが海図を広げ、測鉤で方角線を引いた。斜光を受ける横顔は、海の反射をまとって硬い。「――“香を合法的に売る国”。ここで空気が重くなるの、嫌でも分かる」


 「香は空ではなく、海を渡る」俺はぼそりと言った。「樽、壺、肺……溶ける媒体が多いほど、海はよく運ぶ。血香は病気じゃないが、人の社会を病ませる熱だ」


 甲板では、侍医見習いのミーナが器具箱の締め付けを確認し、魔導士リオンが冷却壺の温度を魔風で微調整している。剣盾のトリスは船体側に目を配り、古医ギルドのウォルンは羽根ペンを挟んだまま、手すりによりかかって波の唄を聞いた。


 「零、船室の陰圧、調整完了です」リオンが報告する。「吸気に塩布の層を増やしました」

「ありがとう。――今日は、新しい型に出くわすかもしれない」


 俺たちは、砂の都ズィーンで“血香”の国家依存を止め、供香者を解放した。だが、商都の海風が運んでくるのは次の段階――流通と信用の鎖だった。



I 漂流者の肺


 「前方に漂流物!」見張りが叫んだ。「……いや、船だ! 帆柱一本、黒焦げ!」


 《アトラ・メディカ》が舵を切る。近づくほどに、焦げた木の匂いに甘苦い煙が重なる。

 トリスが鉤縄で船体を寄せ、俺とミーナ、リオンが乗り移った。ウォルンは甲板で記録準備、リュシアは背後で警戒と交渉対応に備える。


 焼けた甲板に、黒い束――いや、布で巻かれた壺が散乱していた。割れた口から赤黒い塊が覗く。甲板の影で、誰かの胸が微かに上下した。


 「生きてる!?」ミーナが駆け寄る。

 俺は首を振る。「肺だけが動いてる。心は止まって久しい。――“※空気感染型血香”だ」


 ※砂の都で観測した膜型から更に進化し、壺が割れたときに肺胞を“香の工房”に変えるやつだ。吸えば、肺の内面に薄い膜が張り、香の微粒子を再生産する。心が止まっても、しばらく肺が息をまねる。


 「冷却壺!」

 リオンが差し出し、俺は船員の口元に銅管を差し込む。肺から漏れる赤い霧が吸い上げられ、冷却壺で白く凝固した。

 ミーナが空気の流れを確認し、トリスが甲板の割れ目に灰油を流して封じていく。


 「この船の行き先は?」

 ウォルンが船倉から半焦げの書類を持ってきた。「……ヴェルネスト。香保険組合指定便だ」


 リュシアの声が低く落ちた。「香の輸送で人が死ぬ。――でも、保険は支払われる。『嗅いだ量』を証明できるから」


 「“安全の仕組み”に依存を組み込むと、死者まで『制度』の部品になる」

 俺は肺の管を外し、静かに目を閉じさせた。「封壺に移してやれ。――工場を、止めよう」


 海は、弱々しく息をした。四で吸って、八で吐く。

 俺たちは、商都へ向けて舵を取った。



II 白い町と、粉の指紋


 ヴェルネスト商都。

 白い壁。白い帆。白い石畳。

 そして、白い粉。


 港に足を下ろした瞬間、靴底にさらりとした粉が残った。指先に取ると、わずかに舌が痺れる。

 「撒いてるのね」リュシアが囁く。「見えない“保障”」

 「街全体を吸わせる設計だ」俺は粉を吹き落とす。「“吸った量”が『信用』になる」


 通りの角に、銀の旗。《香保険組合》。窓口に貼られた鮮やかな標語が目に入る。


 > 「嗅げば嗅ぐほど、安心が貯まる!」

> 「家族割、勤労割、信仰割!」

> 「嗅香履歴で医療費全額免除!」


 「嗅香履歴?」ミーナが眉をひそめる。

 受付の女が笑顔で説明した。「嗅いだ回数と濃度を壺が記録しますの。組合の規約に従えば、病気は無料。ほら、この腕輪――嗅香計が香の濃度を読み取り、保険ポイントが増えます」


