第10話 砂の都ズィーン ― 血香の起源

 砂は、音を食う。

 風が唸っても、靴底が軋んでも、声が喉から出ていても、広がるのは静けさばかりだった。


 俺――神宮司零は、顔布の上からさらに薄布を巻いた。唇が乾いて割れる。舌に載せた蜂蜜塩の粒が、ゆっくりと溶けた。

 「水、あと一口」

 ミーナが革袋を掲げ、トリスが周囲の砂丘を確かめる。リオンは魔導灯を布で包み、熱が抜けるのを待っていた。


 案内の少年アディルが、振り返りもせずに言う。

 「この国(ズィーン)では、血を捧げると眠りがもらえる」

 「眠り?」リュシアが外套のフードを浅くずらした。

 「働きづめの者に、夜の静けさを。死んだ者の夢を見られると、皆が言う」

 俺は唇を引き結んだ。「“眠り”を報酬にした宗教か」


 砂丘を越えた先、陽炎の奥に、紅い塔が見えた。

 砂の都ズィーン。白い土壁の街の中央に、血のように赤い神殿塔。そこから幾筋もの管が街路の下へ伸び、まるで巨大な血管が都じゅうを巡っているかのようだった。



砂上の門


 城門は低く、厚い。警備兵は顔の下半分を布で隠し、額に銀の印。鼻先には微かに金属の匂い――鉄。

 「目的は」

 「医術の巡回」リュシアが商隊主を装い、旅券を差し出す。

 「医術?」兵の目がわずかに細くなったが、朱印を押して返した。「祈りの邪魔だけはするな」


 門をくぐった瞬間、熱が変わった。砂の外は乾いた熱、内側は湿った熱。街路の溝に沿って温い風が吹き、どこからか甘い匂いが薄く流れてくる。

 「香じゃない。もっと重い」俺は鼻先で空気をひっかく。「血の蒸気だ」


 アディルが指さす。「中央の塔。あれが血香神殿。夜になると管から“恵みの湯気”が街に降りる」


 「恵み、ね」リュシアは笑わなかった。「皆の足取りがゆっくりすぎる。昼なのに、目が半分眠っている」

 「“眠り”を配る都市は、働きを奪う」俺は低く言う。「誰かが、“眠らせて”支配してる」



血香神殿


 塔の礎は真紅の石。磨かれているのにざらつきが残る。壁面に埋め込まれた銅の管は、脈打つように震え、ところどころに小窓。窓の奥を覗けば、濃い赤の液体が薄く泡立ちながら通り過ぎる。

 「……蒸留炉だ」

 俺は低く呟いた。「血液を温めて蒸気だけを抜き、再凝縮して街路に送る。香ではない。“血の気(け)”そのものを、都市に撒いている」


 階段を十二折りに上る。神殿の内側は、白布の天幕と、金糸の帳、薄い水音。大広間の中央に、女神像が安置されていた。白石の肌、瞑った瞳。胸と腹に薄い透明の壺が嵌め込まれている。壺の底で、赤い液が静かに渦を巻く。

 「像が、息をしている」ミーナが囁いた。

 「息を“させている”。管は像に繋がり、像は管に繋がる。装置だ」


 祭壇の脇、薄布の向こうから、低い歌声。

 〈血は眠り、眠りは赦し/赦しは信仰、信仰は静寂〉

 歌に合わせて、白衣の信女たちが、何かを抱えて運んでくる。

 布をめくると、そこには生きた人間がいた。枯れた子。骨ばった女。額に印。胸に薄い膜。

 「“供香者(きょうこうしゃ)”」案内の祭司が微笑む。「彼らは女神に血を捧げる。その加護で、都は眠りを得る」


 俺は供香者の手首をとり、脈を測る。ゆっくり、浅い。眼瞼の裏は蒼白。

 「麻酔じゃない。抑制だ。意識を“半分”だけ沈めて、抜かれ続けても動けるように」

 リュシアの目が冷たく光った。「これが神の術?」

 祭司は笑んだ。「神は形を選ばない。術は器にすぎません。あなたがたの医術も」

 俺は頷いた。「そうだ。だから俺は、器を開ける」



人の情報(しるし)


