彼らは魔女の夢を見る

トモ倉未廻

彼らは魔女の夢を見る

「初代の魔女ぉ?」

 いかにも笑えない冗談を聞かされたという口調で麻耶(まや)あゆみが聞き返してくるのに、佐伯大輔(おのだいすけ)は沈黙で返事をした。珍しく彼女が出してくれた珈琲にスティック砂糖の封を切って砂糖を注いでいると、ひとしきり呆れ果てて落ち着いたらしい麻耶が今度は面倒くさそうに言葉を続けた。

「——初代の魔女。能力者の女性の事を指す言葉。歴史上、女性の能力者が確認された事はないから、存在するようで存在しないモノの例えにも使われる。青い薔薇とか、そういう事葉と同義語じゃない。そんな事を聞くためにわざわざ、私のところに来たわけ?」

「そこまで俺も暇じゃない」空になったスティック砂糖の縦長の袋をくるくると指先で丸めながら大輔は応えた。「昨日、その初代の魔女を探してほしいっていう依頼人が事務所に来たんだ」

 麻耶の目が大きく瞬く。

「都市伝説を探せって?」

「身なりのいい男だったな。誠実そうな、悪い人間には見えなかった」丸めた袋をテーブルに放り出してからカップを掴んだ。美味くもなければまずくもない、必要最低限のインスタント珈琲を味わうつもりもなく一口飲む。少しだけ話を先延ばしにしたい後ろめたさの行動だった。「必死に依頼してくるもので断れなくて。まあ、……依頼料も弾んでもらった」

 見開かれていた眼が、分かりやすい憐憫を込めて細められた。「とうとう、警官時代の貯金を食い潰したんだ?」

「——、うるさい」

 図星である。睨む大輔の眼差しを目にかかる前髪程度の扱いで手で払いのけるような仕草をしてから、麻耶は机に両肘をついた。両手を組み合わせた上に顎を乗せて、小さく傾げてみせる。

「でも、初代の魔女の都市伝説なんてデマだってみんな思ってるようなもんじゃない? 初代の魔女を探すよりも、女装趣味を持った能力者を探したほうが早いんじゃない? そっちの情報のほうが、私も提供できると思うけど」

「依頼人は、正真正銘初代の魔女を探してほしいって事だ」そのあたりの事はちゃんと確認済みだと片眉を上げて主張してから、大輔はカップをテーブルに戻した。上半身ごと動かして真正面で麻耶を見る。「俺の知っている限り、一番情報網が広くて頼りになるのはお前だ。些細な事でもいい、何か心当たりはないか?」

「心当たりって、いってもねぇ」目を部屋の天井へと泳がせながら呟くと、麻耶は両手を解いてから軽く肩を竦めた。「いくら貰ったか知らないけど、初代の魔女なんているはずがないんだから。能力者の魔術は男性特有の遺伝子の中にあって女性にはほぼ百パーセント発現しないっていうのが魔術研究の結論でしょ? だから、魔術師はいても魔女はいない。でも、昔にいたとか、あんまりに強大な力過ぎて政府が内々に監禁しているとかっていうのが、みんな知っている都市伝説。作り話なんだから、いくら警察御用達の情報屋である私であっても、魔女の監禁場所なんて知らないから」

 短く、大輔は息をついた。「一億、だったんだ」言葉を追いかけるように俯くと、視界から外れたところで、「いるかどうかも分からない魔女を見つけ出して一億、なら、魔術を研究してる企業なら喜んで出しそうね」妥当な金額だと頷く麻耶の気配が伝わってきた。

「違う、」顔をあげて首を横に振る。「成功報酬ならさすがに、俺も引き受けたりなんてしない。完全に徒労で終わると分かりきっている話じゃないか。それならまだ、ツチノコを見つけて金一封のほうがロマンがあっていいと思う」

 瞼の上下する音がはっきりと聞こえそうなほどに麻耶は瞼を動かした。「あらら、」その仕草の割には幾分気持ちの欠けた驚きの声をあげる。「即金で一億? いる7かいないかも分からない魔女の捜索に一億? 世の中不景気でも、お金ってある場所にはあるのねぇ」

「……さすがに怖くなって一割前金と経費で貰うだけにしたけどな、」

 ふと麻耶の声に険を嗅ぎ取って返した言葉は、大輔としても言い訳じみたものに感じられた。

 ようするに、後の九割は相手に返した。と言っているわけだが、それでも一千万だ。

 小学生でも知っている都市伝説の真相を探るでもなく、実在しているかも分からない人間の探索に一千万。四年前、高校卒業と共に警察官採用試験に合格して警察官になり半年前に退職するまでの期間、地道に貯金をしても到達できなかった金額。しかも、実際にはその十倍。一億円をかけて初代の魔女を探してほしいと依頼されたのだから、依頼主の本気を疑う事は出来ない。正気のほうは思わず、疑ってしまったけれど。

「なるほど」と、麻耶が得心した様子で頷いた。「さすがにそれだけのお金を詰まれたら無駄足も報酬分のうちって事になるか。大輔君は律儀だから」一応は探してみたのだと自分自身に言い訳するために私のところに来たのね、と暗に言ってくる目に遠慮なく大輔は頷いた。

 でなければ、いくら「探偵業」という平日も休日もなさそうな自営業を営んでいても、大事に使うべき平日の真昼間に麻耶の事務所を訪れたりはしない。警察官時代からお世話になっている情報屋としての腕は買うものの、一個人としての麻耶あゆみという人物は、知り合い程度の関係に留めておきたい癖のある人間だ。人の行動どころか世間の動向さえ見透かしている部分があり、かといって助言らしき事をする事はない。例えば、これから起こるかもしれない事件の真相や犯人をすでに把握しているけれど、その事件が起こらないように未然に行動するなんて事は絶対にしない。そういう人物だ。

 警官時代からの付き合いというのも、そんな彼女の人柄によるところが大きかった。

 警察官は証拠を積み上げ足を使い、犯人を追い詰めて逮捕する。分かりやすい一本の道が見えている場合よりも、複雑に入り組んだ上に袋小路さえあるその作業を行っている者として、彼女の全部を見通すような言動は大抵、神経をこれ見よがしに磨耗させる紙やすりみたいなものだった。けれど厄介にも優秀で、手放す選択肢はありえない。担当が根をあげれば次の担当が選ばれ、次がまた駄目になればそのまた次——……、と文字通りとっかえひっかえしている最中にひとり、まさしく天命のような懐深い性分の警官が彼女の担当に任命された。

 腕のいい情報屋と交流を持っておくのは警官にとっての有益だ。と、当時新人だった大輔と麻耶を引き合わせたのも、その人物だ。

「でも、律儀な大輔君には申し訳ないけど。やっぱり、知らないものは知らないのよね」自分の言葉に納得するように麻耶は頷いて、「他の情報屋にあたってみても同じだと思うけど。むしろ、私よりも盛大に呆れられる事を保障するわ」ソファから立ち上がった大輔を上目遣いに見遣った。

 その目が見るからに気の毒がっていて、大輔は目をそらした。いつものように見透かしての同情ではない。麻耶でなくても、こんな話を持ち込まれた情報屋の反応は火を見るよりも明らかだ。驚くか。呆れるか。もしかしたら羨ましがる、という事もあるかもしれないけれど。

「それでも、探してほしいと依頼を受けて前金も貰っているから仕方ない」

 麻耶がさっき指摘した通りで、見つからないと分かり切っていても探す努力をする事が今回の依頼みたいなものだ。一千万という大金を罪悪感なく生活費に回すための儀式みたいなもの、と言い換える事も出来る。ここ半年間で溜まった滞納料金を一括返済した後で、築云十年のアパートの家賃を払い、公共料金を払い、徹底的に切り詰めても出て行く時は出て行く食費に回す。そうしたら後何年かは、今みたいな生活を維持できる。

 本来ならあの依頼主には、こんな馬鹿げた依頼はするなと言うべきだった。あんた、鴨にされても知らないぞ。一億なんて大金をこれ見よがしに見せて、存在も不明な初代の魔女を探してくれだなんて、一億円を溝に捨てるようなものじゃないか。まっとうな価値観で生きる人間ならば、そう諭すべき場面だった。

 欲に眼が眩んだ。一言で言えば、それだけだった。

「……そういえば、」ふと今思い出したような口調で、実のところは、この事務所のインターフォンを鳴らした時から頭の隅に留めていた事を切り出す。麻耶に眼を据えた。「頼んでいる事はどうなった? なにか、進展はあったのか?」

「ないわね」考える素振りもなく、予め用意していたかのように打てば響く速さでの返事だった。

 簡潔で素っ気なく、淡々とした麻耶の言い方に無意識に大輔の眉根が寄る。向けられる大輔の険のこもった眼差しを写し取るように麻耶も不機嫌そうな顔をすると、尖らせた唇で言葉を続けた。「あのね、私だって知り合いなんだから、大輔君ほどじゃないにしても色々と心配したり気遣ったりはしているのよ。でも、こっちが頑張って情報網を広げても見つからない時は見つからないの。警察みたいな権限を持ってるわけでもないんだから」

 首を横に振って大輔は応えた。「警察はあてにならない」

「半年前まで警官だった人間が言う台詞じゃないわ」大袈裟に呆れた顔をしてため息をついた麻耶はけれど、しばらくしてから目を瞬かせて、「あ。そうか」と納得するように声をあげた。「だから警察官、やめたんだもんね」

 あっけらかんとした言葉だった。その他愛ないなさの分だけ、ぐっと喉の器官が出ようとする言葉の群れで塞がれたような息苦しさを大輔は感じずにはいられなかった。

 その通り、信じられなくなったから辞めた。心底失望して、同じようにはなりたくなかったから飛び出した。——けれど、と出ようとした言葉は言う。その時の事を知らない麻耶に、さも見ていたかのように言われるのは心外であり、見透かれたのだとしても面と向かっては、言われたくない言葉だった。

「……、勝手に納得していろ」押し留めた言葉の代わりに自制心をふんだんに効かせたせいで無感情となった文句を吐き出してから、大輔は麻耶の事務所を出た。玄関扉を開けたところで、「私への依頼料は一番最後でいいから。他の事務所に先に支払っておかないと、調査そのものが打ち切りになっちゃうんでしょ?」と、当たり前の常識でも語るような麻耶の声が背中にに投げかけられたけれど気づかなかった振りをして、扉を閉めた。


   * * *


 バタン、といつもよりも少し大きな音を立てた扉が再び開いたのは、大輔が出て行ってから十分ほど経った時だった。まず控えめに鳴らされたインターフォンに、「はぁい。ドアは開いてるから好きに入ってきて」と応じると、小さな間の後に扉が開く。

 入ってきた紺の背広姿の男は困ったように眉尻を下げていた。大男と呼んでも差し支えない、体格のいい男である。

「世間は物騒だから玄関の扉はちゃんと閉めろ、と言ったでしょう?」

「強盗なんて入らないわよ。そんなに金目のものなんて置いてないし、いかにも狙われそうなオートロック式のマンションでもないんだから」

 これがいつもの、顔を合わせてすぐにするふたりの挨拶だった。

 男としては、注意したところで麻耶が殊勝に心を入れ替えて防犯に努めるとは思っていない。かといって無用心な事には変わりなく、相手が意に介さないと承知していても警官としてそれを見過ごす事はできない。ゆえの発言だ。一方で麻耶からすれば、言うだけは言いたい男の身に沁みた職業精神を馬鹿にする気はないものの従うつもりもないので、とりあえず聞いてはおくけど必要ない、の考えで男の主張を退ける。

 なまじ正義感が強ければこの時点で、情報屋としての麻耶あゆみの相手は出来ない。見透かした態度に腹を立てる以前に不適格のレッテルを貼られた警官が何人いたかは、ふたりとも預かり知らないところだった。

 嘆息一つ。それでいつもの挨拶の終了を宣言した男は、「この間の情報提供の報酬を持ってきましたよ。ついでに駅前のケーキ屋で安売りしていたからこれも、」事務所の中央にあるテーブルに分厚い茶封筒とケーキ屋のロゴが真ん中にプリントされた白い箱を置いた。「情報は大変有益に使わせてもらった。感謝している。と、高柳課長が言ってました。今後とも何かネタを掴んだらよろしく、との事です」

「模擬魔術の密造工場の場所なんて、そうそう手に入らない情報だけど」

 テーブルとセットになっている一人掛けのソファに腰を下ろすと、封筒のほうには確認がてらの一瞥だけをくれて、麻耶はケーキ屋の箱を開けた。正方形の箱の底に側面を合わせるようにして、二つのケーキが収まっているに笑みを浮かべる。「私一人で二つとも食べろなんていう事じゃないわよね?」

「他の部署から、情報提供の要請をたんまり受け取ってきましてね」男は苦笑いと共に肩をすくめた。「全部を伝え切るまでにはケーキも食べ終えてますよ」

「分かった。ちょっと待ってて、」言って立ち上がり、事務所とは暖簾一つだけで隔てられている場所、台所と呼ぶにはコンロと洗い場しかない狭い空間で珈琲を入れようと洗い場の上の戸棚を開けた。さっき大輔に入れたばかりですぐに取り出せる位置にあったインスタント珈琲の瓶を手に取る。「——……、誰か、客が来ていたんですか?」と、訊ねられているというよりは独り言のようにぽつりと落ちた男の声を拾ったのは、瓶の蓋を開けた時だった。

「そりゃ、うちの事務所は繁盛してるから。お客さんぐらいは来るよ、十分ぐらい前だったかな?」あっけらかんと応えてから、短く笑い声をあげた。「でもそのお客さん、おかしくてね。初代の魔女の情報を売ってほしいって頼まれたのよ。女装した能力者の事でも、都市伝説の真相としての意味じゃなくて、正真正銘実在する初代の魔女を探すっていうの。正気の話じゃないでしょ?」

 問いかけに返ってきたのは、小さな間だった。しばらくしてから男が口を開いても、「麻耶はなんて答えたんですか?」子供でも知っている都市伝説としての初代の魔女を探す客へ麻耶と同じ呆れ交じりの笑いを向けるでもない質問になっていた。

 カップにスプーンで掬った珈琲の粉末を入れる。「そこはさすがに、知らないものは知らないって答えるしかないじゃない。でも諦めてないみたいだったけど。他の情報屋にあたってみるんじゃないかな」他愛ない、どうでもいい世間話のような口調で締めくくった。世の中での初代の魔女に対する認識なんてものはこの程度だ。

 ポットの湯をカップに注ぎだしたところで、暖簾の向こうで人の動く気配があった。

「すみませんが、」唐突に短い謝罪が布越しに寄越される。続いて靴音が響いた。「大事な用事を思い出したんでちょっと行ってきます。すぐに帰って来ますけど、先にケーキを食べてください」急いでいる人間特有の言葉を置き去りにしていくような口調ではなかったものの、語尾と重なって麻耶の耳に届いたのは、玄関扉の蝶番が軋む音だった。

「あら、じゃあ。どっちを食べたいのか教えてもらわないと困るわ」

 言って、湯気の立つカップを持っていないほうの手で暖簾を避けて顔を出した時には、パタン、と玄関扉が閉まっていた。その扉のすぐ脇にあるコンクリート製の階段を足早に駆け下りていく靴音がすぐに遠ざかって消えるまでを見送って、麻耶はケーキ屋の箱の傍にカップを置いてソファに腰を下ろした。そうしてからふと、脚の短いテーブルの下を、上半身を傾けて覗き込んだ。

 掃除が行き届いている床にひとつ、丸められた紙くずのようなものが転がっていた。

 テーブルにあったものが偶然落ちて下に入り込んだのか、たまたま目に入らない限りは気にならない程度の違和感でひっそりとそこにあった。手を伸ばして拾い、机近くのゴミ箱に放り捨てる。くるくると犬の尻尾のように丸められていた長細いスティック砂糖の袋は、空のゴミ箱の中で小さな軽い音を二回、短く立てた。

 やっぱり、あの人は立派な警官だ。と、満足感に麻耶は顔をほころばせる。

 彼が前触れもなく席を立ち足早に玄関の外の会談を駆け下りて行った理由が、さっき綺麗な弧を描いてゴミ箱に落下したスティック砂糖の袋だった。これ見よがしなあざとさもなく、ただ床に転がっていただけにしか見えないごみを目にして、彼は最初に抱えた小さな違和感で先客の有無を訊ねてきた。違和感は麻耶の他愛ない返事で確信に変わり、彼をこの場所から飛び出させる原動力になった。机の下の丸められたスティック砂糖の袋に気づかなければ今頃、テーブルを挟んでケーキを食べながら、仕事の話をしていたに違いない。

 全部は、男の観察力と洞察力が成した事だった。床のごみを見たのが他の誰かならば、男と同じ結論に辿り着く事はないだろう。精々、掃除が行き届いていないと顔をしかめるぐらいか、親切のつもりでゴミ箱に捨てるかだ。

 男の分の珈琲を入れなかったのは、正解だ。

 自画自賛するようにこくりと頷いてから、麻耶はケーキ箱に向き直ると、迷う事もなく右側に収まっていた苺のショートケーキの下に敷いているアルミ箔の両端を丁寧につまみあげて、テーブルに移した。もう片方のチョコレートケーキのほうが若干魅力的だから、そっちは夕ご飯のデザートにするつもりだ。

 すぐに帰ってくる。男はそう言ったけれど、実際にこの事務所に帰ってくるのは当分先の事になるだろう、と麻耶には分かっていた。彼にとってみれば、麻耶あゆみという情報屋から得られる利益よりも、スティック砂糖の袋が偶然を装ってもたらしてくれた情報のほうが遥かに大事な事だからだ。今頃は麻耶の事はもちろん、差し入れたケーキの存在も頭の中から綺麗さっぱりすっ飛んでいる。

 とりあえずは冷蔵庫にチョコレートケーキを放り込んでも、食べるのに思わず躊躇するぐらいの間を空けて、男はまたここを訪ねてくるはずだ。——……はず、ではなくて、そうなって貰わなくては困る。泥と煤で汚れた憔悴しきった顔も、絶望が頭の中で飽和状態を引き起こしたせいで何もなくなってしまった無表情も、麻耶は見たくなかった。

 頭を振る。脳裏に浮かんだそれらの顔を意識の外へと放り捨ててから、麻耶はケーキに向かって居住まいを正した。ケーキのフィルムを剥がしてから、両手を合わせる。

「いただきます、」


   * * *


 電話をかけた三人が三人とも同じタイミングの同じ理由で爆笑すると、最後の一人の時にはもういちいち腹を立てる事も言い訳を並べるのも面倒になっていた。何かを言ったところで火に油を注ぐがごとく笑いが長引いて、本題から遠のいていくだけだ。肺の中はもちろん、血中に流れる酸素も材料にして長々と続いた笑いがようやく、息継ぎのために収まりだすのを見計らって、大輔は口を開いた。最初の情報屋二人とのやり取りのおかげで至極簡潔にまとまったこっちの依頼を口早にまくし立てた。

「初代の魔女の情報がほしい。俺でも探せるような、ネットで流れている情報はなしだ。出来れば口コミのやつがいい。お前が大好きな女子高生の噂話とかでそれらしいやつを探してくれ」

『……、おいおい』嘆息さえ笑いの余韻で揺らして、電話越しに不満げな声があがる。『人を危ない人間みたいに言うなってェの。女子高生が好きなんじゃなくて、女子高生が持ってる情報網の広さが好きなのよ。俺は』

「有益なのが手に入るんなら、俺は別にどっちでもいい」正直に応える大輔に、『ひでェなぁ、ホント』大袈裟に嘆く素振りで声がむせび泣いた。電話の向こうを脳裏で思い浮かべてみても、ちっとも泣いていない男の姿が思い浮かぶのに、声の演技だけは立派。麻耶のような神がかり的な情報屋とは違い地道に足を使って情報を仕入れるこの男は、一ミリの罪悪感が沸かない中でも土下座して恐怖心がなくとも泣き叫んで、裏社会を泳いでいる。

 しかしこれはこれで最初の二人同様に本題からずれて行っている気がして、大輔はひっそりとけれど相手にもしっかり伝わるようにため息をついて口を開きかけた。

 その時、大輔の声を奪ったのは、電話越しからの絶妙に間をついた声ではなく、数メートル離れた駅前広場に設置された拡声スピーカーからの音だった。片道二車線の道路を挟んだバス停のベンチに座っていた大輔は、音声に変換されなかったざらついた甲高いノイズが空気を走り、耳に図太く突き刺さってくるのに顔をしかめると、半ば開いた口を閉ざしてから顔をそっちへとやった。

『外がうるさいけど、何かあったのか?』怪訝そうな声に応える。「解放戦線の連中が街頭演説でもはじめるらしい」ただ目に入った光景をそのまま感情なく声で表現しただけのつもりだったものの、実際に空気を震わせて耳に入れば、呆れるぐらいに分かりやすい敵愾心に溢れている。

 電話越しにも伝わっただろう。『ふぅん、』触れようともせずに端的に興味がない事だけを告げて、『あぁ。そういえば、初代の魔女を特集のテーマにしようとしたどっかのテレビ局のディレクターが行方不明になったって噂は知ってるか?』声はふとその事を思い出したような唐突さで訊ねてきた。

「——いや、初めて聞く話だが、」意識を駅前広場からそらすついでに、目を空へと放り投げる。

 気遣われたというわけではなかった。解放戦線、正式名称は能力者解放戦線に対して大輔が条件反射的に抱く悪感情を彼は、依頼を請け負った者として知っている。わざわざ首を突っ込んだところで得られるものがない事も勘付いている。だから情報屋としてメリットがないところを掘る気はない、ただそれだけの事だ。

 プロとして、情報を売り物にする商人と情報を漁るだけの野次馬との境目を心得ている男だった。

「初代の魔女をテーマにしたディレクターが行方不明になるのなら、俺が物心ついてから何人の人間がそれで行方不明になる計算だ?」

 夏に入れば必ずといっていいほどある心霊番組の常連ではないか。

 疑っている事を隠さずに質問すると、『最近で初代の魔女を取り扱った番組は一定のルールに基づいて作られているらしい。行方不明になったディレクターの一件がきっかけで、な』神妙に声音を落としたもっともらしい口調で、返事がよこされた。

『初代の魔女の噂が流れはじめたのが、今から二十年前ぐらいだろ? その頃に都市伝説の特集を組もうとしたテレビ局があったらしくてな。ディレクターが今のお前みたいに、色んな情報屋や探偵に調査を依頼したらしい。でもどこも巷で流れている以上の情報を手に入れる事は出来なかった。ディレクターは納得出来なくて、自分で情報を集めたらしい。そうしてある日、一本の取材テープを残して行方知れずになった——、というわけだ』

「想像に想像を重ねたような話だな、」価値を算段する言い方をした。情報収集を依頼した側としては満足できるほどの価値はない、と素っ気なく言い切った後で首を傾げる。「ディレクターの失踪と初代の魔女を関連付けるのは、その取材テープか?」

『噂じゃ警察が持っていって、テレビ局や遺族が返してほしいと訴えても返さなかったっていう事らしい。返せないほどの何か重大なものが映っていたってさ。ようするに初代の魔女の新たな情報が出てこないように、出てきても処分できるように設立されたのが、対魔術課だと』

 自然とため息が落ちていた。呆れた気持ちがそのまま凝縮して、開いた口から出て行く。「あそこはそんな陰謀論がありそうな場所じゃなかったよ」

『あ、そうだった。お前って、今みたいに無職になる前は警察官だったよな』話す相手を間違えたとばかりに悔しげな言い方をするのは上辺だけで、続いて質問して来る声には暗にこっちが本題だと告げる真剣味があった。『でさ、実際どうだ? 安定した職業を辞めて俺達と同じ畑に住んでいる気分っていうのは? 前に情報屋はどうしてこんなにもがめついんだ? なんて言っていたが、少しは分かったか?』

「……、それをお前に嫌味を込めて言ったのは俺じゃない」

 嘆息交じりに見当違いの皮肉だと主張すると、きょとんとした間が束の間、電話越しから伝わってくる。記憶違いかどうかと確認し、やはり自分の言った事が正しいと理解して反論してきた大輔に鼻白むまでの、会話が再開されるまでの数秒間、大輔はその情報屋の職業を馬鹿にした人物の事を脳裏に浮かべた。

 麻耶のような裏で警察からの依頼を引き受けているようなところとは違い、電話越しの相手は裏社会の情報をメインにした違法と合法の境界線をするすると泳いで生きる情報屋を営んでいる。その分だけ「徹底した秘密主義」を一人きりの事務所に額縁付きで社訓として飾っていて、料金はうんざりするほど高い。とりあえず高校生が貰う月の小遣いを全額あてがっても足りず、不眠不休のアルバイトを夏休みに強行してようやくどうにかなるぐらいだった。

 情報屋としてのプライドを傷つけられて、今日までずっと根に持っていた。と、彼が言うのなら、大輔にも言い分がある。高校生がまさしく身を削って手に入れた金と引き換えの結果報告が要約すれば「見つかりませんでした」の一言に尽きた事には、客として憤慨する理由にはなるはずだ。

「お前に文句を言ったのは、大樹(だいき)だ」

 その隣に座っていた大樹の瞬間的に爆発する不穏な雰囲気を感じ取って思わず、椅子から跳ね上がろうとするその体の両肩を掴んで押さえつけたのが自分だ。

『唾を飛ばしてきた奴は確か、髪の毛が肩ぐらいまであっただろう?』今のお前みたいに、と面と向かっていれば無遠慮に指先を突きつけているだろう物言いに吐息を落とす。

「あの時は俺のほうが髪が短くて、大樹のほうが長かった。あいつ文化系の部活に入っていたからな」

『双子って判別が難しいよなぁ。一卵性双生児だったよな、お前達』

 相手違いの皮肉をぶつけた事自体をなかった事にしようとしているのがありありと分かる、話題の変え方だった。「あぁ、両親も小さい頃はよく俺達の事を間違えていたな」別に大樹と勘違いされて腹を立てる理由はない。男がふってきた話題に相槌を打ちながら、大輔は何気なくぐるりと周囲を見回した。

「異常なほどによく似ている、とはいつも言われてきた事だ」

 そのせいで大輔が売られるはずの喧嘩を大樹が売られ、またその逆も幾度かあった。好きだと告白される場合でも然り。小中高と制服に留める名札には「佐伯」としか書いていないのが普通だったから、「佐伯兄? 佐伯弟?」とまず質問される。双子の兄、双子の弟、という意味なわけだけれど、二つ上の兄がその話を聞いて思い切り顔をしかめた事がある。俺はお前達の兄貴じゃないのか、という顔だ。

 そういえば、その兄だけは一度も、弟達を勘違いした事はなかった。あの人だけはいつも迷わずに、躊躇わずに、弟達の名前を呼んでくる。

 大輔。——、と耳の奥に残っている声が蘇った。半年前を境にがむしゃらに遠ざけ、聞く事のなくなった声だというのに、ほんの少しでも脳裏を兄の事がかすめれば、つい数分前に呼ばれたかのような鮮やかさで思い出せる。

 気づけば、大輔は眉をひそめていた。思い出したくもない事を思い出してしまった、と体がまず拒絶反応を起こしたようだった。そうしてから少し遅れて心が、改めて明瞭な不快感を自覚した。絶望も失望も、怒りも、おおよそ負の感情と呼べそうなものがすべて一緒くたになって混ぜ合わされたような、どろどろとして粘ついた気持ち悪い感情だった。 

『……まあ、お前達が心底似ているっていう点はある意味で助かったかもな』と、情報屋は電話の向こうで頷く。『これから長い年月がかかっても、お前の顔があいつの顔ってわけだ。向こうがそれを危惧して整形しようとしても、それはそれでカルテなりなんなりが残って、情報が手に入る。双子で生まれた事を感謝しないとな』

「長い年月、ね」男にしてみればなんでもない事なのだろうが、意味深な発言として受け取った大輔は口の中で呟くように言ってから苦笑いを浮かべた。短く、電話越しにも伝わるように音を立てて笑ってみせる。「ようするに、手こずっているって事か?」

 小さく空いた間は、意図せず口にした言葉が失言であると教えられての、言い訳を考えあぐねた時間だったのだろうけれど、『失踪人の行方ひとつ、ろくに情報が手に入らないなんて俺もヤキが回ってきたって事かもな』返ってきたのが素直に自分のふがいなさを認める殊勝な発言だったので、大輔は苦笑いを浮かべるのをやめた。

 バスがゆっくりと速度を落とし、バス停の前に停車した。車体の中に溜まっていた空気が抜けていくような音を立てて、前と後ろの折りたたみ式の扉が開く。

 立ち上がり、「大樹の件はこれからもよろしく頼む。依頼料のほうは明日にでも、全額滞納していた分も含めて口座に振り込んでおく」言って、同じようにバスに乗り込む数人の乗客達の列の最後尾に合流した。

『しかし正直な話、半年間探して全然俺の網に引っかからないって事は、裏社会を根城にしている可能性は低いかもしれないな。もしくは、俺からお前の弟の存在を綺麗に隠せるような実力者に匿われてるか。監禁されてるか、』淡々と事実を述べているに過ぎない口調で言ってから、電話越しで何かに思い至ったように声が一瞬跳ね上がった。『一般社会でただ失踪しているだけなら悔しいけど、警察とかのほうがよほど俺よりも役に立つんだが。前に、捜索願がどうのって言ってただろう? あれ、どうなったんだ?』

「——、警察なんてあてにならない」短く、それだけを言い切った。

 ちゃんと男の質問に向き合っての返事ではないのは理解していたものの、捜索願、の一言で思い出せる事に意識を向けた時に否応なく脳裏に浮かぶだろう不愉快な記憶と向き合うほうが鬱陶しくて仕方なかったのだ。大輔の前にいた老女がゆったりとした動作で段差の大きいバスの入り口を手すり伝いに登るのを眺めながら、「じゃあ、何かあったら連絡をくれ」別れの挨拶をして携帯電話を切った。ズボンのポケットに押し込んだ時には老女も入り口を登りきっていて、入り口脇にある整理券を抜き取り、その後に続く。

 バスの中には、まばらに人が乗っていた。年寄りが半分、後は小さな子供を連れた若い母親に、平日の昼下がりのバスに乗るのにいかにも慣れていなさそうな若者達が若干名、といったところだ。それでも座席は綺麗に埋まっていた。近くの手すりを適当に掴んだところで、さっき扉が開いた時と同じ音を立てて、真ん中でふたつに折りたたまれていた扉が閉まる。

 閉まりかけたところで、ガツン、と何か物々しい音が車内に響き渡った。

 入り口近くにいた大輔達はもとより、運転手付近に座っている客達も束の間、ぎょっとほぼ全員が驚いた顔をして扉のほうへ目を、顔をやる。閉まろうとしていた扉だけは、そんな乗客達の動揺なんて知ったこっちゃないとばかりの呑気さで、再び空気が抜けるような音と一緒に開いた。

「ッ、どうかしましたかッ!?」

 運転席から離れない事を使命としているような、腰をあげるところを滅多に見ない運転手が迷わず席から身を乗り出して、バスの後方へ、見開いた眼と上擦った声を投げた。子どもの手でも挟んでしまったのか、誰かが怪我してしまったのか。最悪の事ばかりを考えて青褪めていくばかりのその顔に、ひらり、と手が振られる。血まみれでもなければ子どもの手でもない、節だった男の手だ。

「あぁ、すいません」と、彼は言った。

 飄々とした、本気で謝っているのかどうかはっきりとしない口調での謝罪だった。こういう謝り方をする時は決まって、他にもっと大事な用事を抱えているから厄介な面倒ごとを一つでも減らしておきたい、と彼は思っている。「このバスに乗りたくて少しばかり無茶をしてしまいましてね。大丈夫、挟んだのは足だけですから。ご迷惑をおかけして申し訳ない」眉尻を下げてちょっと困っているような表情を作ると途端、体格のいい男特有の人を圧倒する気配がなくなって、人懐っこい柔らかさが滲み出てきた。

 運転手の顔が緩み、けれど瞬く間に険しくしかめられる。安心した表情を相手に見られたくないから分厚くしかめ面の色を塗りたくったような、杓子定規に眉根を寄せ唇を尖らせて、口を開いた。「駆け込み乗車は危険ですから気をつけてください。怪我をしてからでは遅いんですよ」

「はい。すいませんね、本当」

 運転手の注意に彼は、へこり、と長身の上半身を折り曲げると、その姿勢のまま上目遣いに眼差しだけをあげてバスの中を見回した。盛大な音を立てて駆け込み乗車してきた人物を呆れがちに、あるいは鬱陶しげに面倒くさそうに、好奇も織り交ぜて見遣ってくる視線達へ世辞程度の愛想笑いを浮かべる。その笑みで我に返ったいくつかの顔が慌てた様子でそむけられた。

 けれど大輔が、その見開いたままだった瞼をゆっくりと上下させたのは、今度こそ何も挟まずにバスの入り口の扉が閉まった時だった。

「、あ」相変わらずに呑気な音を立てて扉が閉まる。ついさっきまでならさっさとバスを降りて逃げられたんじゃないか。と気づいた時には、バスはくぐもった短い振動を車内の床に伝わせて、ゆっくりとした速度で動き出していた。それも少しの間の事で、すぐに路肩から道路に合流し、速度をあげていく。

「元気そうだな、大輔」と、頭上から声が落ちてきた。駆け込み乗車の謝罪よりも若干遠慮がちな、こっちの反応を窺う口調である。

 息を吸い込んだ。次のバス停で降りるにしても二分ぐらいはこのままバスの中である、カップラーメンを作るのにも足りない二分間なものの、男のかけてくる言葉を全部独り言と断じて無視し続けるには長い時間だった。吸い込んだ息を吐き出して、顔をあげた。

「——……、こんなところで奇遇、ですね。兄さん」無論、本当に奇遇だとは思っていなかった。

 この、二歳年上の兄、佐伯大智が実のところ至極用意周到な人間であるのを大輔はよく知っている。バスに乗るにしても、タイミングよく停車していたから駆け込む、なんて事はまずしない。時間の余裕を持って行動するのが兄で、小さい頃からそれによく付き合わされた。だとすれば、このバスに扉に足を挟まれてまで乗らなくてはならなかった理由なんて。

 ——、麻耶か。大輔は短く結論づけた。

 麻耶の事務所に兄も用事があったのだろう。背広姿だから十中八九、情報提供料を渡しにきたのだ。そこで麻耶から大輔も訪れたのを聞かされた。

 だったら大智がここにいる理由も納得できる。と、内心で頷きかけたところで、「麻耶は関係ない、」きっぱりとした口調で否定されて、大輔はむっと唇を尖らせた。険しく目を細めて兄を見る。

 じゃあどうして? 口には出さなくとも弟の眼差しで質問を受け取ったらしい兄は小さく肩をすくめた。「たまたま、偶然だ。麻耶の事務所の床にまるめられたスティック砂糖の空の袋が落ちていたからな。昔からお前にもあった癖だと思ったら、お前が麻耶を訪ねてきたんじゃないかと気になった」

 嘆息を落として、大輔は窓の外へと視線を逃がした。「……たまにサービスされるとこれか、」滅多にしない事をしたりすると明日は雨だとよく言うけれど、雨よりももっと面倒くさいものがやってきたわけだ。

 いや。と、ふと思った。現実問題として目のそらしようのない場所にいる兄からどうやって逃げ出すか考えている頭の片隅で、実はこれは麻耶が仕組んだ事じゃないだろうか、と、ほとんどどうでもいい事を想像する。

 普段の麻耶は大輔が事務所を訪ねても、珈琲を入れるなんて事はほとんどしない人間だ。

 飲みたければ自分でどうぞ、珈琲もコップもお湯も好きに使ってくれて構わないから。というのが、彼女の基本的な態度である。麻耶自らお茶を用意するのは、たまにお茶請けになりそうなものを買っていった時だけだろう。ついでに今回は何も手土産なんて持っていかなかったから、彼女が大輔に珈琲を入れる理由はない。

 大輔としては麻耶の事務所に行くのは用事があるからで、それが終わればさっさと帰るわけだから、自分から珈琲を入れてくつろぐ理由もなかった。

 けれど、今回は珈琲を飲んだ。訪ねてすぐに麻耶がカップを差し出してきたのだ。飲むでしょ? と、最初から大輔が首を横に振る事がないのを知っているかのような仕草だった。そして大輔は、カップを受け取った。

「麻耶から、初代の魔女を探していると聞いたが、」ふとさっきよりも近くから声が聞こえてきて、大輔は意識を外へ戻した。

 視線を向けていた車窓のガラスに、大智の顔が映り込んでいた。

 鏡越しに見つめられる、それも名前を呼んできたさっきの遠慮がちなものとは一線を画す鋭利さに眉をひそめて、大輔は今度は目をバスの車内へと放り投げる。

 職業病というやつだろう。真剣に相手に質問しようとすればするほど、染み付いた警察官としての癖が鼻につく。目配り一つ、表情一つ、事実だけを嗅ぎ分けようと凝視されている。尋問されているような、追及されているような不快感を兄がわざとこちらに植えつけようとしているわけでないのは十分に分かっているものの、応じた声は自分でもはっきりと自覚できるほどの皮肉がこもっていた。

「麻耶は、関係ないんじゃなかったんですか?」

「大輔が来た、とは聞いていない。俺が聞いたのは十分前に先客がいた事と、その客が初代の魔女を探しているという事だけだ」的確な返事は、大輔の皮肉に怯む事もなく逆にちゃんと答える事で、自分が最初にした質問のほうの答えを暗に催促しているようだった。

「兄さんには関係のない事です」求められている答えとはかけ離れているだろうけれど、これが素直な大輔の意見だった。大智の眦が険しく持ち上げられる気配を背後で感じながら、分かりやすく嘆息を落として言葉を続ける。「俺がどこで何をしていようが、貴方に関係がありますか? 以前までのような同じ職業に従事しているわけでもない。上司と部下の関係でもない。もちろん、俺は犯罪行為にはまったく関わっていないから、貴方の世話になる事もありえない……、」相手に遠慮はいらないと思うと、ここまでほいほいと言葉が出てくるものなのかと、内心で少し驚いていた。

 少なくとも半年前、まだ兄である大智に対して憧憬やコンプレックスを抱えていた時は、言いたい事を言う半面で、この言葉を告げたら兄はどうするだろうか。困るだろうか、怒るだろうか。と悩み、口ごもる事が多々あった。人の心中を察するのが得意な兄に、「こういいたいのだろう?」と逆に訊ねられて、頷く事もあった。——恐らく、この人はこんな返事を待っているのだろうな、と薄々勘付いて、期待に沿うように振舞った時もある。

 初代の魔女なんて探していない。依頼人から受け取った料金の義理を果たすために情報を探しているだけで、実際にいるはずのない人間を探すほど暇じゃない。

 大智が今、欲しがっている答えの全貌はこんなところだろう。けれど、それを大輔がわざわざ選ぶ義理はない。義理、といってしまえばその言葉を口にする理由全部が大智のためのように聞こえるけれど、それは少し違う。兄が欲しがっている返事をして、さっさと彼を視界から遠ざけられるのならメリットは、大輔にもある。動物を手で追い払うように、その返事を使えばいい。しないのは単純に、兄の望んだままにしたくないからだ。大智が何を欲しがっているのか、自分が確実に察したのだと理解したくないからだ。

 瞼を伏せ、大輔は考えにふけっていた間も涸れる様子なく心から沸いてきていた言葉を言い続けた。「俺は貴方に何の迷惑もかけてはいないでしょう? それなのにどうして、関係もない事で貴方に質問されなくてはいけないんですか。俺が大事な事で、何よりも大切な事で質問してもまったく返事はくれないのに、どうして自分の時だけは、俺が返事をするだなんて思うんですか?」

「、大輔」

 僅かに息を込む音がして、そうしてから呟かれた自分の名前の後に何かが続きそうだったけれど、大輔は声でそれを踏みつけた。低く声をくぐもらせて、吐き出すように言い放った。「半年前の事を、俺が諦めていると思っていますか。あの場所にいたはずの貴方は何も教えてくれなかった。教えてくれなかっただけじゃない、貴方は今だって何も言わずに最低な事をしているっていうのに——……ッ」

 押さえきれず、最後は声を張り上げていた。昼下がりの、賑やかな高校生のグループが乗り込むにはまだまだ早い時間帯のバスの車内に唐突、響いた大輔の怒鳴り声に、ゆるんでいた空気がぎょっと揺らぎ、条件反射のような眼差しが一斉に向けられる。

 ただただ驚いて、といったふうに見開かれた目達だった。声を吐き出した唇を思わず噛み締めて、それらの目に申し訳なさそうに大輔が頭を下げる時には、バスの空気はさっきまでの穏やかなものに戻っていた。目もそらされている。

 大智はなにも言わなかった。さっきの叫びに気圧されたわけでもないだろうに、後ろに佇んでいる気配は押し黙っていた。

 車内にアナウンスが流れたのは、この時だ。テープにあらかじめ録音されているのを再生しているだけの、判を押したような淡々とした女性の声で次のバス停の名前が告げられた。『お降りのお客様は、近くのブサーを押してお待ちください。なお、運転席すぐの両替機の使用をご希望されるお客様は、バスが停車してからご利用くださいますよう——……』アナウンスが終わる前に、近くの窓枠の傍にあったブザーを押した。

