第2話「四大精霊、参上」

 朝日が窓から差し込んでくる。

 俺――アスタロトは、ソファで目を覚ました。

 体が痛い。首も肩も背中も、全身が悲鳴を上げている。かつて三日三晩、敵国の要塞を攻め落とした時でさえ、ここまでの疲労は感じなかった。あの時は魔法の支援があった。回復術師がいた。だが今の俺には何もない。ただ、腕の中にある小さな温もりだけが。


 この子だ。

 昨夜拾った赤ん坊。魔王マント風のベビー服を着た、小さな生命。一晩中、抱いたまま眠っていた。正確には、眠ろうとする度に泣かれて起こされた。ベッドに寝かせようとしても泣く。少しでも離れようとしても泣く。クッションで囲んで寝かせようとしても泣く。タオルで包んで寝かせようとしても泣く。結局、抱いたままソファに座り、気づけば朝になっていた。


 深夜二時、ミルクを飲ませた。

 深夜四時、オムツを替えた。

 早朝六時、また泣かれて起きた。

 そのたびに俺は立ち上がり、ミルクを作り、オムツを替え、この子をあやした。魔王として千年以上生きてきて、こんなに忙しい夜を過ごしたことがあっただろうか。いや、ない。戦場での不眠不休の戦いですら、これほど気が抜けなかった。


 時計は午前七時を指している。

 この子は穏やかな寝顔で眠っている。長い睫毛が朝日を受けて金色に輝く。その小さな手が、俺のシャツの裾をぎゅっと握っている。

 ……ああ、離れられないわけだ。

 認めるのは癪だが、この寝顔は天使のようだった。魔王が天使を可愛いと思う日が来るとは。


 そして思い出す。

 昨夜、シルフが来たことを。風の精霊が千年ぶりに姿を現し、他の三人も今日来ると告げたことを。

 頭が痛い。

 四大精霊――イグニス、アクア、シルフ、テラ。千年前の大戦争で休戦協定を結んで以来、互いに干渉しないという約束で生きてきたはずなのに。


 俺は昨夜、何度この子の世話に失敗しただろう。ミルクの温度を間違え、げっぷをさせられず、オムツを前後逆につけ。抱き方がわからず、何度も首がぐらついた。泣き止ませ方がわからず、ただ抱きしめることしかできなかった。千年以上生きてきて、こんなにも無力だと感じたことはなかった。


 だが、悪くなかった。

 温かかった。

 千年間、こんな温もりを感じたことがあっただろうか。戦場での勝利の興奮も、権力の座に就いた時の達成感も、この小さな温もりの前では色褪せて見える。


 玄関のチャイムが鳴った。


 *


 ドアを開けると、爆発的なエネルギーが飛び込んできた。


「おはよう、アスタロト!」


 赤髪をショートカットにした褐色肌の女性。消防士の制服を着た、火の精霊イグニス。その背後には炎のような熱気が揺らめいている。


「夜勤明けだから直接来ちゃった! 噂聞いたよ、本当に赤ちゃん拾ったんだって?」

「……声を落とせ。起きる」

「あ、ごめんごめん」


 彼女は慌てて口を押さえた。だが目は輝いている。好奇心と興奮が入り混じった、子供のような表情だ。


 彼女の背後から、もう一人。


「イグニス、本当にもう。赤ちゃんが起きちゃうでしょう」


 水色の長い髪を揺らす、水の精霊アクア。その目は既に潤んでいる。まだ何も見ていないのに、もう涙ぐんでいる。


「アスタロトさん、本当に赤ちゃんを?」

「……ああ」

「可哀想に……」


 まだ何も説明していないのに、もう泣きそうだ。彼女の感受性は相変わらず豊かすぎる。


「みんな揃ったね」


 風が吹き抜けた。

 銀髪の風の精霊シルフが、まるで最初からそこにいたかのように立っている。昨夜と同じ、飄々とした笑みを浮かべて。


「おはよう、アスタロト」


 三人の精霊が揃った時点で、俺は諦めた。


「……入れ。静かにしろ」

「やった!」


 イグニスが小さくガッツポーズをした。


 *


 リビングに通すと、三人は息を呑んでこの子を見つめた。

 俺はこの子をソファに寝かせる。まだ眠っている。その寝息が、静かな部屋に小さなリズムを刻む。


「……可愛い」


 アクアが震える声で呟いた。


「こんなに小さくて……本当に拾ったんですか?」

「昨夜、雨の中、家の前に置かれていた」

「ひどい……」


 彼女の目から涙が溢れた。予想通りだ。


 イグニスはこの子の服を見て、吹き出した。


「ねえ、これ……魔王軍の正装?」

「……他に服がなかった」

「超似合ってるけど」


 シルフが頷いた。


「本当に似合ってる。生まれながらの魔王様って感じ」


 三人がこの子を囲んで見つめている。その表情は、驚き、好奇心、そして――優しさに満ちていた。


 シルフが真面目な顔になった。


「アスタロト、この子、やっぱり普通じゃないよ」

「……気づいたか」

「風が教えてくれる。微弱だけど、確かに魔力がある」


 アクアが涙を拭いた。


「私も調べていいですか?」

「構わん」


 彼女は手を近づけ、魔力で生命の本質を読み取り始めた。水の精霊は、生命の流れを読むことに長けている。彼女の手のひらから淡い光が溢れ、この子の体を優しく包む。

 数秒後、アクアの顔が驚愕に染まった。


「これ……火、水、風、土、そして闇の属性も」

「闇も?」


 イグニスが身を乗り出した。


「闇属性って、魔族か魔王の血統でしか……」


 三人の視線が俺に集中した。


「……待て。俺の子供じゃない」

「でも――」

「本当に拾っただけだ」


 だが心の奥底で、ほんの少しだけ――そうだったらと思っている自分がいた。この子が俺の血を引いていたら。そうすれば、この子を守る理由が明確になる。だが現実は違う。この子は、ただ俺の家の前に置かれていた、名もなき赤ん坊だ。


