第三話:悪魔との知恵比べ
「その本当の名は――『葬送』。あらゆる存在を分解し、無に還す、禁忌の力。地上のチンケな機械じゃ、その本質なんて到底、測定できないんだよ」
目の前の悪魔――ベルフェゴールが放った言葉は、まるで現実味のない演劇の台詞のように、この荘厳な部屋の空気に広がっていった。俺の頭は、その意味を理解することを拒んでいるようだった。思考が、真っ白なペンキで塗りつぶされたみたいに、うまく働かない。
葬送?禁忌の力?
俺のスキルが?あの、ギルドの職員に同情され、自分自身でさえ冗談だろうと思った『ゴミ箱』が?
「……何、言って……」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。疲労と混乱で、口の中がカラカラに乾いている。
「信じられないって顔だね。まあ、無理もないか」
ベルフェゴールは、俺の狼狽ぶりを楽しんでいるかのように、くすくすと喉を鳴らした。彼女の赤い瞳は、まるで上質なワインのように、深い色合いで俺を映している。
「じゃあ、分かりやすく教えてあげる。君がさっき、ダンジョンに入って最初に拾ったもの、覚えてる?」
「え……?ああ、スライムの……粘液、だったか」
「そう、それ。君はそれを手に取って、どうした?」
どうした、と聞かれても。俺はただ、スキルを意識しただけだ。不要なものだから、ゴミ箱へ、と。
「……スキルで収納した、だけだ」
「うん。その通りだよ。君が、その粘液を『不要なガラクタだ』って認識した。だから『葬送』は発動して、その物体の情報を分解したんだ」
その言葉に、俺は言いようのない寒気のようなものを感じた。
「でも、経験値とか、何も増えたりは……」
「それは、君自身がスキルのことを単なる『ゴミ箱』として認識していたから、だろうね」
彼女は、まるで子供に言い聞かせるように、丁寧に言葉を紡ぐ。その気だるげな口調とは裏腹に、話の内容は俺の常識を根底からひっくり返すものだった。
「つまり、だ。君のスキルは、ただ物を仕舞っておく便利なポケットなんかじゃない。君が『これはゴミだ』『いらないものだ』って心の底から認識した対象を、存在そのものから消し去って、自分のエネルギーとして吸収する力なんだよ。物質だろうが、魔力だろうが、なんなら……魂でさえもね」
最後の言葉は、ひどく甘美な響きを持っていた。しかし、その内容は、俺の背筋を冷たい手で撫で上げるような、おぞましいものだった。魂を、消し去る?それは、つまり――。
「君が本気でそう願うなら、人間だって『ゴミ』として処理できるってこと。跡形もなく、この世界からね」
ベルフェゴールの言葉は、静かだった。しかし、その一言一句が、重い鉄の杭のように、俺の脳天に打ち込まれていく。
人間をゴミとして。
その瞬間、俺の頭の中に、二つの顔が浮かび上がった。俺を嘲笑い、蔑み、その尊厳を踏みにじった男たちの顔。
武田部長と、佐々木。
俺の反応を、彼女は見逃さなかった。ベルフェゴールは満足そうに、ゆっくりと頷いた。
「どうやら、心当たりがあるみたいだね。君の世界には、処分されるべき『ゴミ』がたくさんいるみたいだから」
彼女はそこで言葉を切ると、俺との距離をさらに一歩だけ詰めた。甘い香りが、より濃密になる。その赤い瞳が、俺の心の奥底までも見透かそうとするかのように、じっと見つめてきた。
「さて、本題に入ろうか。私は、君に取引を持ちかけに来たんだ」
「……取引?」
「そう。難しい話じゃないよ。私には、ある目的があって、その『葬送』の力が必要なんだ。だから、協力してほしい」
悪魔が、俺に協力を求めていた。それも強力な悪魔が。
「その、協力とは?」
「ああ、それはね。私と契約をしてもらいたいんだよ」
