(第4章) DANPA?

 一昨日おとといの夜、自分の油断から響太郎きょうたろうの写し取ったダンパの鞘の絵図を、誰だか分からない賊に盗まれてしまった記者の在田ありたは、その失敗を挽回すべく、昼夜を掛けて小太刀の鞘の暗号を描き写した。

(しかし、これだけでは、ダンパの謎が解ける筈もない。響太郎の見つけた「何か」を、俺自身も見つけ出す他はない)

 在田はそう考え直すと、響子に頼み込んでもう一度、御影の酒蔵の中を見せて貰う事にした。

「これから調査を続けて下さるんなら、助手の一人くらい居なければ、お困りになることも多いんじゃないかと思って……、若くて気の利く杜氏さんを一人ご紹介しますわ。元は、陸軍の武官さんだったんですって……」

 響子きょうこは、在田にそう話すと、長峰酒造の復活に手を貸したいと、丹波から遥々やって来ていた杜氏の赤城あかぎを紹介してくれた。

 赤城は若いのに、とにかく良く気が付いた。それに、灘五郷や酒蔵についての理解や知識が、半端なく深かい。何より酒造りに対しての無類の憧憬が、すっかり在田を虜にした。

 酒蔵の中で一緒に調査を始めた赤城は、焼け落ちた土壁の破片から、忍び文字の一部分を見付けたり、焦げた梁の断片から、隠し符号の並び方と法則を発見したりと、目覚ましい働きで在田の信頼を勝ち取っていった。 そして、在田と赤城の二人は、「灘の獅子」なる新たな謎と、ダンパ以外に、もう一つのDANPA《ダンパ》の存在まで導き出したのだ。

「何でもそのDANPAは、米軍の追放軍人や外人部隊の脱走兵、日本のヤクザに闇市の仲買人、売春宿の亭主おやじまでが集まって、俺たちの追っている『妖刃・ダンパ』を『無敵兵器』や『超力武器』に変えようと企んでいる一団が、随分前からこの灘には存在するらしいんです。そいつらが、アルファベットの『DANPA』という文字を旗印にして、最近「灘五郷」を嗅ぎ回っている、という噂があるんです」

 若い赤城が、さも不安げに在田の顔を見下ろす。

「心配するな。相手もまだ、何も分かってへん。だから、長峰の蔵に忍び込んだりするんや。相手が我々の事を探っている間に、俺たち二人でダンパの謎を解いてしまおやないか」

 

 いつの間にか、灘の町が夕暮れに包まれようとしていた。この頃になると、海風と山風が交じり合い、灘の街の路筋に不思議な騒めきを運んでくる。石畳を踏む足音が遠のき、酒蔵の白壁が茜色に染まる。それも、やがては藍色の夜のとばりの向こう側に、何もかもが飲み込まれてしまう。表向きの賑わいは間もなく静まり、代わりに、人知れぬ気配がその隙間から立ち上る。まるで「灘五郷」そのものが、眠りに落ちる前にもう一度、大きく息を吐き出しているかのようにも思えた。

 在田は、昼間の蔵の見取りで浮かび上がった「忍び文字」の写しを前に、闇市の居酒屋の片隅で、石油缶の椅子に腰掛け、独り考え込んでいた。酒樽を裏返しただけの食台テーブルに、食み出すように広げた絵図には、明らかに意図的に崩された筆跡ふであとが並んでいる。

 だが、それは只の暗号ではなく、古来から灘五郷の蔵元に伝わる「隠し符丁」に近いと、在田は直感していた。

(灘五郷には酒蔵だけではない、「もう一つの蔵」が存在する……きっとそうに違いない)

 在田の呟きは、誰に聞かせるでもなく、自分自身に言い聞かせているような響きを持っていた。すべてが、新聞記者としての直感だったが……。

 そんな時、不意に見知った顔が傍に佇った。昼間、長峰酒造の酒蔵で共に謎解きをした、杜氏の赤城だった。

 まだ二十代半ばというのに、随分冷静な目をしている。在田にとってその視線は、本業の酒造りだけでなく、何かもっと奥の深い「継承」の重みを見据えているようにも思えた。

「在田さん。あの文字……解けそうなんですって?」

「まだ糸口に過ぎん。だが、一つ気付いた事がある。忍び文字の一字一字の間隔にしては、やけに余白が多い事や」

 赤城が急に目を細め、絵図に顔を近寄せてきた。

「余白が……ですか……?」

 余り……ピンとは来ていないらしい。若い杜氏には無理からんことだ。

「文字や記号そのものではなく、空白が地図みたいに浮かび上がって来るんや。つまり、これは、“隠し蔵”の所在を指し示す”符丁”やと、俺は睨んどる」

 赤城は音を立て、生唾を飲み込んだ。

「灘五郷」には、数百年に亘る蔵元同士の争いや、協力の歴史があった。その陰で、誰も触れようとしない「封印の地」があると、これまで噂されてきた。だが、それは半ば「伝説」の域にあり、現実としてそこに踏み込む者は、これまで誰一人として居なかった。在田は絵図を四角く折り畳み、丁寧に癖をつけて酒樽の食台の中央に置いた。

