(第5章) 灘の獅子

 夜の闇は灘五郷の町々を、じわりじわりと呑み込んでゆく。戦災で焼け落ちた酒蔵の跡地には、まだ崩れかけの白壁が黒々と影を落とし、煤けた梁が剥き出しのまま風に軋んでいる。その隙間からは、夜更けまで働く人々の声が漏れ聞こえる。酒を仕込み直す小さな桶の響き、空になった米俵を運ぶ足音、そして、闇市へと流れていく若者たちの短い笑い声……。

 この何気ない、当り前の情景の、どれ一つを取り上げてさえ、今度の世界相手の戦争が、如何に多くの犠牲者を生み出した無慈悲なものだったかという事が、分ろうかというものだ。

 国の頂点に立つ者の資質が試されるのに、「戦争」以外に何があると言えるのだろう――。

 悪の集団「DANPA」の中には、今度の戦争の勝利者となった国の人間も混じっていると聞く。この瓦礫の町を目の当たりにしてさえ、なお侵略の爪を伸ばそうと考える人間が今も存在するとは……、個の人間の愚かさの、何と罪深いものであることか――。

 記者・在田ありたは、色んな思いを胸に瓦礫の雑踏を擦り抜けて、灘五郷の一つである「西郷にしごう」の海沿いに続く小径の先にある、普通の地図には印さえ付かない、古惚けた神社へと向かっていた。傍らにはその神社を見つけてきた杜氏の赤城あかぎの姿もある。

 二人の足は、決して速くはなかった。むしろ、在田の胸中には、記者の足を遅くする不思議な緊張が張り詰めていた。

「今夜、何かが起こる」――そんな予感を在田が、今も払拭できずにいたからだった。

「この辺りが昔から『獅子の郷』と呼ばれていたと祖父母から、子供の頃に聞いたことがあったんです」

 これまで無口に帯同していた杜氏の赤城が突然、ポツリと呟く。

「獅子の郷……?」

 進行方向から目を逸らさず、在田が聞き返す。

「そうです。六甲の尾根が荒々しく海へ迫り出して、あたかも獅子が身を伏せて獲物を狙うように見えたそうです。確か、灘五郷の酒造りを永く護ってきた心情を地形に重ね、いつしかそう呼ぶようになった――とか言ってました」

 赤城の声は淡々としていたが、在田はそこに、この土地の人々の誇りと悲哀が滲んでいることを素直に感じ取っていた。


 神社の鳥居は、夜目にも古びていた。世界を相手にした戦火を免れたのが奇跡のように、朱の色がまだ幽かに残っている。

 しかし、その下をくぐり抜けると、空気はガラリと変わった。森のような静けさは虫の声さえ遠ざけ、代わって、何処からともなく濃厚な気配が波のように満ちてくる。

「……来たようですね」――赤城の足が止まった。 在田も、全身が粟立つのを覚えた。

 闇の中に、数人の影が揺らめく。粗末な外套に身を包み、しかし、その立ち姿には隙がない。視線を凝らせば、腰のあたりに鈍い光がちらついた。小太刀だった。終戦からまだ一年しか経っていないとはいえ、武器の携行は厳しく禁じられている筈だ。それでも、彼らは隠す素振りすら見せなかった。

「誰だ?」――在田が声を張る。

 その瞬間、影の一人が一歩踏み出し、月光を受けて面貌が浮かび上がった。頬に古傷を持つ男だ。無言のまま、腰の小太刀を抜き払う。

 ――ヒュッ!

 刃が空を裂き、在田の頬を掠めた。記者として戦場を取材した経験のある彼は、咄嗟に身を沈めた。肺が焼けるように痛い。

 だが、その横で赤城の体が、スルリと前に出た。

「引け、引くんだ」――赤城の声は静かだった。

 だが、次の瞬間、彼の掌が素早く閃き、相手の小太刀の柄を弾き飛ばす。金属が石畳に落ちる音が、澄んだ空気に響く。

 続けざまに、背後から別の男が襲いかかった。

 振り下ろされた刃を、赤城は半歩引いて躱し、肘を相手の鳩尾にめり込ませた。

 「ゲフッ」と鈍い息が漏れ、男は膝から崩れ落ちる。

 在田はその光景を、目を見開いて見つめた。かつては陸軍の武官だとは聞いていたが、赤城の動きは軍人のそれを、遥かに凌いでいた。刃を持たぬ手が、鋼を持つ相手を圧倒する。まるで、影と戯れる獅子のように――だ。