あまりにも突拍子のない展開に、俺はただ黙って彼女の次の言葉を待つことしかできなかった。
「もちろん、タダでとは言わない。君が、私の目的達成のために協力してくれるなら――その見返りとして、君の願いを一つ、何でも叶えてあげる」
何でも叶える。
その言葉は、悪魔の囁きとして、あまりにも陳腐で、ありきたりだった。しかし、今の俺にとっては、どんな甘言よりも魅力的に響いた。
「金、名誉、権力。あるいは、この世のどんな美女でも思いのままだよ。君が望むなら、世界の王にだってしてあげられる」
俺は、ごくりと唾を飲んだ。もし、それが本当なら。もし、この地獄のような毎日から抜け出せるのなら。
「……うまい話すぎる。悪魔との契約、だろ?何か、裏があるはずだ。……何かの代償があるはずだろう、それは何だ?」
そうだ。悪魔が、人間に善意で何かを与えるはずがない。俺が知っている物語の中の悪魔は、いつも人間の最も大切なものを奪っていくのが、お決まりの筋書きだ。
俺の問いに、ベルフェゴールは、今日一番の笑みを見せた。それは、獲物を前にした捕食者のような、残酷で、しかし抗いがたいほどに美しい笑みだった。
「なるほど、代償ね。もちろんあるよ」
彼女は、楽しそうに、そして、こともなげに言い放った。
「人間の魂。それが代償」
◇
空気が凍った。
ベルフェゴールの言葉は、絶対零度の氷の刃となって、俺の理性を切り刻んだ。
人間の魂。
なるほど、確かにネットで聞いた話では、その契約者自身の魂を差し出すのが古来からのルールだろう。
「……俺の魂を、か」
俺の口から、自分でも驚くほど低い声が出た。何かを得ても、その代償に自分のすべてを失う。結局、俺は何も得られないじゃないか。
「そうだよ。それがルールさ。君の魂一つで、どんな願いも叶えてあげる。私も『葬送』の力を得られる。悪くない取引でしょ?」
悪くない、だと?冗談じゃない。
俺は、思わず後ずさっていた。目の前の美しい少女が、得体の知れない怪物に見えてくる。どんなに憎くても、どんなに理理尽な目に遭っても、自分の魂まで売り渡してたまるか。
しかし、ベルフェゴールは、そんな俺の葛藤を鼻で笑うかのように、静かに首を横に振った。
「本当に、そうかな?」
彼女の赤い瞳が、俺の心の弱さを的確に射抜く。
「君は、もう十分に奪われたじゃない。時間も労力も未来への希望も、そして、人間としての尊厳も。全部、あのくだらない連中に、ゴミみたいに踏みにじられた。違う?」
ぐ、と喉が詰まる。彼女の言葉の一つ一つが、俺の心の傷口を抉り、熱い鉄を押し当ててくるようだった。
「このまま、元の生活に戻るの?満員電車に揺られて、中身のない会議に出て、理不尽な命令に頭を下げ続ける。裏切った同僚の顔を見ながら、作り笑いを浮かべて仕事をする。そんな毎日を、これから何十年も繰り返していくつもり?」
やめろ。
「君が心血を注いだプロジェクトは、もう君のものじゃない。君の手柄は、君を裏切った男の出世の道具になるだけ。君はこれからも、給料分の働きもできない新人以下の役立たずだって、罵られ続けるんだよ。死んだ魚みたいな目をして、心が完全に壊れてしまう、その日まで」
やめてくれ。
脳裏に、これまでの日々が、脳内で駆け巡る。武田部長の罵声。周囲の同僚たちの冷たい視線。そして、俺の手柄を横取りして、役員に媚びへつらう佐々木の姿。
そうだ。俺は、すべてを奪われた。
俺が必死に積み上げてきたものは、あいつらにとっては、道端に落ちている石ころほどの価値もなかったんだ。
あいつらにとって、俺という人間は、都合のいい道具で、不要になれば捨てられるだけの『ゴミ』でしかなかった。
ならば。
ふと、ある考えが浮かんだ。
――なぜ、俺が差し出さなければならない?
