抱っこ
病室に通されると、夕月は精魂尽きたように眠りについた。
翔吾はその間に自分の勤務先に電話をし、自分の父にメールを打った。
朝日が徹夜と涙でしわしわになった目に沁みる。
「翔吾くん。」
病院の玄関先でスマホをしまっていると、声を掛けられた。
「あ、夕月の……。もしかして、ずっとここに?すみません、気が付かなくて。」
夕月の母だった。
昨夜夕月が産気づいた知らせを受けて駆け付けてくれたが、付き添いは1人だけと言われて、翔吾が任されていた。
頭を下げるといいのよ、と頷く。
「夕月は?」
「今、眠ってます。子どもも、2人とも元気です。」
「良かった。翔吾くんも、お疲れ様。おめでとう。」
「……ありがとうございます。」
「お父さんはね、帰るって言ったのよ。でも、お産って何があるかわからないでしょう?夕月に何かあった時……」
不吉な言霊を打ち消すように、ほら初孫だし、と続ける。
夕月の両親とは、出会い方が悪かった。
いっときは決定的な破局だとも思っていたが、お互いじりじり歩み寄って、苦手意識はあるが普通に会話が出来る程度になった。
わかったのは、ただ夕月や自分が感情の捌け口にされている訳ではない事。結果の良い悪いはともかく、そこには愛があった事。
また顔を見に行くわね、と背を向けた義母に、気の利いた言葉も掛けられず、いつかのように頭を下げて見送った。
近くのコンビニで軽食を買って戻ると、夕月が目を覚ましていた。
「もう起きて大丈夫?まだ1時間ちょっとしか寝てねーじゃん。」
「大丈夫。さっき血圧とか測ったの。あのね、翔吾……」
頷いた夕月が声を潜めて、ドキっとした。
「なんか、あったか…?」
「そらね、3400もあったの。パパに似たのねーって言われた。」
「そう、なんだ……?」
確か、平均が3000グラムくらいだった筈。多少大きいのかもしれないが、そんなに深刻な顔をするような事だろうか。
「体重が、減らないの………!」
「……誰の?」
「私のに決まってるでしょ!」
夕月はむくれているが、それが良い事なのか悪い事なのか判断がつかず、曖昧に笑うしか出来なかった。
「それって、いきなり減るもんなの?」
「だって3キロ外に出てるんだよ……!?」
「まぁ、そうだけど。」
「結婚指輪……」
悲しげに夕月が手のひらを見た。
確かに、妊娠7ヶ月頃から、結婚指輪はずっと外されたままだった。
「合わなくなったら、新しいの買ってやるよ。」
「だってお金かかるよ。」
「おい、馬鹿にすんなよ。指輪一本くらい、俺の小遣いだけでも何とかしてやるって。」
薄給なのは間違いない事実だが。
くすくすと笑い合っていると、扉がノックされた。
「あら、旦那さん帰って来てるのね。それじゃ、ちょっとだけ赤ちゃん連れて来ましょうか。」
顔を出した助産師がにこにことまた戻って行く。
「ねぇ、連れて来てくれるって。翔吾、また会えるよ。」
夕月が嬉しそうに袖を引いた。
「なんか、緊張すんな……。」
「私も。さっき別れたきりだし。」
到着を待ちきれず、夕月を支えながら、2人で手を洗った。
「まず、ママからね。」
透明なコットから抱き上げたそらを、助産師が差し出す。
慣れない手で受け取ると、ここをこうして、と少しだけ腕の形が直された。
「わぁ……」
白いタオル地に包まった我が子はしっとりと温かく、確かな重みがあった。
産まれたばかりの時は開いた目は閉ざされたまま、ほとんど動かずにすやすや眠っている。
僅かに湿ったような小さな頭に頬を寄せると、何だか、嗅いだことのある匂いがした。
よく赤ちゃんはミルクの香りとか、甘い匂いとか言われるが、それとはちょっと違うような……。
「……なんか、のりの匂いする。」
「え、のり?」
思わず溢れた呟きに、翔吾が手元の我が子を覗き込んだ。
「ほら、オレンジの蓋のやつ。」
「赤ちゃんの頭ってのり付いてんの……?」
「そんな訳なくない……?でも、きっと、翔吾も抱いたらわかる。」
はい、とお包みから少し身体を離すと、翔吾は慌てて座った。
「ちょ、ちょっと待って……、俺抱っこしていいの?」
見守ってくれていた助産師を揃って振り返ると、頷いてくれる。
恐る恐るそらを抱き取った翔吾が、息を吐いた。
「な、んだ、これ……。」
「なんだって、赤ちゃんでしょ。」
「待って、違う、わかってる、つまり……」
生きてる、と呟いた翔吾の目がまた潤んでいた。
もう指一本も動かせないとでも言うように固まった腕の中で、僅かに小さな口が綻んだ。
「っ、わらっ……」
翔吾の声は、もう言葉になっていなかった。
ぶわ、と溢れ出した涙が息子に落ちないように、病院のパジャマの袖で夫の頬を抑えていると、不意に胸が詰まった。
翔吾が我が子を抱いて泣いている。
それは、夕月の夢見たことの1つでもあった。
鼻の奥がつんとして、慌てて言葉を紡いだ。
「ね、のりの匂い、するでしょ。」
「…いま、感動してんだから、邪魔すんなって……」
この人を、この子を、幸せにしたい。
──この光景を、私は絶対忘れない。
決意を新たにしていると、翔吾が涙声で呟いた。
「……夕月が変なこと言うから、他に思い付かなくなったじゃねぇか。」
息子の頭から、のりの匂いがする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます