第32話 滋養の極上のお粥
「よろず料理店」には、冬の静寂が満ちていた。外は雪が降り始め、街全体が冷たい霧に包まれている。
結はいつものようにカウンターの端に座っていた。
彼女の意識は、店内の静かな空気と、師である伊織の作業の一つ一つに鋭く向けられていた。
伊織はいつものようにテキパキと仕込みをしていたが、結の細部にまで行き届いた視線は、その動作のごくわずかな淀みを見逃さなかった。
時折、手の動きが一瞬だけ止まり、微かに喉を鳴らすような咳をこらえているのが見て取れる。
そして、普段の健康的な血色が、わずかに青白く傾いているのにも気づいた。
「伊織さん、顔色が良くありません。疲労が色濃く出ています」
結が淡々と指摘すると、伊織は手を止めた。
「心配するな。ただの冬の風邪の初期症状だ。店の者に見せる顔じゃない」
伊織はそう言って軽く笑ったが、その笑顔にはいつもの余裕がなかった。
彼女の脳裏には、伊織から教えられた料理の深みに必要な「人生そのものの重さ」という言葉が響いていた。
今、結にとって、その「重さ」とは、他ならぬ師である伊織の健康、その生命そのものに他ならなかった。
「雑味のない完璧な出汁は、ただの『旨い液体』でした。ですが、今、私の技術の全てを、あなたの生命維持という、最も切実で、最も利他的な目的に捧げます」
結の瞳には、かつてないほどの真剣な炎が灯っていた。
彼女の技術は常に自分の探求のために使われてきたが、初めて、誰かのために使われる。
「お粥を作ります。ただの滋養粥ではありません。消化器官の負担を最小限に抑え、必要な栄養素を最大限効率よく吸収させる、滋養の極上のお粥を」
結は、まるで精密機械を扱うかのように、米と向き合った。
まず、消化効率を最大化するため、米の品種を選定し、糊化を均一にするための研ぎ方を極めて正確に行い、実行した。
次に、水の温度管理だ。沸騰までの加熱カーブを細部にまでコントロールし、米粒一粒から旨味と滋養を最大限に引き出しつつ、細胞壁の崩壊を防ぐ。
そして出汁の融合。前回の経験を活かし、今回の出汁には、あえて昆布と鰹節のごく微細な、しかし栄養価の高い「不純物」を残した。
それは、旨味のためではなく、生きた滋養とするためだった。
一時間後、カウンターには小さな器が置かれた。米粒の形は保たれているのに、舌に乗せるとそのまま溶けていくような、光沢を放つ白いお粥。
その上には、体力を消耗しないよう極薄に切られた生姜と、微かに塩漬けされた梅肉が添えられていた。
伊織は、そのお粥を見ただけで、結の尋常ではない集中力が込められていることを理解した。
伊織は、静かにスプーンを取り、一口運んだ。
まず感じたのは、驚異的な滑らかさだった。
米と水が完全に一体化しているのに、個々の旨味が際立っている。
しかし、その技術の完璧さを超えて、伊織の胸に響いたのは、熱い何かの塊だった。
「このお粥には、お前の技術に加え、『焦り』と『切実な願い』が混ざっている」伊織は静かに言った。
結は動揺を見せず、ただ伊織の目を見た。
「不純物として残した微細な苦味。これは単なる栄養素じゃない。それは、私の体調を案じるお前の心配、そのものの味だ。――ありがとう、結。この優しさは、どんな名薬にも勝る滋養だ。お前は今、初めて技術の極致を、私という他者のために使った。この出汁に残された『重み』は、お前の純粋な利他心だ」
伊織は目を閉じ、また一口お粥を口にした。
胃の奥から温められ、生命力が蘇るのを感じた。
「技術は、どこまで行っても道具だ。だが、その道具を誰かのために振るう、その『願い』の強さこそが、客の魂に届く『人生の重さ』になる。結、お前は今、それを掴み始めた」
結は、自らの内に湧き上がる、言葉にできない感情を初めて感じていた。
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