 シルフが考え込んだ。


「全属性を持つ子供……昔、そういう伝説があったよね」

「世界の調停者、だっけ?」


 イグニスが頷いた。


「でもそれって、ただの伝説でしょ?」


 アクアが不安そうに言った。


「伝説は、いつだって現実から生まれるんだよ」


 シルフはこの子を見つめた。


「この子は特別だ。きっと、何か大きな運命を背負っている」


 沈黙が降りた。

 この小さな存在の意味を、みんなが考えていた。五つの属性を持つ子供。それが何を意味するのか。なぜ、この子が俺の前に現れたのか。


 この子が小さく声を出した。

 んー、と。

 目覚めの予兆。小さな手が動き、顔がわずかに歪む。


「起きる。ミルクの準備を」


 俺は立ち上がった。


「手伝う!」


 イグニスが飛び上がった。


「私、料理得意だから!」


 嫌な予感がした。


「イグニス、待て――」

「任せて!」


 彼女は液体ミルクを哺乳瓶に注ぎ、手のひらに炎を灯した。

 戦闘用の火力だ。まずい。


「最適な温度に――」

「やめろ――!」


 ぼこぼこぼこ。

 ミルクが沸騰した。


「…………」


 全員が沈黙した。哺乳瓶の中でミルクが泡立ち、湯気が立ち上っている。


 イグニスは固まっていた。


「あれ? いつもこれくらいの火力で……」

「お前の『いつも』は一般的な人間の三倍の火力だ」


 俺はため息をついた。


「赤ん坊のミルクは40度だ。沸騰させてどうする」

「ご、ごめん……」


 彼女の声は小さくなった。消防士として、いつも強い火と向き合っている彼女にとって、この繊細な温度調整は難しいのだろう。


 新しいミルクを用意する。

 今度は俺が温める。魔力で温度を感知しながら、慎重に。

 38度――39度――40度。完璧だ。


 この子を抱き上げる。

 首の後ろを支えて、体を安定させて。もう迷いはない。一晩の試行錯誤が、俺に技術を与えてくれた。

 この子は俺を見上げて、小さく笑った。

 哺乳瓶を咥えさせる。

 ちゅぱちゅぱと吸い始めた。小さな手が哺乳瓶を掴もうとしている。まだ上手く掴めないが、その仕草が愛おしい。


「……すごい」


 アクアが感動した声を出した。


「アスタロトさん、一晩でそこまで……」

「……昨夜、何度も失敗したからな」

「でも……」


 彼女の目がまた潤んでいる。


「元魔王が、赤ちゃんを……こんなに優しく……」

「泣くな」


 イグニスも目を赤くしている。


「あんた、本当に……変わったね」

「何も変わっていない」

「変わったよ。千年前のあんたは、こんな顔しなかった」

「……どんな顔だ」

「優しい顔。パパの顔だよ」


 俺は何も言えなかった。鏡を見ていないから、自分がどんな顔をしているのかわからない。だが、この子を見つめていると、自然と顔が緩んでしまうのは自覚している。


 *


 ミルクを飲み終えた後、げっぷをさせる段になって。


「今度は私に!」


 イグニスが飛び出した。


「さっきの失敗を取り返したい!」


 その目は真剣だった。負けず嫌いな性格は、千年前から変わっていない。


「……いいが、優しくだぞ」


 俺はこの子を彼女に渡した。

 イグニスは本当に慎重に、この子を抱き上げた。大きな手で、小さな体を包み込むように。


「よし……背中をトントンして……」


 ばんばんばん。


「痛いだろそれ!」


 俺は慌てて止めた。


「え!? これくらいの強さで肩叩きしてるのに!」

「だからお前の基準は一般的じゃないんだ!」

「ご、ごめん……」


 イグニスはしょんぼりと俯いた。


「……わからないんだ」


 彼女が小さく呟いた。


「私、ずっと一人で生きてきたから。誰かを――こんなに小さい誰かを、守るなんて」


 その言葉に、誰も何も言えなくなった。


 ああ、そうか。

 お前もか。

 お前も、ずっと一人だったのか。


 火の精霊として生まれ、その力の強さゆえに、周囲から恐れられてきた。大戦の時は人間側で戦い、魔王軍を何度も焼き払った。だが戦いが終わった後、彼女は一人になった。力が強すぎて、誰も近づいてこなくなった。


 俺は静かにこの子を受け取り、正しい強さで背中を叩いた。

 とんとんとん。

 げふっ。


「……こうだ」

「うん……」


 イグニスは真剣な目で見つめていた。


「教えて。ちゃんと」


 俺は頷いた。


「……ああ」


 *


 オムツ交換の時間になった。


「これは私が」


 アクアが手を挙げた。


「水の精霊として、清潔さには絶対の自信があります」

「……頼む。ただし、水を使いすぎるな」

「大丈夫です」


 アクアはこの子を寝かせ、汚れたオムツを外した。

 そして、彼女の顔が固まった。


「……汚い」

「アクア?」

「こんなに……」


 潔癖症が発動したらしい。彼女の手が微かに震えている。


「おしりふきじゃ足りない……完全に除菌しなきゃ……」

「落ち着け、アクア」

「水で……清潔な水で……」


 彼女の手のひらに水球が形成され始めた。まずい。


「待て、アクア、それは――」

「清潔に!」


 ざばああああん。


 全員がびしょ濡れになった。リビング全体が水浸しになり、床も壁も天井も、全てが濡れている。

 この子は――きゃっきゃっと笑っていた。冷たい水を浴びて、楽しそうに笑っている。


「ご、ごめんなさい!」


 アクアが泣きそうな顔をしている。


 シルフが呆れた。


「アクア、加減って言葉知ってる?」

「知ってます! でも、つい……」


 彼女は本当に申し訳なさそうだ。


 俺はため息をついて、この子を拭いた。冷たい水に濡れているのに、この子は笑っている。


「……まあ、いい。この子は喜んでいる」

「本当ですか?」

「ああ。ただし、次からは加減しろ」

「はい……」


 床を拭き、この子に新しい服を着せ、オムツを交換した。もう慣れたものだ。一晩で何度も繰り返したおかげで、手際が良くなっている。テラが持ってきてくれた新しいベビー服は、ちょうど良いサイズだった。淡い青色の、可愛らしいデザイン。魔王マントよりは、ずっと赤ん坊らしい。


