第2話「四大精霊、参上」
朝日が窓から差し込んでくる。
俺――アスタロトは、ソファで目を覚ました。
体が痛い。首も肩も背中も、全身が悲鳴を上げている。かつて三日三晩、敵国の要塞を攻め落とした時でさえ、ここまでの疲労は感じなかった。あの時は魔法の支援があった。回復術師がいた。だが今の俺には何もない。ただ、腕の中にある小さな温もりだけが。
この子だ。
昨夜拾った赤ん坊。魔王マント風のベビー服を着た、小さな生命。一晩中、抱いたまま眠っていた。正確には、眠ろうとする度に泣かれて起こされた。ベッドに寝かせようとしても泣く。少しでも離れようとしても泣く。クッションで囲んで寝かせようとしても泣く。タオルで包んで寝かせようとしても泣く。結局、抱いたままソファに座り、気づけば朝になっていた。
深夜二時、ミルクを飲ませた。
深夜四時、オムツを替えた。
早朝六時、また泣かれて起きた。
そのたびに俺は立ち上がり、ミルクを作り、オムツを替え、この子をあやした。魔王として千年以上生きてきて、こんなに忙しい夜を過ごしたことがあっただろうか。いや、ない。戦場での不眠不休の戦いですら、これほど気が抜けなかった。
時計は午前七時を指している。
この子は穏やかな寝顔で眠っている。長い睫毛が朝日を受けて金色に輝く。その小さな手が、俺のシャツの裾をぎゅっと握っている。
……ああ、離れられないわけだ。
認めるのは癪だが、この寝顔は天使のようだった。魔王が天使を可愛いと思う日が来るとは。
そして思い出す。
昨夜、シルフが来たことを。風の精霊が千年ぶりに姿を現し、他の三人も今日来ると告げたことを。
頭が痛い。
四大精霊――イグニス、アクア、シルフ、テラ。千年前の大戦争で休戦協定を結んで以来、互いに干渉しないという約束で生きてきたはずなのに。
俺は昨夜、何度この子の世話に失敗しただろう。ミルクの温度を間違え、げっぷをさせられず、オムツを前後逆につけ。抱き方がわからず、何度も首がぐらついた。泣き止ませ方がわからず、ただ抱きしめることしかできなかった。千年以上生きてきて、こんなにも無力だと感じたことはなかった。
だが、悪くなかった。
温かかった。
千年間、こんな温もりを感じたことがあっただろうか。戦場での勝利の興奮も、権力の座に就いた時の達成感も、この小さな温もりの前では色褪せて見える。
玄関のチャイムが鳴った。
*
ドアを開けると、爆発的なエネルギーが飛び込んできた。
「おはよう、アスタロト!」
赤髪をショートカットにした褐色肌の女性。消防士の制服を着た、火の精霊イグニス。その背後には炎のような熱気が揺らめいている。
「夜勤明けだから直接来ちゃった! 噂聞いたよ、本当に赤ちゃん拾ったんだって?」
「……声を落とせ。起きる」
「あ、ごめんごめん」
彼女は慌てて口を押さえた。だが目は輝いている。好奇心と興奮が入り混じった、子供のような表情だ。
彼女の背後から、もう一人。
「イグニス、本当にもう。赤ちゃんが起きちゃうでしょう」
水色の長い髪を揺らす、水の精霊アクア。その目は既に潤んでいる。まだ何も見ていないのに、もう涙ぐんでいる。
「アスタロトさん、本当に赤ちゃんを?」
「……ああ」
「可哀想に……」
まだ何も説明していないのに、もう泣きそうだ。彼女の感受性は相変わらず豊かすぎる。
「みんな揃ったね」
風が吹き抜けた。
銀髪の風の精霊シルフが、まるで最初からそこにいたかのように立っている。昨夜と同じ、飄々とした笑みを浮かべて。
「おはよう、アスタロト」
三人の精霊が揃った時点で、俺は諦めた。
「……入れ。静かにしろ」
「やった!」
イグニスが小さくガッツポーズをした。
*
リビングに通すと、三人は息を呑んでこの子を見つめた。
俺はこの子をソファに寝かせる。まだ眠っている。その寝息が、静かな部屋に小さなリズムを刻む。
「……可愛い」
アクアが震える声で呟いた。
「こんなに小さくて……本当に拾ったんですか?」
「昨夜、雨の中、家の前に置かれていた」
「ひどい……」
