第3話「名前をくれた日」
四大精霊が俺の家に集まってから、三日が経った。
俺――アスタロトの生活は、完全に変わってしまった。
正直に言えば、最初は戸惑いしかなかった。
千年前、互いに戦場で相対した者たちと、今、一つ屋根の下で赤ん坊の世話をしている。休戦協定を結んで以来、最低限の接触しかしてこなかった相手たちが、毎日この家に出入りしている。
不思議だ。
だが――悪くない。
むしろ、千年間の孤独が嘘だったかのように、この三日間は濃密だった。
*
【第三日目の朝――午前六時】
アラームより早く、この子の泣き声で目が覚める。
「ぎゃああああ」
小さな体から、よくそんな声が出るものだと毎朝感心する。
急いで抱き上げる。首の後ろを支えて、体を安定させて。もう慣れたものだ。
「わかった、わかった。今ミルクを――」
その時、リビングのドアが開いた。
「おはよう、アスタロト」
テラが穏やかな笑顔で入ってきた。既に哺乳瓶を持っている。
「もう準備してある。保育園に行く前に寄ったんだ」
「……いつもすまない」
「気にしないで。これも役割分担だから」
テラは本当に頼りになる。保育園の用務員として長年働いているだけあって、赤ん坊の扱いが完璧だ。最初の夜、俺が何もわからず途方に暮れていた時、テラの助言がなければ、きっと今頃俺は精神的に参っていただろう。
この子を抱いたまま、ミルクを飲ませる。
ちゅぱちゅぱと音を立てて、この子は必死に吸っている。その小さな手が、俺のシャツを握りしめる。
温かい。
この三日間、何度この温もりを感じただろう。そして、何度この温もりに救われただろう。
「順調だね」
テラがこの子の頭を優しく撫でた。
「もう慣れたみたいだ。最初の夜は大変だったのに」
「……ああ」
最初の夜。
あの夜、俺は一人で何もできなかった。ミルクの温度を間違え、オムツを逆につけ、この子の泣き声にただ途方に暮れた。我が魔王軍一万の配下を率いていた頃でさえ、あそこまで無力感を味わったことはなかった。
だが今は――五人いる。
一人じゃない。
ミルクを飲み終えた後、げっぷをさせる。
とんとんとん。
げふっ。
完璧だ。
「それじゃ、俺は保育園に行くよ。何かあったら連絡して」
「ああ。頼りにしている」
テラは優しく微笑んで出ていった。
朝日が窓から差し込んでくる。
この子は俺の腕の中で、満足そうに笑っている。
その笑顔を見ていると、不思議と疲れが消えていく。
*
【午前十時】
玄関のドアが勢いよく開いた。
「ただいまー!」
イグニスの元気な声が響く。夜勤明けの消防士は、いつも午前中に帰ってくる。
「声が大きい」
「あ、ごめんごめん」
彼女は靴を脱いで、リビングに入ってきた。その顔は明らかに疲れているが、目は輝いている。
「赤ちゃんは?」
「今、寝ている」
この子はソファのクッションで作った即席ベビーベッドで眠っている。アクアが用意してくれた清潔なタオルにくるまれて、穏やかな寝顔だ。
イグニスはこの子を覗き込んで、にっこり笑った。
「可愛いなあ……起きたら、ミルクあげていい?」
「沸騰させるなよ」
「もう大丈夫! 練習したから!」
彼女は自信満々に胸を張った。
昨日、イグニスは一時間かけてミルクの温度調整を練習していた。最初は何度も沸騰させ、次は冷たすぎて、ようやく五回目で成功した。
その時の彼女の顔――まるで何かを成し遂げた子供のような、純粋な喜びの表情を、俺は忘れない。
「頼む」
「任せて!」
イグニスは嬉しそうにキッチンに向かった。
こいつも、変わった。
三日前、ミルクを沸騰させて落ち込んでいた彼女が、今はこんなに自信に満ちている。
*
【午後二時】
アクアが買い物袋を抱えて帰ってきた。
「ただいま戻りました」
