第二話:悪魔との邂逅

 探索者ギルドの自動ドアが、俺を深夜の冷たい空気の中へと静かに吐き出した。

 手の中に残るのは、プラスチックの硬質な感触だけ。


 そこに刻まれた『F』の文字が、まるで社会が俺に突きつけた評価そのものであるかのように、ずしりと重い。


「ゴミ箱、か……」


 誰に言うでもなく、乾いた唇から自嘲の言葉が漏れ出る。


 不要物を収納するスキル。


 会社では踏み台という、ゴミ箱のような役目を押し付けられ、挙げ句の果てに俺自身が不要物として扱われた。

 そして、人生逆転を夢見たこの新しい世界でさえ、俺に与えられた役割は『ゴミ箱』だという。出来すぎた冗談に、笑う気力さえ湧いてこなかった。


 もう、何もかもがどうでもよかった。


 安アパートに帰ったところで、何かが変わるわけじゃない。狭い部屋には、脱ぎ捨てた衣類が散らかったままだ。そこにあるのは、息が詰まるような孤独と、明日という名の絶望の再生産だけ。


 もはや、あの部屋へ帰りたいとすら思わなかった。俺は、まるで幽鬼のように、あてもなく深夜の街を歩き始めた。

 終電をとっくに終えた大通りは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、時折、唸りを上げて走り去るトラックの排気ガスの匂いだけが生々しい。


 自分の革靴がアスファルトを叩く、カツ、カツ、という無機質な音だけが耳につく。


 どこへ向かうという目的もない。ただ、このままどこまでも歩き続けて、世界の果てで消えてしまえたら、どんなに楽だろうか。そんな非現実的なことばかりが頭に浮かんだ。


 どれくらいの時間、そうしていただろう。


 オフィス街が遠ざかり、住宅街の寝静まった闇を抜け、気づけば、潮の香りが混じった夜風が頬を撫でていた。

 スマートフォンのマップを開くまでもなく、自分の足がどこへ向かっていたのかを悟る。


 品川、湾岸エリア。


 そして、この先にあるのは――。


 衝動、としか言いようがなかった。


 今の俺には、論理的な思考などとうに失われていた。


 ただ、このまま終わるくらいなら、何かを、ほんの少しでもいいから変えるための行動を起こさなければならない。

 ギルドでライセンスを手にした時から、心のどこかで、ここへ来ることだけは決めていたのかもしれない。そんな強迫観念にも似た感情だけが、疲弊しきった俺の体を突き動かしていた。


 やがて、前方に巨大なコンクリートの構造物が見えてきた。


『品川ダンジョン』


 壁面に無機質なゴシック体でそう記されている。


 まるで巨大な工場の入り口のようだが、ここが現代の金鉱であり、同時に大多数の人間にとっては、墓場でもある場所だ。


 入り口周辺には、この深夜にもかかわらず、コンビニの明かりに集まる虫のように、何人かの探索者らしき者たちがたむろしていた。

 俺のような場違いなスーツ姿の人間は一人もいない。

 武骨な鎧や軽装の革装備に身を固めた彼らが、ちらりとこちらに訝しげな視線を向けるのが分かった。


 しかし、もう他人の目など気にならなかった。


 俺は誰の許可を得るでもなく、吸い込まれるようにして、ダンジョンの入り口に設けられたゲートをくぐった。


 ひんやりとした、洞窟特有の空気が肌を撫でる。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、代わりに自分の足音だけが、薄暗い通路に反響した。


 壁も床も、ゴツゴツとした岩肌が剥き出しになっている。

 天井からは、苔のような植物が発する青白い光がぼんやりと垂れ下がり、それが唯一の光源となっていた。

 鼻をつくのは、湿った土とカビが入り混じったような、不快な匂い。

 時折、どこか遠くで甲高い音が響き、そのたびに体の芯が冷えるような感覚に襲われる。


 これが、ダンジョン。


 テレビやネットでしか見たことのなかった異世界が、今、目の前に広がっていた。

 現実感のない光景に、しかし恐怖よりも先に、妙な安堵感を覚えていた。


 少なくとも、ここには武田部長の怒声も、媚びへつらう佐々木の裏切りもない。

 ただ、未知と危険だけが誰にでも存在する、公平な世界。


 俺は、あてもなく歩き始めた。


 戦闘能力ゼロのスキルでは、モンスターと戦うことなどできはしない。

 プロの探索者たちが獲物を求めて進むであろう本筋のルートを避け、人の気配がしない脇道へと、意識的に足を踏み入れていく。


 目的は、アイテムの回収。


 モンスターを倒さなくとも、稀にアイテムが自然発生していることがあると、ギルドの待合室で読んだ初心者向けパンフレットに書いてあったことを思い出す。


 しばらく進むと、通路の隅で何かが鈍く光っているのが目に入った。


 近づいてみると、それは青みがかった半透明のゼリー状の塊だった。大きさは拳ほど。これが、ドロップアイテムというやつだろうか。


「……スライムの粘液、か?」


 パンフレットに載っていた画像と似ている。最低ランクの素材で、買い取り価格も数十円程度だと記憶している。

 それでも、今の俺にとっては、会社から支給される給料以外の、初めて自分の力で手に入れた『価値』だった。


 ここで、自分の能力を正確に把握し、このスキルが本当に役に立たないのかを確かめておこう。俺は、ギルドのパンフレットで読んだ、自身の能力を確認する方法を試すことにした。


