私は出発することにします
春日 いと
第1話
葉書が来た。
《わたしは出発することにしました。》
葉書にはそれだけが書いてあった。
その後に名前はあったけれど、住所も、何処へ行くとも書いてなかった。
上の子の小、中学時代の、今でいうママ友かな。子ども同士が仲良しだったので、一緒に映画や遊園地とかに行ったものだった。随分久しぶりだった。
久しぶりと言えば葉書もめずらしい。葉書といったら今は年賀状ぐらいだ。年賀状も年々減ってきている。
この人とは、互いの子ども達が別々の高校に行った後もしばらくは付き合いが続いていた。だけど、高校を卒業した後は、自然と連絡が途絶えてしまっていた。
昔の電話帳を探し出して電話してみたけれど、使われていないというメッセージが流れるだけだった。子どもなら知っているのだろうか。いやいやと、私は首を振った。わざわざ訊くほどの事ではない。どこへ行こうがもう関係ない。そう思って、埃をかぶっている固定電話機の横に葉書を置いた。そして、そのまま忘れる事にした。
ところが、二週間ほど経った雨の日。また葉書が来た。今度はかつて上の階に住んでいた人から。
《お元気ですか。出かける事にしました。長い間のご厚情に感謝しております。》
その葉書も、電話機の隣に積んだ。鳴ることもほとんどない電話機。たまにかかってくるのは怪しいものばかり。
「ただいま留守にしております」という案内を無視して一方的にしゃべり続ける録音された声。二回鳴ってすぐ切れてしまう電話。だから電話に出る事もない。
そうか、電話して事情聴きたいけど、電話には絶対出ないだろうな。
あーあ、電話と一緒で、我が家もすっかり古くなった。
上の子が小学校に入学する時に買った新築の団地だったのに、今ではゴーストタウンのようだもの。
ここで育った子ども達は巣立ち、昔からの住人も、ほとんどいなくなった。
五階建ての団地は階段しかないので、上の階の人達は昇り降りが辛くなって引っ越してしまった。亡くなった方もいれば、施設に入った人もいる。残った我々ももう古希だ。団地と一緒にすっかり年老いてしまった。
居間にはテーブルと椅子が四脚。ソファーはいつの間にか隅っこで物置場になってしまっている。当時はリビングにソファー置くのがあこがれだった。だから新しい団地に入居する時に、少し高かったけれど買ったのだ。あの時は嬉しかった。
ここで下の子はいつもグダグダしていたっけ。下は男の子だったから、中学に入ったら声変わりして可愛くなくなった。大きな図体を持て余すようにソファーに寝転がる息子の姿は、まるでトドだった。上の子は女の子だけど、親とは口を利かなくなったから、まあたいして変わらないか。持ち物は可愛かったけど。
息子は大学卒業後、勤務先が少し遠かったので家を出て行った。何も片づけないで行ってしまった。その後は二度ほど荷物を取りに来て、
「あとはいらないから処分して」と言い残して、それっきり。
娘が結婚して出て行ったあとは、娘の部屋を私が使う事にした。娘は結婚する時に、ほとんど処分していったけど、「うちには入らないから預かって」と残した物をここに入れてある。
だから息子の使っていた四畳半は物入になっている。
学習机にランドセル。そして子ども用の椅子まで置いてある。もうとっくに使わなくなったけれど、捨てられなかったのだ。子ども達の懐かしい幼稚園の制服に中学と高校の制服も押し入れに入っている。流石にもういらない。まとめて古着のごみ収集日に出してしまおう。娘の物も確認して一緒に処分したほうがいいだろうな。
窓の外からは、ただ雨の音だけが聞こえて来る。
それからも葉書は届いた。真っ白な葉書にだいたい一行だけ。
今日の葉書は高校時代に親友だった同級生。
《旅立ちます。幸せにお暮しください。お元気で。》
東京の大学に入学した彼女が夏休みや正月に帰省した時に一緒にコンサートに行ったり、公園でおしゃべりしたりした。でも私は就職したので彼女ほど暇ではなかった。本当の事を言うと、彼女との話がかみ合わなくなっていた。それで帰ってきても連絡が来なくなっていったのだ。そのうち帰省もしなくなってしまった。私も結婚して実家を出たから、悲しいとも思わなかったけれど。
「おい。これは何だ」
固定電話の横で夫が叫ぶ声が聞こえたような気がした。
「なんで電話の横に葉書が積んであるんだ」
今頃何を言っているのだろう。もうずっと置いてあるのに。
声のほうを振り向くと、白髪頭の夫の後ろ姿が見えた。
「ああそうか、お前の昔の知り合いからか」
そう言うと、ゆっくり右足を引きずるようにして、振り向きもしないで消えていく。
おじいさんはパチンコに出かけました、とさ。
昔話ならおじいさんは柴刈りに行くものと決まっている。だけど、今ではパチンコ山にお賽銭をあげに通っている。おばあさんが川には洗濯に行けない時代だもの仕方ないか。川で洗濯すれば、よけい汚れてしまうもの。
