第12話 神の工房 ― 眠りを創る者たち
氷の海は、音を呑み込む。
波が砕けても、叫びが上がっても、広がるのは白い呼気だけだ。吐いた息が凍り、空に薄い筋を残し、やがて無音で消える。
《アトラ・メディカ》の船腹は、きしむ音を小さく刻んだ。凍った海面を押し割るたび、甲板の下まで冷気が染みてくる。指先は手袋の中でも鈍く、関節の動きが半分ほど遅れる。
「零、前方二十度。氷の断崖……いや、塔ね」
王女リュシアが測鉤を引き、氷上に突き出た白い影を指した。
「塔?」
「海の下に沈んだ“何か”の先端が、氷を突き破っている」
望遠筒を覗く。白い針のような塔が、海面の薄氷を押し上げるように伸び、周囲の氷は蜘蛛の巣状の亀裂で囲まれていた。塔の表面には細い脈のような溝が走り、微かに青白い光が往復している。
「……走ってる。神経みたいに」
俺――神宮司零は無意識に呟いた。
ウォルンが息を呑む。「この寒さでなお、熱が動いているのか。魔導炉でもここまでは……」
侍医見習いのミーナが毛皮の襟を掻き寄せる。「“神の工房(デウス・ファクトリー)”。伝承にあった、香の源……」
魔導士リオンは掌の上で小さな風の渦を転がし、凍りついた眉を上げた。「空気が重い。眠気が風に混じってる」
俺は鼻腔を開く。潮の匂いではない、土でもない、甘く乾いた“なにか”。砂の都で嗅いだ血香の揮発分に似ているが、もっと薄いのに深い。
「……肝油と白檀を混ぜて一晩置いて、そこへ冷たい鉄を入れた匂い、だな」
トリスが苦笑する。「例えが医者すぎる」
船を止め、氷上に降りる。風は鈍い刃のように顔を撫で、睫毛に白い結晶が付いた。俺たちはロープで互いの腰を繋ぎ、塔の裾へと歩く。近づくほどに、青白い光の脈動が心拍のように感じられた。
塔の根元には、半ば雪に埋もれた鉄扉。扉には三つの印――王家の紋章、神殿の印章、そして古医ギルドの古い印――が刻まれていた。
リュシアが手袋を外し、指で雪を払う。「……王国の祖先が、ここに関わった証」
俺は頷く。「神殿も、古医も。三つが同じ扉に刻まれるのは、善か、あるいは取り返しのつかない合意だ」
扉に手を触れる。冷たい金属の下で、微細な震えが指骨に届いた。
「生きてる」
トリスが剣の柄に手を置く。「中に、何がいる」
「眠りがいる」俺は低く言った。「それも、人間が作った“眠り”が」
鍵はなかった。扉の真ん中に薄い切れ込みがあり、手を当てると俺たちの体温に反応して静かに開く。
中は白。壁も床も天井も白。
そして、匂いはさらに薄く、深くなる。
「全員、マスク。風の渦を細く維持。万一に備え、解毒の歌も準備して」
「了解」
白布のマスクを整え、俺たちは白い廊下に足を踏み入れた。
歩くたびに、靴裏の音が遠くまで響く。廊下の両側には、無数の細い管が走り、繋ぎ目には赤い印が押されている。
「見て、零」ミーナが壁の刻印を指した。「古い製薬記号。抽出、蒸留、精製……」
リュシアは携えてきた神殿の古文書を開く。羊皮紙に、三つの手――王家、神殿、古医――が交互に書いた痕跡。
「“兵を眠らせる薬”。戦を止めるための研究。痛みを奪い、恐怖を薄め、死を少なくするため……」
ウォルンの眉が寄る。「だが、暴走した」
「結果が、香」俺は壁の管に耳を当てる。「ああ、これは“眠りの原液”だ」
廊下の突き当たりに、透明な扉。向こう側は、森のようだった。
扉が開く。
白い“森”が、俺たちを迎える。
無数の白い柱が天井まで伸び、柱から柱へ、透明な糸が神経のように渡され、そこを青白い光が往き来する。柱の根元には、半透明の“根”が床に潜り、床下で絡み合い、一本の樹のような形を成していた。
「脳だ」
俺は口の内で言った。「巨大な脳樹。香の塔全体が、睡眠中枢の模倣になってる」