 「――吸えば吸うほど“安心”。吸わない者は“危険”」

 ウォルンが鼻で笑った。「信用経済の逆立ちだな」

 俺は受付に壺を指差した。「この壺のメーカーを教えてほしい」

 女は白々しく肩をすくめる。「船ごとに違いますの。議会で管理されていて」

 「議会……評議会が製造・流通を統括してるってわけだ」


 港に近い広場では、「香育(こういく)」と書かれた横断幕の下、子どもたちが整列し、胸の前で手を合わせてゆっくりと息をしていた。吸って、吐いて。先生が微笑んで壺の前に子らを立たせ、祈りの息を「記録」させる。


 「教育に組み込むのが、最短で最悪の近道」

 リュシアの声は低い。「“善い子”は、よく嗅ぐ子。点数が高い子」

 「止める」俺は言った。「でも、まずは仕組みを見る」



III 静かな市場の音


 案内人の影を追って、香屋の地下へ。

 鉄の階段を降りると、広い空間に静かな喧噪が満ちていた。

 声は低く、数字は速い。

 壁を埋める水晶板に、濃度のグラフが上下する。


 「S-Lv25、出来高十万――」

 「北湾、禁輸解除――買い」

 「ズィーン方面、神殿停止の噂――上」


 「“S-Lv”は“Silent Level”の略」ウォルンが呟く。「香の濃さが、そのまま通貨単位だ」

 俺は水晶板に掌を当て、微かな温熱と振動を感じた。

 「香の温度で値が動く。つまり、冷やせば落ちる」


 リュシアが小声で言う。「やるの?」

 「やる」

 俺は袖の中の蒸留冷却器に魔導石をはめ、ひとつの香壺の口に差し込んだ。

 瞬時に白い霜が広がり、壺の中の赤が結晶へ変わる。

 水晶板の数字が崩落を始めた。

 「――っ何をした!」

 「冷やしただけだ。匂いの温度を」


 男たちの目が細くなり、指が引き金にかかる。

 トリスが一歩前に出て盾を傾け、ミーナが視線を伏せ、リオンが風を渦にする。

 「退け、白衣」

 「退かない。これは治療だ」

 俺はゆっくり壺から器具を外す。「この市場は呼吸を奪ってる。吸うだけで、吐かせない」


 沈黙。

 だが、それは評議会への招待状のように見えた。



IV 評議会の女


 円形議場。白い石。真上に空。

 中央に立つ女は、銀髪を低く束ね、瞳に海の色を宿していた。

 「商都評議会議長、アーヴェリンです」

 声音は柔らかく、それでいて刃のように冷たい。


 「王都の白衣――医師神宮司零殿。あなたの行為は市場の秩序を乱した」

 「患者の呼吸を取り戻した」

 「あら、あなたの患者は商都すべて?」

 「香の粉に触れた全員だ」


 議場に笑いが走る。議員たちの袖口から、細い香壺の鎖が覗く。

 アーヴェリンが扇を閉じた。「民は自ら香を嗅ぎ、疲労を忘れ、労働を続けます。安心は善だ。あなたは善に逆らうの?」

 リュシアが鋭く返す。「“安心”が嗅いだ回数で与えられるのなら、それは『信仰』じゃなく徴税」

 「徴税は国家の務め。私たちは国家の代わりに保障しているだけ」

 「“嗅わなければ”保障しないなら、それは罰よ」


 議場の空気がわずかに粘る。

 俺は一歩前に進み、言葉を選ばずに言った。

 「医療は、支配じゃない。責任だ」

 「責任?」アーヴェリンが首を傾げる。

 「俺は切る。必要なら切る。けれど依存には繋げない。患者が自分の足で歩けるようにするために。――あなたたちの“安心”は、歩く脚を鎖に繋ぐ」


 笑いは止んだ。

 沈黙ののち、アーヴェリンは小さく頷いた。「では、試しましょう。海で。あなたの“医療”が、私たちの“経済”より強いかどうか」