彼女の目から涙が溢れた。予想通りだ。
イグニスはこの子の服を見て、吹き出した。
「ねえ、これ……魔王軍の正装?」
「……他に服がなかった」
「超似合ってるけど」
シルフが頷いた。
「本当に似合ってる。生まれながらの魔王様って感じ」
三人がこの子を囲んで見つめている。その表情は、驚き、好奇心、そして――優しさに満ちていた。
シルフが真面目な顔になった。
「アスタロト、この子、やっぱり普通じゃないよ」
「……気づいたか」
「風が教えてくれる。微弱だけど、確かに魔力がある」
アクアが涙を拭いた。
「私も調べていいですか?」
「構わん」
彼女は手を近づけ、魔力で生命の本質を読み取り始めた。水の精霊は、生命の流れを読むことに長けている。彼女の手のひらから淡い光が溢れ、この子の体を優しく包む。
数秒後、アクアの顔が驚愕に染まった。
「これ……火、水、風、土、そして闇の属性も」
「闇も?」
イグニスが身を乗り出した。
「闇属性って、魔族か魔王の血統でしか……」
三人の視線が俺に集中した。
「……待て。俺の子供じゃない」
「でも――」
「本当に拾っただけだ」
だが心の奥底で、ほんの少しだけ――そうだったらと思っている自分がいた。この子が俺の血を引いていたら。そうすれば、この子を守る理由が明確になる。だが現実は違う。この子は、ただ俺の家の前に置かれていた、名もなき赤ん坊だ。
シルフが考え込んだ。
「全属性を持つ子供……昔、そういう伝説があったよね」
「世界の調停者、だっけ?」
イグニスが頷いた。
「でもそれって、ただの伝説でしょ?」
アクアが不安そうに言った。
「伝説は、いつだって現実から生まれるんだよ」
シルフはこの子を見つめた。
「この子は特別だ。きっと、何か大きな運命を背負っている」
沈黙が降りた。
この小さな存在の意味を、みんなが考えていた。五つの属性を持つ子供。それが何を意味するのか。なぜ、この子が俺の前に現れたのか。
この子が小さく声を出した。
んー、と。
目覚めの予兆。小さな手が動き、顔がわずかに歪む。
「起きる。ミルクの準備を」
俺は立ち上がった。
「手伝う!」
イグニスが飛び上がった。
「私、料理得意だから!」
嫌な予感がした。
「イグニス、待て――」
「任せて!」
彼女は液体ミルクを哺乳瓶に注ぎ、手のひらに炎を灯した。
戦闘用の火力だ。まずい。
「最適な温度に――」
「やめろ――!」
ぼこぼこぼこ。
ミルクが沸騰した。
「…………」
全員が沈黙した。哺乳瓶の中でミルクが泡立ち、湯気が立ち上っている。
イグニスは固まっていた。
「あれ? いつもこれくらいの火力で……」
「お前の『いつも』は一般的な人間の三倍の火力だ」
俺はため息をついた。
「赤ん坊のミルクは40度だ。沸騰させてどうする」
「ご、ごめん……」
彼女の声は小さくなった。消防士として、いつも強い火と向き合っている彼女にとって、この繊細な温度調整は難しいのだろう。
新しいミルクを用意する。
今度は俺が温める。魔力で温度を感知しながら、慎重に。
38度――39度――40度。完璧だ。
この子を抱き上げる。
首の後ろを支えて、体を安定させて。もう迷いはない。一晩の試行錯誤が、俺に技術を与えてくれた。
この子は俺を見上げて、小さく笑った。
哺乳瓶を咥えさせる。
ちゅぱちゅぱと吸い始めた。小さな手が哺乳瓶を掴もうとしている。まだ上手く掴めないが、その仕草が愛おしい。
「……すごい」
アクアが感動した声を出した。
「アスタロトさん、一晩でそこまで……」
「……昨夜、何度も失敗したからな」
「でも……」
彼女の目がまた潤んでいる。
「元魔王が、赤ちゃんを……こんなに優しく……」
「泣くな」
イグニスも目を赤くしている。
「あんた、本当に……変わったね」
「何も変わっていない」
「変わったよ。千年前のあんたは、こんな顔しなかった」
「……どんな顔だ」
「優しい顔。パパの顔だよ」
俺は何も言えなかった。鏡を見ていないから、自分がどんな顔をしているのかわからない。だが、この子を見つめていると、自然と顔が緩んでしまうのは自覚している。