彼女はアクアリウムショップの午前シフトを終えて、毎日午後にはここに来る。
「おかえり、アクア」
イグニスが手を振った。この子を抱いている。
「あ、イグニス、その抱き方――」
「どうかした?」
「首がちょっと不安定かも。こうした方が……」
アクアが手を添えて、イグニスの腕の位置を調整する。
「あ、本当だ。ありがとう」
二人は笑い合った。
三日前、二人とも何もできなかった。ミルクを沸騰させ、水浸しにして。
だが今は――少しずつ、本当に少しずつ、学んでいるのが見て取れる。
「アスタロトさん、夕食の買い物してきました」
アクアが袋の中身を見せた。
「今夜はカレーにしようと思って」
「カレー! いいね!」
イグニスが目を輝かせた。
「私、辛いの入れていい?」
「ダメです。アスタロトさんが食べられないでしょう」
「えー……」
俺は二人のやり取りを見ながら、不思議な感覚に包まれていた。
かつて俺には、こんな日常はなかった。
魔王として君臨していた頃は、部下との関係は上下関係だけ。隠居してからは、誰とも深く関わらず、ただ静かに生きてきた。
だが今――この賑やかさが、悪くない。
*
【夕方五時――初めてのお風呂】
「そろそろ、お風呂に入れた方がいいんじゃない?」
シルフが指摘した。宅配ドローンの仕事を終えて、窓から入ってきた彼は、いつも的確なアドバイスをくれる。
「昨日も入れてないでしょ?」
「……ああ」
正直、お風呂は避けていた。
どうやって入れればいいのか、想像もつかなかったからだ。
「大丈夫だよ」
テラが穏やかに言った。保育園から戻ったばかりだ。
「一緒にやろう。俺が教える」
浴室に、ベビーバス――アクアが買ってきてくれた――を準備する。
お湯を張る。温度は38度。これも調べた。
「よし、この子を――」
俺はこの子を抱き上げた。
途端、この子が泣き始めた。
「ぎゃああああ」
「ど、どうした!?」
「きっと怖いんだよ」
テラが落ち着いて言った。
「初めての場所だから。ゆっくり慣れさせよう」
アクアが浴室に入ってきた。
「私、手伝います」
彼女は手のひらに小さな水球を作った。
「ほら、見て。綺麗でしょ?」
水球がきらきらと光る。
この子は泣き止んで、不思議そうに見つめている。小さな目が、水球の動きを追っている。
「怖くないよ。お水は気持ちいいんだよ」
アクアが優しく語りかける。
水球がふわふわと浮いて、この子の目の前で小さな虹を作った。
この子が――笑った。
「あー」と嬉しそうな声を出して、小さな手を伸ばした。
「今だ」
テラが言った。
俺はゆっくりと、この子をベビーバスに入れた。
最初は驚いた顔をしたが――目を丸くして、口を小さく開けて。
そして――きゃっ、と笑った。
温かいお湯が気持ちいいのだろう。小さな手足を動かして、楽しそうにしている。
「よかった……」
アクアが安堵の息を吐いた。
テラの指導のもと、慎重に体を洗う。
石鹸は使わず、お湯で優しく流すだけ。新生児の肌は敏感だから、と教わった。
この子は気持ちよさそうに目を細めている。
その姿があまりにも可愛くて、思わず頬が緩んだ。
「アスタロト、笑ってる」
シルフが悪戯っぽく言った。いつの間にか浴室のドアから覗いている。
「……黙れ」
「親バカの顔してるよ」
「うるさい」
だが、否定はできなかった。
お風呂から上がった後、柔らかいタオルでこの子を包む。
湯気の中、この子は本当に幸せそうな顔をしている。よだれを少し垂らしながら、満足げに笑っている。
我が魔王軍一万の配下でも、これほど幸せそうな顔を見たことはなかった。
*
【夜八時――夕食と重大な議論】
全員が揃った夕食の時間。
テーブルには、アクアが作ったカレーが並んでいる。
「いただきます」