「すごい……」


 アクアとイグニスが尊敬の眼差しで見ている。


「アスタロトさん、一晩でこんなに上手に……」


 アクアが感心した様子で言う。


「俺だって最初は失敗ばかりだった」


 俺は正直に答えた。


「何度もミルクをこぼし、オムツを逆につけ、泣き止ませられなかった。だが、この子が教えてくれたんだ」

「教えてくれた?」


 イグニスが首を傾げた。


「ああ。泣き方で、何を求めているのかがわかるようになった。お腹が空いているのか、オムツが濡れているのか、ただ抱っこしてほしいのか」


 この子を見つめながら、俺は続けた。


「赤ん坊は、ちゃんと伝えてくるんだ。俺たちが、ちゃんと聞こうとすれば」


 四人が、静かに頷いた。


 シルフが静かに言った。


「ねえ、アスタロト」

「何だ」

「私たち、ダメだね」


 彼は自嘲するように笑った。


「千年以上生きて、強大な力を持っているのに。こんなに小さい子一人、上手に扱えない」

「……当然だ。お前らは人間の子供を育てたことがない」

「あんただってないでしょ?」

「ああ。だが学んでいる。失敗しながら」

「失敗……か」


 シルフは、この子を見つめた。


「千年間、私たち、失敗を恐れて生きてきたのかもね。力が強すぎるから。間違えたら大変なことになるから。だから、誰とも深く関わらなかった」


 イグニスが小さく言った。


「……私も、怖かったんだ。また誰かを傷つけるのが。だから、一人でいた方が楽だって」

「私も……」


 アクアが涙を拭いた。


「誰かと一緒にいたら、また失うのが怖くて……」


 ああ、そうか。

 俺だけじゃなかったのか。

 お前らも、ずっと――孤独だったのか。


 重い、でもどこか優しい沈黙が降りた。千年間、それぞれが抱えてきた孤独。力があるがゆえに、誰とも深く関われなかった日々。


 シルフが静かに言った。


「千年間、ずっと思ってたんだ。誰かと一緒にいたいって」


 その声は、いつもの軽さがなかった。


「でも、怖かったんだよね。風の精霊として、僕の力は制御が難しい。少し気を抜けば、台風になる。竜巻になる。だから、いつも一人でいた方が安全だって」


 イグニスが頷いた。


「私も……炎は、すぐに広がるから。誰かと近くにいると、いつか傷つけるんじゃないかって」


 彼女の声は震えていた。


「昔、友達がいたんだ。人間の女の子。でも、ある日――私が怒った時、炎が制御できなくて……」


 それ以上、彼女は言えなかった。ただ、手を握りしめているだけだった。


 アクアが涙を拭いた。


「私も……大切な人を失いました。水の精霊として、生命を守る力があるはずなのに。あの時、私は何もできなかった」


 彼女の涙が、止まらなくなった。


「それから、誰かと深く関わるのが怖くて。また失うくらいなら、最初から一人でいた方がいいって」


 四人の告白を聞いて、俺は自分の千年を思い返した。

 魔王として君臨し、恐れられ、孤独だった日々。配下はいた。だが、誰も俺の心には触れなかった。俺も、誰の心にも触れようとしなかった。それが安全だったから。傷つかないから。


 この子だけが、無邪気に「あー」と声を出している。その声が、重い空気を少しだけ和らげる。小さな手が俺のシャツを握りしめている。この子は、俺たちの過去も力も何も知らない。ただ、ここにいる。無防備に、信じて。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。