*
ミルクを飲み終えた後、げっぷをさせる段になって。
「今度は私に!」
イグニスが飛び出した。
「さっきの失敗を取り返したい!」
その目は真剣だった。負けず嫌いな性格は、千年前から変わっていない。
「……いいが、優しくだぞ」
俺はこの子を彼女に渡した。
イグニスは本当に慎重に、この子を抱き上げた。大きな手で、小さな体を包み込むように。
「よし……背中をトントンして……」
ばんばんばん。
「痛いだろそれ!」
俺は慌てて止めた。
「え!? これくらいの強さで肩叩きしてるのに!」
「だからお前の基準は一般的じゃないんだ!」
「ご、ごめん……」
イグニスはしょんぼりと俯いた。
「……わからないんだ」
彼女が小さく呟いた。
「私、ずっと一人で生きてきたから。誰かを――こんなに小さい誰かを、守るなんて」
その言葉に、誰も何も言えなくなった。
ああ、そうか。
お前もか。
お前も、ずっと一人だったのか。
火の精霊として生まれ、その力の強さゆえに、周囲から恐れられてきた。大戦の時は人間側で戦い、魔王軍を何度も焼き払った。だが戦いが終わった後、彼女は一人になった。力が強すぎて、誰も近づいてこなくなった。
俺は静かにこの子を受け取り、正しい強さで背中を叩いた。
とんとんとん。
げふっ。
「……こうだ」
「うん……」
イグニスは真剣な目で見つめていた。
「教えて。ちゃんと」
俺は頷いた。
「……ああ」
*
オムツ交換の時間になった。
「これは私が」
アクアが手を挙げた。
「水の精霊として、清潔さには絶対の自信があります」
「……頼む。ただし、水を使いすぎるな」
「大丈夫です」
アクアはこの子を寝かせ、汚れたオムツを外した。
そして、彼女の顔が固まった。
「……汚い」
「アクア?」
「こんなに……」
潔癖症が発動したらしい。彼女の手が微かに震えている。
「おしりふきじゃ足りない……完全に除菌しなきゃ……」
「落ち着け、アクア」
「水で……清潔な水で……」
彼女の手のひらに水球が形成され始めた。まずい。
「待て、アクア、それは――」
「清潔に!」
ざばああああん。
全員がびしょ濡れになった。リビング全体が水浸しになり、床も壁も天井も、全てが濡れている。
この子は――きゃっきゃっと笑っていた。冷たい水を浴びて、楽しそうに笑っている。
「ご、ごめんなさい!」
アクアが泣きそうな顔をしている。
シルフが呆れた。
「アクア、加減って言葉知ってる?」
「知ってます! でも、つい……」
彼女は本当に申し訳なさそうだ。
俺はため息をついて、この子を拭いた。冷たい水に濡れているのに、この子は笑っている。
「……まあ、いい。この子は喜んでいる」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、次からは加減しろ」
「はい……」
床を拭き、この子に新しい服を着せ、オムツを交換した。もう慣れたものだ。一晩で何度も繰り返したおかげで、手際が良くなっている。テラが持ってきてくれた新しいベビー服は、ちょうど良いサイズだった。淡い青色の、可愛らしいデザイン。魔王マントよりは、ずっと赤ん坊らしい。
「すごい……」
アクアとイグニスが尊敬の眼差しで見ている。
「アスタロトさん、一晩でこんなに上手に……」
アクアが感心した様子で言う。
「俺だって最初は失敗ばかりだった」
俺は正直に答えた。
「何度もミルクをこぼし、オムツを逆につけ、泣き止ませられなかった。だが、この子が教えてくれたんだ」
「教えてくれた?」
イグニスが首を傾げた。
「ああ。泣き方で、何を求めているのかがわかるようになった。お腹が空いているのか、オムツが濡れているのか、ただ抱っこしてほしいのか」
この子を見つめながら、俺は続けた。
「赤ん坊は、ちゃんと伝えてくるんだ。俺たちが、ちゃんと聞こうとすれば」
四人が、静かに頷いた。
シルフが静かに言った。
「ねえ、アスタロト」