五人で手を合わせた。
この子は、テラが作ってくれた簡易ベビーチェアに座っている。まだ食べられないが、みんなと一緒にいることが嬉しいのか、ご機嫌だ。首をかしげて、順番にみんなの顔を見ている。
「美味しい!」
イグニスが目を輝かせた。
「アクア、料理上手いね」
「ありがとうございます……でも、辛さが足りないんじゃ……」
「十分だよ」
俺は即答した。普通の人間にとって、これが普通なのだ。
シルフがこの子に話しかけている。
「美味しそうでしょ? でも、君はまだミルクだけだね」
この子は「あー」と返事をした。
テラが穏やかに笑った。
「そのうち、離乳食が始まるね」
「離乳食……」
全員が顔を見合わせた。
「……また新しい戦いが始まるのか」
俺の呟きに、みんなが頷いた。
だが、その目は笑っていた。
怖くない。
一人じゃないから。
食事を続けながら、イグニスが口を開いた。
「ねえ、みんな」
彼女の声は真剣だった。普段の明るさが消えている。
「私たち、警察には届けないの?」
空気が凍りついた。
そうだ。
この話題を、俺たちは避けてきた。
三日間、誰も口にしなかった。
だが、避け続けるわけにはいかない。
「……届けるべきだとは思っている」
俺は静かに言った。
「法的にも、倫理的にも、それが正しい」
テラが頷いた。
「捨て子を拾ったら、児童相談所に連絡する義務がある。それが法律だ」
「でも」
アクアが震える声で言った。涙が溜まっている。
「そうしたら、この子は施設に……」
「ああ」
俺は頷いた。
「おそらく、保護される。そして、養子縁組の手続きが進められる」
沈黙。
重い、重い沈黙。
「それは――ダメだ」
イグニスが拳を握りしめた。
「この子は、私たちが――」
「イグニス」
シルフが静かに言った。いつもの飄々とした雰囲気が消えている。
「気持ちはわかる。でも、それは俺たちのエゴかもしれない」
「エゴ?」
「そうだよ。この子にとって、本当に俺たちと一緒にいることが幸せなのか?」
シルフは真剣な目をしていた。
「普通の人間の家庭で育った方が、幸せかもしれない」
アクアの目から涙が溢れた。
「でも……でも……」
俺は深く息を吐いた。
「もう一つ、問題がある」
全員が俺を見た。
「この子は――普通の人間じゃない」
テラが頷いた。
「全属性を持っている。火、水、風、土、そして闇」
「闇属性は、魔族か魔王の血統でしか持ち得ない」
俺は続けた。
「普通の人間の中で育てば、いずれその力が顕在化する。その時――」
「差別される」
シルフが言い切った。
「異能を持つ子供は、人間社会では生きづらい。俺たちが一番よく知ってるはずだ」
そうだ。
俺たちは、異形の者だ。
力を持ちすぎた者だ。
だからこそ、千年間、隠れて生きてきた。
「それに」
テラが穏やかに言った。だが、その目は真剣だ。
「この子が持つ力は、ただの異能じゃない。伝説に語られる『世界の調停者』の力かもしれない」
「世界の調停者……」
イグニスが呟いた。
「千年前」
テラは遠い目をした。
「大戦争が終わる直前、そういう子供がいたんだ。全ての属性を調和させ、争いを終わらせる力を持った」
「どうなったんだ、その子供は」
俺は尋ねた。
「……わからない。戦争が終わった後、姿を消した。おそらく、その力を狙う者たちから逃れるために」
沈黙が降りた。
この子は、みんなの顔を順番に見ている。
まるで、この会話を理解しているかのように。小さな拳を握りしめて、真剣な顔をしている――ように見える。
「俺は」
俺は静かに言った。
「この子を守りたい。それが俺のエゴだとしても」
イグニスが顔を上げた。
「私も! この子を守りたい!」
アクアが涙を拭いた。
「私も……もう、手放したくない」
