(第6章) 沈黙の蔵

 夜の風が吹き抜け、衣服の裾を前から揺らす。記者・在田ありたの背後には、あの元・陸軍武官の杜氏の赤城あかぎが、手の届く位置に控えている。赤城の額には、先夜の戦いで負った浅い切り傷が、まだ赤く残っていた。

「ここか……」

 在田は呟いた。

「ダンパの噂の源は、この蔵にあるというんやな? ほんまに、ここかいな……」

 在田が自嘲気味に続けて呟く。

 赤城は、間違いないとの思いを込めて、ゆっくり頷く。

「戦前、この蔵には『ダンパ』と呼ばれる小太刀の一振りが隠されていたと聞いています。幕末に流れ着いた妖刀で、持つ者の心を喰らうとも言っておりました」

 赤城のその言葉に在田は、無性に恐ろしくなって身震いした。

「妖刀」――記者として合理の世界に生きる在田にとっては、どこまで聞いても荒唐無稽に響く。だが、赤城の口調は真剣そのものだった。

 二人は静かに廃墟同然の蔵に近づいた。扉の前で一度呼吸を整えた上で在田が、赤城の目を見て沈黙の許可を乞う。

 当然のように赤城は、在田に目で許可を送り、その直後に軽く防戦の構えを取り、不意の敵からの攻撃に備えた。

 在田が掌に力を込めて、恐る恐る扉を奥へと押すと、「蔵」特有の湿った空気が、在田たちのいる夜の外気に向かって一気に流れ出した。

 在田は、反身を赤城のいる蔵の外に預け、残りの反身を蔵の中に入れて、恐る恐る蔵の中の暗黒世界を覗いた。

 蔵の中は、全くの闇だった。只々闇が満ちているだけで、物音一つ聞こえてこない。まさに「沈黙の蔵」そのままだ。中はどうなっているんだろうと在田は、内側の壁伝いに電灯のスイッチを探すが、手探りだけの探索では何一つ見つからないように思えた。

 だが、壁にスイッチは見当たらず、電気は最初から通っていないようで、在田の掌が煤で黒く汚れただけだ。

 在田は足元の雑草で手のひらの汚れを拭き取ると、上着のポケットから改めて懐中電灯を取り出し、蔵の中の暗闇目掛けて光を走らせる。

 懐中電灯がその光の中に映し出したのは、巨大な梁が蜘蛛の巣を纏い、割れた甕が床に散乱している風景だった。かつて酒を満たしていたであろう甕の欠片に香りは既に無く、代わりに鉄錆のような臭いがそこを中心にして漂う。

「静かすぎますね……」

 赤城が低く言う。

 在田も同じ感覚に囚われていた。空間そのものが音を吸い取っているように思え、ともすれば自分の靴音さえぼやける。

 懐中電灯の光が壁をなぞると、古びた墨文字がそこに浮かび上がった。

「忍び文字か……」

 赤城が、壁の墨文字に目を凝らす。

 壁に記されていたその文字は、普通の人には只の掠れた落書きにしか見えない。しかし、赤城は、それを瞬時に見破った。戦前、諜報部員が極秘の伝言に用いた暗号文の一種だった。

 忍び文字が壁に記されていたことで、在田の記者魂に火がついた。愛用の新聞鞄からノートを取り出すと、素早く文字を書き写す。

「読めるか、赤城君……?」

「直ぐにはちょっと難しいでしょうね。だが、ダンパを巡る手掛かりには違いないですから……」

 その時、蔵の奥から物音がした。微かな木の軋みを、赤城の耳が捕らえたのだ。

「誰かが潜んでいる」――赤城の表情が一変した。それは、獅子が気配を嗅ぎ取った瞬間の鋭さだった。

「下がれ!」

 在田を乱暴に押しやると赤城は、蔵の中の更なる暗闇へと進み出る。

 ヒュッ――! 

 その場の沈黙を破るように、やいばの閃きが闇から飛び出した。

 赤城は瞬時に身を翻し、火花のように交差する影の中で、相手の攻撃を巧みになす。

 在田の耳には金属の軋む鋭い音と、短い吐息だけが響いて届いた。

 やがて、光の輪の中に一人の影が現れた。顔を布で覆った不気味な雰囲気の男だ。しかし、その瞳には異様な光が宿っている。

「ダンパは……渡さん」

 男の声は低く、壊れた鐘のように震えていた。

 赤城が踏み込み、刃と刃がぶつかる。

 重い衝撃が蔵の空気を震わせ、あちらこちらで埃が舞い上がった。

 在田は思わず息を呑む。

(この戦いは只の抗争ではない。小太刀に宿る何かが人を狂わせている)

 在田は、必至で赤城の姿を闇の中に見つけようと試みるが、赤城と影の戦う速さに、どうしても着いていく事ができないでいた。

 …………。

 急に蔵の空気が全く動かなくなる。

 やがて、覆面の男は体に傷を負い、闇に紛れて逃げ去った。

 蔵の奥には不気味な静寂だけが蘇る。

 在田は荒い息をつきながら、赤城を見た。

「やはり……ダンパは実在するんか?」

 赤城の顔には、在田がこれまでに見たことのない大量の汗が光っていた。

「この蔵が沈黙するのは――小太刀が全ての音を吸収しているからです」

 赤城は二、三度、深呼吸をして普段の息遣いに肺を戻すと、在田に沈黙の蔵の謎解きをした。

「小太刀って、さっきの影が使っていた刃物の事か?」

 赤城が首を縦に振ったので在田は、更に不安が広がっていた。影が使っていたということは、そういう小太刀が何本も存在するということではないのか?