 王立医師隊は宿に引き上げ、手早く現地ラボを組んだ。

 布の衝立、煮沸鍋、石灰、油、細い管、簡易の冷却壺。

 トリスが買い集めた香包を分解し、ミーナが膜を薄く剥がし、リオンが温度を一定に保つ。

 俺は薄膜から滲み出る微細な粒を集め、蜂蜜水で溶いて乾かし、再び溶かし、ゆっくりと沈殿させた。


 「……出た」

 沈殿の中に、細い糸が見えた。糸は一本の線になっては消え、また浮かぶ。

 「何だ、これ」トリスが顔を寄せる。

「人の印だ。俺の世界では“情報”と呼ぶ。体の作り方の設計図の欠片。血香は、香じゃない。“人の印を媒体化した薬”だ」


 ミーナが息を呑む。「じゃあ、皆が見る“死者の夢”って」

 「共鳴だ。嗅いだ者の神経が、膜の“印”に似ている部分と響き合う。思い出の影を“夢”と呼ぶ。霊じゃない。仕組みだ」


 リュシアが額に手を当てる。「死者の声を信じ、眠りを報酬にする。国家はそれで働く民を縛る」

 「縛る“儀式”が香。縛りの根が血」

 「断ち切るには?」

 「冷やす」俺は即答した。「血は温めれば香り、冷やせば固まる。蒸気を奪う。管を凍らせる。……中和じゃなく、相転移だ」



皇帝の間


 翌日、俺たちは呼び出された。

 血香神殿を背に、白砂の広場を越え、黒い石の床を渡り、扉の向こうへ。

 皇帝は若かった。黒曜の王座、細い手、乾いた目。背後には、赤い幕と薄い霧。

 「王都の白衣。砂の国は、客人を歓待する」

 「医術の巡回だ。あなたの“眠り”を見に来た」

 「眠り?」皇帝は笑う。「幸福のことか。民は夜に死者の声を聞く。朝、目覚めて穏やかに働く。争いは減り、税は増えた。神の術は、国家の術だ」


 リュシアが一歩出る。「税で眠らせ、眠りで税を取る。循環ね」

 皇帝の目が愉快そうに細くなる。「君は王家の女だな。よく通った。君の都でも香が流行ったと聞く」

 「終わらせたわ。血を混ぜた“香”なら、なおさら」

 「血?」皇帝の指が玉座の肘掛けを叩いた。「捧げ物だ。命の欠片。声。民はそれを欲しがる」


 俺は冷たく言った。「欲しがるのは“空白”を埋める重りだ。重すぎる重りは、底へ引きずる」

 「医者。君は人を動かすか?」

 「動かす。足で。手で。歌で」

 皇帝の笑みが消えた。「では、見せよ。血香の前で」


 合図とともに、玉座の背後の管が開き、赤い蒸気が薄く漏れた。兵士の肩が揺れ、瞳孔が開く。笑い、泣き、膝をつく。

 「これが幸福だ」皇帝が目を細める。

 「幸福は“静けさ”じゃない。“生きる音”だ」

 俺は肩から降ろした箱を開き、蒸留冷却器を組み上げる。銅管、冷却壺、石灰水。

 「リオン、熱を奪え。管の根元から」

 「了解!」

 魔導の風が冷たい渦を作り、銅の蛇腹が白く曇る。赤い蒸気はそこで凝(こご)り、雫になり、結晶へ変わった。

 俺は白布の上に落ちた結晶を掴み、皇帝の前に掲げる。

 「これが“幸福”の屍(しかばね)だ。血は温めれば香り、冷やせば固まる。あなたの神は、温度で変わる」


 広間がざわめいた。兵士の笑い声が裏返り、目が焦点を取り戻す。

 リュシアの声が響く。「見よ! これは祈りの証ではない。売買された血の結晶!」

 皇帝の目が細く、冷たくなった。「神の術を冒涜するか」

 「術は冒涜されない。公開されるだけだ」


 皇帝の指が軽く動く。

 兵の列が揺れ、矢が半月を描いて飛ぶ。