シルフが笑った。いつもの飄々とした笑みではなく、本当に優しい笑顔だ。
「僕も同じ」
テラが静かに言った。
「私も、この子と一緒にいたい。みんなで育てたい」
五人の目が、この子を見つめた。
「だったら」
俺は決意を込めて言った。
「警察には届けない。だが、完全に隠すわけにもいかない。異種族社会のネットワークを使って、非公式に保護する形を取る」
「妖怪コンビニの咲良さんに相談してみようか」
シルフが提案した。
「彼女、異種族コミュニティの情報網に詳しいから」
「それがいい」
テラが頷いた。
「異種族社会には、人間の法律とは別の、独自の互助システムがある。そこに組み込めば――」
「この子を守れる」
イグニスが言い切った。
俺は頷いた。
「ただし」
全員が俺を見た。
「もし、本当の親が現れたら――」
言葉が詰まった。
もし、本当の親が現れたら。
もし、この子を返さなければならなくなったら。
その時、俺は――俺たちは――。
「その時は、その時だよ」
シルフが優しく言った。
「今は、この子が俺たちを必要としてる。それだけで十分じゃないか」
この子が、小さく笑った。
まるで、みんなを励ますかのように。
*
【深夜二時――夜泣きとの戦い】
この子が泣き始めた。
俺はすぐに起きて、抱き上げる。
「どうした? ミルクか?」
哺乳瓶を咥えさせたが、吸わない。ぷいっと顔を背ける。
オムツを確認したが、濡れていない。
抱っこしても、泣き続ける。
「ぎゃあああああ」
その泣き声は、いつもと違う。
何か――何かを訴えているような。
俺は途方に暮れた。
どうすればいい?
何が欲しいんだ?
その時、イグニスが起きてきた。寝癖がひどい。
「どうしたの?」
「わからない。何をしても泣き止まない」
イグニスがこの子を抱いた。
「よしよし、どうしたの? イグニスお姉ちゃんだよ」
泣き続ける。
アクアも起きてきた。パジャマ姿だ。
「私が抱いてみます」
交代する。
「大丈夫、大丈夫……」
泣き続ける。
シルフも来た。髪がぼさぼさだ。
「僕も試してみる」
「頼む」
泣き続ける。
テラも来た。さすがに落ち着いている。
「どれどれ」
だが――泣き続ける。
五人が順番に抱いたが、効果なし。
この子は泣き続けている。
「どうすれば……」
アクアが泣きそうになっている。
「何が欲しいの? 教えて……」
我が魔王軍一万の配下を率いていた頃でさえ、こんなに無力だと感じたことはなかった。
強大な力を持っていても、この小さな命の前では、何の役にも立たない。
その時、シルフが何かを思いついたようだった。
「ちょっと、試してみていい?」
「……何をする気だ」
「子守唄。風の」
シルフは優しく風を起こした。
風が、音を奏で始めた。
それは――本当に優しい、穏やかな旋律だった。
風が木の葉を揺らす音。
さらさらと、優しく。まるで母親が髪を撫でるかのような、柔らかな音。
川のせせらぎの音。
ちょろちょろと、心地よく。清らかな水が石の間を流れる、涼やかな音。
鳥のさえずりの音。
ぴいぴいと、可愛らしく。遠くの森から聞こえてくる、命の音。
遠くで鐘が鳴る音。
ごーん、ごーんと、静かに。夕暮れ時の教会の鐘のような、安らぎの音。
自然の全てが調和した、優しい子守唄。
風が紡ぐ、命の歌。
この子の泣き声が――弱くなった。
そして――。
泣き止んだ。
目を丸くして、風の音を聞いている。
小さな手を伸ばして、風を掴もうとしている。
そして――小さく、笑った。よだれを少し垂らしながら、本当に嬉しそうに。
五人が、安堵の息を吐いた。
「すごい、シルフ……」
アクアが呟いた。
シルフは照れくさそうに笑った。
「千年生きてて、初めて役に立ったかも」
