後編
右腕の包帯が徐々に取れていくと、その下には乾いた茶色い皮膚が露わになった。傷跡は深く、しかし、不思議と何の痛みも伴わなかった。まるで、この傷が僕のものではないかのように。
僕は家に閉じこもった。学校に行く理由もなければ、外に出る気力もない。家族は僕を避けるように生活している。食卓では互いに目線も合わせず、ただそれぞれの皿を見つめている。会話はなく、食器の触れる音だけが虚しく響く。
ある日、自室のベッドでぼんやりとしていると、母親がいきなり部屋に入ってきた。その手には、まるで汚れた物でも扱うかのように、僕の衣服が握られている。
「……これ、あんたのよね」
それは、記憶にない黒いパーカーだった。袖口には、乾いた血痕のようなものがこびりついている。僕が怪我をした覚えもない。母親は汚物を見るような目で僕のパーカーを床に投げつけると、そのまま出て行ってしまった。残された僕は、ただそのパーカーを見つめる。
心は依然として灰色だ。恐怖も、悲しみも、怒りも、何一つ湧き上がってこない。ただ漠然と、また何かを壊してしまったのか、という空虚な予感だけが胸の奥に漂う。
郵便受けには、毎日無言電話が増えていった。差出人不明の封筒の中には、僕の顔写真が切り抜かれた紙や、誰かの断末魔のような叫び声だけが録音されたカセットテープが入れられていた。
僕を責める声、悲鳴、そして怨嗟。それらは僕の耳を通り抜け、何一つ心に届かない。
家族からの視線はますます冷たくなり、食事の際も僕の皿だけが、常にテーブルの端に置かれるようになった。妹の千紗は、僕が近くを通るだけで、びくっと肩を震わせる。その反応を見るたびに、また自分は何かを「された」のではなく、何かを「した」のだと、他人の行動を通してぼんやりと認識する。
夕暮れ時、僕はいつものように居間で一人でいた。テレビからはニュースが流れている。画面に映し出されたのは、僕の住む街の郊外にある古い廃ビルの映像だった。
『……先月発生した連続失踪事件に関して、新たな進展がありました。遺体で発見された被害者の一人、高校生の上田由乃さんの衣服から検出されたDNAが、事件に関与したとみられる容疑者のものと一致したことが判明しました。警察は、近く容疑者を特定し、逮捕に踏み切る方針です』
「特定」という言葉が、妙に引っかかった。そして、また「由乃」という名前。
その時、僕の視界が歪んだ。頭の中に、一瞬、激しい閃光が走った。 白い服の女性。夜の廃ビル。暗闇に響く叫び声。 そして、赤黒い、ぬるりとした感触。 手が、汚れている。 誰かの、悲鳴。
僕は吐き気を催し、口元を押さえた。だが、喉から出るのは、音も感情も伴わない、ただ乾いた呼吸音だけだった。
すべてが無色透明だった僕の心に、初めて黒い影が落ちた。それは恐怖なのか、絶望なのか、それとも、もっと深い、名状しがたい何か。
テレビの画面には、由乃の笑顔の写真が映し出されていた。その笑顔が、僕の脳裏に焼き付く、あの白い服の女性の面影と重なる。
僕の右手は、震えていた。あの赤黒い染みが、今までにないほど深く、鮮明に皮膚に刻み込まれているように見えた。それは、僕が誰かを傷つけ、誰かの命を奪った、まごうことなき証だった。
玄関のドアを叩く音が響く。 警官の声がする。「開けてください!警察です!」 家族は、奥の部屋に隠れるように押し黙っていた。
「……ああ」
僕は、やっと、すべてを理解した。この灰色の世界は、僕自身が作り出した地獄だったのだ。そして、この空白の記憶は、僕が自分自身を守るために作り出した、薄っぺらな壁だった。
記憶が戻っても、感情はまだ追いつかない。僕の心は、相変わらず空っぽのままだ。しかし、目の前の現実は、僕に逃げ場を与えない。
僕はゆっくりと立ち上がり、ドアの方へと歩き出した。
灰色の器は、ついにその中身を受け入れる時を迎えた。それは、決して美しいものではなく、醜悪で、冷たく、そして、拭い去れない罪の記憶だった。
ドアの向こうには、僕自身が壊し続けた世界が、静かに待ち構えている。 僕は、ただ、空白の顔で、その扉を開ける。
【完結】灰色の器 瀬戸川清華 @Setogawaseika
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