V 海上裁決


 港に鐘が鳴った。

 沖合に並ぶ香船の列が、一斉に霧を上げ始める。

 赤い糸が風にほどけ、港へ、街へ、肺へ。

 兵が笑い、泣き、踊り出す。腕輪の嗅香計が緑に光る。

 「相場、上げ!」

 「S-Lv、指標更新!」


 「零!」リュシアが叫ぶ。「濃度が臨界!」

 「――海を使う!」


 俺は船倉から塩を運ばせ、樽を割って海水に飽和させた。

 「リオン、塩水を微粒化して風に乗せろ。港全体に霧を!」

 「了解!」

 風が唸り、白い細霧が香の赤とぶつかる。

 塩の結晶は香の分子を抱き、重くなって落ちる。

 「波で洗え! 風を通せ! 上から下へ!」リュシアの声が鐘楼を越えて響く。


 トリスが盾で狂乱兵の突進を受け止め、ミーナが倒れた女の口元に布を当て、リオンが港の風向を固定する。

 ウォルンは路上で声を振り絞る。「四で吸って、八で吐く! 歌え、歌え――!」


 「四で吸ってー、八で吐くー」

 子どもが最初に歌い、大人が真似し、腕輪のランプが一斉に赤から青へ変わる。

 霧は薄れ、赤が消え、海が呼吸を取り戻した。


 ただ一人、港の端で立つ女がいた。

 アーヴェリンは拳銃を取り出し、俺に向ける。

 「あなたは市場を殺した」

 「違う。窒息を止めた」

 銃声。

 トリスの盾が火花を散らし、弾丸は海へ落ちた。

 アーヴェリンの肩がわずかに落ちる。

 「……“痛み”に、民は戻るわよ」

 「痛みは診るものだ。売るものじゃない」



VI 崩れた価格、残った人間


 香通貨の板が、港のあちこちで黒になった。

 「停止、停止、停止……」

 売りの手は消え、買いの声も消え、数字は夜明け前の鼓動みたいに一度だけ跳ねて、止まった。


 評議会は解散を布告し、香保険組合は臨時の現金医療券を出した。嗅香計のポイントは、ゼロに戻る。

 石畳に膝をついた男が、腕輪を外して泣いた。「俺の、安心が……無い」

 俺はそっと肩に手を置いた。「安心は外に置くと消える。中に作ると、残る」

 「どうやって」

 「呼吸。食べる。眠る。働き、休む。――皆で」


 夕陽が港の水面を切り子硝子みたいに砕き、香の霧が完全に消えた。

 リュシアが長い襟元を緩め、空を見上げる。「終わったの?」

 「この街はな」俺は頷いた。「でも供給源は消えてない」


 ウォルンが羊皮紙を差し出す。「追跡でたどれた“壺の口”はどれも同じ印。“神の工房(デウス・ファクトリー)”――北の氷海、凍る湾の島だ」

 リュシアの目が細い光を宿す。「香を創った場所」

 「ああ。眠りを商品にした最初の炉だ」


 港の片隅で、アーヴェリンが壺の蓋を閉じ、赤蝋で封印した。

 「文明という病に、あなたは処方を書いた。……けれど、患者はまた悪化する」

 「そのたびに手順を増やす。歌を増やす。人を増やす」

 彼女は微笑み、拳銃を海に投げた。「――なら、次は神の工房で会いましょう」



VII 沈黙の翌日


 翌朝、商都の市場は静かだった。

 静かなのに、空白ではない。

 屋台は壺ではなくパンを並べ、香煙ではなく湯気が立ち上る。

 子どもたちの朝礼では、嗅香ではなく手洗いの歌が鳴った。

 「指の間、親指、手首――」


 港の見張り台で、トリスが海を見て言った。「なあ零。あの男――サルヴォの影、見たか?」

 「見た」

 商会“清水”の首魁サルヴォ。砂の都で水と利権を握っていた男は、海の向こうへ逃れ、供給網に潜った。


 「追うのか」

 「追う。でも、殺さない」