 そのバス停のすぐ傍に引っ越したのか? とでも、訊ねられるような気がしたけれど、想像した質問が実際、大智の口から出てくる事はなかった。

 バスはゆっくりと速度を落とし、最後に僅かだけ車体を左右に揺らして停車する。

 そして、空気の抜ける音に続いて前後の扉が開くのと同時に、大輔は後ろから無造作に右の二の腕を掴まれた。

 思わず、全身が強張った。なんだ、と目を見開く間に、弟よりは数段体格のいい大智の長身が右脇を抜けて、大輔をひっぱっていく形になった。「ッ、は? おいッ、!」抗議の声をあげ、慌てて踏み止まろうとしたものの、すぐさま力負けした靴裏が床を滑り、そのまま、ずるずると引きずられていく。

 料金箱に二人分の乗車賃を放り込んで、大智は運転手に愛想笑いを浮かべた。「いや、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」まるで、子供が大騒ぎして、とでも続きそうな言い方は、まず自分が駆け込み乗車してきたのがはじまりだったのをすっかり失念しているようだった。制帽の下で目を細める運転手の表情は、その事を言いたげにも見えたものの結局は、「今後気をつけてくださいよ。バスの中は公共の場ですから、騒げば他のお客様のご迷惑になります」と、ありきたりな注意を模範的に口にするだけで終わった。掘り下げて注意するよりも、相手がここでバスを降りてくれるのなら引き止めずに出て行ってもらったほうがいい。事なかれ主義を選んだ運転手に、「ええ。分かっています。それじゃあ、」軽く頭を下げて、大智はバスを降りた。もちろん、二の腕を掴まれている大輔も一緒に、である。

「段差があるから気をつけろ」と言いつつも腕のほうを離す気はないらしい兄に、「気をつけてほしいならまず、腕を離すのが先だと思うんですけどね」一度本気で振り払おうとしたけれど、失敗した。これ見よがしな嘆息を落として、バスの車体の高さとバス停の地面との間の段差を降りる。

 他にこのバス停で下車する客はいなかったらしく、もしくはバスに駆け込み乗車した客と、その客と言い争いらしき事をしたもう一人の客が降りたバス停に一緒に降りるのを拒否したのか、大輔がバス停の地面を踏んだところで背後のバスの扉は音を立てて閉まった。そのまま走り去っていく気配を肌で感じながら、大輔は二の腕を掴む大きな手を見遣り、そうして手から腕を辿って大智の顔へと視線を置いた。

 バスにこの人が飛び乗ってきた時は、唖然としか見る事が出来なかった。いま改めて見据えると、半年という歳月は存外に短いらしいと実感する。喧嘩別れ、と評するのも馬鹿馬鹿しくなるような言い合いから警察を辞めて、実家も飛び出して、文字通り音信不通になったのが半年前だ。その半年前と同じ喧嘩別れと繰り広げそうな棘々しさが気づけば、向き合うふたりの間には流れていた。いや、険をこめて相手を見ているのは大輔だけで、大智は半年前と変わらずに飄々としていた。他愛なく当たり前に、大輔が思う事もしたい事も全部を短い一言のうちに切り捨てていく顔をして、弟を見ていた。

 ゆっくりと、二の腕を掴んでいた手が離れる。「俺がしている事に反論をするつもりはない。お前が俺の事を詰りたい気持ちも、分からないではない」理解のある振りをする、味方だとあたかも振る舞うような言い方をしていても、その続きが否定で締めくくられるのは、半年前にうんざりするほどに繰り返した兄弟喧嘩で知っていた。

「安心してください。貴方に分かってほしいなんて、今は思っていません」

 突き放す口調で言ってから、大輔は耳をそばだてた。バス停がある道路は昼間のせいか、車はまばらにしか走っていなかった。目を、弟の発言に表情を曇らせた大智から、その背後にある道路の先へと投げる。すっからかんの道路の脇にぽつねんと佇んでいる信号機の色は青色だ。

「——……、今度、一度ぐらいは実家に顔を出してほしい。親父も母さんも、お前と大樹の事を心底心配している」小さく間を置いてそう呟いた兄は恐らく、本心からそう思っているのだろう。俺の事はどう思っていてもいいから、と脇に退けて言ってくる。

 それに思わず声をあげて笑ってしまったのは、大輔には分かっていたからだった。

「大輔?」分からない兄は眉をひそめる。どうして弟が突然笑ったのか理解できず、真摯な話に水を差すだけの笑い声に多少の不快感を滲ませて、大輔を見た。

 諌める目に幼い頃からの条件反射で笑い声こそ止んだものの、くつくつと胸を揺らすようにして溢れてくる笑いの余韻のほうは、しばらく収まらなかった。兄の本心と、現実は随分かけ離れていた。誰が誰を信じるのか、信じていたのか。半年前に面と向かって、今みたいに神妙な顔をした大智にそう言われたのなら、大輔は間違いなく従っていただろう。両親が自分の事を心底心配しているのだと素直に受け取って、非番の日にでも実家に帰ったはずだ。けれど今は、そんな気持ちはこれっぽっちも沸きはしない。

 ごっそりなくなったのだ。と大輔は、思う。信じていたものが信じられないものへと変わった。オセロの白と黒があっさりとひっくり返るように。

 視界の中にあった信号機の傍に、さっきバスに乗る前にも見た統一性がなさそうである数人の集団がいるのに大輔が気づいたのはこの時だった。駅前だけでは飽き足らず、真昼間の人通りの少ないこんな場所でも街頭演説をしようとしているらしい。集団内のリーダーらしき中年層の男がマイクを握り、口を開いた。

『皆さん、はじめまして。私達は、能力者解放戦線のメンバーです、』能力者、と聞こえたところで大智の肩が分かりづらくはあったけれど、ぴくりとかすかに震えた。反射的に振り返りそうなるのを堪えたような、しかめ面をする。『半年前の、模擬魔術事件の事は皆さんの記憶に新しいと思います。マスコミには能力者解放戦線内の権力争い、または過激派の暴走と報道されていましたが、あれは我々の正義を貶めようとする政府や国家の陰謀であったのです。一般人の皆さんは、あの事件を見て、私達、能力者は危険だと思われたでしょう。管理すべき存在だと感じられたでしょう。その、自衛から来る感情こそ政府と国家が合法的に能力者を隔離するための、手段なのです。我々は決して一般人と能力者の境目があってはならないという信条に基づいて行動しておりまして——、』

 信号機の色が、青から黄色に変わった。そうして、赤になった。 

「兄さん、」聞こえてくる拡声器によってひび割れた声を頭の中で除外しながら、もう一度耳をそばだて、車が近づいてきていないのを確認する。

 今から口にする事は全部捨て台詞みたいなものだ、と言う前から自覚していると、口から飛び出てきた言葉は今までの中で一番本心に近いものになった。「俺は、ずっと貴方も両親も俺の家族だと思っていました。血は繋がっていなくとも家族です。でも、違うのだと今は思っています。本当の親なら本当の兄なら、行方不明になった息子や弟を全然探そうとしないのは不自然でしょう? 本当に血の繋がっている俺はこんなにも会いたいと思っているのに、貴方達は全然そんなふうには見えない。別にいたっていなくたって、同じだと思っているんじゃないんですか?」

「ッ、!」

 途端、大智の表情が鋭く引き締まった。

 見ている側が思わず立ちすくむほどの、瞬間的に膨れ上がった怒気の激しさが細められた目の奥で迸るのを見て、大輔は言葉を続けた。言い逃げるつもりでいても、何かを言わなければこのまま兄の怒りに呑まれて、謝ってしまいそうな予感があって、それからも逃げるように無意識に飛び出していった言葉達だった。

「貴方にとっての、大樹はなんなんですか? 弟? 大事な家族? だったら、どうしてちゃんと探そうとしないんだ。貴方にとっての俺も、大樹と似たようなものなんでしょう? 目の前にいる時は、血が繋がっていなくても家族だと言って、でも目の前からいなくなれば途端に無関心になってッ! だから俺はッ、あの家を出て行ったんだ!」

 叫んでいるのは大輔自身だというのに、他人事のようにそれを聞いている頭の一部分で冷静に、俺はまるで泣き喚いているようだ、と感じていた。

 辛辣な皮肉を言い、兄さんが怒ったと思えば今度は、どうして理解してくれないんだと子供のように泣いてはわめいている。

 大樹の事をちっとも探そうとしない家族に失望した。邪魔をする兄に絶望した。五人掛けのダイニングテーブルの空席、箸立てにいつも残っている箸。使われない茶碗やカップ。それらをキッチンや食器棚にしまいこんだまま、当たり前に日常の時間が過ぎていく「佐伯」という家。

 血が繋がっていない事を自覚する事は多々あったのだ。大樹だけが唯一、血の繋がった兄弟だと知っていた。同じ顔をして同じ仕草で、少しだけ表情豊かに笑う弟、もう一人の自分。大輔が見たものを同じように感じ取ってくれた、たった一人の肉親。だから耐え切れず、家を出た。——自分が消えてしまっても、この家の中は今と同じように回るのだろう。そう感じると、ただ息をするのも苦しくなった。

 ズボンのポケットに大輔は手を入れた。指輪の形に似たそれを強く握り締めて、意識を束の間手のひらの中に集中させる。

『我々能力者と一般人は同じ人間です! 能力者には多少、一般人とは違う特殊な能力があるだけで、基本的なところは何一つ変わらないのです! その能力にしても、現在は様々なところで生活向上のために利用され、模擬魔術として流通しているのが現状です! 一般人との唯一の違いである能力も模擬魔術で補える今、能力者と一般人の差異はどこにあるのでしょうかッ!』

 それは恐らく、心情というものだ。と、大輔は心の中で応えた。

 魔術と呼ばれる能力自体が問題なのではない。多分、能力そのものはきっかけなのだ。その人間と自分とは違う、相容れない、と思うきっかけ。それから実際に溝が出来はじめ、敵意を持ったり憎んだり、関わりを拒みあうようになるのは、能力のせいでも生まれや立場のせいでもない——、人の心のありようだろう。

「大輔、」大智が口を開く。けれどその言葉を聞くつもりは、大輔にはなかった。

 ポケットの中で握り締めていた手のひらを引き抜き、指輪の形をしたそれを地面に投げ捨てる。アスファルトの地面で軽い金属質な音を大きく一回、続いて小刻みに二、三回響かせたそれに大智の視線が自然と向けられた。そうして俯き加減になった目がふと見開かれ、——その後、すぐさま見返される気配が体の芯をざわめかせたけれど、その時にはもう大輔の視界に、兄の眼差しも姿も映ってはいなかった。

 晴れ渡っていたはずの昼下がりは瞬く間もないうちに朝霧に沈むが如く、一センチ先も見通せない視界不良の霧の中と化したのだ。

「ッ、——大輔ッ!」原因を瞬時に理解した大智の鋭い声に混じって、さっき地面で響いた金属音によく似た音が耳朶を撫でる。その音を合図にして、大輔は踵を翻した。前後左右もままならない白い光景の中で、声に背を向けた事だけを自覚して走り出した。

 大輔が地面に投げ捨てたシルバーアクセサリーの指輪によく似たそれは、使用者の発動意思を読み取り、表面の金属が硬い物質に当たった瞬間、有害性のまったくない水蒸気を周囲に噴出させる仕組みになっている。有効範囲内は最高二十メートルほどで、車が行き交う道路での使用は交通事故のもとになるので控えてください、と取り扱い説明書には書いてあった。実用化され、店先に並ぶ模擬魔術の中では一番シンプルな使い方の王道商品だろう。痴漢や暴漢から逃げる時間を稼ぐために持ち歩いている女子学生は結構いるし、客層を意識してのデザインが受けて、幅広く市場に流通している。

 無論、その手に入りやすさと分かりやすい用途の分だけ犯罪に悪用される事も多々あるのだから、警察がお手上げだと降参しているはずもない。大智の声と共に耳が拾った金属音の正体は考えるまでもなく、警察だけが常備している中和剤としての模擬魔術だ。

 ほとんど白く塗り潰されていた世界の向こう側にうっすらと、さっきまであったのどかな昼の光景が見え始めてきていた。光景と大輔の目との間に、白い半透明フィルムを差し込んで見るような感じだった。発動させた模擬魔術が不良品でなく、取り扱い説明書通りに効果が持続するのなら、約一分ほどは霧が晴れないはずである。けれど、警察が使用している中和剤を発動させれば強制的に十秒ほどで効力を完全に無効化できるのは、半年前まで警察官であり、その手段を重宝していた立場として十分理解していた。

 瞬間的にあたりを覆いつくした白い水蒸気の集団が今度は大智が地面に落としたものによって無効化され、さきほどまでの他愛ない平日の昼下がりが再び姿を見せようとしている。半年間のうちに改良が成されていたら、十秒よりも早く水蒸気は消えうせるだろう。

 対抗する手段はあった。走る速度を緩める事なく、大輔はポケットに再び手を突っ込んだ。探り当てた残りの模擬魔術の一つを握り締め、意識を集中させて発動を手のひらで感じ取るとさっきと同じ要領で、走り去る地面に放り捨てた。


   * * *


 築云十年の木造アパートは、夕暮れによく映える。身も蓋もない事を言ってしまえば、打ち捨てられた廃墟のように、柱ひとつ玄関扉一つ、生々しく古臭い過去の遺物であるようだ。住めば都、という言葉がこれ以上に似合う建物もそうはないだろう。と、大輔は思っていた。

 塗装が剥がれ、全体を茶色に錆付かせた胴製の階段をのぼり、二階の通路に出る。ギシリ、と力を加えればあっけなく踏み抜いてしまいそうな音をか細い悲鳴のようにあげる階段だったが、一応設置されている手すりを掴む気にはいつもなれなかった。地金が覗いているそれに触ると、金属独特の嫌な臭いが手にこべりつくような気がするのだ。鉄の臭い、——血が咥内に広がった時に味わうそれに、なんとなく似ている。

 通路を歩き、階段から数えて三番目の扉の前で止まった。事務所兼住居、ではあったけれど、玄関扉にも脇の壁にも表札は出していない。毎回向き合うたびに鍵の必要性を考えてしまいたくなる玄関扉を軋ませながら開けて中に入ると、大輔はそのまま大の字になって床に倒れ込むように寝転がった。靴を脱ぐのも面倒くさく、鍵を閉めるのも億劫だった。第一、この部屋には何もない。とられて困るものが何もない、という点は、空き巣がアパートの外観を観察し、「こんな場所に住んでいる住人の部屋に金目のものがあるはずがない」と断じて想像する部屋と大差ないだろう。

 空き巣だって生活がかかっているのだ。玄関の扉が紙を破るよりも簡単そうな鍵ひとつだったとしても、住居者の程度を考えればもう少しは、見た目からして生活水準が高そうなマンションを標的に選ぶはずである。

 それでも染み付いた習慣で、しばらくしてから大輔はのろりと起き上がった。惰眠を要求してくる体を必要最低限の速度でゆっくりと動かして、いつ見てもちゃちな鍵を閉める。そうしてからまた、ぱたりと床に仰向けの形で倒れこんだ。眼に差し込んでくる、玄関のすぐ横にあるシンク傍のくもり硝子からの夕陽が痛くて、瞼を閉じて寝返りを打った。太陽の温度を吸った床はほんのりと暖かく、まったく行き届いていない掃除のせいで埃まみれではあったけれど、疲労しすぎた体はさして贅沢を言う気力もないようで、そのまま意識がとろりと形を崩して溶け、なくなっていくように大輔には感じられた。

 ——結論から先に言えば、大輔は逃げ切った。

 もしもの時のために、と、ポケットに放り込んでいた霧を発生させる模擬魔術を計五個すべて、中和剤で完全に霧が晴れかけたところに一つずつ発動させていったのだ。真昼間の偶然か、道路をまったく車が走っていないのも幸いした。何に気兼ねする事もなく実行した模擬魔術の大盤振る舞いに、さすがに兄も中和剤を五個も所持しているわけはなかったようで、最後に放り投げた五個目は取り扱い書通りに一分間、伸ばした手も見えないほどの濃霧を発生させ続けた。

 問題はどちらかといえば、その後だ。

 二つほどバス停を走って通り過ぎてからバスを捕まえようとしたものの、まず最初に立ち止まったバス停のバスは、つい数分前に出て行ったばかりだった。このまま立ち止まっていては兄に追いつかれるかもしれないと次のバス停に向かって歩き出してからしばらくすると、今度はバスの後姿をあっけなく見送る羽目になった。そうして次のバス停にたどり着いて時刻表を見て——……、という風に一度バスに乗り損ねた大輔はそのままずるずると歩き続ける事になって、結局、事務所兼住居のある最寄バス停にへとへとになりながら徒歩で、到着してしまったのだった。

 意識、と呼べるものの最後の一滴が床の温度で蒸発する。言葉通り、眠りに落ちる一歩手前の瞬間に、大輔の目は覚めた。突然鳴り響いた携帯電話の着信音と、それより少し遅れて重たいものが壁にぶちあたったような振動と怒声が、壁一枚を隔てた隣室で轟いたからだった。

「うるせぇ——ッ!」ただ寝起きを邪魔されたにしては人一人殺しかねない殺気じみた声である。大輔は跳ね起きた、その時にはもうどれだけ疲れていたかも、あと少しで眠りそうだった事も全部吹っ飛んでいて、「すいません!」と壁越しに謝り、携帯電話の通話ボタンを押した。もちろんこっちの事情を知る由もない電話越しから、『よう。少し時間いいか?』呑気な情報屋の声が聞こえてきた。

「少し待ってくれ、」言って、部屋を出る。鍵は閉めずに玄関扉に背を預けるようにして座り込んでから、「もういい。で、何の用事だ?」ちらりと隣室の玄関扉を見遣って質問した。

 元警察官を慌てふためかせるほどの殺気を撒き散らしたにも関わらず、いつもの事ながら隣室の玄関扉は沈黙を保ち、蹴破って殴りこんでくるような事態になる気配はなかった。恐らく、寝ぼけていたところに響いた携帯電話の音にキレて、無意識に何かを壁に投げつけたのだろう。重たい衝撃音がする何か、が、枕や目覚まし時計のような他愛ないものでないのは想像がつくけれど、じゃあなんだろうかと考えるのはいつもの習慣でやめておく事にした。

 ほうっと安堵のため息をつきかけたところで大輔は、電話越しに一瞬溜まった沈黙を静かに男の声が破るのを聞いて、思わずその息を喉の奥へと飲み込んだ。

『あの噂、初代の魔女の正体を調べようとした人間は行方不明になるっていうの、実は嘘やでっちあげの類じゃないかもしれない』と、彼が言ったのだ。

「、どういう意味だ?」男の言葉尻を追いかけるようにして聞き返してから、大輔は束の間黙り込んだ。どういう意味、もないだろう。情報を取り扱う自身を誇りに思っている男が、中途半端な推測や憶測で、依頼主にこんな話をしてくるはずがない。

 手のひらの中で携帯電話が軋んだ音を立てるのに我に返り、携帯電話を握り締める白く強張っていた指先の力を弱めた。息をつき、気持ちが落ち着くのを待ってから問いかける。「いや——……、それよりもお前は大丈夫なのか? 嘘やでっちあげの類じゃないって言うなら、まさか、誰かに襲われて怪我でもしたんじゃないだろうな?」

 口に出すと途端、会話の合間に入り込むざわついたノイズが気になりだした。ただ電波の具合が悪いだけのようにも聞こえるけれど、一度抱いた不吉さは血まみれの手で携帯電話を握り締めて蹲る男の姿を想像させるには十分だった。

 短く、笑い声があがる。『馬鹿言え、』考えている事なんて全部お見通しだとばかりの失笑を滲ませて言うと、電話越しの声はふと止んだ。間を置いて再び聞こえてきた声は、笑いの余韻を沈ませて硬く強張っているようだった。『まあ、怪我はしていないがな。でも、このまま初代の魔女の事を調べるのなら命の保障はない、とは言われたな』

「誰に?」問いかけに打てば響く速度で、『名前、いえると思うか?』重ねられた問いかけが答えのようなものだった。おいそれと名前を出していいような相手ではない、それだけの立場にいる人間。という事だろう。

 そう思い、けれどすぐに大輔は首を横に振った。——違う、問題は誰が男を脅したのかではなくて。脅さなくてはいけなかったのか、だ。

『ちょっと情報網に引っかかる噂を探しただけで捕まって、その忠告だ。本腰を入れて探し始めようものなら確かに、行方不明ぐらいにはなるだろうな。殺されてばらされて、人気のない山中に埋められるか。コンクリート詰めにされて、海に投げ捨てられるか、』

「そんなに怖い脅し方だったのか?」暗に伝えようとしている事を察しながら、わざと遠目で眺めやるぐらいの距離をとって質問した。触れない核心をちょうど中間地点において、反対側にいる男と眼が合う。

『淡々と、な。それでも裏社会に身を置いていれば、どの程度本気かってことぐらいは、嫌でも分かるもんだ』理解したか? と訊ねられている。大輔は少しだけ、顎を引いて頷いた。

 つまりは、こういう事だ。

 初代の魔女は実在する。あるいは、実在する可能性がある。

 もし存在しないとしても、その存在そのものを隠れ蓑とした何かがある。裏社会において、権力を持つ者だけが事実を知り、知る故に隠し通そうとする意思が作用する何かが、だ。

 気にかかるのは依頼人が、どこまで知っていたかという事だけれど。

「一億円、ね」ぽつりと、大輔は呟いていた。

 ただの都市伝説としての初代の魔女を探せ、というのなら一億円は狂気の沙汰にしか映らない。けれど、裏社会に精通した人間が死を宣告されるほどの何かを孕んだ初代の魔女を探せ、となれば一億円は妥当な金額であろうか。命の値段としての、一億円だったとすれば。

 無意識に小さくため息をついていた。「随分と値切ったな、一千万って」

『お前の依頼主が何を考えているかは見当もつかないがな。……、女の能力者が実在するなら、研究機関としては喉から手が出るほど欲しいだろうな』男の口調は、どうでもいい事を喋っているようだった。無関心を装ってしか言えない事を言っている、そう伝ってくる。『能力者同士を掛け合わせたら能力は受け継がれるのかどうか、とか、何か変異はあるのか、とか、興味は尽きないだろうからな』

「——あの依頼人は、そういう事を考えている風には見えなかったが、」

 依頼人を擁護するために言った事ではなかった。大輔の反論は、依頼人を見誤ったのではないかと指摘する男に対しての、明瞭な自己弁論だった。

 そもそもそんな事を考えていそうだったなら、さすがに一億円を前にして欲に眼が眩んでいたとしても断った。能力者の力を模擬魔術として一般人にも使用できるように加工するための研究、と今のところ、能力者を対象にした実験のすべては位置づけられているものの、蓋を開けてみれば少なからず、人権をないがしろにした研究施設は存在する。一般人の親から生まれたばかりの能力者の子供が金で研究所に売られるという事件はいつもニュースを騒がせるし、内部告発によって研究所の暗部が明るみに出る事もよくある話だ。

 それでも、二十二年前に起こった政府直属の研究機関での暴動当時よりは随分ましになったのだと、言っていたのは誰だっただろうか。

『とりあえず、俺はこの件から手を引かせてもらう。一億円ならまだしも、お前との契約料じゃ命の値段には程遠いからな』電話越しで男が、困ったように肩をすくめたようだった。『まったく、俺は受けた依頼は必ず達成するのを信条にしているつもりだったのに、お前と関わるといつもこんな感じだな』

「俺のせいじゃないだろう。単に偶然だ」大輔としても、情報屋に頼んでも解決しないことばかりを背負いこんでいるつもりはない。男の言葉に反論するのなら一番面倒を被っているのは、どうにもならなそうだと思えば辞めてしまえる彼自身ではなく、情報屋が手を引くほどの事だと理解しても手元に置いておくしかない大輔本人だろう。

「それに、命の危険があったのは今回ぐらいだろう? 前のふたつはただ進展がないだけで、お前の身の安全がどうのという話になった覚えはない」

『毎回毎回、命の危険に晒されたくもないけどな』と、男は笑う。『一度目は、どこにいるかも分からない、たまにお前らのほうをじっと眺めてくる女の子の事を探してほしい、だったよな。でも結局、その女の子が実在する証拠もなくて、お前達にしか見えない幻みたいなものだって事で結論が出ただろう?』

 大輔は眉をひそめた。「子供の度の過ぎたいたずらって事で、うちの親がお前にいくらか金を積んだんだろう?」大人をからかうもんじゃない。どうしてそんな嘘をつくの、と、叱るというよりは半ば泣き縋るように両親に言われたのを思い出す。双子にすれば必死に貯めたお金を全部依頼料に費やすほどの本気だったのだけれど、周囲の大人達はみんな、ふたりが見たものを嘘だと断じた。

 そして最後は、嘘である事が事実だというように、見つからなかったのだ。

 眼の錯覚。勘違い。「今にして思うとそんなものだったのか、とは思うよ」眼を覚ませば忘れてしまう夢みたいに、今の大輔では確信を持って、あれがすべて現実だったのだと言い切る事は出来ない。

『二度目は、お前の双子の弟の消息、だよな。鋭意継続中の。人一人探すのなんて簡単なもんだと思っていたがこれがなかなかうまく行かないしな。人探しで半年間も苦戦するなんて相当だ。で、三度目が今回の、初代の魔女の話だろう?』

「大樹の事は本当に、期待しているんだ」素直な気持ちだった。神がかり的な情報屋としての麻耶の裁量も頼みの綱にはしているけれど、彼女が警察御用達の立場である事を考えれば、裏社会にいる電話越しの相手のほうがまだ、大樹に近づけるのではないかと思っている。「警察はあてにならないから、裏社会に精通している人間に部があるはずだ」

『その、いかにも佐伯大輔らしくない発言に半年間、振り回されてる気がしないでもないな』

 苦笑いと共に、『じゃあな。ひとまず、初代の魔女の一件は気をつける事だ』挨拶と忠告で締めくくって向こう側から回線が切れる。携帯電話をポケットに押し込んで立ち上がり、玄関扉を開けかけたところでふと、大輔は体ごと後ろに振り返った。

 夕間暮れの一時の明るさはすでに没していて、空は残り火のような薄明るい紫色を西の僅かな空に残しているだけだった。段々と明度を落とし、色を重ねていくようにして空は濃い夜の色へと変わろうとしている。一足早く点灯した街路灯の周囲だけが、夕陽に長く濃く引き伸ばされた影とも、近づいてくる夜の闇ともいえない道路の暗がりの中でぽっかりとした白い円を作っていた。振り返り、束の間さまよった大輔の眼は自然と、その明かりへと惹きつけられた。白いだけの、ただ明かりが灯っているだけの空間に。

「、あ」小さく、声が漏れた。分かりやすく、失望した声だった。

 誰かがいる、と思ったのだ。

 名前を呼ばれたと感じたわけではない。正直、誰かに見られているという感覚もなかった。けれど例えるならば、その誰かがいるだけで空気が変わるようなものなのだ。息遣いを感じ取る事が必要なのではなくて、その人がそこにいるのだと大輔自身が思う事で何かが変化する。大輔は一瞬、誰かがいる、と思ったのだ。

 だから一瞬だけ、確かに暖かくなった心の奥が、今度は現実を視認した冷静さで急速に冷えていくのを感じながら、大輔はゆっくりと息をついた。心底自嘲してやりたい気持ちだったけれど、唇がちゃんと笑いの形になっているかどうかは分からなかった。心が冷えすぎて麻痺したようで、どんな表情をしているか皆目、見当もつかない。

 誰かが——……、いや、あの人が、こっちを見ていると思ったのに。

 強張った瞼をぎこちなく上下に動かす。ぎちぎち、と変な音が鳴った。もう一度だけ、誰もいないその場所を凝視し確認してから、眼をそらした。街路灯を、体ごと意識から遠ざけて、玄関扉を開ける。そうして外の世界を完全に締め出すために、玄関の鍵をかけた。


   * * *


 夢だと自覚する夢を見る。

 その夢の佐伯大輔はとても小さく、とても幸せだ。信じられるものをたくさん持っていたし、信じられるものに対して、心底絶望した事も失望した事もない。何も知らない事が一番の幸せだというのなら、大人になってからふと省みた時、確かに一番幸福だった頃の大輔の夢である。

 成熟するために流れるべき時間がない夢の中では、子供はいつまでたっても子供のままだった。

「なあ、大輔。大輔って」呼ばれて振り返ると、そこにはいつも鏡がある。鏡のように瓜二つな顔立ちをした大樹が立っている。色違いの服を着て同じ色の真新しいランドセルを背負った、双子の弟だ。

 ただ、弟の大樹のほうがくるくると表情がよく変わった。大輔は弟の怒った顔や泣いた顔を見ることで、自分もそういう顔をするんだろうかと思っていたけれど、実際は、怒っても笑っても表情の筋肉は弟の半分ぐらいしか動いていなかった。

 無愛想なのが兄貴。感情豊かなのが弟。——異常すぎるほど似ている双子に、学校の教師達、たまに会う親戚連中が一応は遠慮を見せて影でこそこそ言っているのは、この時にはとっくに知っていた。

「……、なに?」まったく不機嫌でもないのに、心底不機嫌そうな声が出る。

 弟はまったくそんな兄の言葉に無頓着で、くいっと大輔の服の袖を引いた。こっそりと誰かに見られるのを、多分前を歩いている二歳年上の兄に知られるのを警戒しての小さな身振りで、さっき過ぎたばかりの電柱を指差した。

 弟の指先を見、そうして電柱にたどり着いて、大輔は見る。

「なあ、あれ。あの人」と、隣で大樹が呟く。

 電柱に体の右半分を隠すようにして、一人の少女が佇み、こっちを見ていた。隠れているのだから、こっちがはっきりと振り返った今、慌てて目をそらすなり逃げ出すなり、何か反応があってもおかしくはないだろうに、彼女はぴくりも動かなかった。たまにゆっくりと瞬きされる眼が、大輔と大樹を見ていた。

 まず、どこかで見た事のある顔だと思った。肩まで真っ直ぐに伸びた髪に、人形みたいに整っているけれどどこか人間らしくない顔をしている。背丈は多分、彼女のほうが少し高い。近所にいる高校生のお姉さんぐらいの年齢に見えた。あ、若いなぁ、とぼんやり思うのを自覚して、大輔はふと顔をしかめた。

 なにか、とても落胆してしまったような、がっかりと肩を落としたい気持ちになったのだ。

「あの人、俺達の姉さんかな?」と、大樹が言う。

 振り向いた先の、見慣れた鏡のような顔を見て、「そうかも」と応えていた。精巧に作られた人形のような顔立ちがふとした拍子に微笑めば、大樹のようになるのだろう。どこかで見た事がある、ではなくて、毎日鏡で見ている自分の仏頂面に似ているのだ。大輔は小さく頷いて、もう一度彼女を見遣った。

 悲しそうだな、と今度は思った。

「話かけてみようか?」無邪気に言うだけ言って、大輔の返事を待たずに靴先を彼女のほうへ向けようとする大樹の手を、思わずひっぱった。駄目だ、と思うよりもまず先に体が動いた結果だった。引き止められた大樹が怪訝そうな顔をしてこっちを見る。どうして止めるんだ、と、声に出すまでもなく雄弁な眼に問われて、大輔は口を開いた。

「——、あ、あのな」気づけば、咥内はからからに渇いていた。体が緊張しているとか、そういう事ではなくて、まるで言おうとした全部を誰かに咄嗟に口止めされてしまったような、よく分からないままに語彙が全部頭から抜け落ちてしまったような感覚だった。

 近づいてはいけないと思うんだ、と、言おうとした。

 彼女と自分達との距離は多分、目に見えているだけのものではなくて。時間とか次元とか、どうしようもなく超えられないものまで横たわっている。近づいた分だけ、遠ざかる。正しく手順を踏んで近づかないと壊れてしまう。そんな事を、言おうとした。

 言おうとして、けれど言葉にならなくて。見据えてくる弟の眼の中の怪訝が次第に、別の険しい何かになろうとしているのを感じ取って、大輔は慌てて声をあげた。頭を精一杯動かして言いたい事を組みなおし、口にした。

「ヒ、ヒロシ君と多分——……、あの人は、一緒だ」

 きょとん、と大樹の眼が丸くなる。「ヒロシと?」聞き返してくる声に大輔は深く頷いた。

「多分、まだ会うには早いんだと思う」

 じゃあ、いつになったら会えるのか。と大樹に質問されたらどうしよう、と、大輔は内心で思った。大人になるまで、とかお茶を濁す言い方はいくらでもあるだろうけれど、大輔の誤魔化しなんてすぐに見破ってしまうのが大樹だ。世間の双子とはみんなそういうもなのか、互いの嘘と誤魔化しは、自分で自分のそれを自覚するよりも的確に理解できる。

 だから大輔にとって、脳裏でふと聞こえた小さな笑い声は心底、歓迎すべきものだった。

『僕もそう思うな。別にいつかちゃんと会えるんだし、急がなくたっていいじゃない?』

 声、といってもそれは耳の鼓膜を震わせて聞こえる、空気を伝ってくるものではない。頭の中に小さなスピーカーみたいなものがあって、そこで遠いどこかの電波を受信しているような感じ、である。ラジオに似ていなくもない。ただ、相手の声が淡々と流れてくるのではなく、自分が喋れば相手にちゃんと伝わるから、無線機といったほうが表現として正しいだろうか。

 大樹が目を瞬かせる。その声を受信して、こっちの声を送信する何かは大樹の中にもあった。大輔と大樹と、声しか聞いた事はないけれどヒロシの中にだけ存在する器官だった。

「でも、気になるだろう? 会いに来てくれてるなら、話しかけるぐらいいいじゃないか」

『駄目だって、』と、ヒロシはため息をついたようだった。

 ごく普通のラジオや無線と違うところは、その小さく肩を落とす様子が手に取るように理解できる点だ。どんな言葉で説明すれば大樹に分かりやすいだろうか、と考え込んでから、ちらりとだけ目を向けられた気がした。大輔だったらどう説明する? 暗にそう問いかけられていた。

 目を彼女へとやる。顔の輪郭、服から覗く細くて綺麗な指の輪郭、ひとつひとつを視線でなぞるようにして記憶に書き込みながら、近づいてはいけない、と思った理由をもっと単純明快なものにばらしてみた。すると時間がない中で組み替えた言葉よりは多少、説得力のありそうなものが出来上がったので、ヒロシと視線を交わすように意識を彼のほうへと向けた。

 それなら、大樹も分かってくれるかもね。笑って頷く気配に後押しされて、口を開く。

「なあ。大樹」呼んで、弟がこっちに振り返るのを待ってから話し出した。「……、あの人が本当に俺達の、家族だったなら、一緒に引き取られなかったのには理由があるんだと思うんだ。多分、子供にはどうしようもない理由で。それで、俺達はまだ面と向かって会えないんだと、思う」

 大人の事情というものだ。子供に教えられない事を大人は、「この話には事情があって」と濁す。例えば、大輔と大樹が実の自分達の子供でない事を今の両親は、小学校に上がる頃には話してくれたけれど、じゃあ本当の親はどうしているのか、という点については何も話してくれなかった。死んだのか生きているのかさえ謎だ。「事情があって、いつか話せる時が来たら話すから、」大輔たちの本当の両親の話は、その濁された言葉を開かずの扉にした向こう側にある。

 大樹は眉をひそめた。「どうして、父さんと母さんは、引き取らなかったんだろ?」

「経済的な理由かも。三人も養子を迎えるのは大変そうだから」

『赤ん坊ならまだしも、ある程度物心ついた子供を引き取るのは大変だとか思ったのかもしれないよ。実の親の事も覚えているだろうし、暮らす環境も変わってしまう。なにより、懐いてなかったのかもしれないしね』犬猫の引き取り手の事を話しているような淡々とした、ヒロシの言い方だった。大樹もそう思ったのか、分かりやすいほどにはっきりとした嫌悪感で顔をしかめた。

「俺達は、犬や猫とは違う」

 間が落ちた。『、そうだね』と、短く呟かれた言葉には、何の感情もこもってはいないようだった。反論した大樹への謝罪の意味も、弁解じみたものもなく、ただ相槌を打っただけだと伝わってくるそれに、大樹は大袈裟なため息を吐き出した。収まりどころを作ってもらえなかった苛立ちを一緒に体の外へと強引に放り出してから、幾分落ち着いた声音で言う。

「俺達にとって、親は飼い主じゃないだろ。今は面倒見てもらわなくちゃ生きていけないけどさ、大きくなったら違うだろ。嫌なら出て行けるし、好きなところにだっていける。犬や猫より自由だって」

『——……、そうだね』同じ短い言葉は、けれど、さっきの温度も色も何もない味気ない無味無臭からほんの僅かだけ温もりを取り戻していた。手を握り返せば伝わってくる相手の生きている温度を確かめるように脳裏に響く声を、大輔は聞く。

 夢だと自覚する夢。夢である以前に自分の記憶なのだと理解しているものというのは、まるで見古した一本のビデオテープを再生するような気持ちに似ている。色褪せはじめ、音もところどころ飛んでは、次第に一繋がりであるはずの光景がばらばらになり、意味のないものになっていくのが運命だと、消耗品でもあるテープはちゃんと分かっている。つまりはいつか、必ず思い出せなくなる時が来る。

 だから大輔は、見る夢を丁寧に眺めながら安心する。ほう、っと吐息を落とす。

 まだ、大丈夫だった。覚えていたいもの。忘れてしまいたくはないもの。なくしたくないもの。それらはまだ形を一切損なわずに、心の中に存在していた。


   * * *


 目が覚めた。夢の底からふわりと浮上した、というよりは、ただ閉じていた目を開いただけのような、はっきりとした覚醒だった。仰向けで眠っていたので自然と目に入った年季の入った天井を眺め、瞼をゆっくりと瞬く。目覚めが悪いほうではなかったものの、まるでずっと起きていたかのように寝ぼけていない体に、けれど確かに眠っていたはずだと自覚している意識が戸惑っていた。直後、ぶるり、と、充電器のプラグを差し込んだままの携帯電話が僅かに振動する気配を聞いた。

 あ、電話が鳴るな。と思った時には横になったままで手だけ、畳にほとんど無造作に投げ出されていた携帯電話を拾い上げていた。愛想のない目覚まし時計の電子ベルに似ていなくもない音が今まさに鳴り響きかけたところで、通話ボタンを押す。ついでに待ち受け場面の隅に表示されていた時間を見た。十一時二十八分。

「——、はい」布団からゆっくりと這い出す。どちら様ですか? と訊ねる前に、声が向こう側から聞こえた。大輔自身が出た事を短い言葉で理解しての、必要最低限の返事だった。

『久し振りだな。佐伯君』と、低い男の声だった。

「、どちら様ですか?」一拍、思わず息を飲み込んで出来てしまった不自然な間が、この問いかけが無意味なものであると大輔自身に自覚させた。素知らぬ声を装うよりもまず、電話の相手が誰であるのか理解してしまった事を相手に告げていた。

 向こう側で男が笑う。かすかに唇の表面だけを引き伸ばすようにして笑うのを、ノイズによく似た気配で感じ取った。『高柳だ。どこの高柳か、までは話さずとも分かると思うが、一応名乗るべきかな?』笑いの余韻を残して名乗る。

 その分だけ最後の問いかけが、ただの冗談や軽口ではない事を大輔に分からせた。

 間違い電話のように他人の振りをしても無駄だ。——分かっていますよ、と、白旗をあげる気持ちでため息をついて、口を開いた。「、高柳さん、なにか俺に御用ですか?」今度間が空いたのは、大した意味からではない。単純に、電話越しのこの人の事をなんて呼べばいいのか分からなかったのだ。

 小さい頃は、「叔父さん」と呼んでいた。血縁関係はなかったけれど、家に来ては遊んでくれる優しい叔父さんだったので。それは高校を卒業するまで続いて、警察官になってからは「課長」と呼ぶようになった。対魔術課の課長、直属の上司となった相手を、昔のように馴れ馴れしく呼べるはずもなかったからだ。けれどその分かりやすい関係性も大輔の退職を機に終わりを告げた今は、子供の頃の無邪気さだから呼べた「叔父さん」に戻すわけにもいかず、かといって「課長」のままで通す気にもなれず。

 ことさら他人である事を強調するような呼び方だ、と口にする一瞬、少しだけ後ろめたさを感じたものの実際に言ってしまえば、この距離感が今の自分達には一番妥当で、ありがたくも感じられた。

『用件は至って簡単だよ』突き放したようにも聞こえただろう大輔の声に、高柳はなんでもない口調で応えた。『警察署に来てほしい。それだけだ』

 目を瞬く。「どうして?」率直に出てきた言葉だった。

 退職して、もう半年になる。受け持っていた仕事の引継ぎ関係で支障が出たという話ならば、もっと早く連絡が来るはずだ。

 沸いた疑問に対しての高柳の返事はいたって分かりやすく、明確な脅しまでついていた。

『君が初代の魔女を探している、と佐伯兄から聞いた。その事で話したい事があるんだがね、この件に関しては電話で詳細を話すのは躊躇うんだ。だから警察署まで来てほしい。——……、という事だよ。来る気がないと返事をしてくれても構わないけれど、そうなると色々、面倒事になる』

 面倒、の部分をはっきりと強調するでもなく言い切った男は、大輔が何かを言い出すよりも先に言葉を続けた。『先日、警察にある苦情の電話があったんだ。若い男が道路の近くで模擬魔術を乱発させている、とね。しかも、車が通行する可能性のある道路での使用は非常に危険だと分かっている煙幕の模擬魔術だったらしい。それは大変だと至急現場を調べたら、使用者を特定するに十分な証拠を見つけたわけだが、』