リオンが喉を鳴らす。「……人の脳波ってやつを、魔導で再現してる?」
「近い。睡眠を“蒸留”してる」
リュシアが小さく息を吸った。「眠りを、蒸留?」
「自然の睡眠から余計な雑音を削ぎ、快の部分だけを集めて濃くする。――そして撒く」
そのとき、白い柱の影が揺れた。
人影。
白衣。
白髪。
瞳は、眠りの色をしていた。
「訪問者。王家の娘と、白衣の男」
その声は乾いていて、けれど柔らかかった。「私はカルディス。第一医師団・主任研究官。……いや、かつてそう呼ばれていた者だ」
カルディスは俺たちの前にゆっくり立ち、ひどく古い礼法で一礼した。髭は薄く、肌には老いが少ない。
ミーナが目を瞬く。「あなた、何歳……」
「ここでは年は進まぬ。眠りの中では時計が止まる」
トリスが一歩前に出る。「香を作ったのは、お前か」
カルディスは首を傾げた。「香は“工房”が作る。私は方法を作った。――人を眠らせる穏やかな薬。兵を戦場で安らかにさせる薬。死を遅らせ、憎しみを薄める薬」
ウォルンが噛みつく。「結果はどうだ。民は香に縛られ、商都は香で支配された」
「支配? 違う。選んだのだ」カルディスの瞳は微笑んだ。「痛みのない夜を。恐怖のない朝を。香はただ、優しかった」
リュシアが言う。「優しさは、時に毒になる」
カルディスは肩を竦めた。「毒とは量だ。量を誤ったのは、我々か、世界か」
「どちらでもいい」
俺は前に出た。「ここを止める。香の源を切る。世界を起こす」
カルディスの口元の笑みが薄くなった。「医者が、患者を目覚めさせると?」
「医者は目覚めを売る」俺は静かに答えた。「眠りは安い。目覚めは高い。――だから俺は、手順で値段を下げる」
カルディスは白衣の袖を払う。
白い柱の間で、青白い光が一斉に速度を上げた。
「では見せよう。眠りの神経を。医術の極を」
床がわずかに沈み、俺たちの足元に白い線が集まる。
「零!」リュシアが手を伸ばす。
「大丈夫だ」俺は手を握り返す。温度が少し戻る。「行く」
俺たちは塔の中心へ向かった。
白い柱が徐々に太く、天井へ伸びるほどに脈動が強くなる。
中心には、巨大な“樹”。幹は白、葉の代わりに霧が揺れ、幹の表面は薄い膜のように呼吸している。幹の側面には穴がいくつも開き、中には人が浮かんでいた。老いも若きも、目を閉じ、静かに胸だけを上下させている。
ミーナの声が震える。「生きてる……」
カルディスが誇らしげに頷く。「志願者だ。痛みのない千夜を求め、ここに眠る。彼らの夢が、世界の安心になる」
「安心は、輸入品じゃない」
俺は幹に手を当てる。温い。脈。規則正しいスローウェーブ。
「これは誤作動だ。睡眠の校正が外れ、快の部分だけが増幅されている。人はここで、目覚める筋肉を失う」
カルディスの笑みが消える。「人は、目覚めるたびに痛む。それが世界を壊すのだ」
「違う。痛みは筋肉痛だ。使えば痛む。育つ痛みもある」
「戦場でそれを言うのか」
「言う。俺は何度も、戦場で切り、繋いだ」
白と青の脈動が、議論の呼吸に合わせて速くなる。塔全体が苛立つ。
リュシアが一歩踏み出す。「カルディス。あなたが望んだ“安らぎ”は、誰のもの?」
「すべての者」
「なら、選ばせて」
「選ばせた。皆、ここを選んだ」
「情報と力は、いつも偏る。偏った選択は、選択ではない」
カルディスは目を細めた。「王家の娘は賢い。だが、目の前の戦死者の家族に、どの口でそれを言う?」
ウォルンが息をつく。「議論は終わらぬ。――零、どうする」
トリスが剣を持ち上げる。「切るなら、俺が守る」
リオンが風の渦を膝に抱え、ミーナが白布を指に巻いた。
俺は深く息を吸い、吐いた。
四で吸って、八で吐く。
