第31話 技術から哲学へ

 夜も更けた「よろず料理店」


 結は、カウンターの向こうで静かに立つ伊織に、湯気を立てる小さな椀を差し出した。

 それは彼女が徹夜で仕上げた、透き通るような一番出汁だった。


 結の出汁は、理詰めによる極限の技術で生み出されたものだ。

 昆布と鰹節の選定から、温度、時間にいたるまで、すべてが計算通りに実行され、素材の旨味を限界まで抽出した、データが保証する絶対的な味だった。


 立ち昇る湯気は、一点の曇りもなく透明で、清らかで芳醇な香りが静かに空間を満たした。

 それは、技術の極致がもたらす、完璧な静けさだった。


 伊織は目を閉じ、ゆっくりと出汁を一口飲む。


「……すごいよ、結。完璧だ。技術的には、どこにも隙がない」伊織は静かに、しかし心から感嘆したように言った。


 しかし結は満足していなかった。

 彼女自身も自分の出汁を飲み、そこに伊織が持つ「深さ」がないことを確認した。


「完璧なんです。でも、飲んでみると、どこか物足りない。私の出汁は、ただの『旨い液体』。伊織さんの出汁にはある、心に触れる何かが、これには欠けているんです」


 結は伊織の目を見た。

 そこには技術者としての傲慢さではなく、ただ真理を求める静かで純粋な探求心だけがあった。


「私の出汁は、計測できるすべての項目で伊織さんの出汁を上回っています。それなのに、この言葉にできない広がりや奥行きは、どの技術にも紐づかない。どうすれば、この理屈の通らない差を埋められるんでしょうか?」


 結の問いは、もはや手順ではなく、料理の哲学に向いていた。


 伊織は静かに椀をカウンターに戻した。


「お前は、確かにすべての『雑音』を濾過して、綺麗に取り去った。だがな、料理の深みとは、時にその雑音の奥に残る『素材が辿った足跡』なんだ。お前は、その素材が持っていた時間の記憶を、洗い流してしまったんだよ」


「伊織さん。私は、あなたの個人的な思い出や、感傷的な愛の記憶を求めているわけじゃありません。私が知りたいのは、その出汁に宿る、技術では追いつけない確かな存在理由、その核心です。私に、それを解析させてください」


 伊織は微笑んだ。

 それは初めて、結の真摯な探求心そのものを認めた笑みだった。


「いいだろう」


 伊織は、自身が作った出汁ともう一杯の椀を結の前に並べた。


「利き出汁だ。お前の完璧な出汁と、私自身の、この店の出汁。飲んでみろ」


 結はまず自分の出汁を飲み、次に伊織の出汁を口に含んだ。


 瞬間、結の思考回路がフル回転する。

 舌を刺す感覚は、彼女の完璧な出汁には存在しない、微かな不調和。

 ごくわずかな苦味と酸味。

 それは解析可能な成分の組み合わせではなかった。


 結は静かに言葉にする。

「これは……技術の外にある、意図的な不純物。この苦味と酸味は、除去すべき『雑味』じゃない。昆布が育った土壌、鰹が泳いだ海。その景色そのものの記憶が、濾過されずに残っている。不純物という名の、伊織さんの生きた時間の集積、その『重み』だ」


 伊織は深く頷いた。


「技術は、盗もうと思えば盗める。手順はすべて公開されているからな。だが、客の魂に届けるには、その手順の奥にある、お前の人生そのものの重さが必要なんだ」


 それは、結の探求の方向が、手順の極致から、人生の深みという、料理の根源へと転換した瞬間だった。

 完璧な技術を持つ結に、伊織が与えた新たな課題——それは、彼女の全生涯を賭けた、料理の領域を超えた挑戦だった。


 結は姿勢を正し、深く頭を下げた。

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