 そこで一旦口を噤んだ高柳に暗に促されるような形で、大輔は推理にもなっていない事実をいう事になった。「模擬魔術の表面に付着していた俺の——、指紋、ですか」

『その通り、』と、電話越しで高柳は頷いた。

「職権乱用っていいませんか? そういうの」

 模擬魔術使用法、というものがある。世間一般に浸透しつつある模擬魔術の悪用を防止するための法案であり、模擬魔術ひとつひとつに設けられた使用基準に違反した場合、この法律によって罰せられる事になる。煙幕の模擬魔術を車が走行する道路の近くで使用してはならない。今回大輔が違反した項目はそれだ。「だって実際のところ、俺の使った模擬魔術で交通事故は起こっていないと思いますけど。ちゃんと使用する時に、車が来ているかいないか確認しましたし。あの人が、中和剤を使ったから、五個連続で使ったっていっても実質的な効力はほとんどありませんでしたからね」まともに最後まで使い切ったのは五個目だけだ。

『しかし、煙幕型の模擬魔術の使用基準では、君の使い方は違法だ』

「でもいちいち、大事にもなっていない模擬魔術の使用方法で人一人を逮捕しようなんて面倒くさい事を警察はやっていない。——半年前は、そうでしたよね?」

 市販されている模擬魔術に記載されている使用基準はやたら厳しく滅茶苦茶でもあった。製造会社としては、何か問題が起こった時に、「使用基準がなかったからこんな事故を引き起こしたんだ」と言われないために、様々な事を想定する。故に、こんな事をいちいち使用基準にしなければならないのか、と疑ってしまいそうな事まで書かれている。

 そして、その使用基準に違反した者達をいちいち捜査し逮捕して送検するほど、警察署——とりわけ模擬魔術を専門に扱う、対魔術課は暇ではない。しかも、半年前に起こった模擬魔術事件の余韻は暗い影としていまだに、世間に広がっている。小物の相手をする時間があれば、模擬魔術事件の主犯格と目されている能力者解放戦線の情報を収集し、次に起こるかもしれない事態に備えておきたい、というのが対魔術課の正直な本音であるはずだ。

 電話越しで高柳がかすかに微笑んだ、ようだった。

『君の言う通り、労力は必要最低限に抑えておきたいよ。だからこうして電話をした、というわけだ。君が今から私のところへ出向いてくれるなら、忙しい部下達に指示を出して君を逮捕するための作業をしなくてもすむ』

 けれど断るのなら、指示を出す。と、他愛なく声は断言する。——その結果として、日が変わるよりも前に元同僚がこの部屋の薄っぺらい玄関扉を叩く事になるのだろう。いや、それも元同僚ならまだマシなほうで、わざわざ面倒な労力を使わせた大輔へのささやかな嫌味として高柳が、大智に捜査を指示する可能性もなくはない。

 不思議なほどにすっきりと目が覚めた頭を大輔は抱える。「それ、俺にメリットのある選択肢がありますか?」頭痛を堪えるようにして訊ねていた。受話器から伝わってくる短いノイズ交じりの笑みは、『降りかかってくる厄介事を自分で調節できる、と思えばいいんじゃないか?』暗にどっちも五十歩百歩のデメリットがあると素直に認めていた。

 模擬魔術事件の直後で警察官の誰もが忙殺されている時期に、半ば強引に退職した。その職場でのこのこと顔を出す。それが嫌だと断れば、せっかく家を出て半年間、見つからずに暮らしてきた我が家の住所を特定される事になる。個人的な探し人ではなく、警察からの正式な捜索依頼の形をとっていれば麻耶も情報提供を拒むはずがない。

 初代の魔女、という単語が出てきた時点で大輔が誰を想像するか見当がつけていて、そこに付きまとう無条件の反感を見越しての、回りくどい交渉術。とでも言えば聞こえはいい。逃げ道を順当に潰されて、二箇所だけになった道を見てみればどっちにもこれみよがしな穴が空いている。違いは深さぐらいなものだ。

 思わず、歯噛みしていた。いつもの事ながら、気づけば袋小路に追い込まれているという顛末だ。「相変わらず、性格悪いですね。高柳さん」悔し紛れの皮肉に、高柳は少しだけ笑みを沈ませて応えた。『それだけ大事な話がある、君に来てもらわなければならないと思っている。とは、考えられないか?』

 考えたくはない。と、拗ねた答えをいえる場面ではなかった。高柳が無駄に人を追い詰めて楽しむ類の人間でない事を知っている分だけ、彼が真剣にそう思っている事もはっきりと伝わってくるのだから。

 しかし、それでも素直に納得するのは癪だったので、「——、分かりました」これ以外の言葉を知らないかのように棒読みで応えてから、充電器のプラグを引き抜き、立ち上がった。無造作に脱ぎっぱなしになっているズボンの裏返しを直しながら、質問する。「行くのは、一時ぐらいでいいですか? 朝飯を食べてから行きたいんですけど」

『それでいい』来る事を約束さえしていれば、後は別に何時になっても構わないと言いたげな口調だった。

 それだけ大事な話、と高柳が口にした単語を一度頭の中で反芻する。初代の魔女は実在するかもしれない。初代の魔女を探せば命の保障はない。昨日、情報屋と交わした会話のいくつかがふと、脳裏にふわりと浮かんでは弾けて消えた。

『では、一時に対魔術課で待っている』それを別れの挨拶にして受話器が置かれようとする気配に、「あ。待ってください」大輔は声をあげた。「兄さん……、佐伯大智はその時間、部署にいるんですか?」

 思案するような間の後で、『模擬魔術事件の報告書を書いているところだろうな。昨日は情報提供をしてくれた麻耶さんに謝礼金を持っていったはずだから、今日は何か問題でも起こらない限りは一日中、部署にいるはずだ』と返ってきた返事は最後に、空気をゆっくりと震わせるようにして笑った。『彼がいたら迷惑か?』

「——、そういうわけじゃありませんけど、」ただ昨日の今日で顔を合わせづらいのは確かだった。偶然街中で出会う、のなら自分の運の悪さを嘆いて終わりだけれど、今から相手の職場に行こうとしているのだから、居心地が悪い。

 かといって、誰それがいるから行くのをやめます。では、分別の利かない子供以下の言い訳だろう。せめて初代の魔女の事を聞いている時だけは同席させないようにここで頼んでおくか、と自分なりに譲歩できる最低ラインを確認して、大輔は言葉を続けようと口を開いた。

『分かった、』と、電話越しで応える高柳の声が、大輔の言葉が声になるよりも前に話を締めくくる。『佐伯君には市街の巡回にでも出てもらおうとしよう。そうすれば二時間程度の余裕はとれるだろうから、問題はないね?』

「、はい」と答える以外の返事があれば教えてほしい。と内心で思いつつも、一応は感謝しながら頷いて、「じゃあ、一時に」と今度はこちらから別れの挨拶を告げて通話を切った。そして、通話中のアイコンが消えたディスプレイで時間を確認する。十一時三十五分。

 着替えを済ませてコンビニで朝飯を買って、近くの広場か公園で食べて——、警察署に行くまでの行動を頭の中でシュミレーションして最後に、これでいい、と頷いた。時間には十分に間に合うだろう。とりあえず今はさっさと、朝飯になるようなものなんて一切冷蔵庫に入っていない家を出る事だ。

 裏返しを直したズボンをはいて、箪笥から適当にシャツを引っ張り出して着る。汁が入ったままのカップラーメンの容器が放置されている流し台で顔を洗うと、用意は整った。半年前まではこのあたりで、櫛を持った大樹が「せっかくの色男なのに、髪の毛ぐらい綺麗に梳かせって」とぶつぶつ言いながら近づいてきたのだけれど、一人暮らしのこの部屋に櫛はない。鏡もない。大樹がいたら、そもそもこの部屋にいる意味さえない。

 昨日、麻耶の事務所を訪ねる時に肩にかけていた鞄はそのまま、畳の上に放ってあったので、それを右肩から左脇へかけて、玄関で靴をひっかけた。わざわざ時計を見る気はないけれど、精々五分ぐらいの身支度だろう。扉を開ける前になんとなく、髪の毛の表面だけ撫でる。耳の傍のあたりで手のひらに跳ね上がった毛先の感触があったものの、適当に他の髪の後ろに隠して終いにした。

 鍵を閉め、階段のほうへと歩き出す。ちょうど二階へ上がってきた隣人と、階段のすぐ手前で鉢合わせた。

「よう。重役出勤か?」立ち止まって分かりやすい嫌味で挨拶してくる中年の男は、長袖のTシャツに作業着姿という、いかにも工事現場にいそうないでたちだった。実際、夜間の工事現場で働いているから昼間は寝るので静かにしてほしい、と隣室に引っ越してきたばかりの頃に言われた事がある。うるさくすれば言わずもがな、昨日のように壁に何かがぶつかってくる。

「はい。今日は帰りが遅くなるかもしれません」だから存分に寝てください。と、こっちも明らかに嫌味を込めて言ってから、男の脇を通り抜けた。半年間隣室同士でも、交わす会話なんてものは大体がこんな感じだった。

 二言三言、嫌味のような皮肉のような事を並べて、どちらかが立ち去ったら終わり。大輔が階段を降りはじめるより先に歩き出した男の靴音からも分かる、至極シンプルな関係である。けれど三段も降りないうちにぴたりとその遠ざかっていた靴音が止んだのにつられて、大輔もなんとなく立ち止まってしまった。

 振り返った視線の先で、男が大きく右腕を振りかぶっていた。野球のピッチャーというよりは槍投げ選手の動作に似た腕は鋭くしなり、空気を引き千切るかのように素早く、何かを二階の通路から外の路地へと投げつけた。ようだ、と思ったのは、彼の投げたものが見えたからでも、投げつけられた何かのぶつかる音が聞こえたからでもなく、今まで静かだった一階の周辺の空気が途端、にわかにどよめいたからだった。

 動揺し慌てふためく複数人の気配を上から無造作に押し潰そうとするように、男の声が響き渡る。

「てめェらの話なんざ、聞きたくもないッ!」と、彼は怒鳴った。心底嫌悪する声音と同じ色をした眼差しは真っ直ぐに、外へと向けられている。「なにが我々は差別されているだッ! なにが能力者と一般人の平等な社会だッ! そんな言い訳を振りかざして、自分を受け入れない社会を妬んでるだけだろうがッ! そういう根性なしがいるせいで、他の能力者が困ってるとは考えねェのかッ!」

 いつもの眠っているところを騒がれてキレる男の口調とは違っていた。普段はただ腹立たしげに言い放たれている声が今は、明らかな敵意に凝っていた。叫び終えてもなお、何か言いたげな唇を強引に引き結んで、男は踵を翻す。バタッン、と、玄関の扉が閉まる。そんな乱暴に扱ったら壊れてしまうんじゃないかと他人事でも心配になるほどの音を聞いてから、大輔は残りの階段を降りきった。そして、男が声を荒げた理由を目にした。

 数人の男達が、いかにも困った顔をしてアパートの二階を見上げていた。何か悪さをしでかしそうでもなく、かといって昼下がりの住宅街に溶け込めるような雰囲気でもなく。服装自体ばらばらな、一言で表現すると「奇妙な」団体だった。

「どうします?」と、そのうちの生真面目な学生っぽい一人が口にする。誰に問うでもなさそうな言葉だったが、「住人に嫌がられたんじゃ駄目だろう。イメージダウンする事はあまりするなって、リーダーから言われてるし」太った格好のひとりが答えると、賛成とばかりに他の全員がこくりと頷く。そのほとんどの顔には見覚えがなかったものの、たった一人だけ、「じゃあ、仕方ない。ここは演説はなしで。リーダーの指示を仰ぐ事にしよう」締めくくるようにそう言った地味な背広姿の中年男だけ、大輔は知っていた。といっても、知り合い、というわけではない。どこでその顔を見たのか、思い出しただけだった。

 駅前で昨日、拡声スピーカーをいじっていた男だ。

 つまり彼らは、能力者解放戦線のメンバーなのだろう。足元を見ると選挙の演説とかで使われていそうなスピーカーが一台、二台、と置かれている。そこからコードがのびて、地味な背広姿の男が持っているマイクへと繋がっていた。

「でも、さっきの男の人、怖かったですよね。いきなり二階から傘を投げつけてくるなんて」

 と、ため息混じりに言う学生風の男が視線を地面に落とした。柄の真ん中部分が折れて、「く」の字に曲がった安物のビニール傘を靴先でつついている。「俺達の事、そんなに嫌いなのかな。怖いんですかね、能力者って」

 大輔は歩き出す事にした。約束の時間までに朝飯兼昼飯を食べなければいけなかったし、このままアパートの前に立ち呆けて、彼ら、能力者解放戦線の気を引くのも避けたかった。けれど無意識に、いつもよりもゆっくりと足を踏み出していたのは、生真面目な学生がした素朴かつ永遠のテーマであるその質問に、他の仲間がどう答えるのかを、聞いてみたいとも思ったからだった。

『大輔や大樹も、初対面の人を怖いと思う事はあるだろう?』ふと脳裏に、兄の言葉が蘇る。中学の頃だったか、似たような質問した双子の弟達に兄は他愛ない口調で言ったのだ。『それは相手をよく知らないからだ。知れば怖いという気持ちはなくなる。まあたまにもっと怖くなる時もあるが、それはそれでいい。何が怖いのかを理解していれば、その恐怖を取り除く方法も分かるからな。何も知らないって事が一番、どうしようもない恐怖を生むんだ』

 そして同じ質問を、ヒロシにもした。

 大輔は渋ったけれど、大樹が「色んな人間に質問したほうがきっといい答えが見つかる」と譲らなかったのだ。問いかけられたヒロシはしばらくの間じっと黙り込んでから話し出した。ゆっくりと頭の中にある考えを声にしていくような喋り方だった。

「——さあ、どうだろう」思い出したその言葉が別の誰かの声を伴ってこの時、大輔の耳に入り込んできた。

 思わず足を止めて声の方向へ振り向く目に、地味な背広姿の男の首を傾げる姿が映った。「山本さんが似たような質問をされて答えるのを聞いた事があるけど。そもそも本当に怖いのなら、能力者に逆らおうとか思わないはずだよ? だって、怪我させられるかもしれないし、もしかしたら殺されるかもしれない。だとすると、傘を投げたりするのはようするに、怖いとかじゃなくて、自分の周辺に近づいてきてほしくない。関わりたくないって事なんだよ。俺の世界に入ってくるな、って事だ」

「入ってくるな、ですか」その言葉を今はじめて聞いたとでもいうように太ったひとりが目を瞬かせた。背広姿の男が肩をすくめる。「だって、そうだろう? 怖いと思うものにあえて歯向かおうとする人間はいないから。本当は檻にでも放り込んでおきたいんだ。ライオンやトラみたいに、隔離されていれば安心できる。動物園みたいに自分達が見たい時だけ、触れ合いたい時だけ傍にいけるようだったらいいと思っている。人を食い殺せるだけの牙と爪を持っている、厄介な生き物だからね」

 立ち止まったままの足を大輔は意識して動かした。これ以上聞いてはいけない、と思った。ヒロシの言っていた事を言葉選びこそしながらも同じニュアンスで語る背広姿の男も、これ以上見ていたくはなかった。自分の心の中にある、一番誰にも触れられたくない醜悪な部分をごっそりとくり抜いてひとりの人間として、存在させているかのようだった。男の言葉には身震いするほどの懐かしさと、それと同じだけの怖さがあった。

 ゆっくりと、そして次第に歩調を速めている間も、彼らの会話は続いている。遠ざかる大輔の耳に最後に届いた声は、背広姿の男の嘆息混じりな一言だった。

「まあ、怖がっているのは僕らじゃない。怖がっているのは、無力な彼らのほうなんだよ」


   * * *


 正面入り口の自動ドアを開けて中に入ると、さりげなくいくつかの視線が向けられた。受付カウンターに座っている、数人の婦人警官の眼差しだ。彼女達の目は束の間、入ってきた人間は自分の担当する部署に用事だろうかと観察するように向けられて、そして違うと判断した時点で、あっさりとそらされる。分からない時は意味深な眼差しが続くけれど、声をかけられる事は滅多にない。

 そうして、ひとり、ふたり——、と婦人警官の視線がそれていくうちで、ひとりだけカウンターの向こう側で椅子から立ち上がった人間がいた。「あぁ、佐伯君。ひさしぶり」ひらひらと振られる手は、街中の雑踏で遠目に偶然知り合いを見つけて注意を引こうとする仕草のようだ。人が溢れかえってもいない警察署では無駄に周囲の人間の視線を集めるだけの行為でもあって、大輔は思わずため息をついてから彼女のいるカウンターに向かった。

「やめてください、先輩。その、恥ずかしいんで」といって、振られる彼女の手を掴んで、カウンターの上に下ろさせる。大輔の発言に目をきょとんとさせてから、ようやく気づいた様子で周囲を見回して、彼女は小さく舌を出して苦笑いした。そうすると大輔よりもだいぶ年上のはずなのに同年代ぐらいには見えた。

 警官時代に、世話になっていた先輩のひとりだ。彼女に限っていえば、退職してからのほうが世話になっているともいえる。

「あ。ごめんね、佐伯君」これほど悪びれない謝罪もないだろうと思うぐらいにあっけらかんと言ってから、彼女はカウンターにボールペンと記入用紙を置いた。「そろそろ来るんじゃないかと思ってたのよ。だから勘が当たって嬉しくてね」

「すいませんけど、今日はそっちの用事で来たんじゃないんです」言いながら大輔はボールペンのキャップをはずした。もう何回も書き続けている書類に今回も、同じ内容の記載を手早く済ませて彼女に手渡す。「でもまた、受理されてなかったんですね」

 指で一つ一つの欄を確認し、最後にこくりと頷いてから先輩は不思議そうに首を傾げた。「いつもちゃんと不備がないって確認してるのに、どうして記載不備で毎回返ってくるのかな。ある意味、都市伝説よね」

 それはうちの兄の仕業です。とは、さすがに言えず、大輔は無言のまま唇を引き結んで、ボールペンのキャップを戻した。カチ、と軽い音を立ててしまったボールペンをカウンターの向こう側にあるペン立てになおす。

 兄が、失踪した大樹の捜索願いをもみ消していると知ったのは、退職する数日前だった。

「まあ、今回は大丈夫でしょ」と、書類が不備で返ってくるたびに書き直す大輔へ言う台詞を今回も言って彼女は、「それで別の用事ってなあに? なにか盗まれた? 事故にあった?」書類をカウンターの上の小さな棚に片付けながら質問した。答えれば、それに応じた書類を出そうと待っている手を見ながら、大輔は首を横に振る。

「生憎、そういうんじゃありません」

「だったら、お兄さんと待ち合わせ?」半年前から続いている仲違いを知らない先輩の声は明るい。彼女の中での佐伯大輔はいまだ、二歳年上の兄を心底尊敬する青年でいるのだろう。「お兄さん、さっきパトロールに行っちゃったから、当分帰ってこないと思うけど。待ち合わせするならちゃんと、時間とか決めておかないとね」

「兄に用事はありません、」気をつけて言葉を選んだつもりだったけれど、愛想のない声が思ったよりも冷淡に兄の事を切り捨てていた。言ってから、しくじった気まずさに無意識に唇を噛み締めてしまう。

 意外な返事として受け取ったらしい先輩が一回、大きく目を瞬いた。なにか言いたげに唇が揺れるのを見る。

 本当は書類に不備なんて一つもない事は、長年受付カウンターに座っている本人が一番よく分かっているだろう。それでも毎回返されてくる書類への不信感を後輩である大輔に問うでもなく、ただ不思議がるだけで付き合ってくれている。もう書くなと言うでもなく、大輔の気持ちを何よりも尊重してくれている。世話好きというか、困っている人を見たら助けたくなるその性分が、さっきの大輔の言葉に反応してむずがっているようだった。

 詮索される前に、大輔は話を打ち切った。

「高柳さんに——…、課長に、呼ばれたんです。今日の朝、電話で」初代の魔女の件で、と言う気にはなれなかったので、ひとつ息をついてから嘘をついた。「引継ぎの件でひとつだけ、うまくやっていないのがあったらしいので。時間があれば来てほしいと頼まれて来ただけです。兄さん、とは関係ありませんよ」

 兄、を、兄さん、に変えるだけで随分と言葉が柔らかく聞こえた。結局他人行儀な言葉よりも長年言い慣れた言葉だからだろう。先輩はもう一度、さっきよりもことさらゆっくりと瞬きをしてから、「そう、」とまず小さく頷いた。「佐伯君がやめたの半年前なのに、ずっと気づかなかったっていうのも間抜けよね」

 詮索しないから。暗に告げられた言葉に便乗して、話をそらす。

「忙しかったんでしょう。模擬魔術事件でずっと忙しかっただろうし」

「そうね」応じて、彼女は口元をゆるめた。「対魔術課はそうでなくても人員が足りなくて大忙しなのに、働き盛りの子がひとりさっさと辞めちゃったらそれは、大変よねェ?」最後のほうはどちらかといえば張りぼてのような意地悪さがあった。問いかけの形をしていても大輔の返事を期待していないのは明らかで、間を少しも置かずに彼女はちらりと視線を、大輔の背後へとやった。

「二階以上にあがるお客さんを案内するのも私の仕事の一つなんだけど、どうする? 対魔術課まで案内しようか?」

「さすがに引越しでもしていない限りは迷いませんよ」

 苦笑いで丁重に先輩の申し出を断って大輔は、彼女が視線を向けた背後のエレベーターのほうへと踵を翻した。そのままロビーを立ち去ろうとするのを引き止めたのは、音もなく開いた自働ドアから入り込んできた外の音だった。

 自動ドアを開けたのは、ごく平凡そうな男である。その男の靴音と共に耳に入ってきた、機械越しにノイズが絡まった音声に大輔は立ち止まっていた。振り向いてドアのほうを見ても、あるのは駐車場のアスファルトの色ぐらいなものだったけれど、その音声がなんであるかを察するのは簡単だった。

「あら、外は随分と賑やかなのね。選挙なんてなかったと思うけど」と、音の正体に気づいてないらしい先輩の他愛ない声である。さすがにさっきの音声が能力者解放戦線の演説だと教えれば多少は眉をひそめるだろうけれど、あえて告げる理由もなかったので大輔は口を噤む事にした。

 でも、と心の底では呆れた思いだ。

 いくら半年前の模擬魔術事件の首謀者を“組織内における一部の過激思想を持った能力者”と触れ回っていても、半ば無差別殺人のような事をしでかした組織が警察署を前にして、組織のアピールをしているのだから。腹いせ交じりにしょっ引かれても文句は言えない気がする。

 それとも警察への連行のリスクを背負っても、彼らはこの近くで演説をしなければいけないのだろうか。確かに警察署は大通りに面しているから、陣取って演説をすれば自然と多くの人の耳に入っていくだろうけれど。昨日と今日、二日間で場所を変えて四回、能力者解放戦線のメンバーに遭遇しているというのも、半年前の大事を考えれば頻度が高い。なんだかんだで半年前、事件をきっかけにして行われた一斉摘発で幹部達の大半は逮捕され、下っ端は下っ端で逃げ出したもの、知り合いの説得によって抜けたものが大勢出ただろうから、これ以上の弱体化を防ぐ意味でも新しい仲間の勧誘は彼らにとって急務なのかもしれない。

 しかし、能力者仲間のうちでも能力者解放戦線は鼻つまみものだ。表面上は波風立てずに共存してきた能力者と一般人の境目を力任せに揺さぶり、亀裂を作り出してしまっている。亀裂が隙間になり、最後は飛び越える事もままならない溝となるのを恐れている能力者は思いの他、多い。

 そこまで考えが行き着いたところでひっそりと、息をついた。

 ——まあ、俺には関係のない事だけど。と、大輔は内心で静かにピリオドを打つ。

「あの、」と、カウンターにいたひとりの婦人警官が先輩に声をかけた。周囲に聞かれるのを憚る押し殺した声ではあったけれど、自働ドアが閉まるのと一緒に外から入り込んできていた声を締め出したロビーの空気は、さっきまでの静けさを取り戻している。耳をそばだてる必要もなく、聞こえてきた。「道路を挟んで向こう側の公園で、能力者解放戦線が街頭演説をしているらしくて。警察の威厳はどこに行ったんだって、あの人が——……」

 あの人というのはさっき入ってきた男だろう。

 視界の外側で見えなかったものの、能力者解放戦線、の単語が出た瞬間、先輩が顔をしかめるのを感じた。物静かなりに穏やかだったロビーの空気に剣呑が落ちてざわめく。

「そうね、」と、先輩が前置きのように言うのに大輔は振り返っていた。気配のようなもので、呼ばれるのではないかと思ったからだ。伏せ眼がちにカウンターを眺めていた彼女は目を上げると、すぐさまかち合った大輔の視線に面食らった顔をしたものの次の間には、苦笑いに近い笑みを浮かべた。

「ついでに対魔術課の誰を呼んでくればいいんですね?」彼女の言いたいだろう事を推測して訊ねると、彼女は苦笑いのままこくりと頷いた。「お客様をこき使って悪いね。その代わりといっちゃらなんだけど、書類のほうはちゃんと死守するから。今回は任せておいて」言って、自身の胸元を叩いてみせた。

「まるでその言い方だと、今までは適当だったように聞こえますけど」

 こっちも苦笑いを添えた軽口を言ってから歩き出した。ちょうど上階から降りてきたエレベーターに乗り込んで、対魔術課に向かう。


 三階の一角にある対魔術課は通り過ぎてきたどの課よりも物静かだった。絶対数として部署にいる人間そのものが少ないから、彼らひとりひとりがせわしく席を動き回っていても全体的にはひっそりとした雰囲気なのだ。——と、対魔術課の事を表面的にしか知らない来客者なら思うのだろうが、なまじ彼らの内情を知っている大輔の肌は、少ない人数ながらに他の刑事課や生活安全課と同等のスペースを有している部屋の空気が、ぴりぴりと静電気を帯びたようになっている事に気づいていた。忙殺されすぎて殺気立っている空気である。

 さて、こんなところに半年前にいきなり退職した同僚が来たらどうするかな。とふと思った時には、想像するよりも先に声をかけられていた。「あれ? 佐伯? ……、佐伯、大輔のほうだよな?」部屋の中央に向かい合う形で寄せられた六つの机の右端にいた男が目を丸くして、入り口の前に立っている大輔を見る。半年前に大樹が失踪したのは同僚であるこの男も知っている、そもそも大輔と共に現場にもいた。一応の確認といった口調で続けられた名前に大輔は頷いて、「久し振り」とありきたりな挨拶を口にしてから、視線を部署の一番奥へと投げた。部下達の机の先、大きめにとった窓ガラスを背にする格好で机が一つ置かれている。

 視線を受け止めて、机に座っていた高柳がゆっくりとした動作で立ち上がった。

「待っていたよ」たった一言の他愛ない口調に、声を投げかけられた大輔ではなく目を丸くした男のほうが先に早く反応して顔をしかめた。突然の驚きが過ぎ去るとようやく、どうして大輔がここにいるのかという疑問が生まれたらしい。無論、模擬魔術事件の後処理で大忙しだった頃にろくな事情説明もないまま辞めてしまった大輔が、と反感しかない前置きがついている。

「——そういえば、一階の受付の人が対魔術課の人間を寄越してほしいと言ってました」同僚が何かを言い出す前に、先輩から頼まれていた事を高柳に告げた。「警察署の前で能力者解放戦線のメンバーが演説しているそうですよ」

「そうか」と上司が応じた時には、男が席から立ち上がっていた。

「俺が行ってきます。恐らく路上使用許可を取っていない無断での演説でしょうから、向こうもそんなに抵抗しないでしょうしね」言って、部屋から立ち去る。大輔の傍らを通り抜け、早足で遠ざかっていく。その靴音が消えるまで耳を澄ましながら、大輔はひっそりと息をついていた。

 避けられた、と思った。向こうからすれば、なまじ嫌味を言わないために距離をとった、というところなのだろうけれど。

 ひとりいなくなった事でますます閑散とした雰囲気が深くなった対魔術課の室内で高柳は、男が座っていた机の斜め向かいに腰を下ろしている部下へと「悪いが、私はこれから彼と大事な話があるから小会議室に行く。何かあれば携帯で連絡してくれ」告げて、入り口にいる大輔の肩を軽く叩いて廊下に出た。

「気分を害したなら私から謝ろう」と、上司然とした声が言う。「君が抜けた穴を埋めたのは彼だ。その分だけ苦労もしただろうし、君に言いたい事もあるんだろうが」

「分かってますよ、」ただ無視されたと憤るほど子供ではない。身勝手な大輔の行動に元同僚が腹を立てるのは当然の事だったし、一方で大樹の一件が遠慮となって、文句を吐き出したい口を塞いでいる事も察しがつく。

 小会議室は対魔術課を出てすぐの場所にあった。

 扉の脇のプレートを「使用中」に差し替えてから、ふたりは部屋に入る。せいぜい十人程度しか収容できなさそうな室内は、すぐに会議が行えるように、長机が四角形の形に辺として置かれていて、入り口から見て手前の奥には使い古されて本来の白色をなくしているホワイトボートがある。大輔に一番近くの折りたたみ椅子を勧めた高柳自身はそのまま辺をなぞるようにして、大輔と机と空間を隔てた反対側に回りこんだ。

「単刀直入に言おう。初代の魔女を探すのはやめなさい」と、席に座って彼は言う。

 反論を許していないのはもとより、上司と部下の関係であった時でさえ言われた事がないほどのはっきりとした命令だった。この有無を言わさぬ口調で告げるためにわざわざ必要以上の距離をとったのではないかと勘ぐりたくなるぐらいだった。こんなに離れていたら剣呑を抱いてもまず手をあげるよりは、口を開くほうが早い。

「どういう意味ですか?」理由がないものに従うつもりはない。部下としてではなく、あくまで忠告を受ける立場として質問する。「初代の魔女を探すと何か問題でもあるんですか? その前に、やめるように俺に言うのは叔父さんとしてですか。それとも、課長として?」

「両方だな」応えると、高柳は困ったように口元を緩めた。「しかし最初に聞いてくる事は、初代の魔女は都市伝説ではないか? だと思っていたんだが」意外だった。と言いたげな口振りが一方で、言葉なく問いかけてくる。

 実在しているという確信を、一体どこで見つけてきたのか。

 隠す必要を感じなかったので、「初代の魔女の情報を頼んだ情報屋がその日のうちに根をあげてきたんです。探せば命はない、と脅されたって」ありのままを話して再び質問した。「高柳さんも、その用件ですか?」だとすれば、初代の魔女の周囲に張り巡らされた有刺鉄線は想像以上に頑丈で隙間がないかもしれない。

 情報屋が脅されたのはあくまでも、裏社会だ。そして大輔が今向き合っている男は、表社会に属する。つまりは裏と表が交差し合い、行く手を阻んでいる事になる。そこまでして隠蔽しなければならない何かが、「初代の魔女」という対象には潜んでいる。

「恐らくは、同じ用件だろうな」高柳は口元の笑みを深めた。「そして君の性格上、納得のいく答えを得られなければ指示には従わないだろう? わたし達の間に、上下関係が存在するならまだしも」

「……でも、話してくれるんでしょう?」高柳はその気だろう。でなければ会議室でこうして顔を突き合わせているのはおかしいだろうから。深入りしない忠告を口にするだけのつもりならば、人の出入りがある対魔術課の室内でも十分だった。

 初代の魔女に潜んでいる何かを大輔の前に晒して見せるために、高柳はここを話し合いの場所として選んだはずだ。廊下を行き交う人間がどれだけいても、「使用中」のプレートが差し込まれている会議室の扉を開けようとはしないだろうし、防音設備も行き届いている。

 問いかけに元上司は物静かに頷いた。

「最初に言っておくと、話せる範囲の事は決まっているんだ。君がどれだけ先の事を知りたいと願っても、それが話せる範囲を超えていれば私は沈黙するしかない。でもそれは私の保身のためでもあり、君自身のためでもある。初代の魔女について、多くを知りすぎた人間は遅かれ早かれ命を奪われてきた。……社会的抹殺、という意味も含めてね」

 そうして一旦言葉を切り、悲嘆そのものといった息をついてから彼は続きを話し出した。「まず、初代の魔女は実在する。何かの情報の暗号というわけでも、兵器の隠語でもなく、能力者として生まれた一人の女性を指す単語だ」

「能力は男にしか発現しないって言われてますけど」

「突然変異という見方が大半だな。今現在でも、彼女以外に能力を持った女性が生まれてきたという報告はない。君も知ってはいるだろうが、そもそも能力は男性特有の遺伝子情報の中に存在するもので、生物学的に見ても女性が能力を持つ事はありえない。——ありえないからこそ、彼女が発見された時、学者達は歓喜したわけだ。まだ、「研究所」が健在だった頃だから」

 頭の中で年数を数える。「二十二年前以前、ですよね?」

「三十年前だ。政府が研究所を立ち上げたのが三十五年前だから、五年後の話だな。——、そのあたりの事は学校の授業で習っただろう?」そう大輔に訊ねてから噤まれた唇は、自分から答えを告げる気はないと言いたげに頑なに引き結ばれていた。教科書に載っていた事、現代社会でも歴史でもなく、道徳の時間に学んだ事だ。高校を卒業して久しい頭の中からは難解な方程式の解き方は綺麗に抜け落ちているけれど、広げたページの右半分を使って掲載されていたモノクロ写真の事は、いまでも不思議なほどはっきりと覚えている。

 白と黒だけの画像にも関わらず、写真の大部分を占める灰色の壁はとても寒々しく見えた。壁よりも若干薄い色で映る中央の台、手術台と表現するのが一番適切だろうそれに点々とある歪な形の汚れは、モノクロでは映せないはずの毒々しい赤色のようだった。

 淡々と他人事として、一行の文章が写真には添えられていた。——研究所内、実験室。

 思い出すと、自然に眉根が眉間に寄る。まるで、確かにその実験室で痛めつけられた体の箇所があるのだと主張するように、じくりと胸の奥が痛み出す。古傷が雨で疼くのに似ていた。

「大丈夫か?」と投げかけられた声に、顔を上げる。

 それは俺の台詞だろう。と、大輔は心の中で思った。高柳は今年で三十五歳だ。当時能力者として生まれた子供はこぞって研究所に預けられていたそうだから、二十二年前まで存在していた研究所にいたのは確かだろう。

「……、大丈夫ですよ」応えてから一度、深く呼吸をする。そうして心の中に溜まりだしていたむかつきごと、深々と息を吐き出した。「普段は忘れてるようでも案外覚えているもんですね。迫害の歴史、っていうのは」

 二十二年前まで、模擬魔術は一般的には普及していなかった。

 今では生活を支える一つの柱とも言える技術を一括に管理していたのが時の政府であり、その政府の管轄下において模擬魔術を研究開発していたのが、いわゆる「研究所」と呼ばれた組織だった。正式名称は、能力者矯正支援センター。建前上は、三十五年程前から一気に増加しはじめた能力者と一般人とのトラブルを未然に防ぐための、能力者専用施設。当時は今よりも能力を持った子供を捨てたり育児放棄をする親が多かったため、養護施設のような感じであったらしい。

 その施設で、親から捨てられた能力者の孤児達は専門家やカウンセラーの手厚い援助を受けながら育っている。幸せに暮らしている。

 創設されてから十三年後、つまりは二十二年前、研究所が突如火災に見舞われ、今までまったく研究所と関わりのなかった地元の消防隊が逃げ遅れた者達を助け出そうと施設に駆け込むまで、世間はそう思っていた。駆け込んだ消防隊の一人が、和やかな養護施設然とした一角に不自然なまでに頑丈に閉ざされた扉を発見し、こじ開けて中を見た。その光景を消火完了後に写真に収めなければ、世間はもう少しの間ぐらいは無関心でいられただろう。

 公開された写真こそ大輔の脳裏に今も焼きついている、薄ら寒い空気を漂わせた実験室の光景だった。

 世間に広く浸透していた「能力者のための施設」というイメージからはあまりにもかけ離れたその写真を、政府はまず門前払いにした。けれどそれでは世間が納得しないと分かると今度は、事実無根の写真だ。捏造だ、と唾を撒き散らしながら主張するようになった。

 けれどちょうどその時に、ある企業から新商品として煙幕の出るリングが発売される。同時期にとある出版社が、火災の際に施設から逃げ出した能力者のインタビュー記事と彼が命がけで持ち出したという研究所内の機密資料を大々的にページを割いて掲載した。そして、新商品の外観や構造がその資料のひとつにとても酷似していた事が、知らぬ存ぜぬを繰り返す政府を袋小路に追い込む結果となった。

 世間が事の真相をちゃんとした言葉で聞くのは、それから一年後になる。衆議院選挙で惨敗した政府に代わり第一党に躍り出た現政府が即日に調査委員会を創設し、判明したことのすべてを国民に伝えると約束したからだ。

「初代の魔女の事は分からなかった、という事ですか?」

 明るみに出た事は、能力者矯正支援センターとは名ばかりの、関係者の中では少しの温もりもない「研究所」と呼ばれていたその場所で、非人道的な行為が日常的に行われていたという事実だった。隠された目的は、能力者の力の解明と応用。毎日血液を抜かれ、内肘の柔らかい皮膚の部分が痣のように青黒く変色した者もいた。普通の血管から血を採取できなくなれば、耳朶のような、本来採血するのに相応しくない場所から強引に取る事もままあったらしい。

 これらの情報は“国民が知るべき能力者迫害の事実”の位置づけをされる一方で、研究所を設立させた前政府と政権交代を果たした現政府がまったく違うものなのだと国民に印象付けるためにも使われた。二十二年たった今、現政府にもそれなりにスキャンダルがある。政治家にありなちなカネと汚職の問題は新聞やニュースを騒がせてはいるものの、まだ誰の口からも政権交代をすべきだという声はあがっていない。この国は二大政党制だから、表で一般人と能力者の平等を謳い、影では人体実験と謗られても大袈裟だと言い切れない事をやらした党に再び、政治の中枢を任せるのか? と、政権交代という単語に付きまとうその問いに、「はい」と断言できる者がまだ現れていないのだ。現れにくいように、政府は能力者問題を操ってきた、ともいえる。能力者の敵=前政府として、彼らの悪行をひとつひとつ見つけては白日の下に晒してきたのだから。

 高柳は静かに目を伏せ、机の上で両手の指を組み合わせた。「分かってはいるだろう。ただ、ここ二十二年で政府は、能力者の味方を演じ続けてきた。能力は不可思議な力こそあるが普通の人間であり、絶対数が少ないから大勢の一般市民に迫害されれば生きていけない。能力者=弱いもの、という位置づけで彼らは、弱きを守る立派な政府を演出してきたわけだ」

 能力者の施策として、政府は能力者の力の応用技術を民間企業へ解放する事で今まで国が独占していた情報を統べて手放した。研究所を潰し、今度こそ能力者ための支援施設を建設した。その傍らで模擬魔術や能力者自身による犯罪が横行し始めると、警察内に能力者だけを揃えた対魔術課を作り、対処を命じた。能力者を庇護しながらも一般人との折り合いを図り、双方が歩み寄れる社会環境を築く——、半年前までは順調に行っていた、といえるだろう。

「模擬魔術事件のせいで一般市民はまた、能力者を恐れ出している」苦々しい声には、対魔術課として事件を見現に防げなかった後悔も混ざっている。「その上で初代の魔女と誰かが接触し、彼女自身の口から研究所の火災の事実が世間に広まれば今度は、前政府のとった非道な行為のほうが正しかったと言われかねないと恐れているんだ」

 高柳は息をついて指を解いた。瞼を上げて、大輔を見る。

「政府の見解では、火事は煙草の火の消し忘れになっているだろう? しかし本当は、初代の魔女と彼女に呼応した過激派達が引き起こした暴動の結果としての火災だった。彼らは研究所から逃げ出すために施設内に火を放った。研究者達はもちろんの事、自分達の同胞である能力者が焼け死ぬ事も厭わない行動だ」

 大輔は息を吸い込んだ。喉の奥が干上がっていてひりひりと乾いた痛みを訴えていた、唾を二度三度、飲み込んでからようやく口を開いた。

「、それで、初代の魔女を探してはいけないんですか?」

 能力者が政府の庇護を受ける理由ともなった火災の事実。一般人が恐れを抱くかもしれないから、という理由は表としては十分だろう。けれど、裏社会にまで禁忌として広がるにはまだ何かが足りない。

 大輔の疑念に高柳は応じた。今までの口調の中で、ひときわ感情を押し潰したように低い声だった。「研究所は初代の魔女を発見してすぐ、彼女の卵子が使用可能か検査した。両親が共に能力者だった場合、その子供はどんな能力を受け継ぎ、一般的な子供との差異はあるのか。研究者にとってみれば、女性の能力者がいない以上は調べようのない事だったから、興味は尽きなかっただろうな。魔女は幼くして遺伝子上の母親になった。さすがに母胎は既婚者の子宮を使ったらしいが。その最初の、魔女の子供の能力データが、裏社会に流れたらしい」

 大輔は首を傾いだ。「流れて、……どうなったんですか?」

 裏社会は初代の魔女を禁忌とした。ある程度名前は通っていてもしがないはずの情報屋でさえ少し魔女を探そうとしただけで命の危険を告げられるほどに。結論はあるものの、そこに辿りつくまでの経過が分からなくて高柳を見る。

