第2話「氷の騎士団長は、不器用な獣」
カイ・ヴァレンシュタインとの遭遇という想定外の出来事に肝を冷やしたものの、夜会はその後、何事もなく終わりを告げた。
俺は誰にも声をかけられることなく、アシュフィールド家の隅っこにいる三男坊として、ひっそりと役目を終えたのだ。
これでいい。
これで、ゲームのシナリオから少しでも外れることができるはずだ。
安堵のため息をつきながら、俺は領地へと戻る馬車の中で眠りについた。
しかし、俺のそんな淡い期待は、数日後にあっさりと打ち砕かれることになる。
「騎士団長閣下が、アシュフィールド領の視察に?」
父の言葉に、俺は耳を疑った。
カイ・ヴァレンシュタインが、なぜこんな辺境の、没落寸前の男爵領にわざわざ視察に来るというのか。
しかも、アポイントなしの突然の訪問だという。
「理由はわからん!だが、騎士団長閣下直々のご訪問だ。粗相のないようにしろ!」
父は慌てふためき、母や兄たちも大騒ぎだ。
屋敷中を駆け回り、なけなしの金で揃えたのであろう茶器や絨毯を引っ張り出している。
だが、そんな付け焼刃の歓迎が、あの氷の騎士団長に通用するとは思えなかった。
俺は半ば諦めに似た気持ちで、いつものように厨房に立っていた。
どうせ俺にできることなど、食事の準備くらいしかない。
前世の知識を活かして作った、芋のポタージュとハーブを練り込んだパン。
そして、この領地で唯一の特産品になりつつある、甘酸っぱいベリーを使ったジャム。
これが、今のアシュフィールド家で出せる最高のもてなしだった。
やがて、屋敷の前に数頭の馬が到着する音が聞こえてきた。
玄関から父の甲高い声が響く。
俺は厨房の小窓から、そっと外の様子をうかがった。
純白の騎士服をまとったカイが、馬から颯爽と降り立つ。
その後ろには、数人の部下らしき騎士たちが控えていた。
陽の光を浴びて輝く銀髪は、夜会で見た時よりもさらに神々しく見える。
まるで一枚の絵画のようだった。
視察は、領地の畑から始まった。
俺が品種改良を重ね、ようやく安定して収穫できるようになった芋の畑だ。
父や兄たちが、さも自分たちの手柄であるかのようにカイへ説明している。
カイは無表情のまま、時折短く相槌を打つだけだった。
その蒼い瞳が何を考えているのか、まったく読み取れない。
「この芋は、以前のものより収穫量が多いと聞く。どのような工夫をしたのだ?」
カイの低い声が響いた。
父と兄たちは顔を見合わせ、言葉に詰まる。
当然だ。
実際に畑仕事をしているのは、ほとんど俺と数人の領民だけなのだから。
見かねた俺は、意を決して厨房から飛び出した。
「それは、土に炭を混ぜて、水はけと保水性を高めたからです。それから、連作を避け、別の作物を間に植えることで、土が痩せるのを防いでいます」
突然現れた俺に、父たちがぎょっとした顔を向ける。
だが、カイの視線はまっすぐに俺へと注がれていた。
その瞳に、夜会で感じたのと同じ、探るような色が浮かんでいる。
「……お前は?」
「三男のリヒトと申します、閣下」
俺は深々と頭を下げた。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
関わってはいけない。
そうわかっているのに、彼の前ではどうしても体がこわばってしまう。
「ほう。お前がこれを?」
「は、はい。少しばかり、本でかじった知識で……」
「見事なものだ」
カイはそう言うと、おもむろに俺の方へと歩み寄ってきた。
一歩、また一歩と近づいてくるたびに、彼の存在感が増していく。
まるで、巨大な肉食獣に睨まれた草食動物の気分だ。
俺は後ずさりそうになる足を、必死にその場に縫い止めた。
カイは俺の目の前で足を止めると、ふっと、何かを確かめるように鼻をひくつかせた。
そして、俺にしか聞こえないような、小さな声でつぶやく。
「……やはり、あの時の……」
「えっ」と顔を上げると、カイの蒼い瞳が至近距離にあった。
その瞳の奥に、今まで見たことのない、熱を帯びた光が宿っていることに気づく。
それはまるで、獲物を見つけた獣のような、飢えた光だった。
「閣下?」
不審に思った部下の騎士が声をかけると、カイははっと我に返ったように俺から視線を外し、「何でもない」と短く答えた。
その後の視察は、どこか奇妙な空気の中で進んだ。
カイは屋敷で俺が用意した食事を口にすると、「美味い」とただ一言だけつぶやき、あっという間に平らげてしまった。
その食べっぷりは、まるで何日も食事をしていなかったかのようだ。
そして、視察の間中、彼の視線が常に俺に向けられているのを、俺はひしひしと感じていた。
それは決して冷たいものではなく、むしろ、何かを確かめようとするような、執拗な視線だった。
ようやく視察が終わり、カイたちが帰っていく。
俺は屋敷の玄関で、他の家族と一緒に彼らを見送った。
馬にまたがったカイは、去り際に一度だけこちらを振り返って俺と目を合わせた。
その瞬間、彼の口元がほんの少しだけ、本当に微かに、緩んだように見えたのは、きっと俺の気のせいだろう。
嵐のような一日が過ぎ去り、俺はどっと疲れて自室のベッドに倒れ込んだ。
カイ・ヴァレンシュタインという男がわからない。
冷徹な氷の騎士という噂とは、どこか違う。
彼が俺に向ける視線には、何か特別な意味が込められているような気がしてならない。
まさか、俺がΩだと気づいているのだろうか。
いや、そんなはずはない。
俺は常に抑制剤を服用し、フェロモンが外に漏れないように細心の注意を払っている。
だとしたら、いったいなぜ。
答えの出ない問いを繰り返しているうちに、俺はいつしか眠りに落ちていた。
夢の中で、俺は深い蒼い瞳に見つめられていた。
それはどこまでも優しく、そして、どうしようもなく飢えた、獣の瞳だった。
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