「何だ」
「私たち、ダメだね」
彼は自嘲するように笑った。
「千年以上生きて、強大な力を持っているのに。こんなに小さい子一人、上手に扱えない」
「……当然だ。お前らは人間の子供を育てたことがない」
「あんただってないでしょ?」
「ああ。だが学んでいる。失敗しながら」
「失敗……か」
シルフは、この子を見つめた。
「千年間、私たち、失敗を恐れて生きてきたのかもね。力が強すぎるから。間違えたら大変なことになるから。だから、誰とも深く関わらなかった」
イグニスが小さく言った。
「……私も、怖かったんだ。また誰かを傷つけるのが。だから、一人でいた方が楽だって」
「私も……」
アクアが涙を拭いた。
「誰かと一緒にいたら、また失うのが怖くて……」
ああ、そうか。
俺だけじゃなかったのか。
お前らも、ずっと――孤独だったのか。
重い、でもどこか優しい沈黙が降りた。千年間、それぞれが抱えてきた孤独。力があるがゆえに、誰とも深く関われなかった日々。
シルフが静かに言った。
「千年間、ずっと思ってたんだ。誰かと一緒にいたいって」
その声は、いつもの軽さがなかった。
「でも、怖かったんだよね。風の精霊として、僕の力は制御が難しい。少し気を抜けば、台風になる。竜巻になる。だから、いつも一人でいた方が安全だって」
イグニスが頷いた。
「私も……炎は、すぐに広がるから。誰かと近くにいると、いつか傷つけるんじゃないかって」
彼女の声は震えていた。
「昔、友達がいたんだ。人間の女の子。でも、ある日――私が怒った時、炎が制御できなくて……」
それ以上、彼女は言えなかった。ただ、手を握りしめているだけだった。
アクアが涙を拭いた。
「私も……大切な人を失いました。水の精霊として、生命を守る力があるはずなのに。あの時、私は何もできなかった」
彼女の涙が、止まらなくなった。
「それから、誰かと深く関わるのが怖くて。また失うくらいなら、最初から一人でいた方がいいって」
四人の告白を聞いて、俺は自分の千年を思い返した。
魔王として君臨し、恐れられ、孤独だった日々。配下はいた。だが、誰も俺の心には触れなかった。俺も、誰の心にも触れようとしなかった。それが安全だったから。傷つかないから。
この子だけが、無邪気に「あー」と声を出している。その声が、重い空気を少しだけ和らげる。小さな手が俺のシャツを握りしめている。この子は、俺たちの過去も力も何も知らない。ただ、ここにいる。無防備に、信じて。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
*
ドアを開けると、巨漢が立っていた。
身長190センチ、がっしりとした体格。だが顔は穏やかだ。優しい目をしている。
土の精霊、テラ。
「久しぶり、アスタロト」
その低い声は落ち着いていた。大地のように、どっしりとしている。
「シルフから連絡をもらった。赤ちゃんの世話、大変だろうと思って」
両手には大きな紙袋。中にはベビー服、オムツ、ミルク、おもちゃ。全て新品で、サイズも月齢に合わせて選ばれている。
「……なぜここまで」
「困った時は、お互い様だろう?」
テラは穏やかに笑った。
リビングに入ると、テラは濡れた床や壁を見て、小さく笑った。
「やっぱり、大変だったみたいだね」
「……アクアがやった」
「僕のせいです……」
アクアが申し訳なさそうに言う。
テラは優しく首を振った。
「大丈夫。最初はみんな失敗するものだよ。僕も保育園で、最初の一ヶ月は毎日何かしら失敗してた」
「テラさんが?」
イグニスが驚いた声を出した。
「そう。力加減がわからなくて、積み木の塔を一瞬で崩したり、砂場で本気の要塞を作って子供たちを驚かせたり」
彼は穏やかに笑った。
「でも、子供たちが教えてくれたんだ。『テラせんせい、もっとやさしくだよ』って」
その言葉に、三人が顔を上げた。
「失敗していいんだよ。大切なのは、そこから学ぶこと。そして、何より――この子を愛することだ」