「人を殺すのに、爆弾と包丁、どちらがいいか? という話だよ」と、声の調子は変わらずに告げられた。「爆弾と包丁なら確かに、殺傷力は爆弾のほうが高いだろう。しかし場所を選び、無関係な人間を巻き込みかねない。包丁ならば、動脈の位置さえ分かっていればその人間だけを殺す事ができる」そうして一旦噤んだ口を引き飛ばすようにして、笑みを作った。筋肉を動かしただけのそれは、感情のない声と同じものだった。

 能力者も同じだろう? と、笑みは訊ねてくる。だから裏社会は初代の魔女を禁忌としたのだ。

 目を、大輔は大きく瞬いた。第三者が扱いきれないほどの能力を秘めた子供を産み落としたために裏社会で、存在さえ探る事を禁止された女性。けれども、彼女よりもまず、気にかかった事がある。

「初代の魔女の子は、死んだんですか?」そうでなければおかしな話だ。禁忌がひとつだけというのも、可能性以上に現実としてすでに存在しているものを問題視しない事も。

 簡単に行き着いた答えだったけれど、高柳はすぐには即答しなかった。「——……、研究所の火災では、多くの能力者が死んだ」嘆息そのものを声にして彼は言うと、目を大輔から傍らにあるホワイトボードへとやった。「そもそも能力を持った子供は育てられないと、半ば親に見捨てられるようにやってきた子供も多かった。遺体の半分以上は身元不明だ。魔女の子供が生きているかどうかは分からない」

 詭弁だろう。死んでいると、確証がなければいけないのだ。

 嘘をつくのに目をそらす癖が、彼にあるわけではない。けれど、何かが書かれているわけでもない汚れたホワイトボードにただ置かれている高柳の視線は、分かりやすく大輔から目をそらしているだけのように見えた。

 しばらくして、高柳は一度瞼を伏せてから、大輔へと改めて視線を据えた。

「どちらにしても、初代の魔女には触れてはいけない。理由はそれぞれ違っても、表と裏でその約束が交わされるのは簡単だった。探そうとするものがいれば止める事、止めても探そうとするのなら実力行使も辞さない。そういう決まりだ」最後の言葉の部分にだけ、ふとしたかすかな揺らぎがあった。自嘲げに声を滲ませて高柳は続ける。「忠告するのはこれで、二度目だ。一度目の人間は、自分がどうなってもただ事実がほしいと言い切って、最後には死んでしまったな」

 背筋が条件反射的に震えた。その一度目の人物を殺したのは俺だ、とは邪推でもしなければ閃かない結論だろうに、据えられている眼差しがそっと物静かに引き絞られるのを見て、大輔はその暴論を、咥内にいつの間にか溜まっていた唾ごと喉の奥へと飲み下していた。——そう、思わせる事が肝心だ。実際に手を下すよりも、もしもを想像させることで尻込みさせ、引かせる事の方が重要だ。冷静な部分は興醒めした冷淡さで断じていて、大輔自身、その感覚のほうが正しいのだろうと思ってはいるものの、肌を粟立てた悪寒はすぐにはなくなってくれなかった。

「ところで、」と、高柳は話題を変える。こべりついた悪寒を綺麗に剥ぎ取れないままに大輔は高柳を見た。「どうして初代の魔女を探していたのか、聞いていなかったね。君がただの好奇心で、いまや都市伝説と化している彼女を探そうとするとは思えないんだが」

 視線がかち合い、そらしたのは大輔が先だった。「言えません」

 依頼人を守らなければ、とまず思っての拒絶だった。けれど言い捨てて一文字に唇を引き結んだものの、小さく小首を傾げた高柳の目が淡々と見つめてくる威圧感に次第に耐え切れなくなって結局、再び口を開いた。負け惜しみのように、苦味のある声が出てきた。「——、人に頼まれました。でも、その人も本気で初代の魔女がいるとは思ってないでしょう。ただの酔狂ですよ。だから、俺が「いなかった」と嘘をつけば、きっと依頼人も諦めてくれます」脳裏に蘇る、一億円の光景はこの際、忘れる事にした。依頼人が見せた一億円分の本気は、大輔が説得したところでそうそう消えやしないだろうとも思ったけれど、これも気づかない振りをする。

 高柳は、「そうか」と短く応じた。大輔の説明を受け入れるように頷いてから、「君はこの件から、手を引いてくれるんだね?」訊ねる口調は念押しというよりは、最終確認といった様子だった。ただ、断られるはずがないと自負しているからではない。もしそうなった時には最後の手段しかない、と覚悟を決めている問いかけだった。

 頷きかけて、半ば顎を引きかけたところで大輔は動きを止めて、上目遣いに高柳を見遣った。「条件がある、……って言ったら、聞いてくれますか?」大輔が聞く耳を持たなければ、社会的抹殺でも文字通り命を奪う事になっても仕方ない、とさっきの問いかけは暗に告げていた。そんな相手に条件も何もないのは重々承知していたけれど、微々たるものでも受け入れられる可能性があるのなら、大輔は言わなければいけなかった。

 若干、高柳の表情が引き締まる。「大樹の事か?」

「そうです」緊張。拒絶。ささやかな元上司の変化を感じ取り、大輔も居住まいを正す。「大樹の捜索願を受理してください。受理してくれるなら俺は、初代の魔女の事を諦めます」

「大樹は成人している。子供の行方不明ならまだしも、成人した人間の捜索願はあまり重要視されない。大人は知恵も働くから、自分から失踪したのだとすれば警察が発見する事は困難だ。その点は君も、知っているだろう?」

 額縁通りに聞き入れれば提出しようとしていた捜索願の届けを断念せざるおえないような質問に大輔はあっさりと頭を打ち、けれど条件自体を引っ込める気はまったくない事を感じ取ると、高柳は言葉を続けた。淡々とした声だった。「それに、大樹が失踪したのは模擬魔術事件の真っ只中だ。——逃げ出したんだと、思っている人間がいないわけじゃない」

「だからって受理するのを拒むのは違うでしょう?」

 身内の恥を不特定多数に広めたくないために捜索願を引き下げる大智の行為と同じだ。

「——……、分かった」置かれた間の割りに、他愛ない応え方だった。「君の弟の捜索願は受理しよう。君の兄にも邪魔はさせない。その代わりに君自身は今後、初代の魔女に関わらない事を約束してほしい。初代の魔女だけではない、君に彼女の捜索を依頼した人物とも関係を絶つ事。いいね?」

 でなければ、命の保証はしない。言葉の形をした見えない刃の切っ先を鼻先寸前に突きつけられたような心地で、大輔は神妙に頷いた。もとより、門前払いされる事も覚悟の上で切ったカードなのだから。「分かっています。約束は、守ります」

 真摯に応えた大輔の姿勢をそのまま鏡で写し取ったかのような生真面目な面持ちで高柳は頭を打つと、ふと硬く引き締まっていた顔の輪郭を柔らかく崩した。この部屋に入り彼が口を開いてから始めて目にしたと実感できる、心からの笑みだった。

「さて、じゃあもう話す事はない」言って高柳は自身の手首にある腕時計に目を落としてから、大輔の肩越しに背後の扉へと視線を投げた。「君としても、そろそろここを離れないとまずいだろう。君の兄は優秀だからパトロールをサボって早く帰ってくる事はないが、寄り道をする事もないからな」

「じゃあそうします」大輔は立ち上がった。さすがに警察署の中で鉢合わせたら、街中での遭遇よりも面倒は格段に増える。模擬魔術で強引に逃げ出すわけにはいかないし、かといって減らず口で周囲の注目を集めたくもない。

 高柳に頭を下げ、背中を向けていた扉のほうへ体を翻した時だった。

「そういえば、君にひとつ聞いておきたい事があったんだ」とかけてきた声に引き止める類の強さはなく、どちらかといえば世間話の続きのような他愛ない響きだった。真剣味も感じられない声音に肩越しに顔だけを振り向けると、高柳は首を傾いで口を開いた。「その後、体の調子はどうだい? 能力障害の影響は大丈夫だろうか?」

 大輔は体ごと改めて高柳に向き直ってから頷いた。「大丈夫です。特に問題はありません」

「病院にはちゃんと通っているのか?」高柳の視線がそっと静かに大輔の体の線を撫でる。

 通ってなんていない。そんな時間と金があるのなら、費やすべき対象は自分ではない。そう決めて半年前に、自分でも意外なほどにあっさりと切り捨ててしまった事を改めて親身に問われると、自分で下した結論をそのまま口にする事は出来なかった。思わず言葉を探すように、目を高柳から天井へとそむけてしまっていた。

 空いた間とそれた目が、高柳にとっては何よりのヒントだっただろう。ふいにしかめられた顔を見る限り、本人が望んでいた答えからは程遠かったようだけれど。「通っていないのか? 警察を辞めてから半年間、ずっと?」

 息をつき、視線を落として真正面に高柳を据えてから、応えた。自分のしている事は正しいのだと主張する、頑なな声が出てくる。「あれは単に、能力がなくなっても普通に生活出来るようにっていうリハビリ目的の通院です。根本的に、なくなった能力が戻ってくるわけじゃない。通う必要性を感じなかったら辞めました」

 短い嘆息が高柳の口から落ちた。「能力者は突発的な事態に遭遇した時、能力に頼る傾向がある。その能力がなくなっている状態でリハビリも受けずに放置しておくのは危険だ。かすり傷で済む事が大事に発展する場合もあるんだよ?」

 分かっている。その説明は十分に、リハビリを辞めると主治医に告げた時にもされた。


 ——……、いいですか、佐伯さん。一般人はそもそも自分が非力だと知っています。猛スピードで突っ込んでくる自動車があれば避けようとするし、頭上から何かが落ちてくれば身を守ろうとする。つまり条件反射として、回避行動が身についているんです。それは逃げなければ怪我をする、死ぬかもしれない、と本能がまず危険を理解しているからなんです。

 けれど、能力者は違います。個々の能力によりけりな部分もありますけどね、突っ込んできた自動車を素手で受け止められる人もいますし。落下物が自分の体にぶつかるより前に、落下物そのものを粉々に粉砕してしまえる人もいます。危険は、一般人に比べるとずっと少ない。——少ないからこそ、能力をなくした能力者の事故は後を絶たないんです。

 早い話が、頭の中で理性が理解する速度と、神経に染み付いている本能が理解する速度はまったく違うんですよ。危険な事に遭遇して、咄嗟に能力を使おうとした後で、その力を今は失っているのだと思い出して逃げようとしても、すでに手遅れな場合もあります。だから能力をなくした能力者は身の安全のためにリハビリを受けなければいけないんです。無論、法律や条例で決まっている事ではありませんよ、佐伯さんが辞めるといえば終わりです。でも、よく考えてください。事故で足を失った人がリハビリなしで社会復帰できますか? 脳梗塞で倒れた人がそれまでと同じ生活を苦もなく取り戻せますか? 佐伯さん、貴方が力をなくしたって事はようするに、それらと同じなんです。今まで当たり前に出来ていた事が出来なくなり、ふとした場面で支障が出てくる。他の事例よりも見えにくいだけで、本質は同じなんです。


 でも。と、脳裏で延々と説明なのか説得なのか分かりづらい事を喋り続ける記憶に、大輔は医者の口から同じ事を聞いていた時同様に、言葉を返した。声に出して、あの時の医者によく似た困り顔をしている高柳へと告げた。

「俺は能力を取り戻したいとは思っています。だから、戻らない事を前提にしてリハビリを受けるつもりはありません」

「——、困った患者だな」間の後でひっそりと深められた口元の笑みには、大輔の強情さに半ば呆れて困る色が滲んでいた。「能力を失った能力者のほとんどが能力の回復を望みながらも出来ていない。なくす原因さえ不明なんだ。そもそも能力を発現させていること自体が異常であり、能力がなくなるのは肉体の修復機能がその異常を治したからだという説もある。今の君の状態のほうが、肉体的には正しいのかもしれない」言って高柳が小さく肩を竦めたのは、その自身の言葉で言うのなら、能力を持っている彼自身が病気なのだと断言したようなものだからだろう。

 正常な状態ではない。一般人が正しい人の姿だというのなら、高熱を発する体が病であるように、不可思議な能力を扱う体も、何かを病んでいるに違いない。

 大輔は首を横に振った。「肉体的にはどうであっても、俺にとっては大事なものなんです。なくなったからといって、はいそうですか、って諦められるものじゃない」そっと左手で、体の脇に垂れ下がっている右手を撫でた。ごく普通の体温を宿した、柔らかい皮膚の感触。当たり前に伝わってくるものに無性に歯噛みしたくなるのを堪えて、その代わりに深々と息を吐き出した。「高柳さんも一度、なくしてみれば分かりますよ。多分、どうしようもなく不安な気持ちになりますから」

「なるほど、」と、高柳は頷く。「君にとってリハビリをするという事は同時に、今までの自分の価値観を捨て去るという意味にもなるわけか」

「、そういう事です」少し違うとは思ったものの、そのささやかな差異を説明出来るだけの言葉を持ち合わせている自信がなくて、一瞬黙り込み、そうしてから頷いた。

 怪訝そうに大輔を見遣る高柳の目の中で、さっき微笑と共に消えた鋭さがゆっくりと再び滲み出し始めていた。空いた間の一瞬で迷った事を目敏く見つめたような目は刑事然としたもので、彼を中心にして部屋の空気がまた引き絞られていく。

 嘘をついていると思ったのだ、と、大輔は柔らかさが鋭さに飲み込まれた高柳の目を見て思った。嘘と呼べるほどご大層なものではないと分かっているから余計に、事実を探り当てようとする眼差しを真っ直ぐに、眼球の奥にまで突き立てる不躾さと強引さが馬鹿馬鹿しくも鬱陶しくも思えてきて、今度こそ部屋を出るために背を向けた。

「大輔、」隠し事があるなら言いなさい。と、大人が子供を諭す声だ。

 振り返らずにノブを回して扉を開ける。体を部屋の外へ出してから、室内の高柳へと向き直った。思っていた通り見据えてくる眼差しには、呼んだ声音の半分程度の優しさも穏やかさもなかった。俺も刑事だった頃はこんな眼をして犯人を見ていたんだろうか。隠し事を許してくれそうにない眼に、苦笑いを浮かべる。

「大樹を見つけてくれたなら、リハビリも受けますよ。高柳さん」

 別に能力に固執しているつもりはない。ただ能力と一緒になくしてしまったものが、あんまりに大きすぎるのだ。力を取り戻したら同じようにまた戻ってくるのではないかと思うから、簡単に能力を諦める事が出来ない。

 ——今までの自分の価値観を捨て去る。という話ではなくて。

 一番怖いのは、リハビリを始める事が半年前になくしたすべての物を諦めてしまう事に繋がりかねない、という事。戻ってくるはずがないと心の何よりも弱い部分で認めてしまいそうだという事。

 本当は、平凡に当たり前に過ぎていく毎日でさえやるせなく、時にどうしようもなく、立ち竦んでしまいそうにだってなるのに。

 高柳の眉間に深く皺が寄るのまでは見たけれど、動き出しそうな気配で震えた唇から発せられた声のほうは、扉を閉める音で掻き消して聞こえなかった振りをした。本当は、「違うだろう。もっと自分の身を大事にしなさい」と声ははっきり、閉じかけた扉の隙間から耳へと滑り込んできたものの、返せる言葉なんてなかったから、無視を決め込むしかなかった。

 ノブから手を離して歩き出す。廊下からエレベーターを使って一階に下りると、ロビーは大輔が三階に上がった時よりも随分とうるさくなっていた。大きな人盛りが出来るほどに人の数も増えていれば、その増えた人間ひとりひとりが発する声も挙動も何もかもが、それなりに広いはずのロビーで飽和状態を作り上げていた。静けさは綺麗さっぱり追い払われている、「あ。佐伯君、もう終わったの?」その中でもよく通る先輩の声に目をやると、彼女はカウンターに頬杖をついた格好で頬だけをゆるませて笑ってみせた。苦笑いであるのは、目の上で八の字になっている眉で分かる。

 カウンターに近寄り、「一体、なんなんですか? これ」と聞く大輔の疑問に真っ先に応えてくれたのは先輩ではなかった。

「警察はどうして、我々の団体活動に関してだけ規制をかけるのかお聞きしたい」

 耳覚えのある声だった。眉をひそめたのは無意識で、大輔自身がはっきりと自分で顔をしかめたと自覚したのは、声のする方向に視線を向けて、地味な色の背広を羽織った人物の背中を見つけた時だった。耳覚えのある声、が、誰の声であるのか繋がった瞬間に、「……ッ、先輩、なんなんですか、これ」と思わず、同じ言葉をさっきよりも動揺した声で呟いていた。

「演説を摘発に行ったらこうなったの」器用に頬杖をしたまま、彼女は肩を竦めた。カウンターひとつを境目にして他人事を決め込んでいるようである。「道路使用許可書は持ってなかったから、辞めさせるのは簡単だったんだけど。そうしたら、「普通に申請したら受理してくれるのか」っていう話になって、で、こういう状態」

 一触即発。とはまさにこの事だろう。

「——受理するんですか?」種火にならないように小さく潜めた声に、「どうだろうねぇ、ちょっと難しいかもね」相変わらずの口調で先輩は言う。その応えに少しだけ大輔の眉間の皺が深くなったのを目敏く見つけ、目を細めて笑うと、「大丈夫。あの人達、君の元同僚をイジメるのに夢中みたいだから。それにこんなにうるさかったら私の声なんて聞こえないって」

 さっき呼ばれた時はすんなり聞こえたんだけどな。内心で嘆息がちに思う大輔からロビーの人盛りへと先輩は眼を移した。「まあ、あの人達にすれば大変よね。申請書なんて出したって普通に上が握りつぶすんだろうし。受理してもらおうと思って頑張っても、犯罪者集団っていうレッテルはそうそう剥がれるものでもないだろうし。諦めてゲリラ演説みたいな事やっても、警察に見つかったら終わりでしょ?」気の毒だ。とも言いたげに聞こえた。

 けれどそれに大輔が顔をしかめるなり反応を示すより前に首を横に一回、二回と振り、、目だけを動かしてロビーの壁にかけられている壁掛け時計へと上目遣いに視線をやった。「そろそろお兄さんがパトロールから帰ってくる時間だけど、やっぱり会っていくの?」

「いや、帰ります」迷わずに応えると、「そう。じゃあ、気をつけてね」頬杖をやめた手がひらりと振られた。そしてまた、肘をテーブルについてぼんやりと喧騒を眺めやる姿でロビーをうるさく騒がせる音源へと目をやる先輩に背を向けて、大輔は警察署を後にした。


   * * *


「——ッ、だからッ、道路で演説をする時には最寄の警察署、つまりはここの許可が必要なんだってさっきから言ってるでしょうがッ!」開いた自動ドアからロビーへ踏み入ろうとする大智の足がぎょっと驚いて止まるほどの怒声は、聞き慣れた同僚のものだった。といっても、彼自身の声を日常的によく聞いているというだけで、腹の底から苛立って煮え滾っているような怒鳴り声を耳にしたのは、これがおそらくはじめてである。遅れてやってきた自制心が追いつかないままに目を丸くした顔を声のほうへやると、知っている制服姿と向き合うようして三人人が佇んでいた。実際のところは、その四人と同僚を十人ほどが取り囲んでいるのだけれど、文字通り怒り心頭で横顔を真っ赤にさせた同僚の怒声に、負けず劣らずの返事をしているのはその四人だけだった。代表者、といったところだろうか。

 三人が三人とも、平凡そうないでたちである。いや、取り囲む十人を含めても誰一人、加害者として警察署の取調室に放り込まれる事はなさそうな、善人とまではいかなくともごく普通の市民に見えた。警察署に来る理由なんて、免許書の切り替えでやってくるぐらいが精々の。その彼らが同僚を怒らせている。見当もつかない原因に大智は軽く目を瞬いた。

「だから、許可なんて下ろしてくれないでしょう」と言ったのは、代表者の中でも一番年上らしい落ち着いた色の背広上下を着た男だった。「貴方達は、我々の組織を壊滅させたいだけなんですから。だから一部の過激な思想を持ったメンバーの犯行だと我々のリーダーが主張しても、貴方達は信じてくれないんでしょう? 自分も能力者の端くれの癖に、何の力も持たない一般人達の手先になっているのが貴方達なんです」

 大智は歩き出していた。能力者解放戦線。背広姿の男の発言から思考回路に答えが閃くよりも遥かに早く、体は動いていた。沸点を軽く超えた衝動的な怒りの熱が体中に行き渡り、血を沸騰させて足を前へと踏み出していた。

「いい加減にしてくださいッ!」かすれた語尾は数え切れないほどに荒げた声のせいだろう。それでも同僚は怒りに声を張り上げても、握り締める拳は体の脇で小刻みに震えているだけだった。自制心は踏み止まっていた。「貴方達の組織が反社会的であるのは、すでに調べがついている事ですッ! その証明として半年前のあの事件があり、あれのせいで一般人も能力者も警察も、どれだけの死傷者を出したと思っているんですかッ! 許可が下りないとすればそれは、貴方達が今までしてきた事が原因なんです! 私達のせいじゃ——……ッ!」

 俺達のせいじゃないだろう? ふと、そんな言葉が聞こえたような気がした。怒りにじりじりと表面を焼かれながらもかろうじて残っている冷静さで、笑みになっていない歪んだ顔で脳裏から、言ってくる。

 俺達のせいじゃないだろう? 兄貴。父さんや母さんのせいじゃないっていうのは分かる。誰のせいでもないって、分かってる。だったら俺や大輔のせいでも——、ないんだろう?

 踏み止まれ。そう、言われているのだと大智は咄嗟に理解した。噴きあがった怒りで一瞬にして蒸発してしまった理性が、脳内を巡って何よりも大智の心を我に返らせる言葉を見つけ出してきたのだ。小さい頃からずっと大輔よりも感情の起伏が激しかった大樹が最後に見せた、意地、と呼ぶのが一番相応しいだろう、硬く貫き通された自制心。

 ——だから、兄貴。兄貴にしか頼めない事だから、頼むから、大輔を、

 能力者解放戦線のメンバー達へ詰め寄ろうとしていた足が止まっていた、白く強張るほどに握り締めていた拳が気づけば緩んでいた。

「、佐伯さん?」振り返った同僚が、目を丸くする。

 大智はゆっくりと呼吸をした。脳裏に佇む弟に、大丈夫だと頷いてから口を開いた。「この騒ぎはどうしたんだ?」抑揚の効きすぎた声は無感情な棒読みになる。瞼を震わせるようにして瞬かせた同僚は戸惑いがちに顎を引くと、対峙していた四人へと顔だけを振り向かせた。

「ここのすぐ傍で演説をしていたんだ。苦情があって注意しに行ったら口論になって、人が集まりだしていたから仕方なく署にまで連れてきた」警察官と能力者解放戦線のメンバーとはまた、通行人達の野次馬根性を刺激しそうな組み合わせだろう。声に混ざる苦々しさは、彼らを警察署に連れてきてまで続いている口論に後悔しているというよりは、そもそも道端で言い合いにまで発展させてしまった事を悔いているようだった。

「仕方なく、って失礼な言い方じゃないか」と同僚の言葉をすかさず拾って皮肉ったのは、背広姿の男の隣に立っていた青年だった。朝の駅のホームにいたら恐らく、見る者のほとんどが学生だろうと思う、遊び心のない生真面目そうないでたちだった。

 要領のいい大樹よりも不器用だった大輔に似たタイプなのだろう。意地悪く歪ませた唇が、この間のバスの車中から住宅街までに交わした一連の会話のすべてを蘇らせて、怒りほど苛烈でも鮮やかでもないけれど鬱々とした不快感を、大智の胸の奥で芽吹かせた。

 問いかけの意味で細めた目を青年にやると、彼は唇の笑みを一度引き結んで表情から隠した。「許可のない演説はやめろと貴方達は言う。でも一方では許可がおりなくて、俺達はメッセージを発信できないでいる。そのせいで能力者解放戦線は悪者だと一方的に思っている人達がいっぱいいて、その事に関して警察は、自業自得だろう、としか言ってこない。ここはじっくりと腰をすえて話をつける必要がある、と思ったら俺達はここにいるんだ」

「そうそう」仲間の言葉尻を受け継ぐように、今度は太った男が神妙な面持ちで頷いた。「人の眼が集まり出してきたから場所を変えた、なんて、自分の主張が大勢の人間に認められないって知っているからわざわざ認められるところへ逃げ込んだ、って言ってるようなもんじゃないか。俺達はどこでも俺達の主張を言える、それが正しいと思っているからだ。あんた達みたいな内弁慶とは違うんだよ」

「だから怖いんでしょう?」と、背広姿の男が問うてくる。肩をすくめて苦笑いを浮かべていた。「貴方達は我々の主張が正しいと心の中では思っているんだ。だから演説を拒む、だから人の眼を集めたくない。だから警察署に連れてきて、「仕方なく」なんて嘘をつくんでしょう?」

 それが締めくくりあるらしい。口を噤んだ背広姿の男の語尾を拾う仲間は誰もいなかった。代わりに綺麗に揃った三人の眼差しが不遜な色を眼球の底で光らせながら、向かい合う警察官達へと据えられる。答えられるものなら答えてみろ、とでも言いたげに。

「——……、なるほど」大智は同僚の肩を、ぽんっと優しく労わってやりたくなった。

 彼らの主張は大智からすれば、「主張」と銘を打つのも煩わしいほどの暴論に過ぎない。憶測と推測と飛躍を繰り返し、強引さを通り過ぎて身勝手に、欲しい結論へと繋ぎ合わせているだけの代物だ。同僚が彼らをここに連れてきたのは、警察との口論を通行人に見せて、いまだ記憶に新しい模擬魔術事件の惨事を思い起こさせないためだろうし、彼らが求める演説の許可が下りない究極の理由もそこにある。対峙する彼らがいかに声高に叫ぼうとも、事件を起こした能力者は「能力者解放戦線」内の過激思想を持ったメンバーなのだ。一般人に、その思想の違いを察しろというのは、どだい無理な話だった。

 しかし、その話をはじめたところで彼らは再びさっきのように、仲間の言葉尻を追いかけるようにして話のすり替えをするのだろう。三対一の会話でそんな事を延々と、同僚はされ続けていたのだ。

「あのですね、だから、そういう話じゃなくてッ」それでも負けじと同僚は口を開いた。

 その声を遮ったのは、おもむろに持ち上げられた背広姿の男の右手だった。挙手の形で指先を真っ直ぐに伸ばして耳の辺りで静止したそれは、手のひらを警察官達へと向けていた。「すいません。ちょっと失礼、」自分にはこの会話を中断する権利があると言わんばかりの口調で告げてから、背広の中へと手を差し込む。取り出した携帯電話を片手に三人の列から離れ、周囲を取り囲む輪の外へと出て行った。

 ぐっと物を喉に詰まらせたような渋面で唇を引き結んだ同僚に声をかけようとしたところで、大智は思わず体を強張らせた。ズボンのポケットに入れていた携帯電話が鳴ったのだ。虫の羽音に似たマナーモードの振動音に、顔をしかめるなり抜き取って電源を切るなりするよりも早く、同僚が振り返った。「……、佐伯さん。携帯、鳴ってますよ」

 タイミングが物凄く悪かったというだけで、大智にも携帯電話にも罪はまったくないのだけれど、視線を大智の顔から携帯電話が震え続けるポケットへと落とした同僚の眼差しは、刺々しさを隠し切れない口調と同じぐらいに鋭かった。

「あぁ、悪い」思わず謝ってから携帯電話を取り出す。ディスプレイには表示された名前を確認して、通話に出た。「はい、佐伯ですが」

『あら、不機嫌そうな声』と、電話越しの相手はまず軽く声をあげて笑った。名乗らなくても誰であるかは伝わるはずだと自信に満ちた声音だった。実際、ディスプレイに名前が表示されなくても分かるだろうけれど。大智のポケットから再び顔へと視線を上げた同僚に、“悪い”と空いている手で拝む仕草をしてから、ロビーの隅へと靴先を向けた。

「少し立て込んでましてね、」ちらりと振り向けた視界の隅に、背広姿の男が引っかかった。大智同様携帯電話を片手に人盛りから離れた場所にいる男はさっきから、ひっきりなしに頭を下げたり頷いたりしている。平社員が課長やら社長を前にして恐縮しきり、彼らの一言一言に過剰反応している様子に見えなくもなかった。「大事な用でないのなら、折り返し電話をさせてもらいたいところなんですが。一体、何の用件ですか?」

 くだらない用事だったら電話を切るぞ。と、暗に強く言い捨てての問いかけに、電話の向こうにいる麻耶はさして怯む様子もなかった。返って来た言葉は他愛なく、いつもと同じ調子の声である。

『大事な用事には違いないと思うけど。ちょっと、困った事があって』

「困った事?」電話を切る判断材料とするには曖昧すぎる表現に大智が聞き返すと、『情報網でね、おかしな話がひっかかったの。今から少ししてから能力者解放戦線がちょっとした騒動を起こす、ですって』あらかじめ用意されている文章を声に出して読んでいるような、すこし抑揚に欠いた声が応えた。一度言い終わると短く息を落として、麻耶は言葉を続けた。『確信がないのよね、これ。実際に今起こっている事でもないから、警察に通報するわけにもいかないし。かといってせっかく事前に情報を手に入れたのに見過ごすのもまずいでしょ? だから、電話したの』

 大智は体の筋肉という筋肉が音を立てて引き締まっていくのを自覚した。肉体が瞬発的に動き出す寸前の、すべての部位がその刹那の行動のために身構えた一瞬だった。

「——。連中が騒動って、詳しい事は分からないんですか?」口先だけを駆使して冷静に問いかける。体のほうはすぐにでも外へ飛び出して、麻耶のいう能力者解放戦線が騒動を起こす場所へ駆けつけろと騒いでいた。「今、警察署のロビーでもその連中が騒ぎを起こしてましてね。少ししてから、ではなくて、今ここで起こっている騒ぎがそれって事はないですか?」

『違うと思うけど、』憶測の単語を口にしていても、麻耶の言い方は断定的だった。『もしよければ、今から私が言うところに行ってほしいんだけど。佐伯君だったら、もし私の情報が間違いでも、後で謝れば済むことだから——……、お願いできない?』

 言葉のニュアンスだけを汲み取れば、この麻耶のお願いを聞き入れるかの選択肢は大智が持っている。にも関わらず、気づけば選択肢はへし折られるなりしていて、選ぶ時にはたった一つしか存在していない。

 いつもの事。といってしまえばそれまでだ。

「——、分かりました」

 能力者解放戦線。彼らが起こす騒動。この二つの単語が出てきた時点で、大智が選ぶ選択肢はもう決まっているも同然だった。麻耶の頼みを聞き入れないはずがない。その事を見透かされた上での会話の運び方だとは思うものの、さして悔しいとは思わなかった。むしろありがたいと感じる事のほうが多かった。

 開いた手帳の空白ページに麻耶が言う場所の住所を書き込む。住所は、ここから車で五分ほどの、近隣住民しか通らないような路地あたりを示していた。両脇には駐車場とまばらな民家が立ち並ぶ片道通行で、車一台がぎりぎり通行できる程度の広さしかなかったはずだ。

 束の間、見慣れている文字面で書かれている住所を眺めてから、口を開いた。

「こんなところで騒動を起こしても意味はないですよ」頭の中で付近の地図を広げた結果、出てきた素朴な疑問だった。もっとも麻耶への信頼が+アルファでようやく、“疑問”に昇格できるぐらいのもので、彼女以外の人間が言ったことなら即座に、胡散臭いものとして眉根をひそめるところだろう。

『行ってみれば分かるよ』と、麻耶の返事は必要最低限の説明も取っ払ったものだった。向けられた疑問を晴らす気もないらしい、聞きようによっては白々しささえ感じさせる言い方だ。『多分大丈夫だとは思うけど、ちゃんと準備は怠らないでね。佐伯君が怪我して入院でもしたら、警察と私を繋ぐパイプがなくなって大変だから。……じゃあ、よろしくね』

 いかにも過ぎる別れの挨拶が寄越されると、大智が引き止めるために口を開くよりも早く、通話はブツリと切れた。後に残る単調な機械音に小さくため息をついて、携帯電話をポケットの中にしまいなおす。人盛りのほうへ眼をやると、どうやら背広姿の男の携帯電話も役割を終えたらしく、再び輪の中へと戻っていくところだった。

「すいません。ちょうど上のほうから指示があったもので、」謝罪というよりは話を頓挫させた正当性を主張する物言いで不釣合いに頭を下げてから、男は背筋を伸ばして取り囲む仲間達の輪をぐるりと見回した。「大事な用が出来ましたので、私達はこれで失礼します。迎えの車も来るそうなので」この言葉自体、同僚に向けられたものでないのははっきりしていて、明らかな撤退宣言だった。

 背広姿の男の声に輪を作っていたメンバーが一様に顎を引いて頷く。そのまま回れ右で立ち去ろうとするのを、「ちょ、ちょっと待ってください!」引きとめようと慌てて声をあげた同僚に、残り佇んだままの男が口を開いた。

「申請書の件については後日改めて責任者をこさせますので、その時によろしくお願いします」まるで、それまでに能力者解放戦線が納得できるだけの返事を用意しておけと言いたげな口調である。自分達のほうが正しいと思っているのは違いない。ロビーから自動ドアのほうへと歩いていくメンバーの足取りからしても、気が引けている様子もなければこそこそとした後ろめたさも感じられなかった。話の腰を折って立ち去る事も、彼らからすれば正当な権利なのだろう。

 同僚はますます顔を渋く歪めたものの、何も言わなかった。言いたい事が溢れ出そうとする唇をぎゅっと噛み締めて男を見ていた。

「それでは失礼します」輪が崩れ、一緒に並んでいた学生然とした青年と太った男も立ち去ったところで背広姿の男は丁寧に頭を下げて靴先を自動ドアへと向けた。その姿が透明なドアの向こう側へ行ったところで、同僚は頑丈に引き結んでいた唇をようやく緩めた。深々と、ため息をつく。

「お疲れさん」としか、声のかけようがない。

 労いの言葉に同僚は少しだけ目元を緩ませて笑うと、その目を再び自動ドアのほうへとやった。「なんだったんだでしょうね、あれ」これが同僚の素直な感想らしい。

「さあな、」最初から参戦していただろう彼が理解出来ない事を、途中参加の大智が分かるはずもない。ただいえるのは、能力者解放戦線の彼らにとって、ここでの言い合いは鳴り響いた携帯電話の向こう側からの指示よりも重要度は低かった、という事だろう。警察署の入り口で警官相手に水掛け論をしていた心情も分からなければ、それを途中で放り出して立ち去る理由も分からないが。

 そもそも、立ち去れる、と思っていたのも不思議だった。相手が同僚ではなく高柳課長であったなら、輪を作っていた十人はともかくとして三人は、公務執行妨害で手っ取り早く留置所に放り込んでいるだろうから。

 人が一斉に大勢去った事で途端にいつもの静けさを取り戻したロビーの空気を、どこか居心地悪く感じながら、大智は考えに没頭し始めようとする頭を軽く振って思考を停止させた。自信過剰に彼らは立ち去れると信じきっていた、それでいいじゃないか、今は。妥協した考えを脇にのけ、同僚へと向き直った。

「悪いが、また出てくる」

 幾分疲れた目を瞬かせて、同僚は首を傾いだ。「パトロールから戻ってきたばかりなのに、どこへ行くんですか?」

「ちょっと頼まれ事が出来てね」応えて、携帯電話をしまったポケットを軽く叩いた。

 同僚はもう一度、今度はさっきよりもゆっくりとした動作で瞼を上下させてから、「あぁ」と独り言のような、ため息のような声を落とした。携帯電話=相手は麻耶、と彼の頭の中で二つの単語が繋がった結果だった。そうなると後は詳しい事情を聞く気もなくなったようで、「気をつけて行ってきてください。念のため、準備は怠らないでくださいよ。あの人、本当に人遣いが荒くて大変なんですから、佐伯さんが怪我とかしてパイプ役がいなくなったら、俺に鉢が回ってくるかもしれませんし。嫌ですよ、そんなの」

 最後の部分はともかくとして、注意なのか、それにかこつけた嫌味なのか、いまいち判然としない言葉だった。恐らくは半々といったところなのだろうけれど。「同じ事を麻耶にも言われたな」苦笑いと共に言うと、同僚はむすっと不愉快げに顔をしかめた。

 多くの言葉を交わさなくても、すべてを見透かしたような態度と口調。けれどこちらが問いかけるまで絶対に口にしない強情さ。相手が何を欲しがっているのか見当をつけていても、相手の問いかけがその欲しがっているものにあと少しで届きそうな場所まで来ていても、相手が自分から気づくまでは素知らぬ顔を貫き通す。——麻耶あゆみとは、そういう人物だった。インターネットの検索サイトに似ていた。手に入れたい情報はきっと何処かにあるのだろうけれど、検索ワードが一致しない限り、その情報が場面に表示される事はない。

 麻耶の情報を頼ってはいても、最終的には自分の知恵が試されている事のほうが今まで明らかに多かったのだ。

「佐伯さんはよくあの人と付き合ってられますよね」と、今度の同僚の言葉は明らかに嫌味である。

 大智は肩を竦めた。「そんなに悪い人間には思えないからな」

 麻耶の事を前任者から引き継いだ時は、色々と逸話を聞かされたものだ。彼女の情報をもとに犯人を割り出して逮捕した事を報告に行けば、まるで最初から犯人の事を知っていたような素振りだった、とか。どうして犯人を教えなかったんだと詰め寄れば、「だって聞かなかったでしょ?」と当たり前のことのように応えたとか。なので次からは直接犯人の事を聞くようにしても、「それを調べるのが警察の仕事じゃない」と諭された。などなど。

 大智が理解している麻耶あゆみもおおむねそういう人物だ。ただ前任者達のように匙を投げないのは、その見透かしたような態度も結論を易々と差し出してくれない性格も、彼女本来の性分ではないのではないか、と感じる時があるからだった。すべてを見下せる高みから、目の前の事しか見えない人間を眺めて楽しんでいるわけでもなく、結論に辿りつけず四苦八苦している背を指差して嘲笑う事もない。優越感とはあまりにかけ離れた目を、麻耶はたまにする。何かを必死になって堪えているような、逃げ出そうと震える足で踏ん張り続けているような。

 そこに、本当はいたくはないのだろう? と、空を見上げるように彼女のいる高みへ眼差しを放り投げて、問いかけたくなる。

「ま、佐伯さんがそう思ってるんなら別に構わないんですけど、」

 自分にパイプ役が回ってこないのなら。と言葉尻に暗に付け加えられるのを感じとって、大智は愛想笑いじみた苦笑いを浮かべた。「じゃあ、課長には少し帰りが遅くなると伝えておいてくれ」伝言を頼んで、自動ドアから外へと出た。

 警察署の建物の前は広い駐車場になっていて、その先に両脇を植木に飾られた門があり、両側一車線の道路が走っている。ちょうど門の傍の路肩に前輪の片方を乗り上げた形で一台の車が止まっているのを、駐車場を横断しかけたところで大智は気づいた。乗用車ではなく、マイクロバスといった四角い車体にせわしなく人が乗り込んでいる。最後に路肩に残った男、あの背広姿の男が乗り込むと、スライドドアは大きな音を立てて閉まった。道路を走る車の流れが途切れたところでゆっくりと路肩を離れ、早々と速度をあげて走り去っていく。

 自然と止まっていた足を再び動かして、大智は門の轍を越えた。車が消えた方向を見遣る。

「……、同じ方角に用事とはな」不吉な符号にしかならない事実をぼそりと、確認事項として呟いた。能力者解放戦線が騒動を起こす、と麻耶が宣言した方向。車一台がぎりぎりの路地に大型のマイクロバスで行くのもおかしな話だろう、と内心で思うものの、嫌な予感が確かに胸の奥に巣食おうとするのを大智は自覚せざるおえなかった。


   * * *


 誰かに見られている。——、という感覚が、まずあった。

 視線をひたりと背中に注がれている。じっと見据えられている。

 けれど振り返ったところで誰もいない。昨日の、夕間暮れの街路灯の下に人がいなかったように。半年前から、そうなった。

 警察署の前を走る道路から外れたこの細い路地には、いま、大輔一人分の靴音しか響いていない。他の通行人もいなければ、ぎりぎり車が一台通れる程度の一方通行の路地に車が入り込んでくる気配もない。けれど視線は追いかけてくる。ただ、眼差しだけが大輔の背を撫でる。

 ——振り返ったところで誰もいない。分かっている。確認して、失望するだけだ。

 けれど一方で期待して、もしかしたら、とも思っていた。

 だから、足は無意識に立ち止まり、体は振り返ろうとする。それを全部無視するようにして、大輔は路地をひたすら淡々と歩き続けていた。


 物心ついた時から、いやもしかすると物心つく前から、大輔はいつも誰かの視線を感じていた。

 近所でも幼稚園でも、小学校、中学校と上がっても、視線はいつも何処かにあった。大きくなるにつれて、自分と大樹が近所でも学校でも珍しい双子の兄弟だから、自然と第三者の目が集まるのだと分かってきたけれど、その頃には、ただ好奇で向けられる不特定多数の眼差しと、たったひとりから向けられる眼差しの違いを感じ取れるようになっていた。