それに我が家のおばあさん洗濯機が、「私の仕事を取らないで」と主張する。
それでは私はピアノでも弾きますか。息子の部屋から楽譜を取って来たけれど、難しそうだ。まずは指の体操から始めるしかないかな。
ピアノは、リビングを彩るオブジェになってる。ずっと調律をしてないからどんな音が出るやら。
「ピアノ習いたいよー、みんな習っているんだよ」と娘が言い続けて、それを聞いた私の親が買ってくれたピアノ。娘は結局、二年も習わなかった。一緒に習い始めた息子はそれでも中学まで弾いていていたけれど、受験に部活にと忙しくなって見抜きもしなくなった。それでカバーをかけたままで何十年もたった。
埃のついたビロードのピアノカバーを外してみる。黒々とした光沢は昔のまま。蓋を開けると、鍵盤は黄ばんでいた。押してみる。
「びよん、びよーん」
えっ、何? この音。いくらなんでも、そんなはずはない。そうだ、押すのではなく軽く叩くんだ。
「ピヨン。ポロン、ポン」
音が出た。習ってみようかな。夫が通っているパチンコよりはよほど有益だろう。でもお月謝がかかりそうだ。昔はご近所の子ども達は集会所に来ていたピアノの先生に習っていた。みんな一緒だったので安く済んでいた。隣も上も下も、みんなでポロンポロンだったっけ。一人ぐらいピアニストになっていれば、この団地も有名になっただろうに。そんな事を思って笑ってしまう。
ピアニストにはならなかったけれど、一号棟にいた雄ちゃんは良い高校に入って、東大に行ったんだった。小さい時からの優等生で、ピアノも真面目に取り組んでどんどん上達していた。うちの子ども達の間の学年だったけど、有名人だったから知っていた。
雄ちゃんは、就職して一年たたないでうつ病になったらしいという噂が聞こえてきた。
それで家にいるのかと思ったら、自殺してしまった。高校の校庭で桜の木にロープをかけて釣り下がっていたという話だった。
団地の小学校や中学校の校庭でなくて良かったと、みんなで話したものだった。我が家の子供達の頭は適当だったけれど、それで十分だとしみじみ思った。
そうだ、確か雄ちゃんのお母さんからも葉書が来ていたような気がする。
あった、あった。
《お久しぶりです。お元気と思います。私は出発することにしました。》
お通夜とお葬式はみんなで行ったけれど、その後は連絡が取れなかった。いつの間にか引っ越ししてしまったのだ。誰もその後の様子は知らなかった。
後で雄ちゃんの同級生のお母さんから、「元気な子ども達の姿を見るのが辛い」と言っていたと聞いた。
昔は窓を開けておくと、ピアノの音があちらこちらから聞こえてきたものだった。団地の玄関ドアは厚いので、閉めておけばよほどの音でなければ聞こえない。
日中は空いた窓からあちこちで練習してる音が聞こえてきた。だから、ああまた間違ってお母さんが叫んでいるとか、丸聞こえだったっけ。もちろん私もいっちょ前に「また間違ってる。楽譜よく見て」なんて言っていた。「弾けないくせに」と、娘がわめいた声も窓から、だだもれだった。
ちょっと出かけて帰ってきたら、片付いていたリビングが散らかっている。よいしょ、よいしょと三階まで階段を登ってきたのに座る場所もない。
押し入れの中身が散乱している。今は使っていない座布団が天袋から降ろされている。この座布団は結婚した時に夫の母親が持たせた物だから捨てられなかった。使った事あったかな、夫はそんな事覚えてなんかいないだろうけど。
床には本棚から引っ張り出した本が山積みになっている。スケッチブックも横に積まれている。うん? これ、私の部屋に置いてたはず。公民館に習いに行ってたのに、夫が病気になった時に辞めてしまった。退院した夫に、
「どうせ下手なんだから、スケッチブックはいらないだろ」って言われた。
「そうね」と言って、自分の部屋に隠したのに。
胃をほとんど取った夫の食事は大変だった。
「こんなドロドロしたものをどうやって食べろと言うんだ」
そういう夫をなだめすかして何とか食べてもらった。それだけで私はもうくたくたで、自分が何を食べていたかは思い出せない。そんな私にとって、色鉛筆で絵を描く時間は憩いだった。こっそり部屋で描いた絵はキッチンから持ってきた野菜ばかりだったけれど。
今はまだそんな気にはならないけれど、また描くかもしれないから、スケッチブックは捨てたくない。
あっ、括られている古い少女漫画雑誌の山。娘が読んでいた懐かしい雑誌。
「もうこんなのいらないわね、捨てていい?」と訊いたのは、娘が三歳の孫を連れて遊びに来た時だった。
「そのうち、持って行くから取っておいてよ。もったいないでしょ」
そう言って、私を睨んだのに、そのまま引き取りには来なかった。
それにしても、この惨状。泥棒が入ったのだろうか? お金や貴重品はここには置いてないのに。スケッチブックの間にあるとでも思ったのかしら。