この子はシルフの腕の中で、穏やかな顔で眠り始めた。
風の子守唄に包まれて、安心しきった顔で。
小さな胸が、規則正しく上下している。
すやすやと、本当に穏やかに。
俺たちは、その姿をただ見つめていた。
これが、育児なんだな、と思った。
わからないことだらけで、失敗ばかりで。
だけど――一緒にいれば、なんとかなる。
「ありがとう、みんな」
俺は静かに言った。
「一人じゃ、とても無理だった」
「お互い様だよ」
イグニスが笑った。
「私たちも、一人じゃ無理だもん」
*
【第四日目の朝――命名】
翌朝、五人が再び集まった。
この子は機嫌よく、「あー」と声を出している。
「ねえ、みんな」
イグニスが真剣な顔で言った。
「そろそろ、この子に名前をつけない?」
名前。
そうだ。この子には、まだ名前がない。
三日間――いや、四日間、「この子」と呼び続けてきた。
「名前……」
アクアが呟いた。
「大事ですよね」
「一生、その名前で呼ばれるんだから」
テラが頷いた。
「じゃあ、候補を出し合おう」
シルフが提案した。
しばらく沈黙が続いた。
みんな、真剣に考えている。
「ヒカリとか?」
イグニスが言った。
「明るい未来を願って!」
「いいけど……ちょっとありきたりかな」
シルフが首を傾げた。
「ミズキは?」
アクアが提案した。
「水の恵みを――」
「水属性に偏るよ」
テラが優しく指摘した。
「この子は全属性を持ってるから」
「じゃあ、ソラ?」
シルフが言った。
「自由な空のように――」
「うーん……悪くないけど」
イグニスが唸った。
「ツチノコ」
テラが真顔で言った。
全員が固まった。
「……は?」
俺が聞き返した。
「冗談だよ」
テラが笑った。
「場を和ませようと思って」
イグニスが吹き出した。
「テラ、そういうの似合わない」
「似合わないかな」
「うん」
場が和んだ。
俺は、この子を見つめた。
小さな、とても小さな存在。
だが、確かに未来を持っている。
まだ何色にも染まっていない、真っ白な未来を。
この子は俺を見上げている。黒曜石のような瞳が、時折虹色に煌めく。
これから、どんな人生を歩むのだろう。
どんな人になるのだろう。
それは、誰にもわからない。
だが――それでいい。
これから紡がれる物語。
まだ始まったばかりの、長い長い物語の、最初の一ページ。
「ミオ」
俺は呟いた。
「未来の『未』に、糸へんの『緒』。これから紡がれる物語の最初の糸。ミオでどうだ」
四人が顔を見合わせた。
そして――。
「いいね!」
イグニスが笑った。熱い笑顔だ。
「ミオちゃん……素敵」
アクアが涙声で言った。もう泣いている。
「ミオか。可愛いし、意味も深い」
シルフが頷いた。
「素敵な名前だ。未来と、物語の緒。この子にぴったりだよ」
テラが微笑んだ。
俺はこの子――ミオを見つめた。
「お前の名前は、ミオだ。これから、俺たちと一緒に――」
ミオが笑った。
まるで名前を気に入ったかのように、本当に嬉しそうに笑った。小さな手をぱたぱたと動かして、喜びを全身で表現している。
その笑顔を見て、俺たちも笑った。
五人で、この小さな奇跡を囲んで。
「よろしくね、ミオちゃん」
イグニスが優しく頭を撫でた。
「一緒に、大きくなろうね」
アクアが涙を流しながら微笑んだ。
「たくさんの物語を紡ごう」
シルフが風で前髪を揺らした。
「ずっと、一緒だよ」
テラが包み込むように優しく言った。
そして、俺。
「お前の未来を、俺たちが守る」
ミオは、五人の顔を順番に見て――そして、満面の笑顔を浮かべた。
*
【午後――役割分担会議】
その日の午後、役割分担を正式に決めた。
「まず、基本的な生活リズム」
テラがノートを広げた。保育園での経験が活きている。