 電信柱、建物の角、——いつも体の半分を隠すようにして、こちらを見つめてくる、人。

 彼女と、他の連中の視線が同じであるはずがない。特別なのだ。大樹とふたりで理解した。

 はじめて彼女を真正面から見た時に、そう理解した。

 なのに今、自身の背に向けられている視線がどちらのものかなのか、大輔にはまったく分からないのだ。

 すべては大樹がいなくなってからだった。


 半年前、模擬魔術事件の現場から忽然といなくなった弟。一緒にいたはずの大輔の記憶は、よく分からない唐突さですとんっと一部が抜け落ちていて、怒号飛び交う現場の喧騒が一気になりを潜めたかと思えば、クリーム色の清潔な天井を、ぼんやりと目は見上げていた。

『——、眼が覚めたか?』と、視界の端から声が届く。

 眼を仰向けの頭ごと動かそうとする前に、小さな物音と共に目の前に影が落ちた。照明を遮って大輔の視界の大部分に入り込んできた見慣れた二歳違いの兄の顔を、天井と同じようにただ見上げた目は、ほころんだ口から気遣わしげな双眸に行き着いて、最後、額に巻かれた包帯を捉えた時に、大きく見開かれた。

 目が醒めるような、眼球の奥に焼きつくような、——……染み入る、痛々しい白さ。

 この時はじめて、焦点が結ばれた。途端、靄のようにあたりをたゆたっていた意識が一気に音を立てて凝固して、大輔は飛び起きた。咄嗟にベットの上に乗り出していた上半身を引いた大智へ向き直る。逞しい両肩を掴み、面食らった顔を引き寄せて、口を開いた。

『暴動はッ?!』掃除が行き届いた室内も、真新しく汚れのない包帯も、すべてが突如目の前に現れたもののように大輔には感じられた。

 張り上げた声が思いの他大きく室内に響き渡り、鼓膜に突き刺さる。思わずぎょっと息を呑んだ時には、室内は素知らぬ速さでにひっそりとした空気を取り戻していて、その静けさを壊さない程度に兄が吐息を落としていた。

 深く深く、なにかをひたすら安堵するような息遣いだった。

『……、兄さん?』と、怪訝をこめた声に、大智は唇を引き結ぶ。

 やや間が落ちて、『暴動は鎮圧した』そう応える声にさっきまでの安堵は余韻も残ってはいなかった。むしろごっそりと安堵を削り落とそうとした時に別の感情も巻き込んでしまったような、不自然に抑揚を欠いた声だった。滑らかで、けれど機械的な。『現場にいた首謀者は一人残らず逮捕した。怪我人はすべて病院に収容して治療を受けている。遺体の身元確認もすべて、終わった。これから遺族に引き渡す手筈だ』事務的に紡いでいた言葉をここで一旦止め、兄は息をついた。『能力者解放戦線本部への家宅捜索は内々に二週間後と決まったから、それまでに職場復帰できればお前も参加できるだろう』

 言うべき事は言い終わった。言葉ではなく再び引き結ばれた唇が、そう告げている。

『兄さん、』だから半分、戸惑いがちに訊ねた。『大樹は?』

 いくら大輔の最初の問いかけが暴動についてだったとしても、兄が最初から最後まで暴動の事しか話さないのはおかしかった。三人兄弟のうちのふたりが同じ病室にいて、ひとりの不在を大輔が気にかけないはずがないし、その事を察しきれない大智でもない。あえて、この人は遠ざけたのだ。閃いた直感に無意識に、言葉を続けていた。

『大樹は、俺と一緒にいたんだ。ずっと俺と一緒に行動していた、だったら——……、同じようにここに、別の部屋に収容されているんだろう?』

 否定はとても短かった。首が一回、横に振られただけだった。

 一文字に真っ直ぐに閉ざされた唇も、伏せ眼がちに視線を床へと落とす眼差しも、その否定が残酷なものである事をありありと告げている。喉が大きく上下した、咥内にいつの間にか溜まっていた唾を飲み込む。

『——、大樹、は?』声が上擦った。

 大智はまず、もう一度横に首を振った。そうしてから、なおも口を開こうとする弟の、いまだ自分の両肩を強く掴む両手をそっと気遣うように、それでも多少は強引に、引き剥がした。その両手を自分の両手で包みこみ、来客用の背もたれのない椅子に座りなおしてから、ゆっくりと口を開いた。『……大樹は、失踪した。現場から姿を消したんだ』

 兄の言っている事が理解できなかったのは、これが多分初めてだった。

 目を見開き、大智を見る。大智の視線は伏せられたまま、弟の両手を握る自身の両手へと向けられていた。大輔にとっては、訳が分からない兄の言葉に唖然とする間であり、大智にとってみれば次に言うべき事を選ぶ間だった。

 どちらも黙り込んで出来た沈黙を、先に破ったのは大智だった。

『詳しい事は分からない。ただお前達がいるところへ駆けつけてみれば、お前が地面に倒れて意識を失っていた。大樹はいなかった。その後で怪我人や遺体の確認もしたが見当たらない。同僚にも聞いたが、誰も大樹を見ていないんだ』

『だから、……失踪?』根拠があるようでまったくない。そんな状況証拠だけで、大樹が失踪したと断定するのか。声に自然と滲み出た苛立ちをまっすぐに、自分と同じように大樹を信じていなければいけないはずの兄へと、大輔は躊躇いなく突きつけていた。『兄さんもそう、思ってる?』

 大智はあっけなく頷いた。そのまま、顔を上げずに声を落とす。『それ以外考えられないだろう? 後処理はすべて終わったんだ、なのに大樹の名前は出てこない。課長も、そうだろうと言っている。対魔術課はじまって以来の大規模な暴動だ、怖気づいて逃げ出しても仕方ない。逃げ出して、それで今更顔を出せないと思っているのか——……、』

 つらつらと、当たり前の事を喋るように淀みなく出てくるそれを、どこまでちゃんと聞けたかは分からない。

 束の間、息が出来なくなったから。

 首を絞められるのと同じぐらいの殺傷力で、その言葉達が大輔の呼吸を殺したのだ。

 衝動的に、大輔は兄の手を振り払っていた。『大樹がそんな奴じゃない事は、兄さんが一番よく知っている事だろうッ!?』体中の空気を全部吐き出すようにして、叫んでいた。そうしなければ何かが終わってしまうような、形のない恐怖心があった。

 そんな弟に大智が顔をしかめる。嫌悪感からではなく、ただ痛ましく悲しいものを見据えるように眉間に寄った眉根と瞼で半眼に隠された眼球が、大輔を同情していた。彼の中での大輔は、現実を受け入れられない可哀相な弟でしかないようだった。

 だから開かれた兄の口から出てきたものは、一つしかない事実を認めない弟への激しい叱責ではもちろんなかった。むしろ諭すような、優しげでひっそりとしたものだ。『大輔。混乱するのも認めたくないのも分かる。しかし、俺の話を聞きなさい、』

 だからこそ余計、恐ろしかったのだろう。

 お前が信じたい事実はない。強要するでも無理強いするでもない、静かな声でそう告げられて。なのにそれに対峙する自分は、ただただ声を張り上げて、兄の言葉を掻き消す事しか出来ないでいる事に。

『大輔、』

『……ッ、嫌だ。聞きたくない!』聞けば何かが終わってしまう。形がなかったはずの恐怖をこの時、大輔は理解してしまった。終わるのは多分、今まで当たり前に思っていた信頼であり、尊敬だ。血の繋がっていない双子の弟達を見つめる、優しい兄への好意すべてだ。

 だから大輔は跳ねつけた。兄が自分の名前を呼ぶ事さえ拒んで、彼の体温がまだ残っている両手で耳を塞いだ。目を硬く瞑った。目尻から押し出されて一粒だけ、涙が、落ちた。


 靴先に当たった小石が、地面に二度、三度、と跳ねて落ちる。ほんの少し離れた背後で、そんな音がした。

 黙々と歩いているうちにふと上の空になっていた意識が途端、その音に吸い寄せられるかのようだった。ぼんやりとしていたものの中に怪訝さが芽吹き、目を細め、立ち止まる。ついさっきまで大輔の足音分しか音のなかった路地に響いたそれを、怪訝が硬く強張った顔で振り返る。

 瞬間、大輔は自分が心底落胆したのを自覚した。おかしな話だ。振り返ったところであの人はいない。分かっていたからこそ、感じる視線にずっと振り返らなかったのだから、物音一つをきっかけにして背後に目をやったところで、いない事実が覆るわけではない——、それでも、視界に入ったその人物に見覚えがないと分かると、胸の奥が軋むように痛んだ。

 目が、合った。

 そらしようもない、伸ばした手が届きそうな距離で、真っ直ぐに大輔の目とかち合った双眸は一度、殊更ゆっくりと瞼を上下させてから見開かれた。そしてすぐさま、率直に戸惑い驚いた顔になった。「——……ッ、あッ、ご、ごめんなさい!」路上で突如赤の他人、それも異性と、束の間見つめあう事になったその女性は肩を飛び上がらせるように息を呑んだかと思うと、前のめりに頭を下げた。

 見ているこっちが思わず、「あ。いや、こっちこそすいません」とよく分からないままに同じように頭を下げてしまうぐらい、真摯さのこもった姿だった。正直大輔の謝罪のほうは、語尾にあるかないかの疑問符が滲む言い方だったけれど。咳払いして、頭を下げたままの彼女に問いかけた。

「それであの、俺に何か用ですか?」振り返って、すぐに目が合う近さに彼女がいた理由なんて、これぐらいしかないだろう。

 おずおず、といった仕草で顔を上げた彼女を改めて見ると、同い年かそれよりも一、二歳年下のように見えた。垂れ下がっている眉尻や不安げに何度も瞬かれる目の印象のせいかもしれない。

「あ、あの」と小さく体を竦ませるようにして、彼女は切り出した。「警察署ってどっち、ですか?」

「警察署?」聞き返すと、頷いた彼女はそのまま、心底困ったようにため息を落とした。

 迷子。年齢が年齢だけに、そう呼ぶよりは「道に迷って困っている」と表現したほうがいいのだろうけれど、小さく目を動かす仕草やあたりを途方にくれた顔で見遣っている様子から伝わってくる不安さは、親とはぐれてしまった子供のような感じだった。困っているようだから助けよう、と親切心が芽生えるよりも早く、この人を助けるのは義務だ、と良心が疼いてしまう。

 瞼を何度も何度も上下させながら、彼女はふと左側へ視線を向けた。

「あっち、ですか?」と、いかにもあてずっぽな口調で訊ねる方角に何があったは忘れてしまったけれど、とりあえず警察署はない。

「いや、そっちじゃないですよ」即座に応えてから大輔は彼女の横に並んで、自分が歩いてきた方角を指差した。路地は多少入り組んでいるけれど、警察署の前の通りまで出てしまえばあとは、迷う事もないはずだ。「まずそこにある角を左に曲がって、それから次の角を、」

 自分が来た道を頭の中で逆に辿りながら言うのをふと止めたのは、隣から小さく布ずれのような物音が聞こえたからだった。耳で聞いても分からないから持っていたメモ帳か何かを取り出したのだろうか、と、なんとなくそう思って息継ぎのように言葉を噤み、彼女のほうへと目をやった大輔はこの時、視界の端で硬く冷たい銀色の感触が閃くのを、見た。

 空気が裂かれるような、そんな音を耳が拾ったのは直後だ。

 その時には体は、後ろへと飛び退いていた。思わず、とも、咄嗟に、とも違う。刃物をちらつかせる犯人から身を守る、警察官として染み付いた一連の動作を体が滑らかに実行した結果だった。彼女は一撃目を仕掛けた体勢から、舌打ちひとつ、足を踏み込んでくる。手に握られている、どこの文具店にでも売ってしそうな市販のカッターナイフの刃が陽射しを弾いて、さっき大輔の視界で閃いたように冷たく輝いた。

 殺してやる。と、言われた気がした。

「ッ! ちょ、ちょっとッ!」思わずあがった声を出だしから引き裂くように、二撃目。真っ直ぐに首筋を、正確には首筋を流れている頚動脈を狙って突き出される腕は、分かりやすく致命傷狙いだ。

 カッターナイフは、切っ先の尖った包丁でもなければ、人を簡単に殺められそうなサバイバルナイフの類でもない。偶然切りつけて死ぬなんて事がまずありえない刃物であるからこそ、薄い皮膚の下で脈打つ主要な血管を切り裂こうとする意思は、単純明快な殺意よりも寒々しく、刃から数センチも離れていない大輔の肌を粟立てる。

 突き出された腕の先で、ひらり、とカッターの刃が大輔のほうへと翻った。そうして薙ぎはらわれるのを膝を折って頭の上でやり過ごすと、大輔はズボンのポケットに手を突っ込んだ。模擬魔術を握り締める。昨日の兄への大盤振る舞いのせいで手持ちはほとんどないに等しいそれを、束の間意識を集中させて、地面に、彼女の足元へと放り投げた。

 金属特有の甲高く軽い音が一回大きく響く、そうして二回目に小さく鳴った時にはすでに、リングは吐き出した白い水蒸気の中へと没していた。彼女の姿も無論、瞬く間に白い靄の向こう側へと消えうせている。同様に彼女の視界からも、大輔の姿が見えなくなっただろう。

 それでも見つけ出そうとしているのか、立ち上がりかけた靴先にさっき放り投げたリングが転がってきた。こつん、と当たる。それを大輔は見た。見て、その事自体に小さく息を呑んで我に返った時には、両足は見事に払われていた。

 背中から地面にぶつかる。呼吸が止まった。咄嗟に頭を庇ったものの、大輔に出来た事はかろうじてそこまでだった。身をよじろうとした大輔の腹の両脇に膝を立て馬乗りになった彼女は、カッターナイフをおもむろに振り上げていた。警察署はどこにあるのか、と訊ねてきた時の不安げな色はもはや、大輔を見下ろす目の中にあるわけもなかった。

「ッ、」殺される。その直視するしかない事実が体の芯を貫いて、筋肉も神経も、瞬く間に硬直させる。

 彼女の腕が動く、気配がした。カッターナイフを握り締める手に力がこもり、見下ろしてくる目が感情の温度を宿さない冷静さで大輔の首筋へと注がれる。ナイフが辿るべき直線をしっかり覚えようとするような目に、大輔は反射的に瞼を閉じていた。そして陽射しが瞼を透かして橙色に見せる視界の中で、腕が振り下ろされる音は、やけに大きく聞こえた。

 何かが、例えるなら重たいものが地面に勢いよくぶつかったような、音だった。

 けれど、痛みはすぐにやってこなかった。皮膚が裂かれ、血が噴き出し、途端に意識が消え失せる事もなかった。しばらくしておそるおそる目を開けると、腹に馬乗りになっていたはずの女の姿はなく、何か人と人とが揉み合うような音が、視界から外れた右側で聞こえてきた。上半身を起き上がらせて、そっちに体を捻って向けた。

 地面にばたつかせる、細い女の脚が見えた。聞こえていた音はそれのようだった。手にはいまだにカッターナイフが握り締められていたけれど、彼女の手首を上から無造作に地面に繋ぎとめている手があった。男が馬乗りになって、彼女の上半身と両手を押さえつけている。自由に出来る両足だけが地面を何度も蹴りつけ、男の背中を蹴飛ばして暴れていた。傍目からみれば、彼女が暴漢に襲われている姿でしかない。目にした通行人が慌てて通報するにしても、「女の人が襲われている」としか言いようのない光景だ。——男が、女に襲われている大輔を助けた、とはまず、誰も思わないだろう。

「ッ! は、離してよッ!」と、彼女がわめく。

「どうしてこんな真似をしたんだッ!」と、恩人に違いない男の怒声が耳に届いた時、大輔は一回大きな音を立てて心臓が鳴ったのを自覚した。

 指先がぴくりと痙攣を起こしたように震えた。頭の中が束の間真っ白になって、やがてたった一つの言葉だけが白い紙に滲み出てくるように、大輔の口から落ちた。ぽとん、と文字通りにただ出てきただけの、ぼんやりとした声だった。

「、大樹?」呼びかけ、ではなかった。半年間、ずっと探しまわっていた弟を目の前にして、こんなにも呆けた声で呼ぶはずがなかった。

 実感のない声だった。無意識に落ちた声が耳から入り、血を巡る。体の器官全部がこの事を心底理解できるまで、しばらくの時間がかかった。心臓が理解した頃には息をするのも辛いほどに、薄い胸の皮膚を突き破ろうとするような脈動が鳴り響いて、体全体はぶるぶると熱に浮かされたように震えだした。眼球の底の網膜が熱く炙られたようだった。鼻の奥がツンと痛んだ。気づけば水分という水分がすべて干上がっていた声帯から、声が出た。

「大樹ッ!」

 今度のは色々なものがぎゅうぎゅうに詰まった声だった。戸惑いも驚きも喜びも疑問も、よく分からないながらに怒りさえ感じて、大輔は叫んでいた。彼女に馬乗りになったまま、その体を地面に押さえ込んでいる男の背が小さく揺れた。肩越しに振り返った、ようだったけれど、その顔を見る事はなかった。それよりも前に立ち上がっていた大輔はその時には、男の背にくずおれてしがみついていた。暴れている女の脚が今度は大輔のわき腹や背を容赦なく蹴りつけてきたけれど、痛覚を司る神経がどこかでブツリと断絶でもしてしまっているかのように、痛みは途方もなく遠く感じられた。

 どのぐらいそうしていたのか。一秒や、二秒、そのぐらいの短い時間だろう。けれど大輔はその何十倍もの長い時間、弟の背にしがみついていたような気がしていた。背に額を押し付け、両手で服を握り締めて。唇を噛み締めたのは、ここで泣いてしまったらどうしようもない、となけなしの自尊心がかろうじて残っていたからだった。

 やがてぽつりと、頭上から声が落ちてきた。「大輔。……、顔、上げてくれないか?」

 一つ一つの単語を口に出しながら確かめるような言い方だった。慎重に慎重さを重ねた声は、半年振りに聞くものであっても大樹らしくないのはよく分かっていた。従ってはいけないような気も、ほんの僅かに感じてもいた。けれど大輔は背に押し付けていた額と服を掴んでいた手を離して、顔をあげた。

 彼女の腹から退いて、大樹は大輔へ向き直る。

「久し振り。……、半年振り、だよな。確か」言って、大樹はぎこちなく表情を緩ませて笑った。その笑みに大輔は、小さく目を瞬いた。

 そうそう顔つきが変わるわけもないのだけれど、鏡が目の前にあるかのように、大樹は相変わらず自分と瓜二つの顔をしていた。だから半年振りの再会であったにも関わらず、大輔の理解は滑らかだった。すっかり大樹のほうは忘れてしまっているようだけれど、同じ顔をしているから、嘘をつく時や誤魔化す時に、大輔と大樹はとても似た顔になる。湿った空気に雨の予兆を嗅ぎ取るように、大樹の微妙な表情の変化から嘘の気配を感じ取るのには、とても簡単な事だった。

 どうして嘘をつこうとしているのか、それはまったく分からないけれど。

 口を開きかけて、大輔は噤んだ。目を、押さえつけていた大樹がいなくなった事でようやく立ち上がり、服についた砂埃を手で払っている彼女へと向けた。視線を追いかけるようにして大樹も彼女のほうへと目をやるのを見てから、訊ねた。

「知り合いか?」でなければ、悠長にここに留まっているわけがない。この女はカッターナイフで大輔を殺そうとしたところを大樹に阻まれているのだから。頷こうとしているようにも首を横に振ろうとしているようにも見える大樹に、「警察の関係者、だよな?」口調を強めるでもなく同じ調子で、重ねて問うた。これも間違いはないはずだ、大輔が投げた模擬魔術を中和したのだから。

 対魔術用の中和剤を現在所有しているのは警察機関だけである。二十二年前に大まかな模擬魔術の技術が民間企業に公開された時も、中和剤の情報だけは機密扱いにされた経緯があった。模擬魔術が関係する事件においての重要性を考えれば、警察機関が中和剤の開発から製造、研究までをすべて独占しているのは当たり前ともいえる。といっても、ある程度の資金と研究機関を備えた企業ならば、多少質は落ちても警察機関の中和剤に似た効力を持つ模擬魔術の開発は可能だろうし、法律や条例で中和剤の開発や製造を民間企業に禁止しているわけではない。単純に、需要が低いだけの話だ。

 どちらにしろ、中和剤=警察関係者、という考え方は正しい。

 きょとんと目を丸くする弟に、大輔は地面へと顎をしゃくった。アスファルトに転がっている二つの色違いのリングのうち、片方は大輔が投げた煙幕の模擬魔術で、もう片方は半年前に見納めたきりの警察官に配布されている中和剤の模擬魔術に酷似している。顔をしかめ、「あぁ」と降参するような声をあげた大樹は目を彼女のほうへ振り向けた。肩を竦めてその視線に応じる姿は悪びれた様子もなく、むしろ、こっちにも正当な理由があるんだと、ふてくされながら主張しているようだった。

「どうして、半年前に行方不明になったお前が、俺の知らない警察関係者と知り合いなんだ?」一節ごとに息をついて質問した。再び視線をこっちへと向けてくる大樹へ首を傾いだ。「ずっと同じ部署で働いていたのに俺が知らないなんて事があるのか? しかも女性だ、能力者じゃない。どうしてその警察関係者に俺が襲われた? どうしてこんな真似を、って言っていたな? 大樹。つまり、お前は事情を知っているのか?」

 大樹から目を離し、襲ってきた張本人へ視線を据える。無言のままでも大樹に対しては、言いたい事をぶつけるような態度をとっていた彼女だったけれど、大輔が向けてくる視線には肩をすくめるのをやめ、真っ直ぐに強い眼差しだけを返してきた。

 上の空だった意識を現実に引き戻した、石ころの転がる音。あれは恐らく、彼女にとって不覚の一言だったのだろう。あの音さえなければ大輔は振り返らなかったし、同時に背後からカッターナイフを振り下ろされても気づかなかった——……、つまりは、殺されていたはずだ。

「どうして、俺を殺そうとしたんだ?」大樹か、彼女か。どちらに問うたのかは、口にした大輔にも分からなかった。

 その後の彼女の行動からしても、改めて不意打ちを狙っていたのが分かる。いかにも害のない振りをして、道に迷って困っている女性を演じていた。ちょっとした人助けだ、助けよう。と自然と気持ちが傾いて自発的に立ち止まらせる。まさかその隣から、カッターナイフを突き出してくるとは誰も思うまい。

 大樹が口を開こうとする。その前に、「俺の気のせいだ、とか言い出すなよ。大樹」先回りして、強い口調で釘を打つと、大樹はとたん、物を喉に詰まらせたように顔をしかめた。見事に図星だったらしい。その顔を見遣ってからため息を落とし、首を横に振る。「もっとまともな嘘をつけよ。カッターナイフで、首筋で、馬乗りだぞ? 殺人未遂以外のなにがあるんだ?」

 それも初対面で、まったく躊躇いなしに、である。

 大樹は押し黙った。唇を噛み締めての渋面は、何かをとにかく必死に考え尽くしているようだった。

 彼女はそんな大樹を見遣り、そうしてから大輔へと視線を移し、しばらくして再び大樹へと目を戻した。大輔に視線を置いている間は何か言いたげに、不満そうに目を眇めていたものの、結局噤んでいる唇が開く気配はまったくなかった。

 大輔が双子の弟に投げかけた質問のすべての答えは、彼だけが持っている事ではない。

 そういう事だ。と、大輔は大樹と彼女の沈黙の中に答えを見つけて、目をゆっくりと瞬かせた。どうして初対面の人間に命を狙われなくてはいけないのか、そのあたりのところはさっぱり分からないけれど。このふたりの間の空気、みたいなものは感じ取れた気がした。尊重し、庇いあい、守りあい、譲り合う。それぞれが大輔に言いたい言葉を持ち合わせていても、大樹は彼女のために、彼女は大樹のために、大輔に言う事が出来ないでいる。

 初対面の人間に、殺意を抱かれる事などあるはずがない。けれど彼女なら、ありうるかもしれない。

 間違いなく、大樹のためだ。——彼のために、大輔は死ななくてはいけない、と、彼女は思ったのだろう。

「——……大輔、」と、大樹の神妙な声音だった。

 前提として嘘をつくのはやめようと決意したのが伝わってきて、大輔は改めて眼差しと意識を双子の弟へと据えた。強張った顔の筋肉をどうにか動かしながら、大樹は物静かに話しはじめた。「えっとな、まず、この人は檜山薫さん。ちょっとした事情で世話になってる人なんだ。正直、お前に話せない事がたくさんあるんだ。誤魔化すしかない事が、山のようにあって、でもどうせばれるって分かってる。相手の嘘を見破るのは得意だもんな、俺達。……だから、さ、言える事しか言えない。お前が怒るって分かってるけど、」そこで一度言葉を切り、深く呼吸をしてから、告げた。「もう、俺を探して回るのは、やめてほしいんだ」

 大輔は目を瞬いた。それ以外はぴくりとも動かす、声さえ出てこなかった。

 僅かに頬を引きつらせて、大樹は笑みを作ろうとする。ほとんど失敗作と呼んでもいいだろうそれは、今まさに泣き出そうとする寸前で堪えている顔といったほうが正しそうだった。酷い言葉を浴びせられて傷ついた人間が意地でも泣くまいと虚勢を張っているような。少なくとも今ここで、その表情をしていいのは大樹ではなかった。握りこんだ指の爪が手のひらの薄い皮膚に食い込む痛みを感じながら、大輔は思った。

「大輔が俺の事をとても心配してくれているのは分かってる。半年前に突然行方不明みたいになって、それからずっと音信不通だったんだから」大樹の言葉は切実だ。声音は真摯でいると決意した分だけ真っ直ぐに大輔の心臓へと届く。けれど大樹の思いが、体に染み込めば染み込むほど、大輔は自分の心の中にあったものが黒ずみ、朽ちていくのをまざまざと感じ取っていた。大樹から伝わってくるものそのものが、大輔が抱き続けていた大樹への思いを汚していく。

「でも、もうちゃんと会ったから大丈夫だろう? 俺は元気でやってる。怪我もない。飯もちゃんと食ってるよ。半年前は、その、色々あって気を失ってる大輔を現場に放り出していく事になって、その問題もまだ解決したとはいえないけど、俺一人で解決できる問題だから、大輔が気にする事じゃないんだ。大輔が心配しなければならない事は、俺の事に関していえば何もないんだ。全部終わったら俺から会いに行くし、ちゃんと話すから。それまで俺の事は放っておいてほしいんだ。俺の事ばかり気にして、自分の事をおろそかにしちゃいけないんだよ、大輔。お前にもしもの事があったらそのほうが、俺は心配だし——……、」

「ちゃんと病院でリハビリを受けろ、って話か?」と、しごく普通に大樹に質問した。

 反応したのは、さっきからずっと口を閉ざしている彼女一人だけだった。片眉をあげて怪訝そうに大輔を見遣る。それはある意味当たり前の反応だった。大輔にとってみれば自分の問いかけに、さして迷う素振りも意味を問いただす眼差しを向けるでもなく、あっさりと頷いた大樹の反応のほうがおかしな事だった。おかしくて、けれど辻褄は合っている。

「そ、大輔にはちゃんと病院にも、」行ってほしい。と続いたのだろうけれど、声はそこで止んだ。

 半端に言葉を噤んだ大樹の表情は渋く強張っていて、遅ればせながらに大輔がした質問の意図を察したようだった。今更気づいても、言葉を撤回する事は出来ないけれど。

 そうしてふいに落ちた沈黙を靴音で踏みにじって、大輔は大樹との距離を縮めた。弟の目の中に映る、能面のように淡々とした表情の自分と視線を交わしながら問いかけた。

「どうしてお前が、俺の能力がなくなった事を知ってるんだ? 半年前に行方不明になって、今日この場所で会うまで俺はお前がどこにいるかも何をしているかも知らなかったのに、どうしてお前は俺の事を知ってるんだ?」

 返事はなかった。出来ないのだろう。それに大樹がどんな答えを寄越してこようと、大輔の頭の中で組みあがっている結論は強固なもので、そうそう崩れる気配はない。

 皮膚に食い込んでいる爪の先が、ひくり、と動く。

「それにさっき、言ったな? 俺がお前を探してるって。確かに俺は半年間ずっと、お前を探し回ってた。麻耶や知り合いの情報屋に頼んで、お前の行方をずっと探してもらっていた。まったく成果はなかったけど。で、それをどうして、お前が知ってるんだ?」

 まるで引いていく血液の音が聞こえてきそうなほどに、目に見えて青褪めていく弟の顔を凝視する。 

 ——脳裏に、大智の姿が浮かんでいた。それが答えだろうと、大輔は冷静に思っていた。

 大智なら、大輔の能力がなくなった事を知っている。大樹を探すために警察署をやめた事も知っている。何より、大輔が申請し続けている大樹の捜索願を毎回毎回、なかった事にしている。その行為が、現場から失踪した身内の恥を隠したい一心から来る保身ではなく、失踪した大樹本人から頼まれた事であったならどうだろう。

 保身なのだとずっと、大輔は思ってきた。捜索願を取り下げる理由を二歳年上の兄は一度でもまともに答えてはくれなかったから。答えられない理由があるのだと考えれば、自分勝手な動機ぐらいしか思い浮かばなかった。少なくとも、兄と弟が連絡を取り合っている可能性、なんてものは想像の範疇にさえなかった。

 だから、軽蔑した。皮肉を言い、嫌味を吐き捨てた。——尊敬していた分だけ、憧れていた分だけ、好意を抱いていた分だけ。

「で?」出てきた声は心底、冷ややかだった。「どうして俺にだけ黙って、いなくなったんだ?」

 沈黙は思っていたよりも短かった。青褪めた顔のまま大樹は震える唇を開き、呻くように呟いた。「大輔を、お前を俺が守ってやりたかった、からだよ」

「え?」聞き返したのは、声が聞こえなかったからでも嫌味のつもりでもなく。意味が理解できなかったからだ。

 けれど大樹は大輔のその反応を嫌味の類だと受け取ったらしい。何かに挑むかのような強さを眼球の底で光らせて目を細めた。傷つくばかりではなく、立ち向かおうと奮い立つ声には、破れかぶれに似た響きがあった。「俺はお前を守りたい、ただそれだけだッ! お前が兄貴の事を軽蔑しようが、俺の事を馬鹿だと思おうが関係ないッ! 俺がそうしたいからそうしてるッ、いちいち、お前がどう思うか考えて、怖がってッ、やってられるか!」

 下手に出る事をやめた大樹の率直な言葉に唾を飲み込み、そうしてから反射的に言い返そうとした時だった。その金属質な音は、大輔の唇から出かかった言葉を喉の奥へと押し戻させ、怒気も垣間見えそうな大樹の表情をとたんに怪訝に歪ませた。ふたりの間にある僅かな距離のなかへと、軽く地面に何度もぶつかりながら転がってくる——、リングの正体はいうまでもなく即座に双子は理解した。ふたりして、さっきから会話に一度も加わらない彼女のほうへと向き直った。追求する目を、ほとんど犯人探しをする刑事のような目を双子はしていたものの、違う、と反射的に思った時には、煙幕の模擬魔術は発動していた。

 彼女が模擬魔術を投げたのではないか、と、双子は思ったのだ。けれど、振り向いた双子の視線に素直に困惑した色の目で見開いた彼女の様子は、話を強引に終わらせようとしている人間がする仕草にしては自然すぎた。リングから噴きあがった霧が瞬く間に彼女の動揺した顔を覆い尽くす、手を伸ばせば確実に触れられる場所にいる大樹の姿も包み隠そうとする。

「ッ、大樹ッ!」思わず、大輔は手を伸ばしていた。まず体が動いていた。完全に模擬魔術の霧が大樹の姿を隠してしまう前に、どうにか視界に捉えていた弟の手を掴んだ——、と思った。

 大樹の手が、大輔の手の中からすり抜けていた。掴んだと思ったものが途端に形を崩して、指と指の間から流れ出し、手の中が空っぽになってしまったような。ぎょっと硬直し立ち尽くしかけた大輔は、くぐもった人の声を聞いたような気がして、掴み損ねた手から目を白い空間へとはねあげた。布越しに押さえ込んでいるかのような声だったけれど、耳に届いてきた声は確かに大樹の声だった。

「大樹ッ?!」叫び、声が聞こえたと思う方向へあてずっぽに手を伸ばした。

 カラン、と地面に金属質の何かが落ちる音と、大輔の手が霧の中で何かを掴んだのは同時だった。一秒未満の遅れもなく、迅速な処理能力で霧を晴らしはじめる中和剤の効力によって視界が瞬く間に開けた大輔は短く、息を呑んだ。

「あ、あんたッ、はッ! 成瀬さんッ?!」動揺した体の震えがそのまま声帯に伝わり、発する言葉を細切れに上擦らせる。

「ありがとう。大輔君。君のおかげだ」男の声はいかにも悠長だった。中和剤によって不完全ではあるものの晴れた視界の中で、大樹を子供が等身大のぬいぐるみを抱きすくめるような格好で抱きしめていて、その口に白い布のようなものを押し付けている姿からすれば場違い過ぎるほどの、悪びれてもいなければ後ろめたさも何もない声だった。むしろ、親愛がこもっていそうな声だった。

 気を失っているのか、大機はぴくりとも動かない。

「佐伯大輔ッ! その男から手を離しちゃ駄目よッ!」

 背後からの声が、男の二の腕を掴んでいた大輔の手を震わせる。慌てて力を込めなおすよりも先にあっけなく振りほどかれたかと思うと、男は逃げるでもなく、ほんの少しだけ唇を歪ませて笑みの形を作った。邪推しようのないほどに、優しげな笑みには違いなかった。この場ではなくもっと別のところで——、例えば、この男とはじめて会った、大輔が住んでいる古びたアパートの一室で見たのなら、少なからず好意は抱いただろう。

 男は、大輔に一億円を差し出しながら、初代の魔女を探してほしいと、酔狂にも程がある事を頼んできた依頼人は、まるで親が子供を諭すような声音で大輔に告げた。

「君は早く、ここから立ち去りなさい。君に危害を加えるつもりはまったくないんだ。けれど、そこの女と共謀するつもりなら、私達と君は対立する事になる。それはとても悲しい事だし、妹だってそんな事はまったく望んでいない、」

 鋭く、アスファルトを軋ませるような靴音が、大輔のすぐ真後ろで鳴った。「だったら大樹はッ、お前達と一緒に行く事なんて望んでないッ!」叫び声と共に、大輔と男の間に割っているように踊り出た彼女の右腕が大きくしなった。カッターナイフの刃が、振り下ろされる。

 けれど、そのカッターナイフの銀の一閃は唐突に、何かに音を立ててぶつかると、そのまま勢い任せに跳ね飛ばされたかのように彼女の手から明後日の方向へと飛んでいった。

「望んでいないように仕向けたのは、君達だろう?」と、男は相変わらずの口調で問いかける。「世の中の秩序。能力者と一般人の共存、綺麗なだけの張りぼての言葉を並べて、何が一番世間とって大事かを教えたんだろう? けれどそれは、望みではないよ」

 大樹の口もとから離れ、カッターナイフの柄を刃も気にせずに真正面から垂直に受け止めている男の手は、白く光って見えた。陽射しの反射でもなく、見間違いでもなく、手の皮膚そのものがにわかに発光しているのだ。その男の手を傷つけるはずのカッターナイフの刃はほとんど根元から折れ、地面に転がっている。さっき音を立てて飛んでいったのは、その刃だった。

 大輔は目を瞬いた。「能力、者?」目の当たりにしているにも関わらず、語尾に疑うような色が滲みでる。

「そう、初対面の人間が、自分が能力者であると語れない世の中からしておかしいとは思わないか?」男の言葉は、目は、すぐ傍で対峙している檜山の体も敵意を素通りして、大輔へと当たり前のように向けられていた。「世の中の大勢が一般人だから? まあ、だからこの世の中のありとあらゆる仕組みが一般人のために都合されているのは分かる。でも、それを能力者にまで強いるのはどうしてだ? まるで、自分達が感じている不便を、われわれ能力者にも押し付けないと、気が済まないように見えるけどね」

「大樹はそっちを望んだんだッ! 一般人と共存するほうを選んだ能力者をどうこうする権利なんて、あんたにはッ、」ないッ! と、語気荒く断言した声と共に刃を失ったカッターナイフを再び振り上げようとした彼女の姿はまた、金属質の音と共に瞬く間に煙幕の中へと消えた。

「——……、確かに、ない、んだろうね」応える男の声がふいに遠ざかる。続いて、恐らくは彼女が投げ落とした中和剤の金属音と入り乱れるようにして、複数の靴音が騒々しく駆け込んでくるのを聞いた。「でも、この子に関しては別だ。この子が何を今、望んでいようと、私はそれを説得しなければいけないし、考えを改めさせなければいけない」

 中和剤が霧を晴らした時、路地にいたのはさっきまでの四人だけではなかった。

 響いていた靴音は彼らが立ち止まった瞬間にぴたりと止んだ。十人はくだらない、服装様々な統一性のない男達は揃って面持ちだけを険しく歪ませて、檜山と大輔に真正面に向き合い、生身の刃に似た眼差しを突きつけていた。一歩でも踏み出したなら膾切りにされても文句は言えないような、到底、普通に生きてきた人間には不釣合いな薄ら寒い眼光が、それぞれの眼の底で輝いている。

 無意識に喉が上下する。男達のうち数人に、大輔は見覚えがあった。

 地味な背広姿の男。いかにも生真面目そうな学生然とした男。そして、集団の中でひときわ太っている男。姿には、見覚えがあった。けれど、昼下がりの住宅街で必死に能力者解放戦線への理解を求めていた時とも、今朝アパートの前で他愛ない話をしていた時とも、まるで中身が挿げ変わっているかのように表情は別人だった。

 そんな男達を隔てた向こう側、少し離れた路地の終わりに、成瀬は佇んでいた。いつからそこにあったのか、四角い車体の黒いマイクロバスの扉の傍で、気を失った大樹を丁寧に抱きかかえたまま、こっちを見ていた。「時間はたっぷりとあるんだよ、大輔君。私にも君にも、大樹君にも。だから無理強いをする気はまったくないんだ。もちろん、酷い目にあわせるつもりもない。だから安心してくれて構わない。気になるのなら、君も後でくればいい」

 そういって差し伸べられた手は、ふたりの間の距離がなければ、現実として殺気立った男達が塀のように間にいなければ、思わず手にとる事を考えてしまいそうな代物だっただろう。自分は間違った事をしていない、非難される事もしていない。そう大輔に断言しているかのようだった。

「我々は君を歓迎するよ、大輔君。たとえ君が能力を失っていても、君には我々の同胞になる資格があるんだから」成瀬の話はそこで終わった。

 見計らったタイミングで、マイクロバスの運転席からひとりの男が出てきて、車体の扉を横にスライドさせて開いた。大樹を抱えたまま車内へ入りかけた成瀬はふと他愛ない事を思い出したような素振りで、眼を車内へと向けたまま、口を開いた。「そこの警察官は始末しておいてほしい。でも、彼は出来る限り傷つけるな。妹が悲しむ」

 そうして成瀬が車に乗り込むと、スライド式の扉はひときわ大きな音を立てて閉まった。

「——ッ、おいッ!」大樹が連れ去られる。衝動的に声をあげて駆け出そうとした大輔は次の瞬間、服の襟首を思い切り後ろから引っ張られ、尻から不恰好に地面に倒れこんだ。痛みに顔をしかめるよりも先に、その傍を淡々と通り過ぎる檜山を、襟首を引っ張った張本人を苛立ち混じりに見上げると、「佐伯大輔。さっさとこの場から立ち去りなさい」機械的な命令じみた声だけが檜山から向けられた。

「、は?」間の抜けた声で聞き返しても、返事はない。

 排気ガスを撒き散らし、タイヤで路面を軋ませながらマイクロバスは走り去っていく。

 それを両者ともが合図とした。ただでさえ刺々しく張り詰めていた空気が途端、音を立てて引き締められる。少しでも音が鳴れば気配が揺らげばその瞬間に、極度に緊張した空気の糸がぶち切れ、誰ともなく動き出すのだろう。戦いや乱闘、ではなく、これは私刑みたいなものだ。

 両手でも足りない、恐らくは全員が能力者に違いない男達に、女性であるのだから能力者のはずがない檜山が一人で挑もうとしているのだから。空のポケットをまさぐって、大輔は思わず舌打ちしたくなるのを堪える代わりに顔をしかめた。思っていた通りに煙幕の模擬魔術は全部使い果たしている、この場で手っ取り早く逃げおおせる常套手段は今、大輔の手の中になかった。

 だからといって、一人で逃げ出すなど論外だ。けれど、ここで大輔が檜山の加勢に入ったところで、私刑になる人数が一人から二人に増えるぐらいで、大局が変わるはずもない。

 ——お手上げ、とはまさにこういう時のための言葉だろうか。率直にそう思う。

 その時だった。路地の張り詰めた空気を引き裂くようにして、車のクラクションがけたたましく鳴り響いたのは。

 無遠慮どころか、無神経とも呼べそうな音だった。意識の外から突然飛び込んできた音に、その場にいる全員が全員、驚いた顔で音のほうを見遣った。緊張が崩れた途端にはじまるだろうと誰もが理解していた乱闘の気配さえ見事に掻き消してしまったクラクションの主は、大輔達の背後、成瀬が乗った車が過ぎ去っていった路地とは反対側の入り口に停車していた。マイクロバスとは対照的な、四人乗りの軽四自動車は運転席側の側面を大輔達へと向けている。