 *


 ドアを開けると、巨漢が立っていた。

 身長190センチ、がっしりとした体格。だが顔は穏やかだ。優しい目をしている。

 土の精霊、テラ。


「久しぶり、アスタロト」


 その低い声は落ち着いていた。大地のように、どっしりとしている。


「シルフから連絡をもらった。赤ちゃんの世話、大変だろうと思って」


 両手には大きな紙袋。中にはベビー服、オムツ、ミルク、おもちゃ。全て新品で、サイズも月齢に合わせて選ばれている。


「……なぜここまで」

「困った時は、お互い様だろう?」


 テラは穏やかに笑った。


 リビングに入ると、テラは濡れた床や壁を見て、小さく笑った。


「やっぱり、大変だったみたいだね」

「……アクアがやった」

「僕のせいです……」


 アクアが申し訳なさそうに言う。


 テラは優しく首を振った。


「大丈夫。最初はみんな失敗するものだよ。僕も保育園で、最初の一ヶ月は毎日何かしら失敗してた」

「テラさんが?」


 イグニスが驚いた声を出した。


「そう。力加減がわからなくて、積み木の塔を一瞬で崩したり、砂場で本気の要塞を作って子供たちを驚かせたり」


 彼は穏やかに笑った。


「でも、子供たちが教えてくれたんだ。『テラせんせい、もっとやさしくだよ』って」


 その言葉に、三人が顔を上げた。


「失敗していいんだよ。大切なのは、そこから学ぶこと。そして、何より――この子を愛することだ」


 テラはこの子を一目見て、柔らかい表情になった。


「可愛い子だ。抱いていいかい?」

「……ああ」


 テラはこの子を抱き上げた。

 その手つきは完璧だった。首を支え、体を安定させ、優しく包み込む。まるで何百回も赤ん坊を抱いてきたかのような、自然な動作。

 この子は、テラの腕の中で安心したように笑った。


「なぜお前はそんなに上手いんだ」

「保育園で毎日やってるからね」


 テラはこの子をあやしている。大きな手で、優しく揺らしている。


「赤ちゃんは、安心できる人をすぐに見分けるんだ。力の強さじゃなくて、心の優しさを」


 彼はこの子を見つめた。


「面白い子だね。全属性を持ってる」

「やはりわかるか」

「ああ。こんな子、千年ぶりだ」

「千年ぶり?」

「昔、そういう子供がいたんだ。世界の調停者と呼ばれた。全ての属性を調和させ、争いを終わらせる力を持っていた」

「……それは伝説だろう」

「伝説は、いつだって現実から生まれる」


 テラはこの子を俺に返した。俺の腕に戻ってきたこの子は、安心したように目を閉じた。


「アスタロト、この子は特別だ。そして君も、この子に選ばれたんだ」

「選ばれた?」

「この子が君の家の前に置かれたのは、偶然じゃない。きっと、運命だよ」


 運命。

 そんなものを信じたことはなかった。魔王として生きてきた俺は、運命など力で捻じ曲げるものだと思っていた。

 だが――この子は俺の腕の中で、安心したように眠り始めた。俺を信頼しているかのように。


 イグニスが口を開いた。


「ねえ、みんな」


 彼女の声は真剣だった。


「私たち、この子を育てよう。一緒に」

「……何を言っている」

「だって、アスタロト一人じゃ無理でしょ? 私たちも一人じゃ無理だった。でも、みんなでなら」


 アクアが頷いた。


「私も……一緒に育てたい」


 シルフも笑った。


「僕も賛成。久しぶりに、みんなで何かするのも、いいんじゃない?」


 テラが穏やかに言った。


「私も手伝うよ。この子は、きっと私たちに何かを教えてくれる」


 四大精霊が俺を見ている。

 かつての仲間たち。

 千年前、戦場で相対した者たち。

 休戦協定を結び、互いに干渉しないと誓った者たち。


 それが今――一緒に、赤ん坊を育てようと言っている。


 俺は、この子を抱きしめた。

 小さな温もり。

 守らなければならない存在。


「……好きにしろ」


 俺は静かに言った。


「ただし、この子の安全が最優先だ。お前らの力を無闇に使うな。失敗してもいい。だが、学べ」


 イグニスが笑った。


「わかってるよ、アスタロト。この子を守るんでしょ? 任せて」


 アクアが涙を拭いて笑った。


「精一杯、頑張ります」


 シルフが頷いた。


「失敗しながら、学ぶよ」


 テラが穏やかに言った。


「みんなで支え合おう。それが、家族ってものだ」


 家族。

 その言葉が、胸に刺さった。


 千年間、忘れていた言葉。

 いや、最初から知らなかった言葉かもしれない。魔王として生きてきた俺に、家族などいなかった。配下はいた。部下はいた。だが、家族は――。


 こうして、元魔王と四大精霊による、史上最も異様な――そして、最も温かい――育児チームが結成された。


 この子は、五人の顔を順番に見て――そして、とても幸せそうに笑った。


 その笑顔は、まるでこの場を祝福するかのようだった。

 五人は言葉を失った。

 ただ、この小さな奇跡を見つめていた。


 イグニスが、ふと言った。


「ねえ、この子、名前は?」