テラはこの子を一目見て、柔らかい表情になった。
「可愛い子だ。抱いていいかい?」
「……ああ」
テラはこの子を抱き上げた。
その手つきは完璧だった。首を支え、体を安定させ、優しく包み込む。まるで何百回も赤ん坊を抱いてきたかのような、自然な動作。
この子は、テラの腕の中で安心したように笑った。
「なぜお前はそんなに上手いんだ」
「保育園で毎日やってるからね」
テラはこの子をあやしている。大きな手で、優しく揺らしている。
「赤ちゃんは、安心できる人をすぐに見分けるんだ。力の強さじゃなくて、心の優しさを」
彼はこの子を見つめた。
「面白い子だね。全属性を持ってる」
「やはりわかるか」
「ああ。こんな子、千年ぶりだ」
「千年ぶり?」
「昔、そういう子供がいたんだ。世界の調停者と呼ばれた。全ての属性を調和させ、争いを終わらせる力を持っていた」
「……それは伝説だろう」
「伝説は、いつだって現実から生まれる」
テラはこの子を俺に返した。俺の腕に戻ってきたこの子は、安心したように目を閉じた。
「アスタロト、この子は特別だ。そして君も、この子に選ばれたんだ」
「選ばれた?」
「この子が君の家の前に置かれたのは、偶然じゃない。きっと、運命だよ」
運命。
そんなものを信じたことはなかった。魔王として生きてきた俺は、運命など力で捻じ曲げるものだと思っていた。
だが――この子は俺の腕の中で、安心したように眠り始めた。俺を信頼しているかのように。
イグニスが口を開いた。
「ねえ、みんな」
彼女の声は真剣だった。
「私たち、この子を育てよう。一緒に」
「……何を言っている」
「だって、アスタロト一人じゃ無理でしょ? 私たちも一人じゃ無理だった。でも、みんなでなら」
アクアが頷いた。
「私も……一緒に育てたい」
シルフも笑った。
「僕も賛成。久しぶりに、みんなで何かするのも、いいんじゃない?」
テラが穏やかに言った。
「私も手伝うよ。この子は、きっと私たちに何かを教えてくれる」
四大精霊が俺を見ている。
かつての仲間たち。
千年前、戦場で相対した者たち。
休戦協定を結び、互いに干渉しないと誓った者たち。
それが今――一緒に、赤ん坊を育てようと言っている。
俺は、この子を抱きしめた。
小さな温もり。
守らなければならない存在。
「……好きにしろ」
俺は静かに言った。
「ただし、この子の安全が最優先だ。お前らの力を無闇に使うな。失敗してもいい。だが、学べ」
イグニスが笑った。
「わかってるよ、アスタロト。この子を守るんでしょ? 任せて」
アクアが涙を拭いて笑った。
「精一杯、頑張ります」
シルフが頷いた。
「失敗しながら、学ぶよ」
テラが穏やかに言った。
「みんなで支え合おう。それが、家族ってものだ」
家族。
その言葉が、胸に刺さった。
千年間、忘れていた言葉。
いや、最初から知らなかった言葉かもしれない。魔王として生きてきた俺に、家族などいなかった。配下はいた。部下はいた。だが、家族は――。
こうして、元魔王と四大精霊による、史上最も異様な――そして、最も温かい――育児チームが結成された。
この子は、五人の顔を順番に見て――そして、とても幸せそうに笑った。
その笑顔は、まるでこの場を祝福するかのようだった。
五人は言葉を失った。
ただ、この小さな奇跡を見つめていた。
イグニスが、ふと言った。
「ねえ、この子、名前は?」
「……まだない」
「え? ないの?」
「昨夜拾ったばかりだ。名前を考える余裕がなかった」
アクアが目を輝かせた。
「じゃあ、みんなで考えましょう!」
「そうだね」
シルフが頷いた。
「大切な子だもの。良い名前をつけてあげないと」
テラが穏やかに言った。
「名前は、その子の人生を決める。慎重に選ぼう」
四人が真剣な顔で考え始めた。リビングに、少しの間、静寂が訪れる。
「火にちなんで、フレアとか?」
イグニスが提案した。
「却下」
即座に俺が言った。
「なんで!? カッコいいじゃん!」
「お前の趣味が全開すぎる」
「じゃあ、アクアリアは?」
