第3話「甘い香り、運命の兆し」
騎士団長閣下の突然の来訪から、一週間が過ぎた。
嵐のような一日は夢だったかのように、アシュフィールド領には再び平穏な日常が戻ってきていた。
俺もまた、破滅フラグが少し遠のいたことに安堵し、畑仕事と家の手伝いに精を出す毎日を送っていた。
しかし、その平穏は、王城からの使者によってあっけなく破られることになる。
「アシュフィールド男爵家三男、リヒト・アシュフィールドに、王城厨房への出仕を命ずる。……騎士団長、カイ・ヴァレンシュタイン閣下からの強いご推薦によるものである」
使者が読み上げた辞令の内容に、俺だけでなく、父も兄たちも、あんぐりと口を開けて固まった。
王城厨房への出仕?
俺が?
騎士団長の推薦で?
何かの間違いではないのか。
俺はただの貧乏貴族の三男で、料理は前世の知識を元にした自己流に過ぎない。
そんな俺が、なぜ。
「リヒト、お前、いったい何をしたんだ!?」
使者が帰るや否や、父が俺の肩を掴んで揺さぶった。
その顔は興奮で真っ赤になっている。
「騎士団長閣下のお目に留まるなど……!これは、アシュフィールド家再興の千載一遇の好機かもしれん!」
兄たちも、「すげえじゃないか、リヒト!」「これで俺たちも王都でいい暮らしができるかもな!」と、手のひらを返したように騒ぎ立てる。
今まで俺のことなど、厄介者としか思っていなかったくせに。
俺はそんな家族の様子をどこか冷めた目で見ながら、混乱する頭で必死に考えを巡らせていた。
カイ・ヴァレンシュタインの狙いは何だ?
俺を王城に呼び寄せて、いったいどうするつもりなのか。
彼の行動は、ゲームのシナリオには一切なかったことだ。
俺の存在が、物語に予期せぬ変化をもたらしている。
それは、破滅フラグ回避にとっては良いことなのか、それとも、さらなる破滅への序章なのか。
不安と期待が入り混じったまま、俺は王都へ向かう準備を始めた。
荷物と言っても、着替えが数着と、母がこっそり持たせてくれた手作りのハーブクッキーくらいのものだ。
数日後、俺は王城の巨大な厨房に立っていた。
活気に満ち溢れ、大勢の料理人たちが忙しなく立ち働いている。
最新の調理器具、山と積まれた新鮮な食材。
何もかもが、アシュフィールド家の貧しい台所とは比べものにならない。
「君が、ヴァレンシュタイン閣下ご推薦のリヒト君だね。私は料理長のゴードンだ。よろしく」
恰幅のいい、人の良さそうな料理長に挨拶され、俺は緊張しながら頭を下げた。
「右も左もわかりませんが、一生懸命頑張ります」
「ははは、硬くならなくていい。君のことは閣下からよく聞いているよ。なんでも、とても珍しい食材の知識を持っているとか」
料理長の言葉に、俺はますますカイの意図がわからなくなった。
俺がここに呼ばれたのは、本当に料理の腕を見込まれてのことなのだろうか。
厨房での仕事は、想像以上に大変だったが、同時にやりがいのあるものだった。
俺は主に、騎士団の食堂で出す料理の手伝いを任された。
前世の知識を活かして、栄養バランスを考えたメニューや、疲労回復に効果のあるハーブを使った料理を提案すると、ゴードン料理長は面白がって採用してくれた。
騎士たちからの評判は上々だった。
「最近の食堂の飯は美味くなったな!」
「このスープを飲むと、午後の訓練も頑張れる気がする!」
そんな声が聞こえてくるたびに、自分の居場所を見つけられたようで嬉しくなった。
そして、カイ・ヴァレンシュタインは、毎日のように食堂に顔を見せた。
彼はいつも決まって、俺が作った料理が並んでいるカウンターの前に立ち、一つ一つを吟味するように皿に取っていく。
そして、少し離れた席で、黙々とそれを食べるのだ。
他の騎士たちと談笑することもなく、ただひたすらに。
彼と直接言葉を交わすことはなかった。
だが、食事を終えて去っていく彼が、一瞬だけこちらに視線を向け、満足そうに蒼い瞳を細めるのを、俺は何度も目にした。
そのたびに、俺の心臓は小さく跳ねる。
氷の騎士団長。
冷徹無比なα。
そんな噂とは裏腹に、彼が見せる些細な表情の変化が、俺の心を少しずつかき乱していく。
そんなある日のこと。
仕事を終えた俺が、一人で食材庫の整理をしていると、不意に背後から声をかけられた。
「……いるか」
聞き慣れた低い声。
振り返ると、そこにはカイが立っていた。
二人きりになるのは領地での視察以来だ。
「き、騎士団長閣下。どうしてここに……」
「近くに用があって来たのだ」
カイはそう言うと、ゆっくりと俺に近づいてきた。
薄暗い食材庫の中、彼の銀髪がぼんやりと光って見える。
俺は緊張で体が固まるのを感じた。
「お前の料理、美味いな。毎日、楽しみにしている」
「あ、ありがとうございます……」
思わぬ褒め言葉に、顔が熱くなる。
カイは俺の目の前で足を止めると、また、あの時のように何かを確かめるように、俺の匂いを嗅いだ。
「……いい匂いだ。甘くて、どこか懐かしいような……」
彼の言葉に、俺は血の気が引くのを感じた。
まずい。
この匂いは、Ωである俺のフェロモンだ。
抑制剤は飲んでいるはずなのに、なぜ。
まさか、効果が切れかかっているのか?
「この匂いを嗅いでいると、心が安らぐ。ずっと、この匂いを……探していた気がする」
カイの手が、ゆっくりと俺の頬に伸びてくる。
その指先が俺の肌に触れた瞬間、びりっと微かな電流が走った。
「っ……!」
俺は弾かれたように後ずさりする。
カイの瞳が、驚いたように見開かれた。
その蒼い瞳の奥に、抗いがたいほどの強い引力を感じて、俺は恐怖を覚えた。
これ以上、彼といてはいけない。
俺の秘密が、すべて暴かれてしまう。
「し、失礼します!」
俺はそう叫ぶと、カイの横をすり抜け、食材庫から逃げるように駆け出した。
後ろから俺を呼ぶ彼の声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。
自室に駆け込み、荒い息を整える。
心臓が今にも張り裂けそうだ。
頬に触れられたカイの指先の感触が、まだ生々しく残っている。
なぜだ。
なぜ、彼は俺にここまで執着するんだ。
俺はただ、平穏に生きたいだけなのに。
破滅フラグを回避して、目立たず、静かに。
しかし、カイ・ヴァレンシュタインという存在は、そんな俺のささやかな願いを、いとも簡単に打ち砕いていく。
彼の存在そのものが、俺にとっての、新たな、そして最大の破滅フラグなのかもしれない。
俺はこれから、どうすればいいのだろうか。
答えの見えない暗闇の中で、俺は一人、膝を抱えて震えるしかなかった。
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