 運転席の窓がおもむろに開き、ひらりと細い手が振られた。その手から緩やかに放物線を描いて、何か小さく光るものが地面へと放り投げられる。

「助けに来てあげたよ、大輔君」麻耶の声が届いたのと、煙幕の模擬魔術が地面で大きく一度跳ね返ったのは同時だった。瞬間的に辺りに立ちこめた霧が視界を遮る寸前で、大輔は立ち上がり様、反射的に檜山の手首を掴んだ。突然のクラクションに続いて投げ込まれた煙幕に、にわかに動揺していた檜山がさらに眼を見開いて大輔を見た。目が合った、と思った時には煙幕で隠れてしまっていたけれど、大輔は口を開いた。

「逃げるぞ」宣言して、手を握ったまま、駆け出す。

「ッ! ちょ、ちょっと!」僅かに抵抗する気配が檜山の手首から伝わってきたものの、それはこの場に踏み止まろうとしているのではなく、突如様変わりした事態に順応できずに混乱しているからのようだった。残ったところで勝ち目はないし、逃げるなら今こそ好機である。理解しているから大輔の手を振り払おうとはしないけれど、張り上げる声に宿った混乱は素直に大輔へとぶつけられていた。「一体なんなのッ! あれは知り合いッ?!」

 知り合いであってもどうしてこんなタイミングで現れるのか。しかも、「助けに来た」なんていえるのか。檜山が抱いている混乱の一部はそのまま大輔の疑念でもあったけれど、それら全部をひっくるめて、結論は一つだけだった。

 大輔は断言する。「とりあえず、あの連中と多勢に無勢でやりあうよりは、逃げたほうがマシだろ」

 煙幕の下で獲物が逃げ出した気配を察して、乱れながらも近づいてくる複数の足音を背後で聞きながら、霧の中を闇雲に伸ばしていた大輔の指先はようやく、ゴールである麻耶の車の車体に触れた。ほっと思わずつきたくなる吐息を飲み込んで、ノブを手探りで探して扉を開けた。

「早くしないと彼らに追いつかれちゃうかも」見るからに修羅場だったに違いない路地で勢いよくクラクションを鳴らした威勢とは程遠いのんびりとした口調で言う運転席の麻耶を一瞥してから、「ほら、早く乗って!」手首を引っ張って先に檜山を後部座席へ押し込んだ。

 そうしてすぐさま続けて乗り込もうとした大輔を引き止めるかのように、その声は彼らの靴音よりも明瞭に大輔の耳に飛び込んできた。

「——警察だッ! お前達ッ、そこで一体何をしているッ!」大智の声だった。

 反射的に半分乗り込みかけていた体を戻しかけた大輔に、「見つかるとさすがにまずいんじゃない? 大輔君」投げかけられる麻耶の声音は至って平静だった。運転席から首を少し捻って後部座席へと眼を向けると、小さく肩をすくめてみせる。「能力者解放戦線といざこざ、なんて面倒事、説明してもすぐに納得してもらえると思わないけど。もし早く納得してもらえたとしても、当分、一人で行動するのは不可能になるだろうし。それよりも早く、大樹君を追いかけるほうが先じゃない?」

 大輔と檜山は揃って、息を呑んだ。そして先に我に返った檜山は大きく目を瞬くと、運転席の座席をわし掴んで、助手席との間から身を乗り出した。「ッ、どうして、大樹の事を知ってるのッ!」質問というよりは罪を追求するような、叱責に近い叫び声だった。声を荒げて詰め寄る事で、どうにか自制心を保っているような声音でもあった。

 檜山を見遣り、そうしてから息を呑んだまま固まっている大輔へと目を移し、最後に麻耶は正面のフロントガラスへ顔ごと視線を向けた。「霧が晴れちゃうけど、」と、誰に言うでもない独り言のような素振りで呟いて、首を傾げた。留まるか、車に乗るか。二者択一で求める目が、バックミラー越しに注がれる。

 どっちを選ぶかなんて、麻耶は分かりきっているに違いない。問いかける眼差しは単純に、どうせ選ぶほうは決まってるんだから、さっさと行動しなさい、と催促しているのだ。大輔がここで車を降りて扉を閉め、兄と能力者解放戦線のメンバーがいる路地に残るはずがなかった。

 喉に詰まるようにして留まっていた息を吐き出して、大輔は車に乗った。扉を閉め、後部座席のシートに腰を下ろそうとしたところで、いきなり響き渡った車のエンジン音と共に圧し掛かってきた衝撃に、背を座席の背もたれへと押し付けられた。ぐっと胃酸がこみ上げてきそうな重力だった。

 後部座席の乗客のことなどお構いなしに急加速した軽四自動車は、窓の外の景色を振り切る速度で路地を突っ切り、そのまま警察署のある通りへと突入していた。細い路地から通りへ出るのだから、往来の確認は必須事項だろうに、まったく速度を落とさなかった車は周囲を窺う様子も見せないまま、車内にさえ響くほどにタイヤを甲高く軋ませて右折する。そしてますます、速度をあげた。

 文字通り、脱兎の如く、である。ただ、逃げ出した路地の入り口がとっくに後方へと去って見えなくなってしまっても、アクセルを踏み込んでいる麻耶の足の力が緩む気配はまったくなかった。警察署が斜め前に見えた、と思った瞬間には、後ろへと飛んでいる。座席へようやく座りなおした大輔が振り返った時には、もう影さえ見つけられなかった。

 今すぐにこの車の速度違反を警察組織への挑戦だと受け取ったパトカーのサイレンが後方で鳴り出しても、文句は言えない。

 ゆっくりと大輔は喉を上下させてから、口を開いた。「……おい、」いくらなんでもスピードを出しすぎじゃないのか。言おうとした言葉を遮ったのは、至極淡々とした麻耶の忠告だった。

「別に話しかけてくれてもいいけど。こんな速度で事故ったら、確実に死ぬでしょうね。私達」


 三人が三人とも押し黙って出来た空気の中で聞こえていた音がふと、和らいだ。

 車の速度がゆっくりとではあったけれど落ちていくのを、大輔は車内に響き渡っていたエンジン音とタイヤの軋む音で察した。何をするでもなく俯いていた目を窓のほうへとやると、まるで跳ね飛ばされているかのようだった外の景色がどうにか、目で追いかけられるぐらいの速度で後ろへと流れていた。

 麻耶の眼差しがバックミラーを介して後部座席へと向けられた。今なら話が出来るけど、と言葉なく言ってくる目に先に口を開いたのは、檜山だった。

「——どうして、大樹の後を追いかけるほうが先だなんて言えたの?」

 話しかければ事故る。と、ほとんど脅迫に近い言葉で質問を封じられている間ずっと、考えていたのだろう。ひとつ疑問をことさら物静かに口にした檜山だったけれど、すぐに何か堪えきれなくなったように顔をしかめて、矢継ぎ早に言葉を続けた。「どうしてあのタイミングでやってきたの? 逃げる直前に佐伯さんが来たのは偶然? 模擬魔術を投げたのはどうして? どうして、私達を助けるような事をしたのッ?」

 最後のほうは、面と向かっていれば胸倉を掴みあげていそうな険しさがあった。返事如何では、車が事故れば運命共同体の身の上でも許さない、と眼差しは鋭くフロントガラスに映る麻耶を睨み据えていた。

 すぐに返事はなかった。「まあ、事情を話すよりも先に、しなくちゃいけない事があるから」と、誤魔化しのようにも聞こえなくはない事を言ってから、麻耶は首を少しだけ捻って視線を大輔のほうにちらりと向けると、片方の手をハンドルから放して自身の服の襟首へと持っていった。ゆっくりと親指と人差し指で撫でてみせる。

「? なんだ?」そこを触れ、というジェスチャーに見えなくもない仕草に首を傾げながら大輔は手を、麻耶と同じように自分の服の襟首へと持っていった。親指の腹が上着のタグをなぞり、服の縫い目に触れたところで、顔をしかめた。なにか、シールのようなものが貼り付いているのに気づいたのだ。

 親指の爪で丁寧に端からめくって剥がす。取れたものを見るとやはり、シールだった。一辺が二センチ程度の、角を丸く切り取った正方形の形をしていた。よく見かける靴下に貼り付いているサイズが書かれたシールとは違って、表面は真っ白で何も書いていない。粘着部分のほうを裏返して見ると、囲碁の黒石を小さくしたようなものが中央についている。

 テレビのCMで見た、磁石の力でコリをほぐすとかいう商品に似ていなくもないけれど。

 しかし、どこでこんなものをつけたのか。大輔にはとんと分からなかった。しかも服の外側ではなく、内側である。偶然に貼り付いたとは思えない場所だ。かといって誰かがこっそり貼り付けたにしても、こんな無地の味気ないシールではその理由も掴みかねる。

 そんな事をシールを見ながら考えていた大輔の横合いから、音のない静かな動作で突然、腕が伸びてきた。シールを大輔の親指から素早くめくって、腕を引っ込める。「、あ」特に何かあったわけでもないものの、間の抜けた声と一緒に視界の端から抜けた腕を追いかけて目をやると、檜山がしげしげとシールを観察するように眺めていた。そしてしばらくしてからため息をひとつ落とすと、親指と人差し指でシールを小さく丸めて、そのまま空いているほうの手で車の窓を開け、外へ、パチンコ玉でも弾き飛ばす要領で元シールの小さなごみくずを放り捨てた。

「ッ、おい」思わず尖った声が出た。さして窓の外から捨てられて困る事があるわけでもなかったけれど、一応は大輔の服についていたシールなのだ。少しぐらいは何か言ってから捨てても罰は当たらないだろう。

 用事が済んだとばかりにさっさと車の窓を閉めた檜山は、大輔の怒りを孕んだ反応に一瞥さえよこす様子もないまま、真正面のフロントガラスに、ますます険しげに眉間に皺を寄せた顔を向けた。正確にはフロントガラスに映る麻耶へと視線を据えていた。

「さっきのあれが、私の質問に対する答え?」先程までの、場所が許せば殴りかかるぐらいはしたそうな声音よりは多少落ち着いているようだった。けれど眼差しのほうはますます、鋭く尖っていく一方だ。

 落ち着いていると感じるのはただただ、自制心が声の表面にあるからなのだろう。と、大輔は思った。言い換えれば、分かりやすいほどに自制心を込めなければ本気で麻耶を後部座席から殴り飛ばすかもしれない、と檜山が判断したのだ。いくら最初の頃と比べて少しは車の速度が落ちたといっても、他の乗用車も走っている道路で運転手に危害を加えればどうなるか、は、想像するまでもない。

「……、あのシールがなにか、問題なのか?」問題があるとすれば、あの黒石みたいなものだろうか。

 不可解には感じられても具体的には何も分からなかった大輔の素朴な質問に、檜山の返事は簡素だった。目は追及の手を緩める気もなさげにフロントガラスに映る麻耶を凝視したまま一言、告げた。「盗聴器よ。あれ」さらりと、何でもない事を話すような口振りである。

 目を瞬く。たっぷりと檜山の発した単語が脳みそに行き渡るまでの間が出来た。

「——、は?」それでも間抜けに聞き返すと、檜山は心底面倒くさそうに肩を落として息を深々と吐き出すと、フロントガラスから目を離した。上半身を捻って大輔に向き直る。

「盗聴器、なのよ。あれ」一回目よりも殊更丁寧に、一言一言噛み締めるような言い方だった。「多分、GPS機能も搭載してる、模擬魔術の技術も使った最新型だと思うけど」そこで一旦口を噤んでから、目だけをフロントガラスへとやった。意地悪げに目を細める。「あれがあればそりゃ、能力者解放戦線とやりあう寸前になってる事も、大樹が誘拐された事も、何もかも分かって当たり前でしょうね」

 短く、麻耶が鼻を鳴らした。「馬鹿は言ってほしくないわ」私は潔白だ。と断言するのに似た、檜山の推測を跳ねつける強い口調だった。「第一、そのシールをつけたのが私なら、どうしてシールの事を大輔君に教えてあげないといけないのよ。放置しておくほうが絶対に得じゃない? ジェスチャーで教える必要もないわ。それに理由はなに? 大輔君の居所を把握してていい事なんて私には、これっぽっちもないんだけど」ハンドルを握ったままで器用に肩をすくめてみせた。

 檜山の一瞥が、物言いたげな色をして大輔を撫でた。言葉にするなら、盗聴器を仕掛けられる心当たりはないの? といったところだろうか。確かにあのシールが盗聴器で、貼り付けたのが麻耶、だったとしたら、その動機はともかくとして、絶妙なタイミングであの路地に現れた理由は説明がついた。——逆を言えば根拠はないけど起こした行動で、麻耶=盗聴器を貼り付けた人物、と檜山の中ではなっている。

 大輔は目を、運転席にやった。

「じゃあどうして、あのタイミングで出てくる事が出来たんだ?」訊ねてから、大輔はまだ大事な事を麻耶に言っていない事に気づいて、目を丸くした。途端、少し内心で気まずくなるのを咳払いで誤魔化して、再び口を開く。「……、あの時、麻耶の車が来なかったらきっと、大変な事になっていたと思う。だから感謝しているし、ありがたいとも思う。礼を言うのが遅くなったけれど——。助かった、麻耶。ありがとう」

「相変わらず律儀よねェ、大輔君」苦笑い半分からかい半分の声で応えると、麻耶は方向指示器を出した。カチカチ、音を鳴らしながらゆっくりと速度を落として、車を路肩へと停車させる。サイドブレーキを引いた。「私がどうしてあの場所にいたかは、言葉で説明するよりも実際に見てもらったほうが早いと思うのよ。盗聴器なんて面倒くさい事をする必要なんて私にはないって分かるから」そう言うと麻耶の指先は、車に備え付けられているラジオのボタンへと伸びる。電源を入れ、選局のツマミをまわす。

 しばらく耳障りな雑音が続き、やがてスピーカーから男のいやに興奮しきった声が聞こえ出した。『……さて、今回の出場馬ですが、やはり一押しの大人気は、一番ゲートの』

 大輔は首を傾いだ。「競馬?」これと大樹の事がどう関係するのかと半ば怪訝に麻耶を見遣ったが、彼女は口元を緩めるのみである。ラジオからは今回の出場場が番号順に紹介されていて、個々に親はどこの馬であるとか今までの功績であるとかが読み上げられている。麻耶が再び口を開いたのは、十枠目の馬の紹介が始まった時だった。

『さて、最後にゲートに入ったのが最近調子の振るわない、』

「この競馬、一着が十枠で二着が一枠よ」

 特に気負う風もない麻耶の言葉に、まず揶揄に近い笑みで応えたのは、ラジオに耳と目を向けていた檜山だった。浮かべた笑みの上にすぐさま不機嫌な色を塗って、麻耶に問うた。「ようするに競馬の勝敗が分かるみたいに未来も分かるから、能力者解放戦線のことも大樹の事も分かるっていうの?」

「その通りよ」あからさまに込められている皮肉に麻耶はあっさりと肯定した。途端、興醒めした様子で顔をしかめる檜山に顎をしゃくり、十枠目の馬の批評を流し続けるラジオを見る。「聞いての通り、十枠目の馬にはろくな評価がないわ。ラジオのいう事をそのまま聞くなら、王道は一枠と三枠でしょ。だったらここで私が十枠が一着にゴールするって宣言する事に意味はあると思わない? 物凄く確率が低いもの」

 ラジオでは十枠までの出場馬の説明が終わり、実況席による他愛ない順位予想がはじまっていた。一枠が一着なのは間違いないだろうが二着目を調子のいい九枠がとるか安定した三枠がとるかで、話が盛り上がっているようだ。確かに麻耶の言うとおり、ここで紹介の時にも明らかに不調だと告げられていた十枠が一着になると宣言する事には意味があるだろう。

 けれど、と大輔は思う。「一着二着よりも、未来が本当に分かるなら、全部当てる事も出来るんだろう?」と、思ったままの事をそのまま質問した。ハードルをあげようと思っての難癖ではなくて、客観的に考えるならそういう事だと考えての確認事項のつもりだった。

 檜山は目を素早く瞬かせた。彼女としてはそもそも、未来が分かる云々からして懐疑的なのだろう。「そうよね、」と大輔の問いに同調して頷く様子は、納得しているように見えてその実戸惑っているふうだった。言い逃れみたいな事に何もそこまで言わなくても、と度の過ぎた嫌味に多少尻ごみしている目で、麻耶を見る。「未来が分かるなら確かに、可能よね」

「分かった」実にあっさりと麻耶は応じて、迷う素振りもなく一着から十着までの馬の番号を口にした。

 はたから聞けばその口調は、どうせ当たりはしないのだから、と適当に番号を組み替えていっているようにも聞こえなくはなかった。ただ本当に未来を知っていて言っているなら、それだけ他愛なく、なんでもない事なのだと麻耶本人は思っている。そう伝わってくる声でもあった。

 最後にゴールする馬を九枠目の馬だと断言し終えて一度口を閉じてから、麻耶は小さく息をついた。「全部当たったら納得してね。でないと話が全然進まないんだから、」念押しする声と共に目を大輔と檜山にやった。

 ラジオから、スタートを告げる実況の声と共にひときわ大きい歓声が飛び出した。

 果たして、結果は麻耶の言う通りになった。

 最後の直線に入ったところで、実況がほとんど断末魔の悲鳴のような声で十枠目の馬の名前を連呼しはじめた。隣の檜山が大きく喉を上下させる、唾を飲み込む音が聞こえそうだった。けたたましくスピーカーから響き渡る音声と比例して、車内は重々しく静まり返る。最後に、途中で突然失速して取り残されていた九枠目の馬がゴールした事を、その時にはぜいぜいと息も絶え絶えになっていた実況が伝えると、大輔はラジオから麻耶へと視線をあげた。

「未来が分かるならどうして、大樹を誘拐させた?」何より、気になっていた事である。

 半分ほどの馬がゴールしたところから、呼吸するのも忘れたように動かなくなっていた檜山の体が、大樹、の単語の部分でぴくりと動いた。まさか本当に全部が当たるとは思っていなかった、と言いたげな血の気の引いた顔を持ち上げる。

 まだ声を発するほどには衝撃から回復していないらしい彼女の、大輔と同じ事を問う視線を受け止めて、麻耶は肩をすくめた。

「誘拐してもらわないといけなかったのよ」

「どうしてだ?」と、大輔は訊ねた。

「初代の魔女を殺すためよ」と、麻耶は応えた。

 落ちた間は、なんとも言い難いものだった。言葉を失って唖然としているようでもあり、純粋に驚いた結果でもあり、白々とした馬鹿馬鹿しさで呆れているようでもあった。恐らくはどれもが分解できないレベルで混ざり合い、不可解な空気を作り出して車内に満ちていた。

「——……前に、初代の魔女を知らないって言ってたのは嘘か」本当のところはどうでもいいとさえ思っていたけれど、ついそんな事を皮肉のように呟いていたのは、その空気の重みに気持ちが耐えられそうになったからだろう。些細な事でいいから、会話のきっかけが欲しかったのだ。

 大輔の言葉に、麻耶は少しだけ申し訳なさそうな顔をして頷いた。

「そうね、あれは嘘だった。あの時は知らないって答えて、大輔君が自分で色々とやるのを待たなくちゃいけなかったの。ねえ、バタフライ効果って知ってる?」

 問いかけに応えたのは檜山だった。長い間喋る事を忘れていた人間がおずおずと話し出すような、ゆっくりとした口調だった。「本来ならとても小さな事か、やがては無理できない大きな差になる……って話よね、それって。日本で蝶が羽ばたくと、ニューヨークでは嵐が起こる、みたいな事よ」

「麻耶が俺に初代の魔女の事を教えたら、初代の魔女は殺せないって?」大輔は首を傾げた。

「私が何もかもを最初に教えたら、そもそも大輔君は他の情報屋に依頼しないでしょ? スタートした途端にゴールみたいなものだから。でも私が教えなければ、大輔君は自分で情報を集めようとする。大輔君の行動は色んな人間に影響を及ぼす。たとえば、わざわざ大輔君を警察署に呼んだのは誰だった?」

 元上司であり、対魔術課課長の高柳充彦。大輔の脳裏にその人物の姿が浮かぶのと見透かしたタイミングで、麻耶が淡々と言葉を続けた。「その人が大輔君を警察署に呼ぶきっかけを作った人もいる」

「兄さん、だな」そして、と息をついて大輔は麻耶に改めて視線を置いた。その佐伯大智に、大輔が初代の魔女を探していると告げたのは、運転席に座っている彼女本人だ。

 視線に麻耶は愛想笑いのような、他愛ない表面だけの笑みを向けて檜山を見遣った。「そして、大輔君が警察署に呼ばれるのを高柳さんから聞いて行動したのが、彼女ってわけ。だから警察署を出て大輔君が人気のない路地に入ったところで、襲う事が出来た。で、それを大樹君に邪魔された」

「それで、邪魔をした大樹は俺に色々言って、成瀬に——、能力者解放戦線に誘拐されたんだよな」

 成瀬は大輔に一億円つきで初代の魔女を探して欲しいと頼んできた依頼人だ。半ば成瀬の依頼を持て余しながらもひとまずは情報を得ようと、大輔は麻耶の事務所を訪れた。一つの出来事が別の出来事のきっかけとなり、連鎖を続けて、円になる。

 けれどはっきりした事が一つあった。「俺に盗聴器を仕掛けたのは、成瀬か?」質問の形をしていても、疑問を挟むつもりはなかった。盗聴器の主は成瀬である、そうでなければあのタイミングで彼が現れるはずがない。もっと厳密に言えば、と大輔は背筋を這った悪寒に顔をしかめた。「——……、あの能力者解放戦線の連中が、俺の行くところ行くところにいたのも、そのせいか?」

 最初は駅前。次はバスを降りた住宅街。翌朝になると、アパートの前にいて、最後は警察署の前だ。

 麻耶はこくりと頷いた。「彼らは、行方不明の大樹君が大輔君に接触するのを待ってたのよ。接触しなくても何かしらのリアクションはあると思っていたから、いつでも大輔君の傍に駆けつけられる距離にいた」

「盗聴器を仕掛けて、わざわざ大樹が接触するのを待った理由はなんだ?」

 ただ何かしらの理由があって身柄を確保する事が目的、のようには見えなかった。恐らくはハンカチに染み込ませた何かしらの薬品を大樹に嗅がせて気を失わせたのだろうけれど、そんな強引な手段をとった割には、大樹を抱いている成瀬の手つきは優しげだった。いや大樹だけではなく、大輔に対しても成瀬の態度は同じだった。

 なのに、と、大輔はさらに深く眉間に皺を寄せた。「早く大樹を追いかけなくてはいけないのは、どうしてだ?」その麻耶の言葉から感じ取れる危機感は、能力者解放戦線に誘拐された大樹の身に何かが起こる事を確信しているようだった。

 この質問は、さっきから口を閉じている檜山も気になったらしい。大輔と檜山の、二対の眼差しに麻耶は努めて抑揚を抑えた声で告げた。「早く行かないと、大樹君が殺されるから」

 大輔は思わず、喉を上下させた。どうして? と、さっきから繰り返していた疑問符がこの時だけ、唾液が干上がった咥内にべたりと貼りついたように、声にならなかった。

「ちょっと待って、」代わりに、即座に声をあげたのは檜山だった。「貴方に未来が分かるのは認める。盗聴器も成瀬修司が佐伯大輔に取り付けたと判断するのが妥当でしょう。でも、能力者解放戦線が大樹を殺す動機なんてまったくないわ」

「あるから、ちゃんと」麻耶は檜山に向かって首を小さく傾げた。「だって、そのために半年間ずっと行方不明だったんでしょう?」

 言葉を喉に詰まらせた檜山の表情は、どうしようもない致命的な弱みを握られた人間のそれによく似ていた。反論できずに唇を噛み締めて俯いた彼女から視線を、まだ呆然とした気持ちが抜けきっていない大輔へと麻耶は移す。

「大輔君も不思議だったんでしょ? 半年前の模擬魔術事件で現場から失踪して行方不明になったはずの大樹君が、中和剤を所持している彼女と知り合いだった事。その彼女を、大樹君とずっと同じ部署で働いていた自分が知らない事。だから半年間のうちに知り合ったんだと思ったんでしょう? でも、事件を放っていなくなった大樹君がわざわざ警察関係者と関わりを持つはずがないし、ましてや半年間の大輔君の動向を知ってるはずもない。だから、自分だけに内緒で失踪して、実は影でお兄さんと連絡を取り合っていたんだって、最後に結論を出したのよね?」

「、ああ」渇いている喉をなんとか動かして、頷いた。

「それ、だいたい正解よ」と、麻耶は言う。ゆるんだ目元にある笑みみたいなものが大輔を同情していて、けれど同じぐらいに褒めているようでもあった。「半年前の模擬魔術事件で、大樹君は首謀者である能力者解放戦線の秘密を知ってしまった。そのために失踪しなくてはならなくなって、警察は秘密裏に彼に護衛をつけた。護衛は能力者解放戦線の活動状況を確認するために定期的に対魔術課と連絡を取り合っていた、……さすがに組織立った動きが出来るものを相手にして、援助なしで逃げ切る事はできないものね」

「その秘密っていうのは、初代の魔女のことか」呟いて、大輔は檜山を見た。

 檜山は頷いた。「そ。課長と話した事があるなら知っているとは思うけど、本来なら初代の魔女の秘密は探ろうとした時点で制止され、知った時点で排除されるもの……、でも、大樹の知った秘密はちょっと特殊で、逃げるしか方法がなかったのよ」そうして、不満げに顔をしかめた。「私はちょうど昨日の定時報告で課長から貴方の事を聞いたのよ。大樹の苦労も知らないで、よりにもよって初代の魔女を探しているなんて教えられたら、誰だってッ」

「でも、大輔君に殺意を抱いた貴方の様子に大樹君が違和感を持たなければ、彼が不用意に外に出てくる事もなかったでしょうけど」檜山の言葉を遮るように麻耶は言うと、困ったように眉根を下げた。「そして、そうしたのは、私。責任はちゃんととるわ。大樹君は殺させないし助けるから——だからふたりとも、初代の魔女を殺す手助けをしてほしいのよ」

 どちらもすぐには、返事をしなかった。やがて先に、率直な疑問をしたのは大輔だった。「俺達が手助けすれば、初代の魔女は殺せるのか?」大輔には見えないバタフライ効果の先が麻耶に見えているのなら、そういう事だ。静かに頷く麻耶を見てから、少し表情を曇らせる。「大樹が誘拐されるように仕組んだのは、俺を巻き込むためなのか?}

 初代の魔女を殺す手伝いをしてほしい。と面と向かって頼まれて、即座に頷く事などあるだろうか。

 以前の大輔なら首を横に振る。都市伝説だと思っていた存在を肯定され、その存在を探すなと脅された代わりに交換条件を飲ませて、命まで狙われて。締めくくりとして半年前に失踪した弟との突然の再会と、目の前での誘拐を経てようやく、大輔は応じる事が出来る。

 そして、早く追いつかないと大樹は殺される。と言う麻耶は、初代の魔女を殺すために大樹の誘拐を見逃して、一方で大輔には手助けをしてほしいと頼んでくる。

「大樹君を、見捨てる事は出来ないものね」酷く感情のない、かといって冷淡に聞こえるわけでもない不可思議な口調で麻耶は応えた。

「——……、確かにな」

 息を吐き出すようにして呟いた。命の危険を伝えられて見捨てられるような弟なら、そもそも半年前に失踪してからずっと今まで、探そうとするはずもない。だから、本来なら憤るぐらいの事は妥当だろうと思っていた。麻耶にいいように大樹を思う気持ちを利用され、大樹本人まで危険に晒されている——、なのに、続けて出てきた言葉は大輔も少し驚くほどに、冷静なものだった。「じゃあせめて、どうして初代の魔女を殺さなくてはいけないのか、その理由を教えてくれ。こっちの了解なしに勝手に巻き込んだんだ、事情ぐらいは話してくれるんだろう?」

「事情は、貴方達にとっては未来の話になる。訪れるはずだった、だけど」と、語り出す麻耶の口調は何度も読み直した本の一説を淡々と声にしていくような感じだった。手馴れた作業に感想を抱く気にもなれない、といいたげに唇だけが無表情の中で機械的に動いている。「初代の魔女が復活したのよ。「研究所」の生き残りと共に決起して、今の政府に宣戦布告した。同時に能力者達にも呼びかけたわ、いつまで虐げられているつもりだ? ここで立ち上がらずにどこで立ち上がるんだ? ってね。全国の能力者がそれに呼応して、あちこちで暴動が起きはじめた。でも、政府は一度も有効な策を取れなかった。もっともよね、今の政府は能力者を弱者とみなして今まで政策をとってきたんだもの。暴動を収めようにも強引な手は使えないわ、能力者団体の支援を受けてる与党の国会議員は山のようにいたから」

 確かにその通りだ。半年前に模擬魔術事件が起こっている今現在だって、政府は具体的な政策をとるまでに至っていない。付け焼刃のように事件の被害者に対する救済処置は設けているものの、事件を起こした能力者解放戦線自体を解体させるなどの話は出てきていない。能力者団体から支援を受けている議員達がそれに反対し続け、法案提出さえままならないのだと言われている。

 幹部達を失い、世間の悪意に晒されてはいても、能力者解放戦線は組織名を変える事もなく、実在し続けているのがいい証拠ではないか。

「彼らの暴動に抵抗したのは警察官だった。主力は、対魔術課の能力を持った警察官達よ。でも、一般人達はそんな彼らを信用しなかったの。警察官でも能力者である以上は、世間で暴動を起こしている連中と同じだっていって、自分達を守ってくれている警察官達を襲撃した。襲撃のニュースが流れるたびに、今まで暴動に参加していなかった能力者達が立ち上がったわ。で、暴動が大きくなると一般人はますます能力者を信じられなくなって警察官を襲う。その繰り返しね」麻耶の目がふと、遠くを見るように細められた。それ眼差しは恐らく、大輔が麻耶の視線を追いかけてみても見れない、彼女しか知らない光景に据えられているのだろう。「そしてとうとう、政府は乗っ取られたのよ。一般人の女性は能力者と結婚する事を義務付けられて、男性は純粋に労働力としての価値を与えられたわ。——その頃ね、私が恋人を殺されたのは。私は彼の死を認められなかった、許したくないと思った。だから、ちょっとだけかじった事のある模擬魔術でどうにかできないかって考えたの。必死になって研究して、記憶を情報化して過去の自分自身の脳にインプットする模擬魔術を開発したわ。その時にはもう、この国は能力者の国になってた。能力者じゃないと生きていけない国の中で、もう誰も新政府に抵抗しようとはしていなかった。しても無駄だって、思い知ったんでしょうね」

 そう締めくくって閉じた唇を苦笑いの形にすると、麻耶はふたりに首を傾げた。何か質問はある? と訊ねる仕草だった。

 けれどふたりとも、咄嗟には何も言えなかった。疑問がなかったわけではないし、むしろ山のようにありすぎてどこから問えばいいのか途方にくれてしまった部分もあった。黙り込んでしまったふたりに、「質問がないなら、私の話を分かってくれたって事でいい? 車を動かしていい?」質問しながらも麻耶は後部座席を見るために捻っていた上半身を真正面に戻して、引いていたサイドブレーキを下ろした。指示器を出して、麻耶は後方から来る車の列に目をやっていた。

「、つまり、」と、檜山が呟くように言った。「貴方は絶対的に未来が分かるわけではないのね。それこそ、バタフライ現象のように、こうしたらああなる、っていう原因と行動を知っているに過ぎないのね」最後に僅かだけ滲んだ皮肉は、それで本当に大樹を助けられるの? と問うていた。

 麻耶は小さく頷いてから、ハンドルを大きく道路側へと切った。アクセルを踏み込んで、前方と後方の車の間に空いていた空間に素早く車体を滑り込ませる。「でも、私が望んでる事に対する未来はわかるわ。それに、どう行動したら大樹君を助けられるのか。皆目見当もつかない状況よりはずっと、マシだと思うんだけど」と、世間話の口調で言って、目をバックミラーを通して後部座席へ向けてきた。

 言い返す言葉なく再び黙り込む檜山の隣で、大輔は口を開いた。「分かっているとは思うが、初代の魔女を殺すのに俺が必要だといっても——、多分、俺自身は初代の魔女を殺せないから」それこそ差し迫った危機でなければ無理だろう。本当に初代の魔女をこの手で殺さなければ、目の前で大樹が死んでしまうとか、そんな状況でなければ。理性よりも衝動が、勝ってくれなければ。

「そんな事は十分わかってるよ」バックミラーに映る麻耶の目が、子供を宥めすかす色で和む。「大輔君は律儀だもんね。そんな、起こるか起こらないかわからない未来の事で、人一人の命を奪うなんて出来ない人だって、知ってるから。それに、初代の魔女を殺すのは大輔君じゃ駄目なの。大樹君でも、檜山さんでも、私でも駄目だから。そのあたりの事は、安心してくれていいよ」

「、あのな」何を安心しろって言うんだ。と、呆れがちに大輔は言おうとしていた。

 それだけ、今の麻耶の口調は何処か安請け合いしているような雰囲気があったからだ。いつもの、相手の二の句を継げなくさせるような見透かした言葉ではなかったから、つい合いの手を打つ調子で言いさしかけて——、大輔は言葉を呑んだ。

 視線がガラス越しにぶつかった。真っ直ぐに見据えてくる彼女の目には、口にしている言葉の軽々しさなどまったくなかった。あるのは、なにかとてつもなく重々しい決意のようなものを決めた人間特有の頑なさというべきか。

 こうした目をする人間が時々、警察署に来たのを大輔はふと思い出した。不可抗力でも無計画でもなく、覚悟を持って人を殺した人間の目だ。人一人の命を奪う事で、何を失って何を傷つけるのか、棒に振る自分の人生さえ受け入れて、それでも誰かを殺す選択肢を選んだ人間の目だった。

「初代の魔女を殺す人間は、もう決まってるんだから」と、麻耶はなんでもない事のように言って、唇を噤んだ。


   * * *


 真新しくペンキで塗られたらしい、緑色のフェンスに囲まれた敷地内は一見すると、何処かの建設会社が運営している住宅の見本市のような雰囲気があった。没個性と表現するのが一番的確そうな、壁も屋根もなにもかもが統一された二階建ての住宅が行儀よく五棟ずつ道路と道路の間に収まっている。合計二十棟程度はありそうだった。そのそれぞれの建物に人が暮らしているらしい事は、住宅一つ一つのベランダで風に吹かれている洗濯物の違いで分かった。けれど目に見える生活臭といえばその洗濯物が精々で、後は整然とした様子がいかにも作り物っぽい清潔感を漂わせている。

 身長よりも高いフェンスの網目から覗き込んで敷地内を見回すと、大輔は呟いた。

「人がいないな、」人が住んでいるのは確かなのに、人一人敷地内を歩いていないというのも変な話だ。

 檜山は肩をすくめる。「まだ夕方になっていないから、誰も帰ってきていないんでしょ。子供達は学校だろうし、大人は会社に行ってるかもしれないし。この時間に家にいそうな主婦は、能力者にはいないから」ごくごく簡単な事だと言いたげに断言してから、目を後ろへとやる。道路を挟んだ路肩に停めた車の傍にいる麻耶を見遣り、目を細めた。「まだ電話、終わらないみたい」

「誰に電話してるんだろうな」大輔も同じように振り返る。

 フェンスをぐるりとなぞるように道路を一周してから、学校の正門によく似た観音開きの門の向かい側になる場所で、三人は車から降りた。直後、麻耶が携帯電話を取り出して、「ちょっと電話しなくちゃいけないところがあるから。少し離れて待ってて」と、お願いなのか命令なのか分からない口調で言ってきた。仕方ないので大輔と檜山はこうしてフェンスの金網に手を引っ掛けながら、物静かな敷地内の様子を眺めたり、長い電話がそろそろ終わらないかと振り返ったりしている。ついでに麻耶のほうを見たのはこれで、三度目だった。

「あの電話も、必要な事?」檜山が首を傾げる。

「どうだろうな」分からないと首を振ったところで、麻耶が携帯電話を耳から離した。目が合うと彼女は唇を少しだけ緩めて笑みを作った。車の扉を開けて携帯電話をその中に放り込んでから再び閉め、道路を渡ってきた。

「ごめんね、おまちどうさまでした」友達同士の待ち合わせに遅れたような口調である。「じゃあ、行きましょうか?」と、ふたりを交互に見遣ってから歩き出そうとする。正門とは違う方向だった。

 もちろん、これから誘拐された大樹を助けに行こうとしているのにわざわざ正面から堂々と入っていく事はない。けれど、大輔の身長をゆうに超える——恐らく、背伸びをして手をいっぱいいっぱい伸ばしてもてっぺんにまでは届かない高さのフェンスを登るわけにもいくまい。どうする気だ、と先を迷う素振りもない歩調で歩く麻耶の背を見ると、しばらく歩いてから彼女の足はぴたりと止まった。

「ここって、出入り口はあの仰々しい門だけなんだけど。子供達には面倒くさいのよね、いちいちどこにいくのかとか言わなくちゃいけないから」苦笑いを浮かべた唇で言いながら麻耶がしゃがみこんだ場所には、年季の入ったトタン屋根がフェンスの金網に針金で四方を括りつけられていた。

 正門以外の敷地の縁を延々と囲っている緑色のフェンスの下部分、大きさにしてちょうど五十センチ四方といったところだろうか。丁寧な手つきで麻耶が針金を解く。トタン屋根を脇へずらすとその括りつけられていた部分はそのまま、ぽっかりとフェンスに空いた穴になった。

「……、見事に空いてるな、これ」自然劣化や不可抗力でひらいた穴でないのは、あらかじめ定規で線でも引いたかのように綺麗な正方形の穴の形で分かる。しげしげと眺めてから大輔は麻耶を見下ろした。「これを知ってたのも、未来を知っていたからか?」

「そ、ここに住んでる子供達が開けちゃうのよ。大人達は模擬魔術事件の事でぴりぴりしてて、あんまり外に遊びに行くのにいい顔はしないからね」

 まるで、この場所で暮らした事があるような言い方だな。と、ふと思った。

 大輔の視線に肩をすくめると、麻耶は四つんばいになって穴を通り、フェンスの内側に入った。続いて大輔、檜山と続いた。全員が入り終えると麻耶は再びしゃがみこんで、はずしたトタン屋根をさっきの位置に戻してから針金で括りなおした。

 檜山が面食らった顔をして、目を瞬いた。「逃げ道を塞いでどうするの?」

「大丈夫」最後の針金を括り終えて麻耶は立ち上がり、檜山に頷いてみせる。「帰りはここを通らなくてもいいようになるから。さて、こっちよ」勝手知ったる他人の家といった様子で、麻耶は再び歩き出した。

 麻耶が向かった先は狭いながらに区画整理された住宅街の先にあった。住宅とは様相が違う、どちらかといえば街中の公民館といったほうがよさそうなその建物の玄関先にたどり着くまでに結局、三人は誰ともすれ違わなかった。未来を知っている麻耶がそういう時間を選んだのか、単純に檜山が言っていた事が正しいのかは分からないけれど。

 公民館の玄関のすぐ傍に停車しているマイクロバスは、大樹を誘拐したものと同型車のようだった。

 無用心にも、——というよりは第三者が敷地内に入ってくる事なんて想定していないからこそ、鍵のかかっていないガラスが入った扉を開けて、中に入る。広々とした玄関から靴を履いたまま、廊下に上がった。長い廊下の両脇にはいくつかの扉があるものの、麻耶はやはり迷わずに手前から三番目になる右手の扉のノブを回す。

 そうして部屋へと入る麻耶に続こうとした大輔の足を、「ねぇ、」と、小さな声が引きとめた。

 振り返ると、檜山が何処か落ち着かない不安げな表情をして立っていた。目の焦点は確かに大輔の前で結ばれているけれど、ふとした拍子にずれて、全然違うものを見ているようだった。大輔の体を通り越して、部屋の中でさっきから小さな物音を立てている麻耶へと意識を向けているのかもしれない。「知り合い、なのよね?」息遣いをそのまま声にしているような、とにかく小さな声だった。

「ああ、警察官の時からの付き合いだな」応えてから具体的に年月を逆算しようとしたけれど、答えが出てくるよりも先に再び檜山が問いかけてきたので、考えを途中でやめて改めて彼女を見た。「でも、未来の事を把握しているって知ったのはさっきなんでしょ? ——、怖くないの?」

「まあ、あれが麻耶らしいっていえば、麻耶らしいから」というのが大輔の素直な感想だった。普段の物事を見透かしたような態度を行動に移したら、今のような感じになるのだろう。やる事全部が当たり前のような素っ気無さで麻耶自身の目的を促していて、何一つ、障害になる気配がない。

 けれど、檜山はその“うまく行き過ぎている事”自体が怖いのか、と大輔は思った。「どっちにしても、あのマイクロバスからして大樹がここにいるのは間違いないだろ。あいつを助けるのに、今は麻耶についていくのが一番いい」

「それは、わかってる」歯切れ悪く檜山は応え、口ごもる。それでもまだ、半眼に瞼を落とした目は何か言いたげに揺らいでいるのを見て、大輔はひっそりとため息をつきたい気分になった。慣れきった憂鬱さが滲むように胸に、じわりと広がっていく。