「……まだない」

「え? ないの?」

「昨夜拾ったばかりだ。名前を考える余裕がなかった」


 アクアが目を輝かせた。


「じゃあ、みんなで考えましょう!」

「そうだね」


 シルフが頷いた。


「大切な子だもの。良い名前をつけてあげないと」


 テラが穏やかに言った。


「名前は、その子の人生を決める。慎重に選ぼう」


 四人が真剣な顔で考え始めた。リビングに、少しの間、静寂が訪れる。


「火にちなんで、フレアとか?」


 イグニスが提案した。


「却下」


 即座に俺が言った。


「なんで!? カッコいいじゃん!」

「お前の趣味が全開すぎる」

「じゃあ、アクアリアは?」


 アクアが提案した。


「却下」

「どうしてですか!? 綺麗な名前だと思うんですけど……」

「お前もだ。水っぽすぎる」


 シルフが笑った。


「エアリスは? 風の精霊らしくて――」

「却下」

「即答!?」


 テラが考え込んだ。


「ガイアは――大地の母という意味で――」

「却下」

「まだ言い終わってないのに!」


 四人が抗議する。俺はため息をついた。


「お前ら、全員自分の属性から名前を選ぼうとするな」

「だって……」


 イグニスがしょんぼりする。


「この子、私たちの属性全部持ってるんだよ? だから……」

「それはわかる。だが、この子はお前らのものじゃない」


 俺はこの子を見つめた。


「この子は、この子だ。誰のものでもない。俺のものでもない。ただ、一緒に生きていく存在だ」


 沈黙が降りた。

 四人が、俺の言葉を噛み締めるように、静かに頷いた。

 そして、テラが静かに言った。


「アスタロト、君はどう思う?」

「……俺か」

「ああ。君がこの子を拾ったんだ。君が名前をつけるべきだよ」


 四人が頷いた。

 俺を見つめている。


 俺は、この子を見た。

 小さな顔。柔らかい肌。虹色に光る瞳。

 この子は、俺を見上げて笑っている。


「……ミオ」


 俺の口から、自然と名前が出た。


「ミオ?」


 イグニスが首を傾げた。


「うん。良い名前」


 アクアが微笑んだ。


「シンプルで、優しい響きだね」


 シルフが頷いた。


「ミオ……未来の子、という意味も込められる」


 テラが穏やかに言った。


 俺は頷いた。


「ミオ。この子の名前だ」


 そう言って、この子――ミオを見つめた。


「ミオ。お前の名前だ。これから、よろしくな」


 ミオは、まるで理解したかのように、笑った。

 その笑顔が、とても幸せそうで。

 俺の胸が、温かくなった。


 イグニスが目を赤くしている。


「ミオちゃん……良い名前だよ」


 アクアは泣いている。


「ミオちゃん……可愛い……」


 シルフが微笑んだ。


「ミオ。これから、よろしくね」


 テラが優しく言った。


「ミオ。みんなで、君を守るよ」


 ミオは、五人の顔を見て、笑った。

 まるで、全てを理解しているかのように。


 窓の外では、朝日が高く昇っている。

 新しい一日が始まった。

 静かだった俺の家は、もう二度と静かには戻らないだろう。


 だが――それでいい。


 千年間の孤独は、今日で終わった。

 腕の中のミオが、そして目の前に立つ四人の仲間たちが、それを教えてくれた。


 これから、どんな日々が待っているのだろう。

 きっと、騒がしくて、大変で、失敗だらけの日々になる。

 だが、それでいい。

 一人ではない。五人で――いや、六人で、ミオを育てていくのだから。


 イグニスがふと呟いた。


「ねえ、アスタロト。千年前、私たち戦場で会った時……まさか、こんな風に一緒に赤ちゃんを育てるなんて、思ってもみなかったよね」


 俺は苦笑した。


「……ああ。あの時は、お前を倒すことしか考えていなかった」

「私もだよ。魔王軍を焼き払うことしか」


 彼女は笑った。だが、その笑顔には温かみがあった。


「でも、今はこんなに平和で。こんなに……幸せで」


 アクアが頷いた。


「千年間、ずっと孤独だったのに。今は、こんなにみんながいる」


 シルフが窓の外を見た。


「きっと、ミオが繋いでくれたんだよ。僕たちを」


 テラが穏やかに言った。


「赤ちゃんには、不思議な力があるんだ。人を繋ぐ力が」


 俺は、ミオを抱きしめた。

 小さな温もりが、腕に伝わってくる。


 本当に、不思議な力だ。

 この小さな存在が、千年間離れていた五人を、こんなに簡単に繋いでしまった。


 これが、家族の始まりだ。

 血の繋がりはない。

 種族も違う。

 出会いも、偶然だった。


 だが――この絆は、本物だ。


 ミオが、小さく「あー」と声を出した。

 その声が、新しい人生の始まりを告げているかのようだった。


 四人が、その声に応えるように、笑顔を見せた。

 俺も――気づけば、笑っていた。


 千年ぶりに、心から。

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