第5話 豊穣の地

 素戔嗚尊は、倒れ伏す八岐大蛇の巨体を背に、地に剣を突き立て、肩で息をしていました。

 まさに満身創痍。その身には無数の傷が刻まれ、立つのもやっと。それでも、彼の瞳には確かな光がありました。

「……守ったぞ、娘御。守ったぞ、優しき民たちよ……」


 八岐大蛇の毒にまみれ、黒く枯れ果てた、仁多郡の山河。

 草も木も息をひそめ、川は濁り、風すら吹かず。

 空には暗雲が垂れ込め、地には毒霧が漂う。

 そこは、生命の気配さえ絶えた、穢れに満ちた地となっていました。


 そのとき、素戔嗚尊はふと気づきました。懐にある布包みの中にある鏡が、朧げに光を放っていたのです。

 不思議に思い、彼は布を開き、その鏡を取り出しました。

 すると鏡は、たちまち強い光を放ちはじめ、鏡の中に、ある風景が映し出されました。それは――八岐大蛇が現れる以前の、本来の仁多郡の姿でした。


 緑なす山、澄みわたる川、花咲く野原。

 豊かな命に満ちあふれ、草木は伸び、鳥はさえずり、川はきらめく。

 まさに神の国・出雲にふさわしい大地の記憶でした。


 鏡の光はさらに強さを増し、やがて爆ぜるように、白き閃光が仁多郡一帯を包みました。


 ……静まりかえっていた谷間に、優しい風が、そよぎ。

 黒く染まった大地に、そっと一輪の花が咲き。

 濁った川の水は、少しずつ澄みはじめ。

 空を覆う黒い雲は流れはじめ、地に漂う毒霧は薄まり。

 仁多郡に満ちていた穢れは、徐々に清められていきました。


 やがて――

 大地がざわめき、草が芽吹き、一本、また一本と緑が息を吹き返しはじめました。

 緑豊かな山が蘇り、川は清く流れ、空は澄み渡り、風は再びこの地をめぐる。

 鏡の光に照らされた仁多郡は、ようやく、真なる姿を取り戻したのです。

 緑がきらめく豊饒の大地を。

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