対価は魂。だがしかし、『誰の』とは言われていない。
俺は顔を上げた。
目の前にいるベルフェゴールの表情は、変わらず気だるげなままだ。しかし、その瞳の奥には、俺がどんな答えを出すか、試すかのような感情が浮かんでいる。
「……分かった。契約しよう」
俺の言葉に、ベルフェゴールの片方の眉が、わずかに動いた。
「ただし、その対価は俺の魂じゃない」
俺の声は、もう震えていなかった。
「俺を裏切り、すべてを奪ったあの二人……武田と佐々木。あの二人の魂を対価として差し出す。それが、俺の『願い』だ」
そうだ。俺が、俺であるために。これ以上、搾取され続けないために。俺は、悪魔さえも利用してやる。
俺の提案を聞いたベルフェゴールの赤い瞳が、興味深そうに細められた。
そして、次の瞬間、彼女は声を上げて笑い出した。
「あははは!面白い!面白いじゃない、君!悪魔との契約で、値切るどころか、対価そのものを『願い』として、他人に押し付けようとする、最低で強欲な人間なんて、初めて見たよ!」
彼女は一頻り笑うと、涙の滲んだ目元を指で拭った。
「いいよ、気に入った。その取引、乗ってあげる。君みたいな人間こそ、私の契約者にふさわしい」
ベルフェゴールは俺の前に歩み寄ると、すっと右手の掌を差し出した。
俺は、差し出されたその小さく、白い手を、自分の手で握り返した。彼女の手は、見た目に反して、ひんやりと冷たかった。
その瞬間。
俺たちの手を起点として、黒い光が迸った。部屋全体が、一瞬だけ闇に包まれる。
「じゃあ、契約成立だね。これからよろしく」
契約は、絶対的な力をもって成った。
◇
黒い光が収まった時、目の前の光景に、俺は息を止めた。
俺とベルフェゴールの間、何もないはずの空間に、二つの人の形をした黒い靄のようなものが、ゆらりと現れていたのだ。
それは、半透明で、向こう側が透けて見えた。しかし、その気配は、俺が憎んでやまない、あの二人の男たちのものだった。
武田部長と、佐々木。
靄でできた彼らの顔のモニュメントは、恐怖と苦痛で極度に歪んでいた。
声にならない叫びが、音のないまま、こちらに伝わってくるようだ。彼らは、俺に向かって、必死に手を伸ばそうとしている。
許しを乞うように、助けを求めるように。
俺は、その場に釘付けになった。これが、魂。これが、俺が対価として差し出したもの。
現実離れした光景だった。
「うん、まあまあの味かな」
そんな俺の横で、ベルフェゴールは、まるでレストランで料理を品評するかのように、こともなげに呟いた。
「安っぽいプライドと劣等感がこびりついてて、ちょっと後味が悪いけど。まあ、生贄としては、そこそこじゃない?」
彼女はそう言うと、ふわりと宙に浮かび上がった二つの魂へと、ゆっくりと手を伸ばした。その白い指先が、武田部長の形をした靄に触れる。
瞬間、靄は悲鳴を上げるように激しく震え、次の瞬間には、まるで掃除機に吸い込まれる埃のように、ベルフェゴールの小さな手のひらの中へと、一瞬で吸い込まれていった。
続いて、佐々木の魂も。抵抗しようともがくような動きを見せたが、それも虚しく、同じように、跡形もなく彼女の中に吸収されて消えた。
あっけない、幕切れだった。
数分前まで、この世界のどこかで生きていたはずの二人の人間が、今、俺の目の前で、完全に『消滅』したのだ。
「彼らは今頃、永遠の煉獄で苦しみを味わい続けてるよ。終わりなくね」
ベルフェゴールは、満足そうに手をぱん、と払うと、俺に向き直った。
その赤い瞳には、何の感情も浮かんでいない。彼女にとって、これは食事や呼吸と同じ、ごく自然な行為なのだろう。
復讐は終わった。
そして、俺は文字通り悪魔に魂を売ったのだ。
「さて、と」
そんな俺の心情を知ってか知らずか、ベルフェゴールは軽い口調で言った。
「これからはパートナーだね。私のことは、気軽に『ベル』って呼んでいいよ。ベルフェゴールって、ちょっと長ったらしいでしょ?」
「……ベル」
「うん。よろしくね、ジュン――いや、ご主人様?」
「やめろ。普通でいい」
「あはは、冗談だよ。じゃあ、改めてよろしく。それと、もう一つ大事なこと」
ベルは、人差し指を一本立てる。
「私のこの姿、君以外の人間には見えないようにしておくから。その方が、何かと面倒がなくていいでしょ?だから、急に独り言を始めたヤバい奴だと思われないように、気をつけてね」
「……分かった。お前の能力で、か」
つまり、これからは、俺とこの悪魔、二人だけのチームということか。他の誰にも見えない相棒。ある意味、理想的な関係なのかもしれない。
「じゃあ、これからどうする?目的は果たしたんだろ」
俺が尋ねると、ベルは少し考えるそぶりを見せてから、にやりと笑った。
「目的?とんでもない。これは、始まりに過ぎないよ」
彼女の赤い瞳が、これまで見せたことのない、燃えるような野心の色をたたえていた。
「まずは、ここから出ようか。話はそれからだ。君のその『葬送』スキル、まだまだ面白い使い方がたくさんあるんだからさ」
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