第44話 【異伝】 白村江 3

 さて、出雲で神謀りが開かれて、国津神たちが激論を交わしていたころ……

 大和朝廷は、いまだ混乱の渦中にありました。

 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を排したあの政変からまだ日は浅く、新政権の中心となった鎌足は、豪族の利害調整、各大臣の配置、官僚機構の整備、外交関係の組みなおしと、寝る間も惜しんで奔走する状態が続いていたのです。

 おまけに皇族内部では孝徳天皇と中大兄皇子が対立し、孝徳天皇お一人を難波宮に残され、皇太后や皇族どころか皇后までが中大兄皇子とともに飛鳥へ移るという異常事態が発生し、鎌足は混乱の火消しと制度再構築を同時に進める、という無茶な作業に追われていたのです。

 そんなある晩。

 疲れ切った鎌足が床についたとき、その夢は静かに始まりました。


『鎌足よ。韓半島の情勢が近く激変するやもしれぬ。日の本がその衝撃に耐えうるよう、軍備と情報収集を急げ。』


 鈴の音のように透き通った声。そして姿を見せたのは、天津神の導き手・猿田彦様。夢とも現実ともつかぬ光景の中で、鎌足は直感しました。「これは高天原の指令だ」と。


「よりにもよって……こんな時にか……。」


 蘇我氏が長年担ってきた対外情報網は、政変によって瓦解。新たに組織し直した諜報網は、まだ歩き始めたばかり。軍備も制度も、再整備の途中。

 だが……


「先に予兆を与えられたのだ。ならば、動かねばならん……。」


 鎌足は従来の政務に加えて、軍制改革と情報網の再構築にも着手しました。

 しかし、それらが軌道に乗る前に、最悪の急報が大和に届いたのです。


「百済が滅びた。」

 

 唐と新羅の連合軍に攻められ、百済は陥落。

 長年の友邦にして外交の要であった百済の滅亡は、朝廷に激震を走らせました。

 さらに続いて飛び込んだのは――


「百済の将・鬼室福信がなお抵抗を続けており、救援を乞うております!」


 救援要請の使者の言葉は、宮廷の空気を一気に救援へと傾けていきました。

 その流れを鎌足は必死に制止します。


「兵も船も不足しております。まして、唐王朝との衝突は我が国の力では危険すぎます。いま動くべきでは――」

「長年の友邦であった百済を、見捨てるというのか!」


 鎌足の声を遮るかのように、宮廷を震わせるような叫び声が上がりました。

 百済の王族、扶余豊璋です。

 かつて百済国内の後継争いに敗れ、大和に身を寄せていた亡命の王子です。


「唐と新羅は、我が民を塗炭の苦しみに追いやっている!どうか……どうか百済を救ってくれ!」


 その涙の訴えは、皇太子・中大兄皇子の胸を激しく揺さぶりました。


「豊璋殿を救い、百済を再興する。これは日の本の義である!」


 中大兄皇子の声が、宮廷を一気に動かしました。

 皇太子の言葉が出た以上、これ以上の発言ができません。鎌足は胸中で嘆息しました。


 (最悪だ……。なんという間の悪さだ。)


 軍備も情報も未だ未整備。防衛計画も整っておらず、その上百済への遠征ともなれば、西国の物資と防衛戦力のほとんどを動員しなければならないのです。

 苦渋に満ちた鎌足の顔を見て、中大兄皇子が小声で呼びかけました。


「鎌足。お前はまだ反対か?」

「恐れながら、軍備は未整備。唐と戦うのは――」

「心配性よ。唐は遠征軍だ。長くは留まれぬ。新羅との連携を断ち、あとは持ちこたえれば帰還せざるを得ない。むしろ百済を属国化する好機だ。」


 しかしもはや止められません。

 大和朝廷は西国の豪族を動員し、船を集め、人を集め、急ごしらえながらも前代未聞の大船団を作り上げました。

 千隻に及ぶとも記される、巨大な船団。その先に待つのは、栄光か、破滅か。

 こうして、大和朝廷は百済救援へと踏み出したのです。

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