 外に出ると、東の空が白み始めていた。六甲の稜線がわずかな朝日に細長く浮かぶ。

「沈黙の蔵」を出て、夜明けの外気の中に身を置いたとしても、在田の取り越し苦労は更なる恐怖心へと形を変えて膨らみゆくばかりだ。

「沈黙の蔵」――そこに潜むものは、灘五郷の歴史と人々の運命を呑み込む深淵しんえんであることを、二人は既に直感していた。


 朝日が十分に昇った頃、在田と赤城は御影の浜へ出た。沖には小舟が数隻、網を曳いている。戦後の食糧難の中でも、灘の浜は人々の暮らしを支え続けていた。干された海藻の匂い、子どもらのはしゃぐ声。束の間の安らぎの光景が目の前に広がる。

 しかし、在田の心は重かった。沈黙の蔵で見たあの目。ダンパに魅入られた男の瞳は、理性を焼き尽くす狂気そのものだったからだ。

「在田さん」

 赤城が低い声で呼びかける。

「俺は小太刀に魅せられぬように、心せねばなりません。獅子とて影に囚われれば、牙は己をも裂く――」

 その言葉に在田は、ただ頷くしかなかった。


 浜を歩いていると、古老の漁師が声を掛けてきた。背を曲げ、皮膚は日焼けで革のように硬い。

「お二人さん、あの蔵に行ったそうじゃな……」

 在田は驚き、赤城と視線を交わす。

「どうして、そう思うんですか……?」

 恐る恐る在田が老人に尋ねる。

「ここらのもんは皆、あの蔵を知っとる。昔から"影の蔵"よ。近づいたもんは、決まって口が重くなる。『沈黙の蔵』とも呼ばれとる……」

 そう言って古老の漁師は、遠い目をした。

「戦の前、夜な夜な小太刀を抜き放つ音が聞こえたんじゃ。だが、誰が振っておるのか、誰も見たことはない……」

 赤城が問う。

「小太刀は今も、そこに眠るのか?」

 古老も漁師は口をつぐみ、遥か波間を見つめた。

「眠っとるのか、それとも人の手で歩いとるのか……それは、わしにも分からん。ただ言えるのは、あの小太刀に関わったもんは、誰も幸せにはならんかった……」

 その言葉が在田の胸に、深く突き刺さった。ダンパは、単なる武器ではない。人の心に影を落とし、やがて灘五郷全体を呑み込む「怪物」のような存在なのかも知れない。


 そのとき、浜辺を駆ける少年が彼らの前に立った。

「在田さん! 新聞社の人でしょ?」

 息を切らした少年は、丸めた紙片を在田の前に差し出した。

 在田が受け取ると、それは新聞の切り抜きだった。そこには、先夜の暗殺未遂事件の記事が躍っている。「犯人は逃走中。刃物を持ち、今も潜伏している」という。

 赤城の表情が険しくなる。

「奴は……ダンパに憑かれた男だ」

 在田は唇を噛んだ。記事を読めば読むほど、昨夜「沈黙の蔵」で遭遇した男の姿と重なる。つまりダンパは、既に人の手で動いているのだ。

 潮風が強くなり、波の音が高まる。まるで海そのものが騒めき、何かを警告しているかのようだった。

「在田さん」

 赤城の声は静かだが、その底に火を孕んでいた。

「次は、灘五郷の隠し郷の中心に踏み込む。ダンパの影は既に、そこまで広がっている筈です」

 在田は息を呑んだ。「灘五郷」の町全体を飲み込もうとする「影」の存在――、その渦の中に自分も赤城も、否応なく巻き込まれてゆく――。


 西郷のまだ西側に位置する、まるで隠れ里のようなこの町並みを歩くと、白壁の酒蔵が幾重にも並び、瓦屋根が昼の陽を受けて鈍い光を放っていた。かつては樽を積んだ大八車が絶えず行き交い、米の蒸気と発酵の甘い匂いが通りを満たしていた筈だ。

 しかし、今は、敗戦から一年――酒蔵の多くは稼働を止め、静まり返っている。風に押される戸板の音と、草叢からの蝉の声だけが響いていた。

「ここが灘の心臓部だ……」

 赤城の低い声が、白壁に反響して落ち着いた余韻を残した。

 在田は周囲を見回した。

 生まれて初めて歩くこの町並みに、どこか息苦しさを覚える。

 まだ昼間だというのに、影が濃く重たく、まるで行く手を阻んでもいるかのように、在田の両肩に鉛の重さでし掛かって来るのだった。



(第6章 沈黙の蔵・了)



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