「DANPAの手勢か?」――赤城が低く呟く。

 その名を聞いた瞬間、在田の脳裏に記事の断片が蘇った。

 ――灘の闇市を牛耳る得体の知れぬ組織、その背後にある「ダンパ」なる存在が――。だが、それは人の名か? 小太刀の名か? 未だ誰にも掴めてはいない――。

 男たちは尚も数人、ジリジリと間合いを詰めてきた。月が雲間から現れ、彼らの顔に青白い光を落とす。若い者もいれば、年老いた者もいる。眼には同じ色が宿っていた。恐怖と狂気が入り混じった、抗えぬ力への服従の色である。

 赤城は一歩前に出て、在田を背後に庇った。

「在田さん、後ろへ」

「ま、待て。あんた一人じゃ――」

 慌てて在田が身構える。

「大丈夫です。これが、灘を守る者の務めですから――」

 その言葉を吐き終わった瞬間、残る影たちが一斉に、赤城めがけて飛びかかった。

 赤城の体は、風のように動いた。

 在田の目には、それが人ならぬものに映った。

 爪先の一閃、肩の捻り、刃を躱しつつ逆手で喉元を撃つ。

 倒れた賊を利用して、次の襲撃を遮る。

 血の匂いが濃くなり、呻き声が闇に消える。

 やがて境内に残るのは、息を荒げる赤城と、石畳に転がる数人の影だけとなった。

 在田は言葉を失った。これまで記者として多くの暴力を、自分自身の目で実際に見てきた経験があった。しかし、たった今、目の前で繰り広げられた光景は、それらを完全に凌駕していた。

(もしかしたら、これが戦争の残したものなのかも知れない……)

 赤城の横顔に浮かぶ冷たい影は、まさしく「灘の獅子」と呼ぶに相応しかった。在田は何も言えず、まるで腰が抜けたという風情で、その場にへなへなと座り込んだ。

 ふと、境内の奥から一陣の風が吹いた。古びた拝参の屋根を震わせ、どこか獣の息吹の示すような、偉大な咆哮に似た響きを残して吹いたのだ。

 在田は背筋を凍らせた。この地には、まだ何かが潜んでいる。赤城の強さをもってしても、容易には届かぬほどの巨大なものが、確かにまだ潜んでいるのだ。

「ダンパ……」

 赤城の唇が、その名をもう一度呟いた。

 在田はその時、赤城の瞳の奥に微かな畏怖の念が沸き上がった瞬間を、決して見逃さなかった。

 

 酒の町「灘五郷」は、終戦を目前にした晩春から初夏にかけて、二度の米空軍による大空襲に遭い、その時の焼夷弾の炸裂で、恐らく郷全体の九割以上が焼け野原のと化す大戦禍を被った。かく言う「神戸大空襲」である。

 米軍機による日本本土への空襲は、真珠湾攻撃から四ヵ月を経た昭和二十年四月十八日が最初である。米軍の爆撃機・B-29が多数来襲し、東京、川崎、名古屋などを爆撃し、神戸市内の数か所にも、爆弾が投下されたと伝え聞く。

 しかし、米軍の空爆により神戸が壊滅状況となったのは、同年三月十七日の明石を含む西神戸一帯への空爆と同年五月十一日の東灘区航空機製造所を中心とした三宮、元町を含む空爆、そして同年六月五日の神戸中心街へ向けた絨毯爆撃で、これには外国人居留地も含まれていたと報じられている。更に同月十七日以降は、東灘や芦屋、西宮など、阪神間の市街地に向けた地域への爆撃が敢行されたという。

 この記録からも容易に分かるように「灘五郷」の西郷・御影郷・魚崎郷・西宮郷・今津郷のすべての郷が、米軍の空からの爆撃を受け、日本軍の施設や工業施設と同様に空爆されたことにより、全ての酒蔵が残らず破壊されてしまったのだ。 


 しかし、そんな中にも戦災を免れた数少ない酒蔵が「灘五郷」にもあった。それは、西郷より更に西の外れに位置していた。どこから見ても「古びた」という形容がぴったりの白壁の建物の中に、それは密かにかくまわれていたのだ。その酒蔵特有の分厚い白壁は、焼夷弾の煤による黒い痕跡を残してはいたが、辛うじて崩れずに立ち続けていた。今はまだ、酒造りの再開もままならない様子で、蔵の内部といえば、半ば廃墟のような雰囲気を醸し出している。だが灘の人々は、この廃墟同然の酒蔵を「沈黙の蔵」と呼んでいるのであった。

 何故その蔵がそんな名称で呼ばれるようになったかを説明すると、そこに近づいた者は何故か、理由の分からぬ不気味な静けさに威圧され、誰もが声を失ってしまうのだという。

 そして、新聞記者・在田正儀ありたまさのりは今、その「沈黙の蔵」の前に、正に佇んでいるのであった。



(第5章 灘の獅子・了)



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