第30話 愛を解読する、秘密の香り宿る白餡最中

 前日のカレーに隠された暗号を解読したことで、結は伊織のレシピが単なる調理手順ではなく、「場所への愛着」や「時間の重み」といった感情の分量で成り立っていることを知った。

 しかし、それらはまだ店の哲学という枠の中に収まる言葉だった。

 結の料理人としての魂を本当に揺さぶったのは、「過去の重さ」や「感謝の分量」という、より個人的で、深い暗号だった。


「これ以上は、伊織さんの人生の領域だ」


 閉店後の厨房で、結はひとり呟いた。

 彼女は、再び伊織が大切にしていた古書の書棚へと向かう。

 カレーのレシピが挟まれていた場所のさらに奥、まるで触れられることを拒むように押し込まれていた場所に、もう一枚の紙片が隠されていた。

 それは淡いピンクの小さな染みが付着した、大切に何年も保存されてきたであろう、折り目正しい紙だった。


 タイトルは、これまでのレシピとは違い、静かで叙情的だった。


亡き日の最中(もなか)

 1.最中皮「記憶」の脆さ

 2.白餡「後悔」の純度

 3.隠し味「11-7 の約束」

 4.詰め方「二人」が満たされるまで

 5.添え物「あの日の忘れ物」


 伊織の店では、時折最中が出されるが、こんなにも詩的な言葉で綴られたレシピは、客に出すものではない。

結は息を呑んだ。

 これは、伊織自身の、内密な過去に関わる、亡き妻への供物なのだと。


 結は、まず料理人としてこのレシピに挑むことを決意する。

 技術の粋を尽くして、最高の最中を作り上げたとき、このレシピに込められた「後悔の純度」と何が違うのかを知るために。


 白餡の材料である白いんげん豆を丁寧に煮込み、何度も裏漉しを繰り返す。

 彼女が目指したのは、舌の上でザラつきが一切残らない、雪解けのような純度だ。

 水分の飛び方、熱の加え方、練り上げる速度。

 全てが完璧に制御され、仕上がった白餡は、真珠のように光沢を帯び、清らかで上品な甘さだけを主張した。


 乾燥させた最中の皮に、その完璧な白餡を丁寧に詰める。

 一口食べる。

 パリッ、と皮が心地よい音を立てて崩れ、極上の甘さと滑らかさが口の中に広がる。

 技術的には完璧だ。

 これ以上の和菓子はありえない。


 しかし、結は深い虚無感を覚えた。


「…無垢すぎる。これじゃ、ただの『技術の純度』だ。伊織さんの料理にある、あの生々しい情感が、一切ない。技術の完璧さが、このレシピに込められた『後悔』という名の不純物を消し去ってしまったんだ」


 結は悟った。

 この最中を完成させるには、技術を超えた、感情の解読と、それを実現するための技術の破壊が必要なのだと。


 結の視線は、三つ目の暗号「11-7 の約束」に釘付けになった。11月7日。

 そして「二人」が満たされるまで。


 彼女は常連客から聞いた亡き妻の記憶を反芻する。

 奥様は和風を好んだが、唯一、最中を食べる際に特別な香りの濃いお茶を求めたという。


 結の脳内で、全ての情報が閃光のように繋がった。

 11月7日は、きっと奥様の誕生日。

 そして「特別な香り」とは、洋風の要素を嫌った奥様が、唯一愛したアールグレイの香りを指している。


 結は覚悟を決めた。

 最高の技術をもって作り上げたものを、感情のためにあえて壊すという料理人としてのタブーを破り、技術の論理を一度破壊する。


 彼女は、秘密の隠し箱から取り出したアールグレイの茶葉の小瓶を手に取り、丁寧に粉末にする。

 そして、一度完璧に仕上がった白餡を、再び湯煎にかけ、ゆっくりと液状に戻した。


「ごめんなさい、最高の白餡。でも、あなたには魂の分量が足りない」


 液状に戻った白餡に、粉末にしたアールグレイの茶葉を少量、絶妙な分量で混ぜ込む。

 茶葉の粉は沈殿せず、白餡の構造に優しく組み込まれていく。

 それは、伊織の心に、亡き妻の愛が静かに、しかし永遠に溶け込んでいる様を映し出しているようだった。


 再び冷やし固め、最中の皮に詰めて完成させる。


 一口食べると、結の目から止めどなく涙が溢れ出した。


 和三盆の清涼で儚い甘さの後に、フワッとアールグレイ特有の華やかな香りが立ち上る。

 それは、和菓子の静寂を乱すようでいて、むしろ白餡の純粋さを引き立て、異国への憧れと日常の安らぎが、切なく溶け合っていた。


「…この『約束』は、技術のレシピじゃない。伊織さんが、奥さんを愛し続けた『愛の分量』だ」


 結は、伊織の料理の根源が、最高峰の技術や哲学ではなく、一人の人間が背負った愛と後悔の重さにあることを、身体の芯から理解した。

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