 ちょうどそのタイミングで、「——、話は終わった?」投げかけられた声に大輔は振り返った。そうして吐き出しかけていた嘆息を思わず喉の奥に飲み込んで、面食らった。

 その部屋は物置と呼んだほうがよさそうな広さだった。縦横とも、大の大人がめいいっぱい腕を伸ばせば足りそうな長さで、三方の壁にひっついているステンレス製の四段棚には封の切られていない六個入りのトイレットペーパーやテッシュケースやら、卓上コンロ用のガスボンベ、季節をはずしているクリスマスツリーの箱や飾りなどが所狭しと詰め込まれている。大輔が驚いたのは、そんな部屋の床——、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた棚の有様とはかけ離れて、そこには大人一人が通れる程度の穴がぽっかりと開いていたからだった。麻耶はその穴から上半身だけをのぞかせて、こっちに首を傾げていた。

 穴のすぐ傍には、元々穴を隠すために使われていたらしい長方形の木の板の束と幅の小さなマットがあった。おそらくさっき背後でしていた物音は、マットを退けて木の板をとりはずしていた時のものだったのだろう。小さく、背後で喉が引きつるような音を聞いた。

「、なんだ。それ」大輔も、さすがに動揺を隠しきれない声で訊ねる。

「隠し階段よ」麻耶の声は相変わらずだった。自分の足元を見下ろしてから、顎を持ち上げて入り口の扉の傍に立っている大輔を見遣った。「大樹君はこの地下にいるから。ついてきて、」言って、背を向ける。コンクリートを叩くような足音をさせながら、麻耶の姿はあっさりとその中へと消えていった。

 追いかける前に、大輔は檜山へと体を向けた。

「多分だが、麻耶が大樹を餌に俺やお前を騙している——ってことは、ないだろうと思う。初代の魔女を殺したいっていうのも、嘘じゃないはずだ」

「なにか根拠でもあるの?」顎を引いて上目遣いに、檜山は質問してくる。

「麻耶には絶対的じゃなくてもある程度、未来が分かる。っていうのは、疑っていないな?」目の前で競馬の順位をすべて的中するのを見ておいてまさか疑っているとは思わないが一応、訊ねた。当然、多少は納得いかなげな顔をしつつも頷いた檜山を見て、大輔は口を開いた。

「兄さんが麻耶の担当になるまで、麻耶の担当いびりは凄かったんだよ。相手が嫌がる事をわざとやってるって感じだったから、最後には誰も担当になりたがらなかった。本当は、命中率の高い情報屋を手懐けたいって思うだろう? いつかとんでもない情報をくれて、自分の手柄になるかもしれないんだから。でも、そういう野心を粉々にするほど、麻耶は手ごわい相手だった」

 当時、麻耶の評判を聞いていただけに過ぎない大輔でも、大智が新しく麻耶の担当をすると教えられた時、心底心配したものだ。確かに兄は度量の大きい人間だが、それでも勤まるとは思えなかった。「でも実際、兄さんが担当をはじめてからの麻耶はそれほど、問題の多い人間じゃなくなった。多少、人のやる事を見透かしたような態度や言い方はあったけど、麻耶が兄さんを馬鹿にしたところなんて一度も見た事がないんだ。前の担当者達はことごとく、鼻で笑われていたっていうのにな」

「それがどうして、あの人が嘘をついてないって事になるの?」

「俺に麻耶を紹介してくれたのが、兄さんだから」腕のいい情報屋と交流を持っておく事は警察官にとって有益だ。大智はそう言って弟達を麻耶に引き合わせたけれど、麻耶が噂通りに性根の悪い情報屋であったなら、兄はおそらく会わせようだなんて思わなかっただろう。「それに兄さんが麻耶の担当をやめていたら、俺が初代の魔女を探しているという話は、高柳さんまでには届かなかった。俺が麻耶に初代の魔女の事を依頼していなくても、結果は同じ」

 檜山が短く、目を瞬かせた。「つまり、演技だった、って事?」

「つまり、それだけ本気だ、って事だ」大智が担当になるまで、何度も何度もその時の担当の心をへし折り続けたのも。対魔術課の間で、“有益だけれど性格の悪い情報屋”だと噂が流れるまでの事をし続けたのも。大智とまず知り合い、初代の魔女を殺すために必要な大樹と大輔の双子に出会うためであったなら。「ここまでしておいて、「嘘」はないだろう?」

 気の遠くなるような話だ。と、思う。この時のために四年前から——、いや未来から過去の自分に記憶をインプットする模擬魔術を使ったなら四年以上も昔から、麻耶は初代の魔女を殺す事を目的にして行動してきた事になる。人を殺す、という生半可では到底続かない決意をずっと、抱いてきた事になる。

「信じられないなら、ここから先は行かないほうがいいだろうな」いって、大輔は檜山に背を向けた。「麻耶には俺から説明しておく。未来が分かるっていうのなら、あいつも、ここでお前がいなくなる事は計算済みだろう」

 返事を聞く前に、大輔は穴のようにぽっかりと床に空いた階段の入り口から地下へと降り始めた。

 階段は麻耶の靴音から察した通り、コンクリート製のようだった。本来は懐中電灯などの光源を予め用意して降りるのだろう、穴の入り口から入り込んでくる明かりが届かなくなると、周囲は途端に地下本来の暗さを取り戻して、用心深く慎重に足先で次の段を探りながら降りていく事になった。背後、というよりは斜め上のほうから遠慮がちな靴音が聞こえてきたのは、ちょうど斜め下に長細い縦の光の筋みたいなものを見つけた時だった。

 大輔同様に用心深い足取りで降りてくる檜山の靴音を聞きながら最後まで階段を降りきると、長細い光の筋は大輔の背よりも若干長いものだと分かった。扉の向こう側の光が、扉と壁の隙間から薄く漏れているのだ。手探りで光の筋の近くを探して扉のノブを見つけ、大輔は押し開いた。思わず、差し込んできた照明に目を眇める。

 そうして、しばらくして目が光に慣れ始めると、見えてきた光景に今度は唖然と目を見開いてしまった。

「、なんだ? ここで火事でもあったのか……、?」ぽろりと思った事がそのまま、声になって落ちる。

 その場所は、役割的にはロビーかエントラスといったところだった。どっちにしても広さはないが、入り口の扉がある壁を除いた三方それぞれから通路が奥へと延びている。天井すれすれに電気コードが張り巡らされていて、工事現場の明かり取りのような裸電球が等間隔でぶら下がっていた。大輔が驚いたのは、柔らかい暖色系の照明に照らされている天井や壁、床に至るまですべてにこべりついている、黒々とした染みのような、煤のようなものが目に飛び込んできたからだった。

 吸い込んだ空気には地下っぽい埃のような臭いはあったものの、燃えカス特有の喉の奥を刺激する臭いは感じられなかった。しかし、臭いがしない程度に以前の事であるなら、鎮火したまま手づかずで放置されているようなこの空間の有様はあんまりに異様に見えた。

「ここで火事があったのは、二十二年前よ」と、麻耶はぐるりと周囲を見回してから応えた。檜山は階段を降り切って扉を開けたところで大輔と同じように目を見開いたものの、その麻耶の言葉の我に返った様子で片眉を持ち上げる。「二十二年前って、確か」

「——……、前政権が創設した研究所が火事で焼失した年、だよ」と言ったのは、三人のうちの誰でもなかった。けれど、誰の声であるのかは全員が即座に理解できる声だった。

 コンクリートの空間に綺麗に反響したその声に全員があたりを見て、その後すぐにまた響いた靴音に、一斉に眼差しを階段の扉の正面にある通路へと振り向けた。三対の眼差しを受け止めた成瀬は通路を出て立ち止まると、穏やかに唇の端に笑みを浮かべた。場違いすぎる笑みは、まるで三人がここにやってきたのを心底歓迎しているかのようだった。「能力者解放戦線の本部は、消失した研究所の土地に建てたものだからね。もっとも、地下は中身が燃えてしまっただけで、骨組みはしっかりと残っているからこうして、勝手に使わせてもらっているわけだが」言って、ゆっくりとした動作で壁を撫でた。そこには、座り込んだ人の形にも見えなくはない煤が、はっきりとこべりついている。

 ふいにこみ上げてきた胃酸を大輔は咄嗟に飲み込んだ。それでも咥内に残る苦さに顔をしかめてしまっていた。——成瀬が他愛なく言った、“中身が燃えてしまっただけで”の意味を、脳が遅ればせに理解した結果だった。

「大輔君、」呼ばれて、煤から麻耶へと目をやる。麻耶は成瀬に向けた目をそのままに、ひっそりとした声音で告げた。「成瀬は私達が引き受けるから、君は早く大樹君のところに行きなさい。左側の通路から行けば辿りつけるはずだから」

「……、左側?」呟いて、怪訝に目をそっちへと向ける。

 この空間から伸びている通路は三つとも何の変哲もなかった。構造も何も分からないのだから当然、大樹がどこにいるかなんて見当もつくはずもなかった。だから通路を見ても麻耶の言葉の信憑性が分かるはずもない。正直、多少戸惑った。

 成瀬が能力者であっても、さすがに三対一では分が悪いだろうし。行き先もろくも分からない大輔を先に行かせてわざわざ有利の度合いを削るなら、ここで成瀬の動きを三人がかりで封じてから進んだほうがいいのではないか。

 頭に閃いた事を言いさしかけて、でも、と寸前のところで喉の奥に押しやった。——麻耶が信じられないなら先へは行くな、とさっき檜山に言ったのは、大輔自身だ。

「——、分かった」詰めた息を短く落として、大輔は応えた。


 大輔が駆け出した時、成瀬は眼差しを静かに向けただけだった。慌てる事はもちろん、引き止める素振りもないまま大輔の姿が通路の奥へと消えていくのを眺め、靴音が聞こえなくなってようやく、麻耶と檜山に目を戻した。「彼を先に行かせたのは、女性である君達が地下通路を歩くよりも目立たないと踏んだからかな? いい考え方だね、半年前から仲間が結構増えたおかげで私でも、組織のメンバーの顔を全員把握仕切れている自信がないんだ。彼なら確かに、通路を歩き回ってても呼び止められる心配はないだろう」

 不法侵入者が野放しになる事にまったくといっていいほど危機感を覚えていない口調だった。そして同じく、招かれざる客でしかない彼女らに率直な疑問符をつけて、首を傾げた。「けれど、一体どうやってあの隠し階段の事を知ったんだい? 高柳は階段の事は知っていても、敷地内のどこに隠されているかまではまったく知らなかったと思うんだけどね」

「さあ、情報はどこからでも漏れるものだもの」と、応えたのは麻耶だった。身構え一つなく悠長に口を開いた彼女の斜め後ろで、毛を逆立てた猫ぐらいに分かりやすい警戒心で檜山は成瀬を睨みつけている。

 その眼差しに頓着せず、成瀬は肩をすくめた。「模擬魔術事件の後の家宅捜索でも、この通路は発見されなかったんだよ。君達に情報を流した人間がいるとしか思えないんだが、教えてくれる気はないのかな?」

「そんな人間はどこにもいないわ。安心してくれて構わないけど」

 あえて言うならその人間は“未来の麻耶自身”という事になるのだけれど。

「そうか、」と呟いた成瀬は事実とは程遠い場所で自分なりに納得したのか、顎を引いて頷くと、改めて麻耶達に視線を置いた。「さて、ここまで来た理由は恐らく、大樹君の事なんだろうが。能力者しかいないこの場所にわざわざ乗り込んでくるなんて、随分度胸のあるお嬢さんがただ。正直、監視カメラで君達の事を見つけた時は目を疑ったよ」

 檜山の目が小さく揺れて、麻耶の背を撫でた。監視カメラに気づいていたの? と言葉なく訊ねてくる。

「じゃあどうして、ここに降りてくるまで放置してくれたの?」と、麻耶は世間話でもするように首を傾げた。「さすがに、ここを知られるのはまずいんじゃないの?」

「まずいね」本気とも冗談ともつかない言い方をして、成瀬は目を檜山の後ろにある階段の入り口扉へとやった。「だから君達が降りてきた階段の部屋の入り口はもう、数人でかためさせてもらった。いくら度胸があっても能力者相手に勝てるとは思わないだろう? だから私は言わば、交渉役というものだよ。君達が交渉に応じてくれれば、何も酷い事はしないつもりだ」

「大樹をあんな風に誘拐しておいて、よく言うわ」呻くように檜山が言う。

 扉から檜山へ、視線を移してから成瀬は苦笑いを浮かべた。「あの時は、大樹が必要だと思っていたからね。あの子の意思に関係なく、私があの子を必要としていたから連れてきたんだ。説明ぐらいはすべきとも思ったが、そんな悠長な時間を、高柳の手下である君がくれるとは思わなかったから仕方なく、実力行使をしたまでだよ、」そこでふと言葉を途切れさせ、表情を翳らせた。「まさかそれ自体、高柳の仕組んだ事だったとは、計算外だったがよ」

 最後の言葉を苦々しげに呟いて、成瀬は大輔が走り去っていった通路を見遣った。そうしてからまるで、そこから神々しいばかりの光が射し込んでいるかのように、眩しげに、けれどどこか愛しげに目を眇めた。「しかし、失敗したにも関わらず彼はここに来た。彼を、大輔を心底必要としている私達のもとに。まるで誰かに導かれているようじゃないか」

 成瀬はさっきと同様に一人で納得して頷くと、二人に向き合った。

「もうすぐ、世間でいうところの“初代の魔女”が目を覚ますんだよ。そうすれば我々は、二十二年前に失敗した決起をやり直す。あの時はリーダーである彼女自身が真っ先に捕まってしまって果たせなかったけどね、あの頃よりは私は大人になった。決起するメンバーも増えた。何より半年前の模擬魔術事件での結果で、現政府の能力者に対する弱腰は明白だ」そこまで告げた成瀬の唇の端が、嘲笑を込めて引き上げられた。「我々の力に対抗出来るのは精々、この国では自衛隊ぐらいなものだろう。しかし、政府は自衛隊に出動要請など絶対にかけない。だとしたら、当座の敵は警察……、それも対魔術課の者達だけになるだろうが、問題はない」

 檜山は眉をひそめた。「何が問題ないのよ、対魔術課の実力を知らないわけじゃないでしょ」

 さすがに能力者のクーデターまがいの決起まで想定されてはいないが、元々、能力者の犯罪、模擬魔術を使った犯罪に対処するために作られた部署だ。ただ能力を持っているだけで使った事のない能力者よりははるかに実戦経験を積んだ者が配属されている——……、傍で聞いている麻耶にも分かるぐらいに語尾がかすかに震えたのは、檜山がこの時、麻耶が車内で語った未来の話を思い出していたからだった。

 唇を歪ませたまま成瀬が続けた言葉は、まさしくその未来そのものだった。

「我々が決起をした時点で、一般人は能力者を信じなくなる。半年前の模擬魔術事件でさえ、一般人の不信感を買うのに役立ったんだ。本格的に敵対すれば、「やはり能力者と自分達は相容れない」と思うだろう。そして、自分達を守ろうとする対魔術課の能力者達も同様に敵だと考えるようになるさ。それに中には、我々と交渉しようとする者達も現れる。彼らに、対魔術課の能力者達を殺せといえば、きっと殺してくれるだろう」

「つまり、」と、成瀬の言葉の続きを引き継ぐように口を開いた麻耶の声は、ひどく淡々としていた。「どの道、能力者じゃない人間には今後あまりいい世の中じゃなくなるから、今のうちに貴方達のいう事を聞いておくほうが得だよ、って言いたいの?」

「女性を傷つけるつもりは、最初からないんだよ」成瀬は浮かべていた嘲笑を消した。「女性は子供を産んでくれる存在だからね。我々能力者の間で唯一欠けているのが、後世に能力を持った子供を確実に残す方法なんだよ。能力が発現する遺伝子は、基本男子にしか現れない——、例外だった彼女はもう子供が産めない体になっているし、彼女の子供は全員がどういうわけか男だったから」

 鋭く、檜山が息を詰めた。そうして悲鳴じみた声を張り上げた。「ッ、私達に好きでもない能力者の子供を妊娠しろっていうのッ!」

 成瀬は心外そうに首を振ってから顔をしかめた。「さすがに、そこまで非道な事を言うつもりはないよ。たまたま能力者を好いたなら、普通に子供を作ればいい。それが無理なら、卵子を提供してくれるだけでいい。幸いな事にこの地下には、体外受精から代理出産まで、妊娠に関わるありとあらゆる施設が研究所当時のままに残っていてね、望まぬ妊娠を強いるつもりはないんだ」

「冗談じゃ、ッ!」ないわ。とでも叫ぼうとした檜山の声を遮ったのは、麻耶の静かな所作だった。そっと手を身を乗り出しかけた檜山の前に伸ばして、その動きを制した彼女は、何かを見透かすように目を細めて成瀬を見た。

「貴方はそれを、私達に対する誠意だと思うのね」

 問いかけに、成瀬は頷いた。当然の事を当然に言っている、戸惑いなどあるはずもないと体全部で肯定する。「今のところは。しかし、決起に成功し、我々がこの国を支配できる立場になれば、それは義務になるよ」

「——……、つまり、貴方の妹に研究者達がしてきた事と同じ事を、貴方は他の女達にしようとするわけね?」対する麻耶の声音は変わらない。成瀬のそれに多少なりとも憤っていいだろうに、その素振りさえ見せない言い方で成瀬に問いかけていた。その質問の意味を掴みかねた様子で成瀬が首を傾げるのにも構うつもりはないようだった。

「卵子を提供するだけなら誠意? だったら、その提供された卵子と貴方達能力者の精子で出来た子供が能力を持っていない男子だったら、貴方はどうするのかしら? 価値のないものだって殺すの? 能力者の国では、力を持たない男子なんて必要ないものね。——……、貴方はきっとなんの躊躇いもなく殺すでしょう。失敗作だった、能力を百パーセント引き継ぐ方法はないものだろうか、とか言って。そのやり方は、研究所にいた研究者達と同じじゃない」

 断言して、麻耶は唇を噤む。

 そうして出来た沈黙の最後で、途端、成瀬の顔から怪訝そうな色が音を立てる勢いですべて剥がれ落ちた。その次の瞬間に、頬に留まらず耳の端までを瞬く間に染め上げた真っ赤な色は、怒りそのものだった。ここに来て、麻耶達と対峙してからはじめて、成瀬が露骨なほどにはっきりと見せた激情だった。

 それほどに、麻耶の言葉は的確に、成瀬の弱い部分を抉ったのだろう。

 けれどその激情を成瀬は麻耶達にぶちまける事は出来なかった。成瀬が思わず、といった様子で口を開きかけたところで、その出だしを踏み潰す騒々しさで靴音が、成瀬が背にしている通路から響いてきたからだった。現れたのは学生然とした、檜山には見覚えのある青年だった。

「な、成瀬さんッ!」と、酸欠で喘ぐように彼は上擦った声で叫んだ。「べ、別の隠し階段から、ひッ、人が侵入、してきっ、きたって連絡があったんですッ! 数人が対処しに行ったんですけどッ、だ、誰からも連絡がッ、返ってこなくて! 改めて確認しに行ったら、みんなッ、通路に気を失って倒れてッ、ました!」

 成瀬の見開かれた眼から、ふっと火が消えるように怒りの温度がなくなるのを檜山は見た。まさしく冷や水を頭から浴びせられたかのように我に返った成瀬は眼を落ち着きなく二度三度瞬かせて、青年を見た。「、なんだって?」

「い、一番警備が、手薄だった場所ですッ! ち、近くに設置し、してる監視カメラにはぜ、全然映ってませんでしたッ。細工されていたみたいでッ、恐らく今から十分ほど前に侵入してきたんだとッ!」

 その時だった。今までずっと成瀬と対峙してきた麻耶が、くるりと檜山に向き直ったのは。

 言葉はなかった。ただ、この事態が逃げるチャンスなのだとは、即座につかまれた手首と目配り一つだけで麻耶が駆け出そうとするので分かった。路地で佐伯大輔に同じように手首を捕まれて、突然現れた車に向かって逃げ出した時と大差ない。ただ、檜山は小さな抵抗もせず、麻耶に従った。従うのが一番いい、とこの時なぜかはっきりと自覚していたのだ。

 ——このタイミングで、他の出入り口から侵入者だなんて、それこそ偶然のはずがない。

 敷地内に入る前に麻耶が、何処かに電話していたのを思い出す。

 ふたりの唐突な行動に、虚を突かれた成瀬と青年が、唖然とした顔をしていた。

 けれどその顔も、麻耶に腕を引っ張られるまま、通路に飛び込むと壁で遮られ、見えなくなった。大輔が走り去った左側の通路とは正反対になる右側の通路を、能力者しかいないこの場所では異物でしかない彼女達はとにかくひた走る事になった。


   * * *


 その頃大輔は——……、ありていにいえば、迷子になっていた。

 ただ普通の迷子よりも性質が悪いのは、目的地こそあれ、それがどんな形なのかさっぱり分からない事と、迷子だからといって通り過ぎる誰かを捕まえて道を聞けない事である。道も悪い、地下通路という性質上なのか、右も左も変わり映えのない通路が延々と続いているだけだ。一本道ならまだいいのだけれど、時たま分かれ道が現れる。一つ一つをしらみつぶしにあたっていくとしても、全体的な地下通路の構図が分からなければどうしようもなかった。新しい道を歩いているようで、実はもう通った道を歩いているのか。その逆なのか。

 そんな事を思いつつ、壁に目印になりそうな染みや跡がないか探す大輔の耳に、近づいてくる足音が聞こえてきた。

 慌てる気もなく目だけをそっちへやると、通路の角からやってきたのは、見知らぬ男だった。男のほうも大輔へ一瞥くれただけで視線をすぐ前へと戻して、通り過ぎていく。そこにごく当たり前にあるものをなんとなく見ただけ、といった様子だった。——靴音や人の気配に動揺して隠れていたのは、一人になってからしばらくの間だけだった。さほど扉もない通路では隠れようとあわふたするほうが余計に目立つ、と腹を括って堂々と相手が通り過ぎるのを待つのようになってから、気づいた事がある。

 どうやら、能力者解放戦線には新参者が多いらしい。

 精々向けられるのは一瞥ぐらいで、どこの誰だと呼び止められる様子はない。あわふたしていた時は逆に、どこに行くのかと聞かれたほどだ。さすがに成瀬が誘拐まがいの方法で連れてきた大樹の居場所を聞くわけにはいかなかったので、トイレを探していると適当に答えたものの、親切に連れて行ってもらった時は素直に、「ありがとうございます」と頭を下げていた。

「いやいや。困った時はお互い様だよ」と微笑んで去っていった男はいかにもな好青年だった。とりあえず、人の大事な弟を目の前で誘拐するような人間達の仲間であるとは思えない。

 能力者解放戦線が信頼を失っている、というのは一般人からの信頼という意味であって、そこには能力者は含まれていないのかもしれない。と、大輔は思った。むしろ、能力者解放戦線の暴挙に能力者全体への不信感を根強くさせつつある一般人の蔑視や度の過ぎた冷遇から逃げるために、能力者は自然とここに集まってきているのかもしれない。過激思想を持つ幹部達の独断で事件は起こった、というのが能力者解放戦線の主張であるから、事件を皮切りにした世間の風潮の変化に耐え切れずにやってくる能力者達にしてみれば、悪い思想を持った者達はみんな逮捕されたのだし大丈夫だ、とか思っている可能性もある。

 けれど麻耶が語った未来では、そんな彼らが初代の魔女の名の下に決起して、人口の大半を占める一般人達を支配するのだ。

 何がそこで燃えて出来たのか、壁の黒んだ染みを撫でて、大輔はふと胸の奥に軋むような痛みを覚えて顔をしかめた。

 その時、再び聞こえてきた靴音は、今までの淡々と通路を歩いていくそれとは違って、少し慌しげに近づいてきた。染みから手を離して何気なくそっちへ眼をやった大輔は束の間、致命的に自分が不法侵入者であることを忘れていた。思い出したのは、駆けてきた男が見知った人物であり、息も絶え絶えに大輔の目の前で靴底を甲高く鳴らしながら止まった時だった。

 眼を見開く。「、あ」と、後悔するにはちょっと遅い。

 男は、背広を着ていた。見慣れた、地味な色のやつだ。これで会うのは五度目だった。

 刹那、大輔の頭の中で、前かがみになった背を大きく上下させて呼吸を整えている背広姿の男をすぐさま殴り飛ばして気絶させるか、あるいは彼が顔を上げる前に自分が踵を翻して走り出すか、ふたつが選択肢として浮かんだ。けれどどちらを選ぶよりも先に、男が深呼吸した息を吐き出す声で叫んだ。

「さ、探しましたッ!」その声で、大輔の頭の中の二つの選択肢は両方消えうせる。

 大輔は、見開いたままの眼を瞬かせる。男の声は、まるで道に迷った賓客を必死になって探し回った末にようやく見つけて安堵しているような、怒りや敵意とは程遠いところにあった。不法侵入者に対して向けるべき感情は何一つ含まれていないから、思わず声をかけられたこっちが不安になってしまう。

「は?」と、聞き返すと、男は顔を上げた。頬がまだ紅潮していたけれど、全力疾走した名残というわけではないようだった。

「大輔さん、リーダーがお待ちです」どうにか厳かに言おうとしているのだろうけれど、男の声音は何処か熱を帯びていた。ぬるりと水気を帯びた眼球がまっすぐに大輔を見つめている。「私はお部屋までお連れするようにと命じられまして、探し回っていた次第です。——、こちらです」

 背広姿の男は真っ直ぐに揃えた右手の五指で、自分が走ってきた方向を示してから踵を翻した。その慇懃な物腰は深読みするのが馬鹿馬鹿しくなりそうなほどに丁寧で、向けられた背は大輔が危害を加えるとはこれっぽっちも思っていない無防備さだった。このまま一目散に大輔が逃げ出しても、すぐさま追いかけてはこれないような気がした——……、ついてくるはずだ、と確信しているように思えたから。

 素直についていく理由は、こっちにはまったくないけれど、

 大輔は男の隙だらけな背後から、肘の内側を男の喉仏にひっかけて、締め付けた。声というよりは潰れた音が男の半分開いた口から漏れる。条件反射に首にまきつく大輔の腕を引き剥がそうと持ち上がった男の手がふいに止まったのは、大輔が突き出した人差し指を男の背中、心臓の真上へと押し付けた時だった。

「能力者でも、心臓を撃ち抜かれれば死ぬだろう?」子供騙しもいいところだ。けれど、首を絞められ、自身の背に押し付けられた指先を見れない男からすれば、嘘だと判断するのにも勇気がいる。喉が大きく上下に動くのを、皮膚で感じながら大輔は口を開いた。今まではただの新参者として、通り過ぎる人間はみんな気にしていなかったようだけれど、さすがにこんな状況に出くわして、素知らぬ顔で通り過ぎる人間はいないだろうから、率直かつ簡潔な質問だった。「お前達が路地で誘拐した、佐伯大樹はどこにいる?」

「ッ、は、お、佐伯大樹ッ?」一つ一つの単語を、まるで溺れている人間がどうにか叫んでいる調子で問いかけてくる男に、大輔は少しだけ肘の力を弱めた。代わりにもっと強く、人差し指を押し付ける。「この地下施設の何処かにいるんだろう? 案内するなら殺したりはしない。それとも、どこにいるのか分からないのか? 誰だったら居場所を知ってる?」瞬間、脳裏に成瀬の姿が過ぎったけれど、首を軽く振って否定した。

 男は黙り込み、しばらくしてからおずおずと口を開いた。

「そ、その人なら、リーダーの部屋に連れていったはずです、」多少は空気の出入り口を確保できたようで、出てきた声はさっきよりも落ち着いていた。ただ、いきなり背後から首を絞めてきた大輔に対していまだ、慇懃な言葉遣いをやめようとしていない。

「——……、俺を待ってる奴だよな?」そこに大樹も連れて行かれた。そもそも不法侵入であるはずの大輔を待っている、という時点からしておかしいのだけれど。「どうして、お前達のリーダーに大樹を連れて行ったり、俺を待っていたりするんだ」

 我々は君を歓迎するよ。——、ふと、耳の奥で再生された声を聞いた。

「ここのリーダーは、成瀬か」呟きながら、だったら納得できる、と大輔は思った。あの路地での騒動の最中に成瀬が大輔に言っていた言葉の数々はどれも、敵対する相手へのそれではなかった。

 男が首を横に振る。といっても首の動き自体は大輔の腕が邪魔しているので、中途半端なものであったけれど。「な、成瀬さんは、違います。あの人は以前までは確かに、リーダーでしたけど。半年前にむ、息子さんが見つかってからは、組織の事は全部息子さんに任せてますからッ、い、今は組織運営の相談役という感じで、」

「じゃあ親子揃って、俺達双子になんの用だ?」

 また中途半端に男は首を横に振った。そんな事を自分に聞かれても困る、と言いたげだった。「それは、リーダーに直接聞いてください。わ、私は道に迷っているようだから、迎えに行ってやってくれと頼まれただけなので、」

 いわば、この男は中間管理職みたいなものだろう。演説の時のように若手を仕切る事もあれば、こうして上からの伝言役のような事もする。経験上、こういった手合いは必要最低限の情報を持っているかいないか、そのどちらかだ。

 束の間考えて、大輔は男の首から腕をはずした。男は大輔から逃げ出すように、二、三歩、歩いてから立ち止まり、おそるおそる振り返ってくる。

「いきなり首を絞めて悪かった」一応謝罪してから、本題に入る。「じゃあ、案内してくれ。大樹がいるところに俺を連れて行ってくれるんだろう?」

「……、はい」頷き、男はちらりと大輔の両手に眼をやってから、前に向き直って歩き出した。さっきの無防備さよりは幾分か肩に力が篭っているように見えるのは、大輔が拳銃を隠し持っていると勘違いしているからだろう。

 本当は何一つ、武器なんて持っていなかった。車内で麻耶に、「さすがに煙幕ぐらいは持っていったほうがよくないか?」と質問したけれど、麻耶が首を横に振ったのだ。彼女が言うのには、「物騒なものを持っていったほうが余計に問題が大きくなる」という事らしい。

 男の案内は数分程度で終わった。途中、すれ違った何人かの人間に丁寧に頭を下げられたり、道を譲られたりしながら、男が立ち止まった先は、迷路のように広がっている気がしていた通路の行き止まりであった。今までの、通路の途中にあった質素なステンレス製の扉と趣の違う、木製の扉がそこにはめ込まれていた。特に装飾が施されているわけでもない、質素な点ではステンレスの扉とあまり変わらなかったけれど、無愛想なコンクリートの灰色や何かが焦げ付いた跡としての黒が延々と続いた先にある、木目の優しい茶色には、ほっと体の力が抜けるような安堵感があった。

 男がゆっくりと扉のノブに手を伸ばす。カチャリ、とやけに大きな音を鳴らして、扉が開いた。

 部屋の光景よりも何よりもまず、こちらに背を向けて木製の椅子に座っている背中が、大輔の眼に飛び込んでくる。それが誰なのか、理解するのと同時だった。「大樹ッ!」叫んで、部屋の入り口に立つ男を半ば押しのけて、足を踏み入れた。

 声に、思わず、といった様子で肩を飛び上がらせると、大樹は椅子が押し倒される勢いで立ち上がり振り返った。見開かれた眼の中に、大輔は自分の顔が映っているのを見た。人ごみではぐれてしまった兄弟に良く会えたと喜んでいる幼い子供のような顔をしていた。——けれど、そんな大輔の喜びを映している大樹の目自体は、駆け寄ってきた大輔を認めた瞬間、険しく細められていた。

「大輔、お前どうしてこんなところにいるんだよ、」苛立ちさえこもっていそうな言い方だった。

 予想していなかった反応である。「どうしてって、」大輔は一瞬、言葉が詰まるのを自覚した。助けに来てくれたのか、ありがとう。なんて言葉を殊更期待していたわけではないけれどあからさまに、大輔がここにいる事に動揺よりもまず、嫌悪感を向けてきたのに少なからず困惑したのだ。「お前が目の前で誘拐されたから、助けに来たんじゃないか。他に理由なんてない」

 大樹が眉間に皺を寄せた。「薫は逃げろって言ったよな? ここまで誰が、お前を連れてきたんだよ」

 質問にすぐに口を開かず、大輔は一歩下がると大樹の頭から足先までゆっくりと視線を動かした。服は路地で成瀬に誘拐された時のままで、特に怪我をしている様子もなかった。その事を一回二回と視線を往復させて納得してから、応えた。「ここまで俺を連れてきてくれたのは、麻耶だ。檜山も一緒だけどな。途中で別れた」

「麻耶?」どうしてここでその人物の名前が出てくるんだ、と言いたげな聞き返し方である。

 けれどまさか、未来の事が分かるから初代の魔女を殺しに来た。と言えるはずもない、「さあな、」強引にお茶を濁して、大樹へと視線を置いた。「どっちにしてもここまできて、通路で迷子になっているところをそいつに案内されてこの部屋まで来たんだよ。リーダーが呼んでいる、っていわれてな」

 しかし、部屋には大樹以外いないようだった。部屋に踏み入った時よりは幾分か落ち着いた心持ちで室内を見回すと、部屋はいわゆる、キッチンもトイレもないフローロングのワンルームマンションの一室といった感じに近いのが分かった。これで窓があれば完璧だけれど、そのあたりはここが地下通路の行き止まりである事を思い出させるように、四方ともクリーム色の壁である。その壁の一つに、一辺二十センチ大程度の正方形の穴が開いていて金網が被さっていた。恐らくは通気口だろう。

 家具の類は、大樹が座っていた椅子と同じデザインのものがあと四脚、それらとセットらしい木製のテーブルが一つ、それだけだ。なのでこの部屋が普段、どんな用途で使われているのか、大輔には判断する材料がまるでなかった。応接間と呼ぶには、椅子もテーブルもあまりにさっぱりとした素朴なデザイン過ぎるし、誰かの私室であるなら、その人物は一切私物を持っていない事になる。

 ぐるりと室内を見回した大輔の目が最後に止まったのは、通気口近くの、カーテンで覆われた一角だった。大部屋の病室に設置されているような、カーテンレールが天井に取り付けられていて、そこから床をこするほどの長いカーテンが垂れ下がっていた。壁の色よりも若干濃い色は、カーテンの内側に何があるのかを完全に隠している。

 眼を大樹に戻して、大輔は首を傾げた。「リーダーって奴には会ったのか?」

 少しばかり間をあけて、「、ああ」少し歯切れの悪い声で大樹は応えた。どんな奴だった? と続けて問いかけようとしたところで、「——……、二人とも立って話すのも疲れるだろう? 椅子は人数分ちゃんとあるんだから、座って話をすればいいよ」その声は部屋の入り口のほうから聞こえてきた。苦笑いを含んだ、親しげな声だった。

 眼を見開いて大輔が振り向いたのは、声が聞こえるまで入り口に気配を感じなかった事に驚いたからではない。聞こえてきた声が確かに、鼓膜を震わせて耳から入ってきたのに気づいたからだった。頭に直接響き渡る声ではなく、大輔がいるこの部屋の空気を震わせて伝わったのだと分かったからだ。ふと、苦虫を噛み殺すような顔を大樹がするのを視界の端で見たけれど訝しむ間もなく、声の主を視界の中心に捉えた瞬間、大輔の頭の中にあったもの全部が、文字通り吹っ飛んだ。

 男とも、青年とも。どちらでも良さそうな雰囲気を彼は漂わせているけれど、年の頃は大輔と同じはずだ。両手に持っていた盆をテーブルにおくと、彼は盆の中のティーカップや、紅茶のパックらしいものが浮かんでいる耐熱ガラス製のポットやらをテーブルの上へと移していった。たちまち、午後のお茶会のような光景がテーブルの上に出来上がるのを、大輔はいまだ動き出す気配のない頭の中で不思議がった。地下通路の行き止まり、テーブルと椅子と、仕切られたカーテンしかない部屋にはとてもじゃないが、相応しい光景とは思えない。

 ましてや、それを取り囲むのが——……、「ヒロシ、?」呻くように小さく零れた声に、彼は小さく口元で笑って見せた。空になった盆をテーブルの脚に立てかけるようにして置くと、椅子に腰を下ろして上目遣いに大輔を見遣る。

「まるで幽霊か、この世には存在しないはずの人間に出くわしたような顔だね」その声は、大輔の動揺の真意をあっさりと看破していた。「でも、僕は幽霊ではないし、ちゃんとここに存在してもいるからね。そんなに信じられないなら、握手でもしてみるかい?」言って、手を差し出してくる。

 その手に視線を向ける事までは出来ても、同じように手を伸ばして握る事は大輔には出来なかった。表情を強張らせ、硬い声を押し出すようにして質問する。「、お前が、能力者解放戦線のリーダーだったのか」

「そうだよ」差し出した手をひらりと一度振ってから引っ込めると、ヒロシはポットの取っ手を掴んだ。自分の前に置いているカップへと、琥珀色のお湯を注ぎながら応えた。「半年前からね。まあ、実際のところは今でも父さんが運営や管理はやっているから、僕がしている事はここで日がな一日、母さんの相手をしているぐらいだけれど、」

 大輔は眉をひそめる。「母さん、?」何か酷く、ひっかかる言葉を聞いたような気がした。

 ポットをテーブルの上に戻し、ヒロシは首を傾げて大輔を見る。「大輔は、僕が幻の存在だと思っていたんだろう? 能力の事で学校にうまく馴染めない自分と大樹が、無意識のうちに勝手に作り上げて共有した幻。だから、僕がここにいる事に驚いた。でも、僕が君の目の前にちゃんと実在しているのを確認した今は、別の事も気になっているんじゃないのかい? 僕がいるのなら、あの人も存在しているんじゃないか、とね」ゆっくりと椅子を押して立ち上がると、ヒロシはにこやかな笑みを一度大輔へ向けてから、部屋の一部を覆い隠すカーテンのほうへ歩き出した。カーテンの端を少しめくって、中へと入っていく。

 しばらく、小さな物音がカーテン越しに響いた。やがてカーテンが、音を立てて開けられる。

 息を、大輔は呑んでいた。けれど意外なほどに、それ以上の動揺も驚きもなかった。

 現れたのは、車椅子に乗った小柄な女性だった。年の頃は三十代前後といったところだろう。赤茶けた髪を耳朶よりも少し下で切り揃えていて、清楚感漂う白いワンピースを着ている。肌はその布地の純白よりも白く、血管の青さが浮き出てて見えるほど病的に青褪めていた。陽の下に一度も出た事のない人間がいたとしれば、こんな肌の色なのかもしれない。

 眼は半眼に伏せられ、物静かに自分の膝に掛けられた赤と緑のチェック柄の布地を見つめている。いや、ただ視線がそこにある、というだけで彼女がそれを見ているかは分からないかった。少しだけ顔が俯き加減になっているから、視線が下を向いているだけで。恐らく、大輔へ真っ直ぐに顔が向いていたとしても、視線がかち合う事はないように思えた。

 生きている人間には違いないのだ、ゆったりとしたリズムで胸元が上下している。けれど一方で、肌の材質からすべてにこだわって作られた等身大の人形なのだと言われても、納得してしまいそうだった。つまりそれだけ、車椅子に乗っている彼女は人の形こそしているけれど、中身は綿でも詰まっているかのようだったのだ。

 その眼が真っ直ぐに大輔を見据えていた時があったのを、忘れてしまいそうなぐらい。

 車椅子の両輪がゆっくりとフローリングの床を軋ませながら近づいてくる。車椅子を押しながら、ヒロシは大輔と大樹を交互に見遣った。「この人が僕達の、母さんだ。分かるだろう? 僕達をいつも、見守ってくれていた人だよ」

 言われなくても、ふと誰かに診られていると思って振り返れば、この人はいつも後ろにいた。

 けれど、大輔は首を横に振っていた。「——……、おかしいだろ。俺達は今年で22歳だ。この人はどう見たって三十過ぎているかいないかぐらいだ。俺達の母親のわけがない。それに、今の言い方じゃまるで、」僕達、に含まれるのが誰なのかは、考えるまでもない。この車椅子の女性を見てきた、ここにいる三人だ。困惑で言葉が中途半端に途切れた、そのまま黙り込んでしまった大輔にヒロシは首を傾げる。

「大輔は、何の繋がりも持っていない赤の他人同士が、物心つく前からテレパシーのようなもので結びついていたなんて思うかい? 君達を育てた佐伯家の人達が、実の親でないことぐらいは知っているんだろう? だったら、何を怖がる必要があるんだい?」

 現実を受け入れろ、と迫ってくる声だった。「血が、僕らを結び付けていた。母と、僕と、君達双子を。だから僕達以外の誰にも、母の姿は見えなかったし、電話でもするみたいに心の中で会話できたのは、僕と君達だけだったんだ」

「俺はこの半年間、この人の姿を見ていないし、お前の声も聞いていないけどな」血で結びついているというならば、能力と共に消え去ったのはどう説明がつくというのか。

 半ば、難癖をつけている気分だった。ヒロシの言う事にも一理ある、と思いながらも大輔はそっと傍らの大樹へ眼をやった。

 動揺の一片さえ、弟の表情から見つけ出す事は出来なかった。大樹の横顔は車椅子の女性へと注がれていたけれど、いきなり「この人が母親だ」と告げられて困惑している様子もなかった。あらかじめ全部を知っていて、それを再確認した過ぎないような、淡々とした表情だった。

 初代の魔女の秘密、車内で麻耶が言っていた言葉を思い出す。「——……その人が、初代の魔女か」質問すると、ヒロシは隠す必要もないと言いたげにあっさりと頷いた。

「その通り。ただ、魔女というのは当時の研究所の人間が使っていた記号みたいなものだから、あまり好きじゃないけどね」言って、肩をすくめる。「でも、それで分かるだろう? 能力者同士に血縁関係があっても、今までテレパシーのようなものが確認されたという話は聞いた事がない。でも、女性としてはじめて能力の発現が認められたこの人の血を引いているのが条件なら、前例がないのは当たり前だし、生みの親の事を育ての親が語りたがらないのも当然だ」