(ステータス)


 心の中で念じると、目の前の空間に、ふわりと半透明の青いスクリーンが浮かび上がった。


=============================


名前: 山本 ジュン

レベル: 1

経験値: 0/100

HP: 15/100

MP: 2/2


筋力: 5

敏捷: 7

耐久: 4


スキル:


『ゴミ箱』 (ランク: F)

 詳細:不要物を収納することができる。


=============================


 これが、俺の現在値か。

 無慈悲なほど低い数値の羅列。俺は、この絶望的なステータスを脳裏に焼き付けると、一度スクリーンを閉じた。

 そして、目の前の粘液を拾い上げ、おもむろにスキルを意識した。


『ゴミ箱』


 すると、どうだ。手の中にあったはずの粘液が、フッと何の予兆もなく消え去った。

 手には何も残っていない。どこに行ったのか。スキル説明の通りなら、俺のスキルの中に『収納』されたのだろう。


 何か、変化はあったのか。

 俺はすぐさま、再びステータスを開く。


(ステータス)


=============================


名前: 山本 ジュン

レベル: 1

経験値: 0/100

HP: 15/100

MP: 2/2


筋力: 5

敏捷: 7

耐久: 4


スキル:


『ゴミ箱』 (ランク: F)

 詳細:不要物を収納することができる。


=============================


 表示されたのは、先ほどと寸分違わぬ、絶望的な数値の羅列だった。


 経験値は『0/100』からピクリとも動いていない。


 レベル、HP、MP、他のどの数値も、一切の変化はなかった。


 スキルを使ったのに、何のフィードバックもない。

 経験値も手に入らない。アイテムとして収納された様子もない。本当にただ『消えた』だけ。


 何の感動も、高揚感もない。

 スクリーンは俺が視線を外すとフッと消えた。虚しさと絶望だけが、ずしりと重くのしかかる。


 つまり、あれはゴミだったのだ。


 その事実だけが、虚しく残った。


 俺は再び歩き出す。その後も、道端に落ちている小石や、モンスターの骨のかけらのようなものをいくつか見つけては、『ゴミ箱』に放り込んでいった。

 どれもこれも、換金できるとは思えないガラクタばかり。それでも、今は何かをせずにはいられなかった。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。


 ふと、前方からペタ、ペタ、という水っぽい音が聞こえてきた。

 音のする方へ視線を向けると、通路の角から、青白い光を体に反射させながら、何かが現れた。


 スライムだ。


 パンフレットで見た、最も弱いとされるモンスター。

 しかし、本物を前にすると、その圧倒的な生命感に全身が凍りついた。半透明の体の中で、核のようなものが不規則に動いているのが見える。


 俺は咄嗟に、近くにあった岩陰に身を隠した。


 スライムは俺に気づくことなく、ゆっくりと目の前を通り過ぎていく。

 ペタ……ペタ……という音が遠ざかっていくのを、俺は息を殺して待ち続けた。


 早鐘を打っていた鼓動が、少しずつ落ち着きを取り戻す。

 額からは、冷たい汗が流れ落ちた。


 ああ、そうか。俺は、こんな最弱のモンスター一体にさえ、恐怖しか感じられないのか。

 戦うどころか、見つからないように隠れることしかできない。


 これが、Fランクスキルの現実。


 どっと、全身から力が抜けていくのを感じた。



 それからというもの、俺は完全に方向感覚を失っていた。


 少しでも価値のあるアイテムはないかと、脇道からさらに細い枝道へと入り込みすぎたのだ。


 気づけば、周囲の景色はどこも同じような岩肌ばかり。

 自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、全く分からなくなってしまった。


 パンフレットには、決して単独で、それも初心者が深部へ向かってはならないと、警告が書かれていた。

 その意味を、今、骨身に沁みて理解していた。


「……はは、笑えないな」


 会社という迷宮から抜け出したと思ったら、今度は本物の迷宮で遭難か。俺の人生は、どうやら迷ってばかりらしい。


 疲労と空腹で、足が鉛のように重い。

 スーツの革靴はとっくに泥だらけで、靴擦れがじくじくと痛んだ。


 壁に手をつき、荒い息を繰り返す。


 もう、いっそこのまま、ここでモンスターにでも食われてしまった方が楽なのかもしれない。

 そんな考えが、弱った頭を支配し始める。


 その時だった。


 通路の奥に、何かが見えた。


 それは、これまで見てきた無骨な岩肌とは明らかに不釣り合いな、人工的な『扉』だった。

 黒い木材でできており、表面には銀色の蔦のような模様がびっしりと彫り込まれている。


 周囲の洞窟とは、まるで世界の法則が違うとでも言うように、その扉だけが異様な存在感を放っていた。


 罠、かもしれない。


 だが、今の俺には、その先に何があろうと、このままここで朽ち果てるよりはましに思えた。最後の力を振り絞り、俺は扉に手をかける。見た目に反して、それは何の抵抗もなく、あっけなく開いた。