 「伏せろ!」トリスがリュシアを引き倒し、ミーナが盾を掲げ、リオンの風が矢を逸らす。

 俺は冷却器を抱え、再び管へ。

 「曲げるな。凍らせろ。歌え!」

 「四で吸って、八で吐く――」

 歌が広間へ、廊下へ、塔へ、街へ染み出していく。

 兵の誰かが、口の中で同じリズムを刻み始め、矢が遅くなる。

 赤い霧は薄くなり、広間の高窓へと逃げていく。

 「窓を開けろ! 高いところから、低いところへ!」

 扉が開き、風が入り、血の匂いが空へ引かれる。



崩れる塔


 警鐘が鳴る。街の管に、逆流の圧がかかり、継ぎ目から霧が噴いた。

 「止められないぞ!」兵が叫ぶ。

 「止めるな」俺は言う。「逃がせ。閉じれば爆ぜる」

 女神像の胸の壺が鳴動し、溜まった液がぶつかり合い、薄い膜が破れて、声が漏れた。

 〈帰れ、帰れ、帰れ〉

 祈りの歌と違う、乾いた命令の回路。

 「これが“霊”だと思わせた仕掛け」リュシアが低く言う。「“帰れ”は鎮まれの符牒」


 塔の外で、民衆が膝をつき、空を仰ぎ、震えている。

 俺は広場の壇に上がって叫ぶ。

 「嗅ぐな! 吸うな! 顔を覆え! 四で吸って、八で吐け!」

 「四で吸って、八で吐く――」

 王都で生まれた歌は、砂の都でも同じように肺を揺らした。

 アディルが先頭で大声を張り、子どもたちが泣きながら真似をし、老婆が指の間をこすり、男たちが窓を開け、女たちが布を配る。

 所作は宗教より速く、連帯は香より深かった。


 赤い塔が、一度だけ低く呻(うめ)き、沈黙した。

 蒸気の音が止む。

 都に、本当の風が通った。



女神の墓室


 神殿の最奥。薄暗い石の間。

 女神像の根に、白い石室がある。

 扉を押し開くと、そこは冷たい空気で満ちていた。

 石台の上に、眠る女。透明な管が胸に刺さり、薄い膜が腹に貼り付いている。

 「……人だ」ミーナが口元を押さえる。

 「生体祭具」俺は言う。「像の“心臓”として、生命を機械の核に使った」


 女は目を開けない。だが、額はうっすら汗ばみ、指先が微かに震えている。

 「助けるの?」リュシアが問う。

 「助ける。人だから」

 俺は管を留める糸を切り、出血を最小限に抑え、膜を剥離し、薄い液を排す。

 「リオン、温を保て。冷やしすぎるな。ミーナ、水を一口ずつ。トリス、記録」

 女の呼吸は一度荒くなり、やがて浅い泣きに変わった。

 「帰ってこい。ここは、風のある場所だ」


 女のまぶたが震え、瞳が薄く開いた。

 「……眠り……を、返して」

「眠りは、お前のものだ。誰かからもらうものじゃない」

 女は涙を流し、口の端で笑った。



皇帝の落日


 夕刻、王宮の中庭。

 皇帝は一人で立っていた。背後の管は止まり、広場の祈りは所作に変わっている。

 「見ろ、王女。静かな都だ」

 「静か、ではなく空白が減ったの。人が自分で息をしている」

 皇帝は瞼を伏せた。「君は政を甘く見る。民は弱い。弱さを抱けば、統治は難しい」

 「弱さを抱くのが統治よ」リュシアは一歩も引かない。「眠らせるのは、放棄」

 皇帝は薄く笑い、俺を見る。「医者。君は勝ったか?」

 「勝ち負けじゃない。やめただけだ。血に“眠り”を求めるのを」

 「では、君は民に何を与える」

 「手を。歌を。皆を。軽い重りをたくさん」

 皇帝の笑みが、ほんの一瞬だけ柔らかくなった。

