「5ヶ月」だった頃
寝かしつけの後の静かな夜。
プリントした壮良の写真を整理しながら、翔吾が何度も同じ写真を見ていることに気付いていた。
「翔吾、どうかしたの?」
迷うように写真をめくっていた手の動きが止まる。
「……この写真、俺が貰って良い?」
彼が示したのは何の変哲もない、笑顔の壮良の写真だった。
「もちろん。翔吾のスマホにも送ろうか?」
「いや、この…、写真でいい。…………お袋に…送りたい。」
歯切れ悪く切り出した翔吾に、夕月は微笑んだ。
「じゃあ翔吾も写った奴にしたら?あれからずっと送ってないでしょ?」
「俺はもういいって。」
大学の卒業式の写真を送ってから、もう5年以上経っている。
写真の裏に名前と日付を書こうとペンを取った時、夕月は不意に思いついた。
「ねぇ。会いに行っちゃ駄目かな。」
「は?誰に?」
「翔吾の、お母さん。」
青天の霹靂とでも言うように、翔吾はぽかんと口を開けていた。
夕月は彼の母にまだ会ったことも、話した事もない。
ただ彼の生い立ちと、母の状態を彼から聞いただけだ。
今までは翔吾が望まないのなら、それでも良いと思っていた。
けれど、翔吾が母に歩み寄りたいのなら。夕月もその隣に並びたい。
「写真じゃなくて直接、壮良と、3人で。……無理そうなら良いんだけど。」
「…………無理じゃねぇと思うけど、……ちょっと考えさせて。」
それきり、写真に目を落として黙り込む。
手紙を送る事にすら逡巡していた翔吾には少し尚早だっただろうか。
長い沈黙の中、見るともなく写真をめくる音が続く。
もう片付けて寝ようか、と言おうとした時、翔吾がぽつりと言った。
「…………夕月と、一緒なら。」
「鮎川さん、息子さんたち来てくれましたよ。」
グループホームの職員が呼びかけた性が自分達と同じ事に、夕月は少なからず驚きを感じた。
てっきり翔吾の両親は離婚したものだと思っていた。
傍らに立つ翔吾を見上げる。
彼は緊張した面持ちでまっすぐ前を見ていた。
もっと若い頃だったら、その手を握って彼の不安を和らげようとしただろう。
本当は今も、そうした方が良いのかもしれない。
けれど夕月の腕の中には壮良が眠っている。
ラッチ音の瞬間、翔吾は深く息を吸った。
「翔吾と、えっと…、こんにちは……。」
ぎこちなく笑顔を浮かべる人は想像していたよりもずっと美しく、優しい目をしていた。
「……最近、具合どう?」
「あ…、具合ね。最近は、……調子が良いの。本当。お子さんは、何ヶ月……?」
「もうすぐ8ヶ月です。壮良って、言います。」
「そうなの。かわいいわね。」
探るように、ぽつりぽつりと当たり障りのない言葉を交わす。
通された部屋は大人が3人座るとやや狭く感じたが、1人用の個室としてなら充分だった。古そうだが清潔に整えられている。
窓辺に小さな鉢植えが置いてあった。
簡単に自己紹介を済ませてしまうと、会話はあまり弾まなかった。
夕月は彼女と初対面だし、翔吾と母の間には記憶の断絶がある。当然といえば当然だった。
翔吾の母は、翔吾を殆ど憶えていないと聞いている。
恐らく楽しく話せる程の思い出は、翔吾の中にも無いのだろう。
「あの、お母さん、」
夕月は気まずい空気の中で思い切って声を上げた。
「もしお母さんが良かったら、壮良を、抱いて貰えませんか。」
元々心に決めていた。
彼女の体調が良ければ、翔吾の子どもを抱いて貰うことを。
「触っていいの?私が……?」
「はい、是非。」
翔吾と夕月と壮良の間を視線が彷徨う。
「……夕月が良いなら。」
目を向けられた翔吾は、いつもより小さな声で答えた。
翔吾の母の腕に、眠っていた壮良を預けると、僅かに身じろいで声を上げた。
「あっ、」
泣き出して困らせる前にあやそうと腕を出した夕月よりも早く、柔らかい声が響いた。
「ねむれ、ねむれ…ははの……」
それは子守唄。
馴染みのない声、初めての腕の中で、壮良は泣き止んで、大きな目を瞬く。
「ああ、憶えてる……。翔吾も、こんな風だった……。」
憶えてる。
母がこぼした呟きに、翔吾が息を呑む。
くぅっと喉が鳴ったのが隣に座る夕月の耳に届いた。
「翔吾……、私、翔吾に……酷い、ことを……、」
壮良に頬を擦り寄せ、その人は涙を流した。
「ごめんね、ごめんなさい……、こんなに、可愛かったのに、」
目を閉じ、壮良に顔を向けたまま紡がれるその言葉は、この場の誰に向いているのか、夕月にはわからない。
かあさん、と翔吾が絞り出すような声を上げた。
「……母さん。壮良は、俺に似てる?」
顔を上げたその人は、眉を寄せて濡れた瞳のまま、懐かしげに口角を上げた。
「ええ、そっくり。……あなたも、あの人によく似てた。」
その目が、確かに翔吾を映す。
「っっ……!」
俯いた翔吾の手が強く握りしめられていた。
ぱたり、ぱたり、と丸い尻を優しく叩くリズムが心地よく響く。
道を踏み外しかける程に酷く息子を傷つけた事が嘘のように、その手は赤ん坊に慣れていた。
『そうじゃなきゃ、赤ん坊の頃に死んでた』
それは翔吾自身が言った言葉だった。
かつて彼と母の間にも、優しく抱きしめて子守唄を歌う、そんな時間があった。
壮良が、大きく欠伸をする。
「母さんね、……何もわからなくなっちゃったけど……。きっと翔吾が大好きだった……。本当に……、」
「やめてくれよ、……もう、わかったから……。」
翔吾の押し殺した吐息が震える。
夕月はそっとその背に手をやった。
翔吾は唇を噛み、涙を堪える背中は震えるほど強張っていた。
──来て良かった。
手のひら1枚分の温もりを共有しながら、心からそう思った。
『また来る。』
帰り際、確かにそう言った翔吾は、今は後部座席で息子共々寝こけている。
「良かったね、翔吾。」
起きている時に言うと多分顰めっ面をするので、バックミラー越しの寝顔に言った。
ハンドルを取りながら、少しだけ考える。
帰ったらまた玉子焼きを焼こう。
お利口だった壮良を沢山抱っこして、それから頑張った翔吾にも、少しだけ。
「……私も翔吾のこと、大好きだよ。」
「わかってるよ。」
不意に返ってきた言葉に、急ブレーキを踏みそうになった。
「あぶな、何してんの。」
「何で返事するの!?」
「そろそろ運転代ろうと思って。そこのコンビニ寄って。……それと、」
ありがとう。
ウインカーに手をかけた今、ヘッドレスト越しに囁かれた言葉に、相応しい返事を探せなかった。
「……翔吾、危ないから、背中くっつけといて。」
間抜けな命令を気にした風も無く、ハハオヤみたいだな、と彼は笑っていた。
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