第七節 そして、わたしは生まれた

――暖かい空気の中で、何かが触れた。

 

 柔らかく、湿った指先。まぶたに伝わる熱さ。呼吸の振動が、胸の奥まで届く。知らない大人の手が触れる……わたしは目を閉じたまま震えた。ゆらめく光の中、オルゴールの音が、わたしの全身に浸み込む。


 何かを感じる。


 匂いがした。甘くて、少し酸っぱい。父の香り? 母の香り?

 かすんだ色と形が、光の粒となって浮かぶ。ゆらゆら揺れる壁、布、手。

 声がする……低く、温かく、震えるように。


 ――わたしは、誰?

 ――わたしは、何?

 ――わたしは、どこに?

 

 わかるのは、ただ一つ。温もりの中で、すべてが包まれているということ……手のひらの柔らかさ。唇がそっと触れるぬくもり。胸に響く鼓動のリズム。

 世界は、まだ掌の広さほどしかない……けれど、すべてが私にとっての確かな世界。


 目の奥に光が差し込み、世界がぼんやりと映る。

 

「初めまして……空良。お父さんの悠翔だよ」

「ようこそ……空良ちゃん。お母さんの陽菜だよ」

 

 優しくて温かい手が、わたしをゆっくりと抱き上げる。

「空良、聞こえるかい? オルゴールの音……『白百合の祈り』という曲だよ。お父さんとお母さんの大好きな曲。空良も好きになってくれたら、嬉しいな」

「……あっ、悠翔さん、空良が笑ったよ」

「ほんとだ……」


 そして、わたしは知る。過去の記憶はまだなくても、この温もり、この音、この手触り──それこそが、わたしの最初の世界だ。


ふたつの鼓動とひとつの音楽――そして、私は生まれた。


 ――完――


 


ーーーーーーーーーーーーー

 ◼️本作品はフィクションであり、実在の人物・発言等とは一切関係ありません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

余韻【伍】 ーそして、私は生まれた(触覚)ー 枯枝 葉 @kareeda-you

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