 「……砂の歌は、風がよく攫う」

 「なら、毎朝、歌う」


 その夜、皇帝は布告を出した。

 「血香の停止」「供香者の解放」「女神像の封棺」「代替糧食の配給」「王立救護所の設置」。

 署名の筆致は震えていたが、はっきりと読めた。



眠らない市


 救護所では、震えと渇きに対する手順が配られた。

 ・四で吸って、八で吐く

 ・甘い水を少しずつ

 ・窓を開け、寝台を離す

 ・手を洗い、唱える

 ・香を嗅ぎたくなったら、手を洗う


 供香者は家族に戻り、女神像は白布で包まれ、石室は封印された。

 市場の屋台には「香を焚かない店」の札。祈りの場は自由に開かれ、歌は朝と夕に二度流れた。


 アディルの家の前で、老婆が指の間をこすりながら笑う。

 「夜の匂いが、砂になった」

 「砂?」

 「はいはい、砂は風で流れるだろ。だから、起きていられる」

 俺は頷き、笑った。「いい比喩だ」



サルヴォの影


 夜半、城壁の上。

 リュシアとふたり、砂の海を見た。

 「サルヴォは?」

 「南の国境の隊商に紛れた。海へ向かう」

 「海?」

 「“香を売る国”がある。海の果て。商都」

 リュシアは静かに息を吐いた。「終わらないわね」

 「終わらない。けど、続けられる」


 背後で足音。

 ウォルンが砂塵を払って現れた。「古医ギルドから返書。王都とレメディアの連名で“香の禁忌”を出せる。古医の名を、偽印から取り返す」

 「ありがとう、ウォルン」

 彼は肩を竦める。「お前の“所作”は、医者の外にも効く。……旅装を整えろ。海は気まぐれだ」



封壺


 出立の朝、俺たちは血の結晶を封壺に入れた。

 壺は白い土で作り、内側に灰と油の膜。蓋を石灰で封じ、赤蝋で二重に封印。

 「壺は“時間”だ」俺は言う。「この封印は、未来の裁きに耐えるための書式」

 リュシアが封蝋に王家の印を入れ、アストレアの弟子が神殿の印を押し、ウォルンが古医の印を添えた。

 「三つの印。神と法と術」

 「そして皆」リュシアは壺にそっと手を置いた。



旅立ち


 砂の都は、甘くない。

 市場に風が通り、祈りは歌になり、歌は所作になり、所作は習慣になった。

 アディルが走ってきて、俺たちに小さな袋を渡す。「砂糖の角。夜、舐めると喉が楽になる」

 「ありがとう。手順に甘さが少しあると、続けやすい」


 隊は南へ。オアシスへ。海へ。

 石畳の端で、供香者だった女が子どもを抱き、ゆっくりと手を振った。胸元には花ではなく、小さな布の印――「香を嗅がない」。

 俺は手を上げ、歌いだした。

 「四で吸って、八で吐く――」

 街路の向こうから、幾つもの声が重なる。

 所作は、今日も生まれて、誰かの空白に軽い重りを置いていく。


 砂丘の向こう、薄い三日月の縁で、金の仮面がふ、と笑った気がした。

 下流は海へ続く。

 いいさ。川の形は、変えられる。


こうして砂の都ズィーンで、血香の起源は封じられた。

だが“香を売る国”は海の彼方にあり、商会の網はそこから世界の港へ伸びる。

次回――第11話 沈黙の商都 ― 海上取引網を追え。

メスは剣より強く、歌は香より深い。

俺たちはまだ、戦いの途中だ。

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