第46話 【異伝】 白村江 5
筑前・朝倉宮。
百済救援を決めて以来、大和朝廷はこの朝倉宮を臨時の宮として構え、前線司令部を兼ねた体制を整えていました。
とはいえ、先日には千隻を超える大船団を百済へ派遣し終えたので、これで百済の復興は成り、韓半島における日の本の権益も確保できる──誰もがそう信じはじめ、宮廷内の空気も安堵に満ちたものとなりつつあった、その矢先でした。
「……敗北、だと?」
白村江での敗戦の急報が、大宰府から朝倉宮へ駆け込んできたのです。
その場にいた者で、これを予見していたのはただ一人、中臣鎌足だけでした。
「待て。敗戦はわかった。しかし船団が壊滅したのではなく、一時退却した、そういうことではないのか?」
中大兄皇子が必死に状況をつかもうと問います。しかし急使は蒼白のまま首を振り、口を震わせながら告げました。
「……船団の半数以上が、唐・新羅の火攻めにより焼き払われました。退却ではなく……壊滅です。」
「陸に上がった軍勢も敗れ、いまは百済の残兵と合流して城塞に籠っておりますが……補給の道も断たれております。」
朝倉宮に重苦しい沈黙が落ちました。圧倒的敗北どころではなく、遠征軍の消失と呼ぶべき惨状だったからです。
(……ここまでとは思わなかった。)
中臣鎌足の顔には苦悶が滲んでいました。
国力の大半を投じて整えた兵と船が、ほとんど戻らぬまま灰燼と化したのです。西国の兵糧も武具も、徴発した兵員も船舶も、すべて一気に失われました。
(今回の徴用で、西国の防衛力は文字どおり消失した。海岸の警備もままならぬ。船も無い、兵も無い、武具も無い……まさに丸裸だ。)
もし唐・新羅の連合が報復を目的に日本への侵攻を仕掛ければ、鎮西はおろか畿内すら危うい。この現実に、朝臣たちの顔は青ざめ、誰ひとり言葉を発することができません。
しかしその中でただ一人、鎌足だけは、毅然とした態度で前を向きました。
「皇子。……ただちに畿内へお戻りください。」
「なに……?」
中大兄皇子の目が大きく見開かれる。
だが鎌足は一歩も退かず、国の未来を見据える目で続けました。
「畿内で、国家そのものの再編を始めます。鎮西から畿内までの防衛線を引き直し、東国より兵を集め、西国へ送り込む体制を整えるのです。」
それは、国家の骨組みを根底から組み直す作業。かつて南淵請安の学習塾で共に学び、二人で夢見た理想国家の建築。最悪の事態となった今だからこそ、成し遂げなければならない──鎌足の顔には、不退転の決意が現れていました。
中大兄皇子は唇を噛み、青ざめた顔のままうなずくしかありませんでした。
白村江の敗北。
この瞬間から、日の本は未曽有の「国家再編成の時代」へと歩を進めることになるのです。
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