 トリスが笑う。「相変わらずだな」


 ミーナは市場の端で、腕輪を外した母親と子の脈を取っている。「今夜は眠れなかったって。香がないと怖いって」

 「最初の三日は揺れる」俺は言った。「それを支えるのが医務だ」

 俺たちは、夜の診療所に甘い水と歌を増やした。割れた腕輪を並べて集め、溶かし、鈴を作った。手順を守った子に渡す小さな音は、香の代わりに安心を鳴らした。



VIII 封壺と宣言


 香の結晶を封壺に入れる。

 壺の内壁には灰油の膜。蓋の継ぎに石灰を塗り、赤蝋で二重封印。

 王家の印、神殿の印、古医ギルドの印。

 「三つの印は、神と法と術」リュシアが言う。

「そして皆」俺は壺に手を置いた。「――“連帯”の印だ」


 広場に立ち、短い宣言を読む。

 「香の経済は終わりだ。痛みは商品でも、罰でもない。診るものだ。分かち合うものだ。

  王立医務と神殿と古医ギルドは、商都の治療と再建に協力し、香なしの安心を作る。

  嗅香履歴は廃し、食と歌と休息を復権させる。

  手順は、誰のものでもない。皆で守り、皆で育てる」


 静かだった広場に、やがて薄い拍手が広がり、鈴がいくつも鳴った。

 誰かが泣き、誰かが笑い、誰かがただ息をした。



IX 出航


 白い帆が風をはらみ、《アトラ・メディカ》が波間へ滑り出す。

 港で見送る人々は壺ではなく布を振り、子どもは鈴を鳴らし、腕輪の代わりに手を握った。


 「次は北か」トリスがロープを締める。

 「ああ。氷海の湾、神の工房」

 「怖い?」

「怖い。――けど、怖いから手順が要る」


 リュシアが隣に立ち、潮の光を瞳に宿す。「零。私たち、ずっと“対症療法”をしてるんじゃないかって思うことがある」

 「対症療法は尊い」俺は笑った。「熱を下げ、息を整え、時間を稼ぐ。

  時間は武器だ。時間さえあれば、人は学べる。変われる」


 「変わらない者は?」

 「待つ。歌って、待つ。――それでも刃を向けるなら、その手だけ止める」


 風が帆を叩き、船が一段強く跳ねた。

 甲板下では、ミーナが壺の封を点検し、リオンが冷却器の石を磨き、ウォルンが長い宣言書の清書を続けている。


 海は、少しだけ楽そうに息をした。

 四で吸って、八で吐く。

 俺も、同じリズムで呼吸した。



X 余白


 夜、航跡に光る波を見ながら、俺は手帳を開く。

 《医政記・商都編》

 ――嗅香経済停止の所感。

 ――塩霧による香吸着の手順(海象による補正)。

――嗅香離脱支援:三日計画(甘水・歌・手・記録)。

 ――封壺三印の意味と伝達作法。

 ――「安心」を外部化しない仕組み。


 最後の頁に、短く書く。

 「痛みは、共同体の筋肉痛である」

 使えば痛む。休めば治る。

 重ければ誰かが支え、軽ければ誰かの荷を受け持つ。

 筋肉痛を売り買いしてはいけない。

 それは成長を、奪うから。


 ペン先が止まる。

 遠く、北の空に、白い柱のような光が立った。

 氷の上に、工房の煙突。

 眠りを創った連中が、待っている。


 俺は手帳を閉じ、舷側に手を置く。

 「行こう。神の工房へ」


こうして第11話、商都ヴェルネストで「香の経済」は沈黙した。

しかし“香の誕生源”は、氷の海の向こうにある。

次回――第12話「神の工房 ― 眠りを創る者たち」。

メスは剣より強く、呼吸は市場より深い。

俺たちは、“源”に手を伸ばす。

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