 扉の先に広がっていたのは、広大な円形の部屋だった。


 天井はドーム状になっており、そこにはまるでプラネタリウムのように、無数の宝石のような鉱石が埋め込まれ、星空のごとく淡い光を放っている。床には傷一つない黒い大理石が敷き詰められ、壁には見たこともない紋様が描かれたタペストリーがいくつも掛けられていた。洞窟の中とは思えない、荘厳で、静謐な空間。


 そして、部屋の中央。


 一段高くなった場所に置かれた、黒曜石を削り出して作られたかのような、巨大な玉座。


 そこに、一人の少女が座っていた。


 腰まで届く、艶やかな黒髪。肌は、光を吸い込むかのように白い。身にまとっているのは、幾重にもフリルとレースが重ねられた、豪奢なゴシック調の黒いドレス。


 そして、何よりも目を引いたのは、その頭部から覗く、小さな二本の角と、ドレスの裾から猫のように揺れている、細長い尻尾だった。


 人間ではない。


 そのことは、一目で分かった。


 彼女は、まるで俺が入ってくるのを最初から知っていたかのように、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、俺を捉える。


 深い、深い、血のような赤色。


 その視線に射抜かれた瞬間、俺は金縛りにあったかのように、身じろぎ一つできなくなった。気だるげな雰囲気を漂わせているのに、その存在そのものが放つ圧力は、武田部長の比ではなかった。

 魂の格が違う、とでも言うのだろうか。本能が、目の前の存在が絶対に抗ってはいけない相手だと、警鐘を鳴らしていた。


 やがて、彼女の唇が、かすかに綻んだ。


「やっと来たんだ」


 鈴を転がすような、しかしどこか眠たげな声が、静かな部屋に響く。


「待ちくたびれちゃったよ、君のこと」


 少女は、玉座に頬杖をついたまま、楽しそうにそう言った。


「え……?」


 俺の口から、間抜けな声が漏れる。


 待っていた?俺を?


 意味が分からなかった。俺は今日、初めてダンジョンに来たのだ。こんな場所で、俺を待っている人間などいるはずがない。ましてや、目の前にいるのは、明らかに人間ではない何かだ。


「人違いでは……?」

「違わないよ」


 少女はくすくすと笑う。その仕草は、歳相応の無邪気さを感じさせるのに、その赤い瞳の奥には、何百年も生きてきたかのような、底知れない深淵が広がっていた。


「君は、今日、最低最悪の一日を過ごした。信じていた人間に裏切られ、会社を居場所を失い、なけなしの希望を託した新しい世界では、『ゴミ箱』なんていう、ふざけた名前のスキルを押し付けられた」


「なっ……!?」


 なんで、それを。


 俺の今日一日の行動を、まるで見てきたかのように語る少女に、俺は言葉を失った。


「どうして……」


「どうして、かな?まあ、細かいことはいいじゃない」


 彼女は玉座からすっと立ち上がると、優雅な足取りでこちらに近づいてくる。コツ、コツ、と彼女のヒールの音が、大理石の床に響いた。


「私はベルフェゴール。見ての通り、人間じゃない。地獄から来た悪魔だよ」


 悪魔。その言葉は、不思議とすんなりと受け入れられた。この非現実的な空間と、彼女の尋常ならざる存在感を前にすれば、それ以外の説明は考えられなかったからだ。


「そして、私は君を探していた。ずっとね」


「俺を……?どうして、俺なんかを」


 ベルフェゴールと名乗った悪魔は、俺の目の前でぴたりと足を止めた。甘い、花の蜜のような香りがふわりと鼻をかすめる。


「君が持ってるからだよ。この世界で一番素晴らしいスキルを」


 彼女はそう言うと、俺の胸元、ちょうどライセンスカードが入っているポケットあたりを、白い指先でトン、と軽く突いた。


「君のスキル、『ゴミ箱』。あれ、本当はそんな可愛い名前じゃないんだ」


 ベルフェゴールは、いたずらっぽく片目をつぶる。


「その本当の名は――『葬送』。あらゆる存在を分解し、無に還す、禁忌の力。君たちのチンケな機械じゃ、その本質なんて到底、測定できないんだよ」


 彼女の赤い瞳が、俺をまっすぐに見つめていた。


 その瞳には、憐れみも、同情もない。


 ただ、極上の獲物を見つけたかのような、爛々とした輝きだけがあった。

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