朝日と共に

 病院に着いた夕月はあっというまに看護師に連れられていってしまった。


 1人で受付を済ませて、待合室に腰を下ろすと自然にため息が漏れた。それで、今までずっと息を詰めていた事に気づく。


 破水したと告げた時の夕月の蒼い顔と震える肩が思い起こされる。倒れそうな顔で動き回ろうとする夕月を思わず怒鳴りつけてしまったのが悔やまれた。


 あの時自分も焦っていたが、自分の体で変化を感じていた夕月の気持ちは計り知れない。


「……頑張れ」


 夕月とそらに向けたはずのそれは、自分に言い聞かせる様にも響いた。


 鮎川さんの旦那さん、と呼ばれて、鼓動が跳ねた。

 陣痛室と名札が付いた小さな個室で再開した夕月は、点滴とモニターが付けられていたが、安心したのか家で見た時よりも顔色が良かった。


「翔吾、さっきはありがとう。私テンパってたよね。」

「いや、俺も」


 怒鳴ってごめん、と言おうとした時、夕月の背が丸まった。

 うぅ、と呻き声が漏れる。


「ごめ、ん…、陣痛……」

「あ…うん……」


 顔を伏せて手のひらを見せる夕月に間抜けな声しか返せない。

 さっき見ていたよりもずっと痛そうで、思わず掲げられた手を握った。


「……ありがと。」


 握り返されたのはほんの数秒だった。波が引いたらしい夕月が顔を上げる。


「すげー痛そうじゃん…、大丈夫?」

「うん、これでもまだ全然痛くないんだって。本当に産まれる時はもっと凄いらしいよ。」


 陣痛が来ていない時の夕月は意外にもけろっとしている。


「水とか飲む?腰揉む?」

「今はいいや。」


 ドラマやら雑誌やらで組み立てたイメージは、早くも役に立たない事がわかった。


「陣痛ってどんな感じ?」

「えー?なんか、中から押されるみたいな感じかなぁ?生理痛ともちょっと違うし。」

「ごめん、生理痛も俺わかんないわ。」

「あ、そっか。」


 他愛のない話と笑顔を重ね、陣痛の波を数回乗り越えた時、夕月があ、と顔を目を瞬かせた。


「今、そらが動いたよ。」

 それが合図だった。




 夜明けが近かった。


「もぉむり…!」

 目の前で最愛の妻が痛い痛いと半べそをかいている。


 握りしめられた手には爪が食い込み、骨が軋んでいたが、不思議と痛みは感じなかった。


 胎動たいどうがあった、と夕月が笑った次の陣痛から、急激に感覚が短くなり、痛みが増した様だった。

 隣室の分娩台まで立って歩くように言われて愕然がくぜんとする夕月を半ば抱える様に運んだのはついさっき。


 処置があるからと追い出され、呼び戻された時にはもうすぐ産まれますからね、と言われて驚いた。


 ──どうか、無事に。


「夕月、頑張れ」


 熱い手を握り返しながら、もう何度目かわからない月並みな台詞を吐いた時、夕月が目を見開いた。


「待って、出ちゃう…翔吾出てって!」

「え!?」


 上がった悲鳴に仰天した。

第一、自分の片手は骨も砕けよと握りしめられたままだ。

 助産師たちが笑いながら夕月を宥めてくれる。


「鮎川さん、出てるの赤ちゃんですから、そのままで大丈夫ですよー。」

「もう頭見えてますからね。それとも本当に出て貰いますか?」

「やっぱり、行かないで…」


 罵詈雑言を投げられることは覚悟していたが、追い出されるのは予想しなかった。しかも「愛されてますね」の温かい微笑み付きである。


 すがる様に見上げた瞳と目が合って、その目がぎゅっと閉じる。

 額に浮いた汗を拭ってやると、また食いしばった歯の隙間から呻き声が漏れるのが聞こえた。


「いるから、頑張れ。」


 馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返すしか出来なくて、もどかしい。

 夕月のまなじりから涙が一筋流れるのが見えて、瞬間、音が遠ざかった。

 遠くで「出るよ、」と誰かが誰かに告げる。

 奇妙な静けさを裂いたのは、鮮やかな産声だった。

 そら、と夕月の唇が動くのが見えて、視界が滲んだ。




 骨盤が引き裂かれる様な痛みの中で、握った手に爪を立てている事に気づいていた。

 握りしめた指の薄い皮膚の下にある関節を感じて、痛いだろうと思うのに、ちっとも力を抜く事が出来ない。


 頑張れ、と何度も翔吾が励ます声が聞こえた。

 解放は唐突だった。

 一際大きな痛みの後、ずるっと引き出される感覚があって、産声が響いた。


 ──そら、会いたかった。


 それは乱れた息に邪魔されて声にならなかった。


「おめでとうございます。男の子ですよ。」


 祝福と共にそっと胸の上に置かれた柔らかな体温。湿った匂い。

 そらはもう泣いていなかった。

 むにゃむにゃと口を動かして、僅かに笑った様に見えた。


「初めまして。」


 ふやけた色の頬に触れると、ふわりと柔らかくて指先に和毛にこげの感触を感じる。

 鼻をすする音が聞こえて目を向けると、父になったばかりの翔吾がぼろぼろ泣いていた。


「翔吾。」


 呼びかけた声は低く掠れてしまっていたが、しっかり届いたようだった。

 翔吾は頷きながらも涙を拭うのを止められずにいる。


「っ、…ゆ、き、」


 ありがとう、と繰り返しその唇が動く。


「……そらにも、なにか言ってあげて。」

「…そら、無事で良かった。来てくれて、ありがとう。」


 父の声が聞こえたのか、ぽか、と黒い目が開いて辺りを見回すように動いた。


「かわいい……」


 声を揃えて見つめていられたのは、ほんの僅かな間だった。


 いつまでも抱いていたい気分だったが、新生児の処置の為に、そらはあっという間に助産師と医師の手に引き取られて行った。


 もう一度会えるのが待ち遠しい。


 まだ泣いている翔吾にも早く抱かせてあげたかった。


 きっとその時には彼は泣き止んでいて、我が子を抱いてまた泣くんだろう。

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