塔の呼吸と、自分の呼吸をずらす。ずらせば、相手のリズムが見える。
「カルディス。手術をする」
「患者は?」
「この塔だ」
カルディスの口元が、ほんの少しだけ笑った。「医者らしい」
俺は白衣の袖をまくり、メスを取り出した。青い鋼が、白い光を吸う。
「ミーナ、準備。リオン、温度を二度下げ、風の渦は薄く広く。トリス、周囲の睡眠防衛反射が出たら弾け。ウォルン、記録と撤退経路の確保。――リュシア、決断と祈りを」
王女は短く頷く。「王家は、命を軽んじない」
俺は“脳樹”の根へ回り込み、幹と床の繋ぎ――延髄に当たる部分へ指を滑らせた。
「ここが、呼吸と眠りのスイッチ。ここを校正する」
カルディスが静かに言う。「失敗すれば、ここで眠る者は死ぬ」
「成功しても、離脱で苦しむ」
「なお、やるのか」
「なお、やる」
メスを入れる。
切るというより、解く。
白い膜の縁を探り、緊張と緩みの境界で少しだけ切り込む。
幹がうめき、青白い光が不規則に跳ねた。周囲の白い柱が震え、天井の糸が怒りのように鳴る。
トリスが盾を上げ、ささくれた白い糸を弾く。糸は触れた部分から眠りの粉を吹いた。
「歌!」
ウォルンが咄嗟に口ずさみ、ミーナが続き、リオンが風で粉を飛ばす。
「四で吸って、八で吐く。指の間、親指、手首――」
歌は手順。手順は秩序。秩序は、眠りに対抗する拍だ。
俺は切らない。待つ。
波が引くのを待つように、樹のうめきが一段落する瞬間を計る。
「今」
もう一度、わずかに解く。
幹の内側から、赤くない光が滲む。白い光。
「反応が変わる」ミーナの声が震える。「呼吸が、自発に近く……」
カルディスが低く唸った。「……やめろ」
白い柱の上方に、人影が集まった。白衣。瞳は眠り。
研究者たち――生きている。
彼らはゆっくり階段を降り、俺たちに手を伸ばす。
リオンが風を厚くし、トリスが身を寄せて俺の背を守る。
「彼らは敵ではない」
「でも、止めに来る」
「止めたいんだ。作った者は、作ったものの終わりを見たくない」
俺はもう一度、根の接続に触れた。
ここを断てば、塔は眠りを配れない。
ここを残せば、塔は世界に甘い夜を撒き続ける。
俺は、メスを横へ滑らせ、結び目をひとつだけ解いた。
瞬間、塔の呼吸がふっと途切れ、すぐに浅い呼吸へ切り替わった。
「自律呼吸だ」俺は息を吐く。「自分でしてる」
白い柱の中の人々が、ゆっくり目を開ける。
最初は焦点が合わず、次に痛みが顔に戻る。額に皺が寄り、喉が鳴り、唇が乾く。
ミーナが駆け寄り、温い水を少しずつ口に含ませる。「むせるから、少しずつ。唇を湿らせて……」
リオンが背を支え、トリスが肩を貸す。ウォルンは記録を取りながら、ひとりひとりの名前を尋ね、呼び戻す。
「戻ってこい。君の名前は君だ」
カルディスは、白い樹の影に立ち尽くしていた。
「目覚めた者は、痛む」
「痛みは、生きてる証」
「彼らは、眠りに救われていた」
「夜は、休むためにある。永遠の夜は、死だ」
塔が揺れる。延髄部の緊張が解け、長く固定されていた“眠りの回路”ががくりと外れた。
氷が割れる音が、遠くから響く。
リュシアが振り向く。「零、撤退経路!」
「右の廊下。来た道では氷が持たない。副路を行く!」
俺たちは意識を取り戻した者から順に肩を貸し、白い廊下へ走った。
背後で、白い柱が倒れる音。青白い糸がちぎれる音。塔が、目覚める音。
眠り続けていた巨人が、ようやく体勢を変えるように、ゆっくりと。
副路の先に、別の扉。内側から冷気が噴く。
扉を開けると、氷の洞。海へ抜ける薄い青。
リオンが風を前に押し、トリスが先に飛び降り、ミーナがひとり、またひとりと支える。
ウォルンは最後にカルディスの腕を取った。「来い」
カルディスはしばらく、白い塔を見つめていた。
そして、静かに頷いた。「終わりを見るのも、研究者の義務だ」
氷上に出る。空は鉛、風は刃。
《アトラ・メディカ》がきしみながら近づき、縄梯子が垂れた。
俺は最後にもう一度、塔を見た。
白い光が、薄く、やさしくなっている。
呼吸は浅く、だが自分の拍で。
「神を殺した気分は?」トリスが肩で笑う。
「神を起こしただけさ」
「神?」
「“神に似せた誤作動”を」
甲板に上がると、ミーナが患者たちを毛布で包み、温い甘水を配る。
「指の間、親指、手首――」彼女はいつもの歌を、今度は子守歌みたいに小さな声で歌っていた。
リオンが風で甲板の空気を入れ替え、ウォルンはカルディスから口述を取りながら、時に沈黙を挟んだ。
リュシアは舷側に立ち、塔から立ち上る白い霧を見つめる。
「零。……これで、終わったの?」
「“終わり”は、眠りの言葉だ」
「じゃあ、医者は?」
「医者は“次”と言う」
カルディスが毛布の中で、ゆっくり口を開いた。
「私たちは、戦を止めたかった。兵の叫びを止めたかった。善意は、どこで毒に変わる?」
「量と、透明性」俺は答える。「そして、手順」
「手順……」カルディスは天井を見た。「お前たちの歌は、祈りの代わりか」
「祈りだよ」リュシアが微笑む。「世界がもう少し良くなるように、皆で繰り返す所作」
氷が割れる音が少しずつ遠くなり、海面に薄い波が戻る。
塔は沈まない。眠らない。
ただ、静かに起きている。
夜。
俺はランタンの灯りの下で手帳を開き、《医政記・工房編》に項目を足した。
――睡眠中枢模倣装置の構造(脳樹・延髄部・糸状伝達)
――“校正”の手順:解く、待つ、再接続
――離脱支援:三日計画(甘水・歌・手・記録)を寒冷地仕様に変更
――“善意の毒化”を避ける三原則:量・透明性・手順
――神と医の境界:「終わらせる責任は作り手にある」
最後の行に、短く書く。
「眠っている神は、起こしてから話す」
起きたなら、痛みを共有できる。
眠っているうちは、同意が取れない。
甲板の向こうで、海が静かに息をした。
四で吸って、八で吐く。
俺も、同じリズムで呼吸した。
明け方。
氷の向こうに、淡い朝日が昇る。
白と青の境目がほどけ、空に薄い桃色が差す。
リュシアが隣に立ち、肩を並べた。「世界が、目覚める色ね」
「ああ。ここからが禁断症状だ」
「世界の?」
「香のない世界を、学び直す禁断症状」
トリスがロープを巻き上げながら笑った。「また忙しくなる」
ミーナが毛布を整え、患者の額に手を当てる。「でも、正しい忙しさだよ」
リオンが風の渦をほどき、ウォルンが巻物を閉じる。「工房の記録は王都に帰ったら封じるか」
「公開する」俺は即座に言った。
「公開?」
「隠すな。量と透明性。毒に変わらないよう、皆で見張る」
カルディスがこちらを見て、小さく笑った。
「医者は、神にはなれないな」
「なりたくもない」
「だが、神の夢は止められる」
「それは、仕事だから」
白い塔は、遠ざかる船の後ろで、静かに煙を止めた。
眠りの工房は、起床した。
俺は帆の影で白衣の袖をまくり、指を組む。
「さて」
「次は?」リュシアが問う。
「目覚めた世界のリハビリだ」
こうして第12話「神の工房」は終わる。
眠りは止まり、世界は目を開けた。
次回――第13話「禁断症状 ― 世界が目覚める時」。
震える手に、歌と手順と連帯を。
医者は神でない。だが、神の夢の後片付けは、医者の得意分野だ。
異世界に転移した天才医師、治癒魔法を超える神業で無双する 桃神かぐら @Kaguramomokami
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