そうだ、お金。自分の部屋に慌てて向かう。姿見の隣のチェストに入れてある。でも、部屋は綺麗に片付いたまま。現金も通帳もそのまま。姿見の装飾品も、さっと見た限りは問題ない。よかったと安堵しながら散らかったリビングに戻った。
椅子の上に乗っていた本を下に置いてやっと座る。階段下のポストから持ってきた葉書をポケットから出す。綺麗な青い色の葉書。色のついた葉書は珍しい。
《幸せに暮らしていましたか。私は楽しく出かける事にします。》
下の子どもが中学に入ったので、パート勤めをした会社の近くで会った人。男物のシャツを着てジーパンを履いていた彼女の樹木のようなすっきりした姿を思い出す。誘われて一緒に映画を見たり、美術館に行ったりした。生きているってこういう事だと思った日々だった。
この団地で五十年も暮らして私は幸せだったのだろうか。このガラクタのようなものに囲まれて。そうか、散らかっているのも大事に仕舞ってある物も、もうガラクタなんだ。
家の中をこんなに散らかした犯人は分かっている。泥棒でなければ、夫しか考えられない。何かを探してそのままにしたのだろう。何を探したんだか。私がいない時にあれこれ漁られるのはいい気持ちはしない。
暑くなったから半袖シャツでも探したのだろうか。箪笥の中身を全部出すことはないのに。片づけるのは私なのに。でも仕方がない。七十歳までずっと仕事をしていた夫は、家の事を何もしなかった。だから自分の部屋以外は、何がどこにあるかも分からない人だったのだから。
いつの間にか日が長くなり、すっかり暑くなった。夏になったのだ。
私は、新たに届いた葉書を眺めた。
《もう出発することにします。》
それだけ。名前も書いてない。名前ぐらい書けばいいのに。でも、この丸い字、見た事がある。絵画教室で一緒になったあの人かなあ。
まあいいと、置こうと思ったら電話台が見当たらない。電話機もない。見回すと、台所のシンクの脇に葉書が積んであった。そこを目指してポイっと投げる。
部屋の中は片付いて綺麗になっている。子どもたちが来たのだろうか。
家具のない部屋は、柱や襖がいやに目立つ。
柱の傷は子どもの身長だ。初めて立った時から毎年測っていた。娘は中三まで、息子は中二で終わり。それでも息子は私の身長を越えていた。
薄汚れた唐紙の傷は、息子がナイフで切りつけた跡。ガッ、ガッ、ガッと切りつけていたっけ。何にそんなにイラついていたのだろう。私は声をかける事も出来なくて、隠れてそっと見ていた。怖かった。
寝室の障子の桟は修繕の跡だらけ。バンと、ひっぱたかれて私の身体が吹っ飛んだのだ。それで障子の桟が折れてしまった。あの時は驚いた。驚きすぎて痛みも怖さも感じなかった。
夫は壊れた障子を見て、「おい、接着剤はどこだ。いや、セロテープが先だ」と、おろおろしていた。うずくまっていた私の頭から血が流れていることに気が付きもしないで。私がちっとも動かなかったので、「早くしろ」と私を見て、
「わーっ、なんだ、それは。血が出ているじゃないか」と叫んだのを覚えている。
夫は私を抱えるようにして車に乗せて、総合病院に連れて行った。幸い、たいした事はなかったのだけれど、その後は手を上げる事はなかった。それどころか、私に近づかないようにしていた。夫の顔を思い出すときは、いつもあの驚いた顔が出て来る。もうそれ以外思い出せない。
子ども達がキャッキャッキャッと声を上げて、部屋から部屋へと走り回っている。小さかった頃の娘と息子によく似た子供達の影が通り抜けていく。
窓の外は遠い青空。子どもの声が風と一緒に雲に乗って去っていった。
隣の家のドアがバタンと閉まる音がした。玄関は締まっているのに、続いて上からも下からも、バタン、バタンという音が聞こえてきた。階段を降りていく足音も聞こえてくる。
古い台所のシンクの前で、私はその聞こえるはずのない音を聴いていた。
シンクは、長年使っているから傷ついているけれどピカピカだ。ガス台の五徳は薄汚れてボロボロ。汚れはマメに取っていたのに錆が出て少し欠けている。みんなよく頑張って働いてくれたんだ。私の城の、大切な仲間たち。
シンクの横に置かれた葉書の束は、いつの間にか二センチほどになっている。
葉書が一枚、ふわふわと浮かんでいく。続いて一枚また一枚と、浮いて薄くなっては消えていく。
私もそろそろ行かなくては。
玄関で振り返って家の中を見渡す。ここにあるのは、私の家の残骸。色々な事があったけれど、いる物もいらないものも、もう何もない。もともと何もなかったのかもしれない。
最後の一枚が消えていく。私の書いた葉書が。
《私は出発することにします。》
私は出発することにします 春日 いと @itokasugaito75
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