第33話 受け継ぐ重さを感じる、出汁の透き通ったお吸い物
前の晩、結が作った滋養粥のおかげで、伊織の熱は引いた。
しかし、彼の身体の奥底には、まだ冬の寒さと疲労の残滓がこびりついているようだった。
数日後、「よろず料理店」の仕込みは通常通り行われていたが、伊織の動きには、いつもの岩を穿つような鋭さが影を潜めていた。
彼は作業の合間に、ときおり静かに目を閉じ、深い呼吸を繰り返す。
結は、彼が完全に回復していないことを理解していたが、あえて何も言わず、ただ完璧な補助者として側に控えていた。
昼前の静かな時間、伊織は手を洗い、結に向き直った。
その目は穏やかだが、どこか深い思索を宿している。
「結。今日のまかないは、お前が作れ」
「承知しました。どのようなものを?」
結は即座に答えるが、伊織は意外な注文を出した。
「お吸い物だ。それも、最もシンプルで、最も誤魔化しが利かないもの。具材は極力少なく、出汁の純粋な透明感だけを追求しろ」
結は一瞬、眉間に微かな皺を寄せた。
彼女の技術の進化は、複雑な要素を完璧に統合する能力によって支えられてきた。
緻密な計算に基づいた多重構造のソースや、数種の出汁をブレンドする深遠な技だ。
お吸い物、それも最もシンプルとは、彼女にとって裸一貫で戦場に立つようなものだった。
「伊織さん。今のあなたの体調には、より滋養の高い、手の込んだ料理が適切ではないでしょうか」
「そうではない。滋養は満ちた。今必要なのは、技術を手放すことだ。お吸い物とは、ごまかしが利かない。全ての要素が透けて見える。料理人の心そのものが、湯気となって立ち上る料理だ」
伊織の言葉は、技術への挑戦ではなく、哲学的な問いかけだった。
彼は、自身の体調が万全でない今、最もシンプルで純粋な「休息」の味を、結に求めているのだ。
結は静かに厨房に立った。
彼女が手に取るのは、昆布と鰹節。伊織から教えられた最高の出汁の素材だ。
「技術を手放すこと……」
心の中で繰り返しながらも、彼女の手は、いつもの極限の精密さを保ってしまう。
まず、厚く肉付きの良い北海道産の真昆布が、冷たい水に優しく浸される。
鍋の中の水はまだ低温であるにもかかわらず、昆布の厚い表皮から、海中の奥深く静かな磯の香りを静かに立ち上らせる。
結は、旨味成分が過剰に抽出され、出汁がにごる寸前の、最高の瞬間を見極めて昆布を引き上げた。
次に、湯温を注意深く上げ、鍋底に小さな泡が立ち始めた、その極限のタイミング。
「ざっ」という微かな音と共に、本枯節の薄削りが一気に投入された。
乾燥した薄片が熱い湯に触れた瞬間、キッチンは燻された魚介の香ばしさと、どこか甘い海の香りで満たされた。
この芳醇な香りは、ただちに伊織の意識にも届き、彼は静かに瞼を開いた。
結は、アク取り専用の極細の網で、表面に浮いた微細な灰汁を、水面を撫でるように、一瞬の躊躇もなく完璧に掬い取る。
一切の雑味を許さない彼女の信念は、このシンプルな工程に凝縮されていた。
そして、濾す。
丁寧に二重にした晒しに、沸騰直前の澄んだ液体が注がれると、それはまるで透明な岩清水が流れ落ちるかのように、一切の濁りのない、黄金色の純粋な雫となって下のボウルに溜まった。
完成したお吸い物は、その名に偽りなく、透き通るような美しい琥珀色をしていた。
光にかざすと、影すら見えない。
具材として添えたのは、薄く削いだ絹ごし豆腐と、結が完璧な技術で菱形に切りそろえた瑞々しい柚子の皮。
見た目は、至高の美術品のようだった。
伊織の前に、そのお吸い物が置かれた。湯気からは、清澄な鰹節の香りが漂ってくる。
伊織は目を細め、静かに一口飲んだ。
そして、長く息を吐き出した。
「完璧だ、結」伊織は静かに言った。
「技術的には、完璧に純粋だ。昆布のグルタミン酸と鰹節のイノシン酸の協調性は最大限に引き出されている。雑味は、一切ない。これは、理屈と技術の極致が作った、美しい液体だ」
しかし、その声には、賛辞以上の何か、落胆にも似た響きが混ざっていた。
「だが、冷たい。飲む者の疲労を癒し、次の一歩を踏み出す力を与える『休息の重み』が、ここにはない」
結は沈黙した。
技術の完璧さを追求したにもかかわらず、なぜ「冷たい」と評されるのか、理解できなかった。
「結よ。病み上がりの者が本当に欲しているのは、技術ではない。それは、手の込んだ滋養でもない。それは、『何も考えなくていい』という解放だ」
伊織は、お吸い物を指差した。
「完璧すぎる濾過は、素材の持つ『おおらかさ』まで削ぎ落としている。正確すぎる温度管理は、『作り手の温かい手』の感覚を排除している。この透き通ったお吸い物は、お前の頭脳の完璧さを証明しているが、そこに『休みなさい』というメッセージは含まれていない」
「技術を手放すとは、決して手を抜くことではない。それは、己の計算やエゴを全て取り去り、ただ相手の安寧だけを願う、最も純粋な利他心だけを濾すことだ。シンプルであればあるほど、料理人の『心の手垢』が目立つ。そして、『心の温もり』**も、また如実に現れる」
結は、初めて、自らの完璧主義が、最も大切な何かを排除していたことに気づいた。
目の前のお吸い物は、技術の結晶でありながら、伊織が以前語った「人生の重さ」、つまり「誰かを思う切実な願い」を、最も欠いていた。
技術の山頂は征した。
しかし、そこから見下ろす世界には、『心を込める』という、より深く、より困難な谷が広がっていることを、彼女は今、痛感した。
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