「ミルクは三時間おき。夜中も起きる必要がある」
「夜中は俺がメインでやる」
俺は言った。
「在宅だから、昼間は多少眠れる」
「でも、毎日は無理でしょ!」
イグニスが身を乗り出した。
「夜勤明けの日は、私も手伝う。というか、手伝わせて! 絶対!」
その目は熱い。本当に熱い。
「私は午後シフトだから、朝から昼は担当できます」
アクアが言った。少し心配そうに。
「お掃除も得意ですし……でも、失敗したら……」
「大丈夫だよ」
シルフが軽く言った。
「やってみないとわからないし」
「私は早朝と夕方なら」
テラが穏やかに言った。
「保育園の知識も活かせる。みんなで支え合えば、なんとかなるよ」
「じゃあ――」
俺はノートに書き込み始めた。
夜中(0時〜6時):アスタロト、イグニス(夜勤明けの日)
早朝(6時〜8時):テラ
午前(8時〜12時):アクア
午後(12時〜18時):アスタロト
夕方(18時〜24時):シルフ、可能な限り全員
「こんな感じか」
「完璧だね」
テラが頷いた。
「これなら、誰かが必ずミオちゃんのそばにいられる」
ミオちゃん、という呼び方が、もう自然になっている。
「あと、お風呂」
アクアが手を挙げた。
「当番制にしますか?」
「最初はテラとアスタロトがメインで。慣れたら順番に」
シルフの提案に、みんなが頷いた。
「食事の準備は?」
イグニスが尋ねた。
「私、料理好きだから手伝いたい!」
「じゃあ、イグニスとアクアで当番制?」
「いいですね。私も料理は得意なので」
「掃除は俺が」
テラが言った。
「あと、買い物も」
「洗濯は俺がやる」
俺は言った。
「在宅だから、隙間時間でできる」
「じゃあ、僕は何を――」
シルフが言いかけて、みんなが笑った。
「シルフは、ミオちゃんをあやすのが一番上手いから」
アクアが言った。
「それが一番大事な仕事だよ」
シルフが照れくさそうに笑った。
「よし、決まりだ」
俺はノートを閉じた。
「今日から、この体制で行く」
四人が笑顔で頷いた。
ミオは、みんなの顔を見て、嬉しそうに「あー」と声を出した。
*
【夜――一人の時間】
夜。
全員が帰った後、俺は一人、ミオを抱いていた。
「ミオ」
名前を呼ぶ。
不思議だ。名前をつけただけなのに、この子との距離が近くなった気がする。
「お前は、きっと特別な存在なんだろうな」
俺は静かに語りかけた。
「世界の調停者――なんて大層な名前がついているが、俺には関係ない」
ミオは俺を見上げている。
「俺にとって、お前はただの――」
言葉が詰まった。
ただの、何だ?
拾った子供?
違う。
もうそんな風には思えない。
守るべき存在?
それもある。
だが、それだけじゃない。
仲間たちと一緒に育てる子供?
近い。
だが、まだ足りない。
「……家族だ」
俺は静かに言った。
「お前は、俺の――いや、俺たちの家族だ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
千年間、忘れていた感情。
いや、最初から知らなかった感情。
家族。
血の繋がりなんて、関係ない。
種族も、年齢も、全てが違う。
だが――家族だ。
ミオが、小さく笑った。
まるで、俺の言葉を理解したかのように。
「よろしく頼む、ミオ」
俺は静かに呟いた。
「お前の未来を、俺たちが――お前の家族が、守る」
窓の外では、月が優しく照らしている。
静かな夜。
だが、もう孤独じゃない。
腕の中には、ミオ。
そして心の中には、四人の仲間たち。
いや――仲間じゃない。
家族だ。
こうして、元魔王と四大精霊の、本当の家族が――誕生した。
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