「赤城君。君が見つけた『灘の獅子』は、只の象徴やない。今は牙を隠して眠ってるだけや。問題は、誰がその獅子を呼び覚まそうとしているかや……」

 在田の言葉を遮るように、外からの風が強く吹き抜け、酒場の暖簾が激しく揺れた。二人は思わず視線を交わす。その瞬間、赤城は背筋に冷たいものを感じ取った。

「在田さん、まさかDANPAの手が、もう、ここまで来ていると……?」

「ああ、動き始めてる。俺たちが気づいた以上、奴らが気づかん道理はない。……時間の勝負や」

 それを聞いた赤城は、武者震いとも思える身震いを一つして、その場に立ち上がり、両手の拳を堅く握り直し、再び石油缶の椅子に座り直した。

 少しのを置いて、赤城は在田に訊ねた。

「在田さん、俺たち負けませんよね?」

「当り前や。俺たちは最強のコンビやいう事、奴らに見せたろやないか」

 在田は大人気おとなげもなく、赤城の熱の籠った言葉に同調した。


 夜は更に深まり、男二人の信頼関係もまた、時間と共に深まりを強めてゆく。

 それでも、日にちが翌日に変わる前に、居酒屋の石油缶の席を立って、闇市の表通りに出た二人は、互いを讃え合って、そこで別れた。

 赤城は、自らが杜氏を務める酒蔵へと帰り、在田は単身、海沿いの小径へと足を向けた。

 在田の歩調は、相変わらずゆっくりとしている。少し多めに飲んだ焼酎バクダンの所為もあっただろうが、酔いを反映した足取りには反し、色んな所に目を配り、小さな変化にも緩めない観察眼は、「一流」の新聞記者の領域に身を置く者としての誇りと自信に裏付けられたものだ。

 もう直ぐ目的の小径に出る、という所まで来たときだった。潮の香りと共に、彼の耳には微かな足音が、追いすがるように響いていた。途端に記者の五感が働き始める。離れない足音から、ずっと見張られていたことが想像できる。

(赤城君は大丈夫だろうか?)――ふと、そんな思いが胸をよぎった。

「DANPAよ……眠れる獅子を揺り起こす気か?」

 在田の呟きは、瞬く間に真夜の闇へと吸い込まれたが、その追い縋るような気配に、迷いは一切感じられない。在田の全身から、酔いがどんどん抜けて行く。紛うことなくそれは、次なる局面へと彼を導いていた――。


 酒造りの町「灘五郷」はどこの郷も、飛びぬけて朝が早く、その分だけ夜も早い。瓦礫の中にできた夜の闇市が、本気で回転し始めるには、まだ少し時間があるようだ。

「もう少し日が落ちるのを待って出かけようか」

 新聞記者・在田正儀ありたまさのりは、前もって呼び寄せていた長峰酒造の杜氏・赤城に向かって言った。

「それがいいですね。何が潜んでいて、どんな賊が闇の中から飛び出してくるか、これまでの敵の出方だけでは分かりませんからね。俺たちも、闇に紛れる時刻まで待ちましょう」

 陸軍の武官出身だとは聞いていたが、赤城のその積極的な口調に、在田は少なからず驚かされた。

 在田たちは今夜、これから二人で、西灘辺りの海沿いの小径まで足を向けようと計画していたのだった。

 実は昨夜、在田は独りで御影郷周辺を歩き回り、ダンパや長峰響太郎に関する情報を得ようと、記者魂を発揮し、一睡もせずに取材したのだ。

 しかし、真夜の暗がりの中、数少ない防犯のための常夜灯と、夜空の星を頼りに歩く訳だが、在るのは瓦礫の闇に次ぐ闇ばかりだった。

 確かに、少数の人影が闇市に見えるが、それ以外は皆、早々と家路に着いてしまっているかなのだ。だから、一人として顔の知らない人に出会う事もなく、これといった新しいニュースは元より、手掛かりの一片すら掴む事ができなかった。

 もう引き返そうか――とも思ったが、変な所で記者魂が頭をもたげ、御影郷から少し離れた都賀川の河口付近――西郷にしごう辺りの海沿いにまで足を延ばしてみた。

 ところが、そこで、これまで全く知る事のなかった、何か自分の心に引っ掛かるような、不思議な小径を発見したのだった。

 但し、そこに行き着くまでの道程において一言わせて貰うなら、別段、影や姿を見た訳ではないが、確かに誰かに見張られている、という気配だけは、ずっと彼の感覚から消えなかったのだ。

 そういえば、かつて神戸の新聞社にいた頃にも、同じような感覚に付き纏われたことを、ふと彼は思い出していた。

 (そうか、既にあの頃からDANPAは、俺がいつか気付くだろう事を察知していて、遠くから見張っていたということか。――きっと、そうや! 何も知らなかったその前から、俺はずっと、奴らに見張られとったんや)

 在田の胸に氷のような戦慄が走る。それと同時に、今までの自分の行動が決して間違ってはいなかったと在田は、自分自身に強く言い聞かせるのだった。



(第4章 DANPA?・了)


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