 ——研究者にとってみれば、女性の能力者がいない以上は調べようのない事だったから、興味は尽きなかっただろうな。魔女は幼くして遺伝子上の母親になった。さすがに母胎は既婚者の研究員の子宮を使ったらしいが。

 高柳の言葉が脳裏に、まるで暗闇で閃いた光のように浮かび上がった。

 兄である、ようするに育ての親である佐伯夫妻の実子になる大智は今年で二十四歳だ。研究所が火災からはじまる諸々の事で閉鎖になったのが二十二年前、家にある家族のアルバムには当たり前のように生まれてからこれまでの兄の写真があったから気にしていなかったけれど、能力者が生まれたら研究所に預ける、という風潮が強かったらしい当時にどうやって兄を出産し、研究所が閉鎖になるまで育ててきたのかは——、気になるところである。

 ふたりとも、あるいは片方が研究員だったとすれば。研究所の、世間では暴かれていない本質を知っていたからこそ、我が子を預けなかったとしたら。

 考えに没頭しはじめる意識を引き止めたのは、ふと感じた視線だった。顔を上げ、眼がかち合う。

 一瞬、呼吸が止まったと思った。向けられた眼差しにそれだけの強さはまったくなかったのに、ただ眼が合っただけで心底自分が動揺したのを大輔は自覚した。

「母さん、」と、ヒロシが車椅子の傍で膝を折る。呼びかけたその声に、大輔へと優しげな眼差しを向けていた彼女は殊更ゆっくりとした仕草で首を捻って、ヒロシへと眼を向けた。カーテンから出てきた時と変わらない、一見すると人形にも見えていた姿が今ははっきりと、人の姿として機能していた。「……、ヒロシ? ここに、いるのは大輔……、よね? その隣にいるのは、大樹、だわ」夢心地で語るような声は若干呂律が回っていない、子供のようなたどたどしさがあった。

 隣に立つ大樹の体が、ぶるり、と震えたようだった。気配として伝わってきたそれに振り向くと、車椅子の彼女を見遣っている弟の表情はただただ無表情に硬く強張っていた、喜びや驚きはまるでなく、青褪めた唇を噛み締めている。

 そんな大樹とは対照的な柔らかな眼を、彼女はしていた。「今日は、みんないるのね。……、あら、でも、兄さんはいないのね。兄さんがいたら、このテーブルの椅子が全部、はじめて、埋まるのにね」椅子が五脚用意されているテーブルを見遣り、少し残念そうに眉をひそめた。

「大丈夫だよ、母さん。父さんはすぐにこっちに来るから、そうすれば家族は揃うよ」慰める口調でヒロシが言うと、彼女は眼をヒロシにやってふわりと表情をほころばせた。言葉にすれば、ありがとう、と告げているような暖かい笑みだ。——けれど、それが最後だった。

「、あ」と、小さな声が無意識に大輔の口から落ちる。

 ねじ巻き式のオルゴールが止まる瞬間、のようだった。今まで当たり前に動いていたオルゴールの人形がゆっくりとぎこちなくなりはじめ、最後にはぴたりと動きを止める。彼女の笑みはゆっくりと表情から消え、最後には口元のかすかな笑みだけを残してなくなった。それさえさっき彼女自身が浮かべたもの、ではなく、最初から掘り込まれていた跡のように見えた。人形だったものが束の間人になり、また人形へと戻る。まるでそんな、おかしな夢の一幕のような。

「……意識を半分、封じられているんだよ」ヒロシはそっと立ち上がると、自分のほうを向いたまま再び動かなくなった彼女の顔の両頬に手を添えて、真正面に戻した。「半年前に僕が最初に出会った時は、言葉さえ話せない、今のような状態がずっと続いていた」

 テーブルの傍にある空の椅子を一脚だけ部屋の隅に片付け、空いた場所に彼女の車椅子を動かした。タイヤのストッパーをかけてから、傍らのさっきまで自分が座っていた椅子へと腰を下ろす。ひとつ短く息を吐き出すと、顔を持ち上げた。「二十二年前に、ここで何があったかは知っているだろう? 表向きにはただの火災って事になっているけれど、実際は研究所の非人道的な行いから能力者達を解放するための暴動だ。母は、僕らの父であり自身にとっては兄でもある成瀬修司、他にも賛同する仲間を募って、決起した。でも、失敗に終わってしまった」

 続きを話し出そうとするヒロシを咄嗟に、大輔は止めた。「ちょっと待て、——成瀬がこの人の兄、っていうのはどういう事だ?」

「驚く事でもないだろう?」聞き返すようにして肩をすくめたヒロシの口振りは、まったく物事を理解していない大輔に呆れているようにも、一方で同情しているふうにも聞こえた。「研究所は、まだ十歳にもなっていない女の子の体から卵巣を取り出して成熟させ、受精卵を別の女性の母胎に植えつけて代理出産させ、その子供らを実験対象にしていたような場所だ。兄の精子と妹の卵子を交配させたらどうなるか、思いついたけれど人道的に出来ない——、なんて思いとどまると思うかい?」

 皮肉を込められた問いかけに、応えられるはずもない。言葉の代わりに、ぎゅっと見えない圧力に押さえつけられたかのように胃が痛んで、今にも吐き出しそうな気持ち悪い感覚が食道をせりあがってくるのを感じた。眉をひそめ、唾を何度も飲み込んだ。教科書に載っていたあの白黒写真が、脳裏にちらつく。

 体の芯から、ゆっくりと温度が下がっていくようだ。奥歯を噛み締めなければ、今にもガチガチと音を鳴らして、震えだしてしまいそうな。

 大輔が言葉を詰まらせたのを肯定と受け取ったらしいヒロシは再び、口を開いた。

「話を戻そうか。——……、決起に失敗した母さんは捕まり、意識を封印された。研究者達は、暴動の首謀者の一人だったこの人を殺す事はしなかった。現在発見さている中で唯一の女性能力者だ。まだまだ研究したい事が山のようにある。だから脳の中に意識を封じ込める模擬魔術を施して、それを解除するための対となる模擬魔術を、当時はまだ代理母の腹の中にいた僕達の頭の中に刷り込んだんだ」言って、人差し指をこめかみに添えた。トントン、と指の腹で叩いてみせる。「そして、代理母のふたりは研究所から逃げた。——、いや、父さん達から逃げ、身を隠した。それを父さんはずっと探し続け、半年前にようやく僕を見つけた」

 そこで一度言葉を切ると、ヒロシはそっと唇の端をゆるめた。昔の事を懐かしく思い浮かべているうちにほころんだ表情が笑みになったようなその顔は、今はもう人形に戻ってしまった母親がかすかに浮かべる笑みにどことこなく似ているようだった。

「僕の頭の中にあった模擬魔術で、母さんの意識を半分だけ解放した。だから今は、時々だけど目を覚まして、会話ができるようになった。——、脳に負担がかかればまた人形のようになってしまうけどね」言って上半身ごと眼差しを母へと向けたヒロシは、皺一つ出来ていない彼女のひざ掛けを丁寧に掛けなおした。「父さんは、もう半分の模擬魔術を持つ僕の兄弟を探した。見つけるのは簡単だったよ。なにせずっと僕達は、意識は繋がっていたんだから。母さんが実在していると分かったからには、君達が想像の産物だなんて思うはずもなかった。双子だったのは少しだけ困ったけど、でも、大樹が行方不明になったというのが判明して、模擬魔術を持っているのは大樹なんだろうと、父さんと話し合った」

 だから、行方不明の大樹を見つけ出すために、双子の兄である大輔を利用しようとした。盗聴器まで仕掛け、接触してきた大樹を誘拐したのだ。一方で成瀬が大輔に優しい言葉をかけていたのは、解除の模擬魔術自体は持たずとも、自分の息子だったから。

 ヒロシの唇の笑みにふと、苦々しげな色が滲んだ。「対魔術課は現政党の肝いりで出来てる。意識を封印する模擬魔術と対になる模擬魔術が実在する事も、それを初代の魔女の最後の子供達に植え付けた事も、代理母が誰であるかも、資料は全部持っているだろうと思ったよ。だから、大樹は逃げたんだと、僕と父さんは考えた。母が復活するにはまだ早い、でも研究対象としては魅力的だ。一応解除の模擬魔術を持っている人間さえ警察が確保しておけば意識を完全に復活させるタイミングは、そっちで自由に出来る。僕達に居場所を探らせないために、警察は大樹の行方を分からなくさせたんだとね」その時、声に僅かだけ呆れまじりの感嘆に似たものが混じったのを、大輔は聞き逃さなかった。

 出し抜かれた事に腹を立てながらも、拍手を送る礼儀ぐらいは忘れていない口調だった。大樹へ、向けられているものだと思っていたから、口を噤んだヒロシが視線を当たり前のように大輔へと向けてきた時には、小さく息を呑んでいた。

 ヒロシの手が不意に伸ばされ、大輔の手を掴んだ。その瞬間、触れ合った皮膚と皮膚の間をくぐもった音が小さな衝撃と一緒に駆け抜けていった。静電気のようだった。痛み、と呼ぶほどのものでもなかったけれど、ほとんど反射的に大輔はヒロシの手を振り払っていた。足が一歩、後退っていた。

「本当に模擬魔術を持っていたのは、君のほうだったんだ。大輔。今ので、分かっただろう?」振り払われた手をヒロシは引いて、笑った。「一人の人間の意識を解放する模擬魔術は本来、一つのものだ。それを研究所は警戒して、わざわざ二つに分けた。今の現象は、僕の中にある解放済みの模擬魔術が、君の中にある解放を待つ模擬魔術と反応したんだ。僕が手を貸せば、君の中の模擬魔術を解放する事が出来る。母さんの意識を取り戻せるんだ」

 さあ、と、ヒロシの手が差し出された。

 じっとその手を見つめても、大輔は掴もうとは思わなかった。無意識に距離をとろうとした足が何より、自分の本心に近い気持ちを代弁していたのだと理解した。ありていにいえば、得体の知れない恐怖だ。

「——やめろよ、ヒロシ」とこの時、さっきからまったく口を開かずにただ険しげに顔をしかめていた大樹が口を開いた。ヒロシの手から逃げて眼を向けてきた双子の兄を見遣り、そうしてから改めて、もう一人の身内を見た。「この人を復活させたいっていうのは、お前と成瀬の願いだ。俺や、大輔の願いじゃない」

 似たような事を檜山も言っていた。大樹の言葉にきょとんと眼を丸くしたヒロシは、檜山の言葉にその時成瀬が言い返した事と同じ言葉を、少しばかり困惑した口調で言った。「願いじゃない、って思っているのは、そう思わされてきたからだ。本当は願ってるはずだよ、心の底から」

 大樹は大きく頭を横に振った。「この人が復活したらお前らはまた、模擬魔術事件のような事をしでかすんだろうッ」

「当たり前だ」困惑を消し、当たり前の事として応えるヒロシの口調には硬く、容易に崩れない決心が詰まっていた。「この世の中には一般人に傷つけられている能力者がたくさんいる。生まれてきた事さえ謝りながら生きている能力者達がいる。彼らに教えないといけない、能力者は一般人に虐げられるために生まれてきたんじゃない。生きる事を誰かに許されて生きているんじゃない。僕は、彼らを救いたいんだ。だって、彼らは昔の僕自身なんだからね」

 途端、膝に力が入らなくなったのを、大輔は自覚できなかった。膝から崩れ落ちるように床に座り込んではじめて、大輔は目を見開いて床についた膝を見下ろした。けれどそれも、すぐに輪郭がぼやけ曖昧になるのに、瞼を瞬かせた。ぼとり、と不自然に重たげな音を立てて目尻から、滴る涙がそのまま床へと落ちる。その瞬間だけ明瞭になる視界はすぐさままた、涙の幕で覆われた。

 大輔はくずおれて、泣いていた。

 感情が、やけに遠い場所にあった。止め処なく溢れては落ちる涙を流し続けている体はここにあるのに、悲鳴を上げたいぐらいに悲しい気持ちは、体のどこを探してもない。

「ッ、大輔!?」慌てた大樹の声がすぐ頭の上で聞こえた気がしたけれど、顔を上げるとそこにいたのは大樹ではなく、ヒロシだった。ヒロシは何処か気の毒そうに眼を細めていて、さっき大輔が振り払った手を床についていた大輔自身の手へ重ねていた。

 痛みはなかった。代わりに伝わってくるのは人としての体温で、皮膚を通り、その下を流れる血を暖めていく。

「一般人は、そしてそれを守る警察は、本当のところは能力者の事なんてなんとも思っちゃいないんだ。対魔術課にしても、能力者の犯罪を能力者に対処させているだけで、一般人は知らぬ存ぜぬだ。でも、何か問題がおこればこれ見たことかと非難する。まるで、僕の育ての親みたいにね、」浮かべた苦笑いは、歪んでいる唇だけが笑いの形をとっていた。八の字に寄せられた眉も、細められた目も、本当は今にも泣き出してしそうに震えていた。

 ぎゅっと胸が痛くなった。遠ざけていた記憶が不意に蘇り、どうにか癒えたばかりの心のあちこちに出来たかさぶたを思うまま引き剥がしていこうとするような、痛みだった。

「僕を育てた人達は、僕の事を猫や犬のようにしか思ってなかったよ。いや、犬や猫よりも価値のないものだったかもしれない。モルモットみたいなものだったんだ。実験対象として産むつもりが、研究所があんな事になって不本意にも殺すわけにもいかなくて、義務として生かしておかなくてはいけなかった。あの人達は研究者の眼をしていた。いつか僕が役に立つだろう、って僕の生態を観察し、記録につけるのが今の自分達の役割だと思っているようだった。だから愛情なんて、感じた事はなかった。精々、児童相談所に連絡が行かない程度の世話をして、後はいつもひとりだった」

 子供の頃の記憶にあるヒロシとの会話の中で、ヒロシはいつもやたら淡々と家族の話をしていた。その時には大輔はもう、自分達が佐伯夫妻の実の子ではないと知っていたから、そういう家族に対する冷めた気持ちがヒロシの淡々とした口調に出ているのだろうと思っていた。でも事実はとても単純で、ただヒロシは本当に、分からなかったのだろう。

 心臓が脈打つリズムに、ヒロシの言葉が重なる。呼応するようなそれにようやく、大輔は理解した。

 ——止まらない涙も、息苦しいまでの胸の痛みも全部は、本来ならヒロシのものなのだろう。一つのものをわざわざ二つに分けて、ヒロシと大輔の頭の中に入れた。触れ合い反応しあうのなら、片方の感情をもう片方が自身に降りかかった事のように感じる事も、出来るのかもしれない。

「だから僕は、父さんと会った時、この人が実の親なのだと分かった。これが本当の親の温かみなんだって、理解した。母さんと初めて顔を合わせたとき、この人の笑顔が見たいと思った。君達が本当に実在して、本当に血の繋がった兄弟だと知った時は、君達をすぐに迎え入れたいと思った」

 上下した瞼に押し出されて、目尻から涙が溢れた。それが、大輔の眼窩にあった最後の一滴のようだった。顎を伝ってそれが床に落ちる時にはもう、胸を押しつぶそうとする痛みも同じく消えて失せていた。家族を知らなかった青年は、家族と出会えたのだ。涙はいらない。子供向けの童話ならばそれでハッピーエンド——……、だろうに。

 感情は相変わらず遠く、そして境目が分からなくなっている。愛されない孤独感に胸を軋ませながら泣いていたのは、半年前までのヒロシだろう。じゃあ、と大輔は言いようのない寂しさが過ぎ去った心中にゆっくりと芽吹きつつある感情に戸惑っていた。この想いのどこまでがヒロシのもので、どこからが自分なのか。——分からないにしても、この願いそのものは、ひどく当たり前のことだった。

 やっと、母さんに会えたのに。ずっと求めていた家族をようやく、見つけたのに。その笑顔が、見られないなんて。

 まるで大輔の心を見透かしたように、あるいは自分の思った事を自覚したようにヒロシが笑った。今まで見てきた笑顔の中で一番、幸せそうな笑みだった。強く手を、握り締めてきた。

「大輔。僕は母さんに会いたいんだ。笑顔が見たいんだ。分かるだろう? 君は僕の、弟なんだから」

 首がゆっくりと頷こうとするのを、大輔はまるで他人事のように感じた。境目をなくした意識の一体どちらが、大輔の体で頷こうとしているのか。その動作の合間に、頷いてはいけない、と心中で声を張り上げたのはどちらなのか。分からないまま頭を打った体は自然と、握り締めてくるヒロシの手を同じぐらいに強く、握りなおそうとしていた。

 さっきは確かに、差し伸べられた手を握ろうとするのも怖かったはずなのに。どうしてあんな恐怖を、感じてしまったのだろうか。

 ふと過ぎった疑問の答えは突然、耳を劈いた。「大輔ッ!」と、それは自分を呼ぶ声だった。

 大輔の唇は彼自身が、その声の主を理解するよりも早く動いていた。「兄、——」と、ここにいるはずのない人物の名前を呼ぼうとしていた。途中で声は立ち消えてしまったけれど、大輔は自分の声をちゃんと聞いたような気がした。兄さん、と。

 直後、それは起こった。音、というよりは、衝撃だった。まるで二つのものが一つに溶け合いそうなほど自然に重なり合っていた大輔とヒロシの手の間で、何かが弾けたのだ。低くくぐもった、重たい何かが弾け、ふたりの手を引き剥がした。静電気に似ていなくもなかったし、手のひらにうっすらと電気が走ったような感覚もあったけれど、そんな生易しい表現では物足りなかった。一言で言うなら、拒絶、だった。

「ッ!」手を跳ね上げたヒロシは、虚を突かれた、といった表情だった。条件反射のように勢いよく手を離したらしく、後ろに尻餅をついていた。大輔も似たようなものでぎょっと背をのけぞらせていて、その背が何か硬く暖かいものにぶつかった。背後に壁はない、じゃあなんだと思う前に、大輔の両肩を背後から大きな手のひらが掴んだ。

 まずその手を見遣り、眼を見開いて首を捻った。「兄さんッ!」

 佐伯大智が、そこにいた。片膝をついて、大輔の真後ろにいた。

 声には自覚するだけでも様々な気持ちがこもっていた。戸惑いや動揺や驚き、喜び、一緒くたになった声で叫んでいた。大智は一瞥でその呼び声に応えると、再び真剣な眼差しを真正面に据えた。兄の視線を追いかけるように同じく真正面を見遣ると、ヒロシが唖然とした表情で自分の手を見下ろしていた。さっきまで、大輔の手を掴んでいた手のひらだ。

「どうして?」訳が分からない、と言葉も態度も何もかもが、そう呟いている。ゆっくりと手のひらに爪を立てるように拳を作ると、顔を上げて大輔を見た。「どうしてなんだ、大輔。君だって、母さんの笑顔が見たいだろう? 母さんに会いたいだろう? なぜ、力を貸してくれないんだ。僕と同じ気持ちのはずなのに」今にも泣き出しそうに顔をゆがめる。

 さっきあのまま、手を握り返していたら——ヒロシの解放された模擬魔術を経由して、大輔の中にある模擬魔術も解放されていたのだろう。あのまま、ヒロシの悲しみを自分の悲しみだと嘆き、ヒロシの願いを自分の願いだと体が思い込んでしまっていたのなら。

 大輔の手のひらにはまだ衝撃の名残が、残っていた。低温火傷のような、鋭くも激しくもない代わりにじわりじわりと骨にまで伝わっていきそうな痛みだった。大輔はその痛みをそっと手のひらでくるむように握り締めて、首を横に振った。これが迷う事のない、大輔自身の答えだった。

「ヒロシ。俺は、……俺も、大樹と同じだ。初代の魔女を復活させるわけにはいかない」この人、でも、母、でもなく、“初代の魔女”と呼び慣れた呼称で断言する。

 大きくヒロシの肩が揺れた。ただ悲しげだった表情に途端、剣呑の皺が浮かぶ。「どうしてだ。母さんが意識を完全に取り戻すにはどうしたって、君の力が必要なんだ。君が手を貸してくれなければ、母さんは永遠にこのままなんだよ。永遠に家族を取り戻せないんだ」

 痛いほどに、ヒロシの思いは伝わってくる。ヒロシとの境目をなくしていた時に直接流れ込んできた感情は今もなお、大輔の中にあった。ただ違うのは、それを自分自身の気持ちだとはまったく感じていない事だった。だから大輔は首を再び、横に振った。

「でも、復活させるわけにはいかない。俺は、兄さんを殺したくない」

「なに言ってるんだ、大輔」ヒロシの口調は半ば戸惑うように揺れた。「血の繋がった兄弟は、僕と大樹だけだろう? 他の兄弟達はみんな、研究所の実験対象として死んでいったんだ。母さんと父さんの子供は、僕達だけだ」

 血の繋がった兄弟の言葉を、大輔はまた首を振って否定した。「俺には、育ててくれた父さんと母さんも、兄さんも、家族だ」だから駄目なのだ。そしてそう思う事が、ヒロシと自分の考えや想いの決定的で致命的な違いなのだと分かっている。

 ヒロシには、理解できない。育ての親に「研究者の目」しか向けられてこなかったヒロシには悲しいぐらいに、血の繋がらない親や兄を思う大輔の気持ちは伝わらない。だから、ふいに耳に大智の声が飛び込んできた時に、混ざり合っていた二人の意識は乖離するしかなかったのだ。大輔が呟いた、「兄さん」という言葉に自然と込められた思いを、ヒロシが理解できなかったから。能力者として生まれた孤独や悲しみや痛みの記憶を共有する事は出来ても、暖かな家族の記憶を共に抱く事は出来なかったから。

 血の繋がらない家族を思う気持ちが、血の繋がった家族の復活を拒絶した。

「また暴動が起これば、一般人と能力者の溝は決定的なものになるんだろう。どっちが勝っても、俺達家族は不幸になる。兄さんはきっと、警察官として負けたほうを助けようとするだろう。それで……、死んでしまうかもしれない」麻耶が語った未来では、そうなったのだろう。今大輔の背を支えてくれているこの人は、死んでしまったのだろう。

 信じられないとばかりにヒロシは声を荒げた。「でもこの男はッ、君に大樹の事を隠していたんだぞッ。母さんの封印の事を知っていて、その模擬魔術の入れ物が君である事も知っていたはずだッ! でもすべてを君に隠し、君を偽り続けたッ! 君が大樹の事を案じている間も、隠し続けた。それは大輔、君を信じていなかったからじゃないのかッ? 母さんの封印の事や君自身の秘密の事を君が知れば、封印を解きたがるかもしれないと、疑ったから話さなかったんじゃないのか!」

 投げつけられた言葉に一瞬、大輔は面食らって息を呑んだものの、成瀬が仕掛けた盗聴器の事を思い出すと、喉に押し込めた息をゆっくりと吐き出した。気持ちは、落ち着いていた。何度目かになるかは忘れたけれど、また首を横に振り、大輔は口を開いた。

「違う。多分兄さん達は、……ただ俺を、遠ざけておきたかっただけだ」疑うとか信じるとか、そういった気持ちとは無関係な場所で、大智も大樹も動いていた。ふたりが大輔の知らないところで連絡をとりあっていたのだと知った時は憤るしかなかったけれど、その理由を知らされた今となっては、分かる。

 大輔の中に封印を解除する模擬魔術がある真実は消えない。大樹が身代わりとして周囲の目をひきつけて逃げたとしても、真実の所在は変わらない。大輔が知っていてもいなくてもだ。けれど、重たさは変わるのだ。知らない事実は空気と同じ。けれど知ってしまえば、それ相応に重みが増す。その上で双子の弟を巻き込んだ事実は生々しく真実にまとわりつくだろうから、知ってしまえば大輔は、相当な重荷を背負う事になっただろう。

 大智と大樹はただ、その重みから大輔を遠ざけたかっただけだ。遠ざけて、代わりに自らがいくらかの代償を背負ったのだ。大樹は逃げ続ける事。大智は逃げる大樹を見守りつつ、真実を知らない大輔が出す大機の捜索願をもみ消し、その事で罵倒され軽蔑され——……、「信じてもいない、どうでもいい奴が好き勝手にいつも、顔を合わせるたびに自分の事を罵っていたら、耐えられるはずがないだろ? 何も言わず、ろくな弁解もしなくて文句も言わなくて、俺の罵声をずっと聞いてられるはずがないだろう?」

 真っ直ぐにヒロシを見据えた。ゆっくりと、次第に大きく彼の目が見開かれると、眼球の底に黒々と溜まっている闇のようなものが僅かに揺れ動いたようだった。戸惑いが薄れていく代わりに、そっと諦めに似た色が滲みはじめていた。

 気づいてくれたのだ。と、大輔は思った。立ち上がり、ヒロシに近寄ろうとした。

 けれど、床に足をついて半ば、中腰になった時だった。突然、背中を力任せに突き飛ばされた。中途半端にバランスの悪い姿勢だった大輔はそのまま前のめりに数歩よろめいた。すぐ目の前に彼女が乗っている車椅子の車輪があって、咄嗟にすがりつくように手をついた。一息深くついてから、振り向いた。小さな悲鳴が眼を見開くより先に喉をついて、出た。

 まず、木目のフローリングを徐々に侵食していく歪な赤が目に飛び込んできた。部屋の明かりに照らされて表面がぬるりとした光沢を発していた、——血だ。

「兄、…さん?」茫然とした声と一緒にさまよう眼が、その中心にいる大智を見た。脇腹を右手で抱え、額を血溜まりに押し付けるようにして蹲っていた。その傍らに佇む、いつからそこにいたのかも分からない成瀬が手についた埃か何かを払うように短く手を振ると、まだ血溜まりに汚れていないフリーリングの床に小さな赤いの跡が、ひとつ、ふたつ、と出来た。

「じゃあ、仕方ない」と、成瀬は言った。今までの優しさなどかけらも見つけられない声であり眼差しだった。「ヒロシ。俺がこの子を殺すから、お前は完全に大輔が死ぬ前に模擬魔術を解除しなさい。死に際なら、抵抗する事も出来ないだろうから」

 その言葉に、ヒロシの眼が瞬かれた。動揺を隠しきれない忙しさで何度も上下し、何か言いたげに唇が開きかけたものの結局、閉ざされた。こくり、と頭を項垂れるように打つ。

 そんなヒロシに成瀬のほうは淡々と頷き返してから、大輔へと靴先を向けた。けれど近づこうと歩き出しかけたところでふと、下半身を不自然に震わせて止まった。細めた眼を足元へと落とす。

「……ま、待てッ、」血で汚れた左手を成瀬の右足に必死に絡みつけながら、脇腹を押さえたさっきの姿で大智が低く声を押し出した。精一杯肺を膨らませて叫んでいるのだろうが、それでもか細く、息絶え絶えな声だった。「大輔、はッお前、のッ、子供だろうが!」

 短く、成瀬は唇の端を引き上げた。笑みの形ではあったけれど、本心から笑っている気配は表情からも、開いた口から発せられる言葉からもまったく感じ取れなかった。

「だから話し合いで分かりあえると思っていたんだよ」告げて、右足を強引に前へと動かすと、大智の腕はあっさりとほどけ血溜りに落ちた。血が、ほんのすこしだけ跳ねた。吸い込んだ息が鋭く喉を鳴らした、思わず駆け寄ろうと立ち上がりかけた大輔の前で、成瀬は足を止めた。文字通り、立ちふさがった。「でも無理だったみたいだ。本当に残念だ、でも——説得しても無理だったなら、仕方ないだろ? 妹の目覚めを邪魔するならもう、血が繋がっていても、仕方ない」

 そうして無造作に成瀬が振り上げた右腕は、それ自体が内側から光り輝いているような白銀を纏っていた。同じ能力だ、と大輔は立ち上がりきる事も逆に座り込む事も出来ないまま、場違いにそんな事を思った。白銀を帯びた手のひらは、鋼鉄に似た頑丈さで、研ぎ澄まされた凶器でもある。一度頭上で止まり、白銀を帯びた腕は空気のしなる音と共に振り下ろされた。

 大輔は逃げなかった。成瀬の体の向こう、部屋の入り口に麻耶が佇んでいたから。

 人が一人殺されようとしている現場に居合わせた人間の動揺も何もなく、ただ眺めているだけの彼女の眼差しにすべてを察した刹那、視界に白いものが飛び込んできた。麻耶の視線を、白銀の軌跡を遮り、それは白くはためいて、翻った。

 耳のすぐ傍で何かが、勢いよく倒れる音が飛び込んでくる。甲高く重たく、耳を劈いたその金属的な音の合間を縫うようにして別の、湿り気を帯びた、耳に入り込んでくるだけでも鳥肌が立つような生々しく怖気を孕んだ音も、聞こえてきた。

 瞬間、はためく白の中に赤が飛び散る。

 その赤は大輔の頬を濡らした。生暖かい感触の正体に大輔が眼を見開いた時には、尾を引くようにしてほのかな熱を伝えながら頬を伝っていた。目の前に成瀬はいなかった。大輔の視界を遮るようにあったのは、細い、華奢な背だった。到底、誰かを守るよりも守られるために存在しているような、弱々しくも儚げな後姿だった。

「、しをり、?」一人言のような、うわ言のような、——成瀬の声がまるで合図だったかのように。

 その体は崩れ落ちた。白の中に点々とした赤をちらばらせながら、彼女の身を包んでいたワンピースの裾がまた、大きく翻った。女性とはいえ、大の大人が床に倒れる音とは思えないほどの、軽い、おかしなほどに存在感のない音が、聞こえた。










   (一週間後)


 初代の魔女の死は、世間を騒がせるはずもなかった。そもそも存在からして都市伝説であると思われているのだから、一部の人間を除けばあの人は、生きていても死んでいても変わりのない存在なのだろう。

 成瀬修司の死も、さほど世間では大きく取り上げられる事はなかった。人権団体が、留置所での野首吊り自殺について、取調べの行き過ぎではないかと騒ぎ、警察が監視体勢の徹底を図ると会見で告げたことぐらいが、成瀬の死後に起こった騒ぎのすべてだった。——実の妹を事故とはいえ手に掛けてしまった兄の、あっけないといえばあっけない最期であった。


 大輔が久し振りに訪れた麻耶の事務所は引越し準備の真っ最中だった。別に手伝いに来たわけではなかったけれど、タオルを首からぶらさげた麻耶が当たり前の口調であれやこれやと指示してくるので、ついつい手伝っているうちに陽はすっかり落ちてしまっていた。

「——どうして、成瀬に初代の魔女を殺させた?」と、大輔は最後のダンボールに本を詰めながら質問した。昼下がりからずっと手伝っていて、今まで他愛ない話をし続けてきたというのに、一番気になっていた疑問はどういうわけか、最後の最後になってようやく聞く気になれたのだ。

 あの時。大輔を殺そうとした成瀬は、大輔の前に躍り出た妹をその手で文字通り刺し殺してしまった。

 あの時。すぐ傍で鳴り響いた金属音は、彼女が立ち上がる際に倒れた車椅子の音だった。

 妹の血に塗れた手をだらりと体の脇に垂れ下げた成瀬の、茫然と表現するのも難しい、空っぽのような姿を、ふとした瞬間に思い出す。

 麻耶は、詰め終わったダンボールの蓋を片手で固定して、もう片方の手でガムテープで止めながら応えた。「彼じゃないと駄目だったのよ。初代の魔女を殺しただけじゃ、成瀬は止まらない。いっそう一般人を恨むようになるだけ。成瀬を殺しただけじゃ、初代の魔女の復活を望む人間がいる。ふたりがいなくなってくれないと、暴動は必ず起こるのよ。逆を言えば……、ふたりがいなくなれば暴動は起こらない。ヒロシ君は立派にリーダーをやってるみたいじゃない?」最後のは疑問符こそあっても、大輔に問いかけていなかった。分かりきっている事を分かりきっている相手にただ告げる、そんな声だ。

「……、まあな」としか、大輔は言えなかった。

 息を引き取ってもまだ、真っ赤に濡れた胸から止め処なく血を流し続けていた母親にすがりついてむせび泣いていたヒロシの姿が脳裏を過ぎる。最後に会ったのは、二日前だ。成瀬修司の死について、彼が所属していた組織のリーダーとして記者会見をした帰りに、会った。偶然ではなく、大輔のほうから近づいた。


『、ヒロシ』

 呼ばれて初めて、そこに大輔がいるのだと気づいたような顔を作っていたけれど、すぐに嘘だと分かった。それこそ音信不通だったのは半年間だけなのだから、目配りひとつだけでヒロシがなにを思っているか見当はついた。複雑な心境そうだった。けれど、血の繋がりよりも今まで育ててもらった家族を選び、不可抗力とはいえ実の父親が母親を殺すきっかけを作った人間を見るような、冷たい眼差しを向けてはこなかった。

 周囲の取り巻きたちに先に車に乗るよう指示を出し、彼らが車に乗り込むのを見届けてから、ヒロシは首を傾げた。『こんなところでどうしたんだい、大輔。僕に何か用かい?』

『悪い、』特に用事があったわけではない。あえて言うなら、気になった。とかそういう事になるのだろうけれど、ヒロシの問いかけはそんな陳腐な返事を拒んでいた。なぜわざわざこんなところに来た、と面と向かっては言わないものの、大輔自身がはっきりと自覚させられる強さを持っていた。一歩足を後ろに引く。『たまたま近くを通りかかっただけだ。じゃあな、』


 正直、何がしたかったのは今でも分からない。謝りたかったのか。何か言葉をかけたかったのか。ただヒロシと真正面で顔を合わせて理解したのは、その思いつくどれもが大輔自身の自己満足でしかないという事だった。首を振り、考えを頭の外へ放り出してから、ダンボールの蓋を閉じた。ガムテープを持っている麻耶に眼をやる。「おい。ガムテープ」

「はいはい、ちょっと待ってね」大輔の隣にやってきて最後のダンボールの蓋をガムテープでふさぐと、麻耶は顔を上げた。大輔に、にこり、と微笑む。「でも本当に助かったわ。ひとりで大変だったのよ」

 率直に素直な感謝の言葉にも聞こえなくはなかったけれど、大輔にはどうにも白々しく聞こえてならなかった。照れ隠しにしても無愛想に顔をしかめてしまったのは、そのせいだ。

「俺が来るって、わかってたんじゃないのか?」でなければこんな広々とした事務所の引越し掃除をたった一人ではじめようとは思わないだろう。問いかけに麻耶はきょとんと目を一回瞬かせてから、そんなわけないでしょうとばかりに呆れた様子で唇を尖らせた。

「まさか。私が知っている事は全部、一週間前に終わってしまったもの。ここからさきは、私も知らない未来よ」きっぱりと断言すると、麻耶は大輔が詰めたダンボールの底に手を差し入れて持ち上げて、部屋の片隅に置いた。その一角にはすでに十箱ほどの、どれも有名な引越し業者のロゴが入っているダンボールが積まれていて、殺風景になった事務所内で結構浮いている。

 積みあがっているダンボールを大輔は何気なく見上げた。本、生活用品、服、あらかじめ黒のマジックペンで丁寧に中身が書かれているダンボールを一つ一つ眺めて、ふと眉をひそめた。「情報屋、やめるのか」呟くように言ってから、麻耶が口を開く前に彼女のほうを見遣り、続ける。「もう、未来が分からないから?」

 ダンボールの中に、書類と書かれたダンボールがなかったのだ。代わりに、いかにも大量にシュレッダーをかけましたと言いたげな細い短冊の束が透明のゴミ袋にはちきれんばかりに入っている。全部で五袋以上ある。

 麻耶は肩をすくめた。「私が情報屋をやってたのは、そのほうが未来を作るのに簡単だったからよ。もうその必要もなくなったんだもの、やる必要もないって事。それに大輔君の言うとおり、今まで神がかり的だったのは未来がわかってたからだし、今後やっていこうと思っても、今までみたいには出来ないから」

「——……どうするんだ。これから」聞いてどうするんだ、と思う一方で、聞く権利もあると思った。

 少し悩むような素振りで黙り込んで見せてから、麻耶はまた首を傾いでみせる。

「じゃあ大輔君こそ、どうするの?」暗に、応えない、と断言されたのだろう。

 同じように束の間、黙り込んでしまったのは悩んだからではなかった。まず気恥ずかしさが先立ってしまって、ひとつ大きな咳払いをしてから大輔はゆっくりと口を開いた。「……、一応、実家に戻る」と応えると、短く感激するような感心するような声が麻耶の口からあがった。

「へぇ。仲直りしたんだ?」もう少しかかると思っていたのに、とも聞こえる少し意地の悪い口調での質問だった。

「仲違いしていた理由が、理由だったからな。もう意地を張る理由もないだろ。もう一度警察官の採用試験を受けて、対魔術課に戻ろうと思ってる」

「へぇ」と、さっきと変わらない声をあげると、麻耶は数歩後ろに下がった。オブジェの上から下までをじっくりと観察するような眼で、大輔の頭から足のつま先までを眺めた。しばらくしてから口を開く。「と言う事は、能力のほうの回復は順調って事なのかしら?」

 大輔は頷いた。「おかげさまで、」言って、自分の右腕に視線を落とす。

 半年前、模擬魔術事件の現場で意識を失い、病院で目覚めた時にはすでに能力を失っていた。実際には失っていたのではなく、封印されていたのだと教えられたのは、初代の魔女が死んでから一日が過ぎた時だった。初代の魔女の意識を封印した模擬魔術と同じ要領で、能力を使う時に活性化する脳の一部に封印をかけたのだと、高柳が言っていた。そしてそれの対となる解除の模擬魔術は、大樹が持っていた。


『君達、初代の魔女の子供らにあるテレパシーのようなものは、能力の一つであると推測してね』と、高柳は大樹が大輔の模擬魔術の解除をしている間、とつとつと喋っていた。独り言にしては長いけれど、だからといって、この場にいる大輔にも大樹にも、話しかけている口調ではなかった。『大樹が解除の模擬魔術を持っていると装っても、何かしらの偶然で本当に持っているのは君だと気づかれる可能性もある。大樹が逃げる代わりに大輔の自由は出来る限り保障する、というのが約束だったんだ。だから、山本ヒロシの模擬魔術が解除された反動で気を失ってしまった君に、封印の模擬魔術をかけた。力をなくしている人間と、力はあるだろうけど行方不明の人間とでは、後者を探すだろうと踏んでね』


「そうね」麻耶が納得したように頷いた。「元通りになるのなら、そっちのほうがいいわよね」

 彼女にすれば、何気ない言葉のつもりだったのかもしれない。けれど大輔は、その言葉に反応するかのように、ぞわりと背筋に悪寒が這うのを感じ取っていた。元通り、というのは何も大輔が分かっている過去の原状回復、とは限らないのではないだろうか。と、思ったのだ。こと、未来から過去へ、拒みたい未来を変えるために過去の自分へと情報を送った、最初の麻耶あゆみからすれば。

 大輔にとっては、現在は現在でしかない。ひとつきりのものだ。けれど——。

 麻耶はふと目を瞬かせた。大輔を改めて見る。「そういえば、今日は何の用事だったの? 本当引越し準備を手伝ってもらってよかったけど、何の用事もないのにこんなところに来るわけないものね?」他愛ない訊ね方だった。なのに大輔の心臓が大きく一回、息苦しいほどに跳ねたのは、それがあまりにタイミングの悪い質問だったからだ。

「、あ。いや、」見透かされそうで、目をそらす。言えるはずがない、と内心で思った。

 大輔にとって、今ここにいる事は、血の繋がった母と父の死の上に立っているという事なのだろう。物心ついた時から心を寄り添わせるように生きてきた兄弟の大事な家族を奪い、自分は血の繋がっていない家族を選んだ。何か言いたくて近づいても、結局何もいえないほどに距離は遠ざかってしまった。でも、もし過去を変えられると言われても、大輔は自分がそれを選ばないと分かる。

 大智が死ぬのは嫌だった。もちろん佐伯家の家族を選んだ時には、その代わりに血の繋がった家族が死ぬのだとは分かっていなかったけれど。でも、すべてを知った今でも、あの時と同じ選択肢を出されれば、兄の命を選ぶだろうと、確信を持って言える。いえるなら、それは大輔にとってはもう、宿命や運命みたいなものなのではないか、とも思う。

 ——、でも。少なくとも、未来を変えたいと願った最初の麻耶あゆみがいた未来での、佐伯大輔は違ったのだろう。

 そして、これから先の、ここにいる麻耶あゆみが「先の事は分からない」という未来での自分自身は、大輔にとっては、一人きりだろうけれど。

「悪い。用事、忘れた。多分そんなに大事な事じゃなかったんだろう」嘘だった。やけに渇いている気がする舌先を動かして大輔は応えると、くるりと玄関のほうへ靴先を向けた。「じゃあ、引越し先が決まったら教えてくれよ。また手伝いに行くから、兄さんと一緒に」言って歩き出し、事務所の玄関のドアノブを掴んだところで、麻耶の声はひっそりと大輔の背を撫でた。

「いいのよ、別に」言葉は、全部を許しているようで、諦めているようで。「大智さんが不幸になるようならまた、過去をやり直すだけだから」

 思わず息を呑んで振り返った大輔に、麻耶は微笑んだ。「冗談よ。もちろん」


(終)

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彼らは魔女の夢を見る トモ倉未廻 @kurachi_mikai

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