第45話 【異伝】 白村江 4

 その日の宗像神社は、朝から妙な慌ただしさに包まれておりました。

 博多を中心とする西国交易の守護神、宗像三女神様を祀るこの地に、珍しい来客があるというのです。

 神職たちが走り回る中、のそのそと現れたのは――


「いやはや……まさかここまでやらかすとはね。まいったまいった。」


 力なく笑う、事代主様でした。

 タゴリヒメ様やタギツヒメ様から「歩く酒樽」と揶揄されつつも頼られる、小太りでのんきな神さま。しかし、この時ばかりは笑いの奥に深い憂いが隠れていました。


「笑っている場合ですか。」


 イチキシマヒメ様が不機嫌さを隠さず、鋭く指摘します。


「対馬への補給にと準備していた物資や兵員、船団の大半が徴用されました。これでは防衛体制が崩れます。」


 イチキシマヒメ様が不機嫌なのは無理もありません。先の神謀りで宗像・対馬・鎮西の神々が協力して防衛準備を整えていた矢先、物資や兵員に船団までがそっくり百済救援に持っていかれたのです。その結果、鎮西はおろか畿内に至るまで西国のほとんどが軍事的空白地帯となってしまい、対馬への増援どころではなくなってしまったのです。


「まあまあ。出雲でも船と軍の再編成を急いでいます。瀬戸内は西宮神社のヒルコ様に、造船と補給網の再整備をお願いしておきました。申し訳ないですが、鎮西でも輸送網の再構築をお願いいたします。」


 事代主様のあまりにあっさりした口調に、イチキシマヒメ様は眉を吊り上げました。


「つまり……負ける可能性が高い、ということですか?」

「海上戦なら、負けますね。陸なら多少は粘れるでしょうが。」

「どうあがいても負ける、という意味ではないですか。」


 イチキシマヒメ様の声が震えました。つい先日、千隻に及ぶ大船団が送り出されたばかりなのです。まだ始まったばかりの段階で「敗戦」と口にするなど、にわかには信じ難いことでした。まして兵員には鎮西で集められた若者たちが多く含まれております。イチキシマヒメ様にとって、彼らは自らの子どもに等しい存在なのです。


「理由を聞いても、よろしいですか。」

「まず――」


 事代主様は指を折りながら言いました。


「日の本の船は、人や荷を運ぶだけの船です。一方で唐は水上戦の経験豊富。戦闘特化の船を出してきます。海で戦えば、一方的に沈められます。」


 イチキシマヒメ様は返す言葉をなくしました。西海の守護神・宗像三女神様は海を熟知しておられます。しかし、唐の水上戦用の船に関する知識まではさすがに無く、事代主様の豊富な知識と幅広い情報量、分析精度の高さを思い知らされたのです。


「次に補給。百済国内は長年の戦で物資が枯渇しています。遠征軍が上陸しても、百済での補給は困難な状態。対して唐は海を制すれば、いくらでも本国から運べます。これを阻止するのは……まあ、不可能でしょうね。」

「……。」

 イチキシマヒメ様の沈黙は、敗北の確信そのものでした。


「では再編成を急ぐのは、増援のためではなく……?」

「ええ。対馬との補給線の確保、それから敗残兵と避難民を運ぶためですよ。それに、徴用された船は戻りませんから、補充は必須です。」

「……はあ。やっと整えたのに。」

「こちらも同様です。ヒルコ様も『めまいがする』と言ってました。」

「はあ……。」


 イチキシマヒメ様は深い深いため息をもらしました。

 その横で、タゴリヒメ様とタギツヒメ様の二柱が代わりに尋ねます。


「ねえ事代主さん。じゃあ、これからどうなるの?」

「鎮西が戦場になっちゃうの?」


 事代主様は、いつもの飄々とした声で答えました。


「そうならないように、今から準備をしているんですよ。」


 そして、今度は指を一本ずつ上げてゆきます。


「海岸線の監視網の強化。対馬の要塞化。物資の確保。兵の再動員。輸送網の整備。特に博多から瀬戸内を通って難波宮を繋ぐ補給線は最重要です。山陰から北陸の監視網は出雲にお任せあれ。」


 淡々と語りながら、しかしその目には鋭い光が宿っていました。


「救援軍が破れても、この備えを見せれば、唐も新羅も軽挙妄動はできません。その上で、諜報と外交で侵攻を思いとどまらせるのです。」


 三女神様はその時、思い知らされたのです。

 のんきで酒好き、時にはからかいの対象だったこの小太りの神さまが、最悪の事態を既に読み切り、動き出しているのだと。


 その数日後、前線からの急使が大宰府を通して宗像に駆け込みました。


「百済より急報です!海上戦にて……白村江において、我が国の船団が、壊滅しました!!」


 その声は境内に響き渡り、三女神様は言葉を失いました。

 事代主様は、目を閉じて静かに呟きました。


「……来るべきものが、来ましたね。」

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