アクアが提案した。
「却下」
「どうしてですか!? 綺麗な名前だと思うんですけど……」
「お前もだ。水っぽすぎる」
シルフが笑った。
「エアリスは? 風の精霊らしくて――」
「却下」
「即答!?」
テラが考え込んだ。
「ガイアは――大地の母という意味で――」
「却下」
「まだ言い終わってないのに!」
四人が抗議する。俺はため息をついた。
「お前ら、全員自分の属性から名前を選ぼうとするな」
「だって……」
イグニスがしょんぼりする。
「この子、私たちの属性全部持ってるんだよ? だから……」
「それはわかる。だが、この子はお前らのものじゃない」
俺はこの子を見つめた。
「この子は、この子だ。誰のものでもない。俺のものでもない。ただ、一緒に生きていく存在だ」
沈黙が降りた。
四人が、俺の言葉を噛み締めるように、静かに頷いた。
そして、テラが静かに言った。
「アスタロト、君はどう思う?」
「……俺か」
「ああ。君がこの子を拾ったんだ。君が名前をつけるべきだよ」
四人が頷いた。
俺を見つめている。
俺は、この子を見た。
小さな顔。柔らかい肌。虹色に光る瞳。
この子は、俺を見上げて笑っている。
「……ミオ」
俺の口から、自然と名前が出た。
「ミオ?」
イグニスが首を傾げた。
「うん。良い名前」
アクアが微笑んだ。
「シンプルで、優しい響きだね」
シルフが頷いた。
「ミオ……未来の子、という意味も込められる」
テラが穏やかに言った。
俺は頷いた。
「ミオ。この子の名前だ」
そう言って、この子――ミオを見つめた。
「ミオ。お前の名前だ。これから、よろしくな」
ミオは、まるで理解したかのように、笑った。
その笑顔が、とても幸せそうで。
俺の胸が、温かくなった。
イグニスが目を赤くしている。
「ミオちゃん……良い名前だよ」
アクアは泣いている。
「ミオちゃん……可愛い……」
シルフが微笑んだ。
「ミオ。これから、よろしくね」
テラが優しく言った。
「ミオ。みんなで、君を守るよ」
ミオは、五人の顔を見て、笑った。
まるで、全てを理解しているかのように。
窓の外では、朝日が高く昇っている。
新しい一日が始まった。
静かだった俺の家は、もう二度と静かには戻らないだろう。
だが――それでいい。
千年間の孤独は、今日で終わった。
腕の中のミオが、そして目の前に立つ四人の仲間たちが、それを教えてくれた。
これから、どんな日々が待っているのだろう。
きっと、騒がしくて、大変で、失敗だらけの日々になる。
だが、それでいい。
一人ではない。五人で――いや、六人で、ミオを育てていくのだから。
イグニスがふと呟いた。
「ねえ、アスタロト。千年前、私たち戦場で会った時……まさか、こんな風に一緒に赤ちゃんを育てるなんて、思ってもみなかったよね」
俺は苦笑した。
「……ああ。あの時は、お前を倒すことしか考えていなかった」
「私もだよ。魔王軍を焼き払うことしか」
彼女は笑った。だが、その笑顔には温かみがあった。
「でも、今はこんなに平和で。こんなに……幸せで」
アクアが頷いた。
「千年間、ずっと孤独だったのに。今は、こんなにみんながいる」
シルフが窓の外を見た。
「きっと、ミオが繋いでくれたんだよ。僕たちを」
テラが穏やかに言った。
「赤ちゃんには、不思議な力があるんだ。人を繋ぐ力が」
俺は、ミオを抱きしめた。
小さな温もりが、腕に伝わってくる。
本当に、不思議な力だ。
この小さな存在が、千年間離れていた五人を、こんなに簡単に繋いでしまった。
これが、家族の始まりだ。
血の繋がりはない。
種族も違う。
出会いも、偶然だった。
だが――この絆は、本物だ。
ミオが、小さく「あー」と声を出した。
その声が、新しい人生の始まりを告げているかのようだった。
四人が、その声に応えるように、笑顔を見せた。
俺も――気づけば、笑っていた。
千年ぶりに、心から。
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