疲れた社畜は、外れスキル『ゴミ箱』で無双する ~Fランク『ゴミ箱』スキルでダンジョン攻略~
速水静香
第一章:社畜
第一話:社畜の限界と『ゴミ箱』
2025年、東京。
俺は残業をしていた。
このビルの窓の外に広がる東京の夜景も、今はもう眠りについているように見えた。
ああ、最後に清掃のスタッフが通り過ぎてから、一体どれくらいの時間が経っただろうか。
夜もそろそろというオフィスは、まるで墓場みたいに静まり返っていた。時折、ゴウ、と空調の低い唸りが響くだけ。
これが中堅の事業会社に勤める、山本ジュン(29)の現実だった。
目の前にある、ディスプレイに映し出されたパワーポイントの最終ページ。
そこには、俺が三ヶ月もの間、心血を注いできたプロジェクトのすべてが詰め込まれていた。
しかし、その無数の図形や文字列は、もはや俺の思考回路では意味のある情報として処理されなくなっていた。
ただの色のついた記号の羅列が、乾いた目の奥をチカチカと刺激するだけだ。
一体、何時間こうしているんだろうか。
マウスを握る右手は、まるで自分の体の一部ではないかのように冷たく、指先はキーボードの上で凍りついたように動かない。
これが、俺の日常。
毎朝、俺は満員電車という名の現代の奴隷船に押し込まれるところから、一日を始める。
見知らぬ他人の体温とため息に挟まれ、スマートフォンの画面に目を落とすことで、かろうじて自我を保つ。
会社最寄りの駅で人々の波に吐き出され、コンビニで買った味気ないサンドイッチと苦いコーヒーを胃に流し込む。それが俺の朝食だ。
オフィスでの仕事は、創造性とは無縁の作業の繰り返しだった。
上司の思いつきで変わる仕様に合わせて、何十枚ものスライド資料を修正する。フォントのサイズが違う、グラフの色が気に入らない、もっと『インパクト』のある言葉を使え。
そんな曖昧で理不尽な指示に、ただ「はい」と答えて修正を繰り返す。
中身のない会議に何時間も拘束され、ただ頷くだけの置物になる。
客先からの無茶な要求と、社内の非協力的な態度の板挟みになりながら、ひたすらに頭を下げる。
そんな毎日が、延々と繰り返されていた。
まるで、出口のない迷路をさまよっているようだ。
そして、俺の精神を最も深く削り取っていくのが、武田部長からの執拗なまでの圧力だった。
「おい、山本。まだこの資料も終わらないのか。お前の作業効率は新人以下だな。給料分の働きもできないなら、いる意味ないんじゃないか?」
フロア全体に響き渡るような大声。
その言葉には、業務上の指導というより、人格そのものを否定するような粘り気のある悪意が込められていた。
周囲の同僚たちは、一瞬だけこちらに同情的な視線を向け、しかしすぐに自分のモニターへと顔を戻す。
誰も助けてはくれない。
見て見ぬふりをする。
それが、ここの暗黙のルールだった。
疲労困憊の体を引きずって安アパートに帰り着き、スーツのままベッドに倒れ込み、気絶するように数時間眠る。
そして、悪夢のようなアラームで叩き起こされ、再びあの灰色で息の詰まるようなオフィスへと向かう。
そんな日々の中で、俺にとって唯一の救いは同期である佐々木の存在だった。
同じ部署に配属され、共に武田部長の理不尽な要求に耐え、安い居酒屋で愚痴を言い合っては励まし合ってきた。
彼がいるから、まだ何とかやっていける。心のどこかで、そう思っていた。
その淡い信頼が、砂の城のようにもろく崩れ去ったのは、つい数時間前のことだ。
俺がここ数ヶ月、休日も返上して心血を注いできた新規プロジェクトの企画案。
競合の情報を徹底的に分析し、実現可能性を検証し、何度も何度も顧客候補に足を運んで感触を確かめてきた、俺のすべてだった。
それが、いつの間にか佐々木の手によって部長に提出され、彼一人の功績として報告されていたのだ。
役員会議室の前を通りかかった時、偶然聞こえてしまった。
「いやぁ、武田部長。例の新規プロジェクトの件ですが、私が一人で何とかまとめ上げましたよ。山本ですか?ええ、彼なりに手伝ってはくれましたが、正直、足手まといというか……まあ、ほとんどは私が軌道修正したようなものです」
その声は、いつも俺に向けられる親しげなそれとは全く違う、媚びへつらうようなねっとりとした響きを持っていた。
頭が真っ白になる、とはこのことだろうか。自分の足が床から離れていくような、ふわっとした浮遊感に襲われ、俺はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
信じていた人間にまで裏切られた。
会社という組織、そして人間関係そのものに、プツリと何かが切れる音がした。
もう、何もかもがどうでもいい。
退職、という二文字が脳裏をかすめる。しかし、今の俺に、この会社を辞めて次に行くあてなどあるはずもなかった。
毎月の給料は、家賃と生活費、そして奨学金の返済でほとんど消えていく。貯金も雀の涙ほどだ。
年齢は三十路手前。特別なスキルも資格もない。
この会社で身につけたのは、理不尽に耐えるスキルと、上司に頭を下げる技術だけだ。
結局、俺はどこにも行けないのだ。この地獄のような場所で、心が完全に壊れてしまうまで働き続けるしかない。
絶望。
その一言が、俺の今のすべてだった。
◇
その日、俺は会社を出た後も、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
安アパートの狭い一室に帰ったところで、待っているのは孤独と、明日への憂鬱だけだ。
俺は、意味もなく深夜の街をふらつき、気づけば、これまで一度も足を踏み入れたことのないエリアに来ていた。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街とは違う、どこか雑然としていて、それでいて活気に満ちた場所。
そんな俺の目に、一つの建物が飛び込んできた。
『探索者ギルド 東京支部』
ガラス張りの近代的な建物の壁面に、そう刻まれていた。
そこは営業中だった、この深夜においても。
深夜なのに、ご苦労なこった、……いや、それは俺も同じかと自嘲した。
探索者。
現代社会において、その言葉を知らない者はいないだろう。
二十数年前に世界各地へ突如として出現した『ダンジョン』。
そこから産出される素材や魔力は、世界を一変させた。
そして、その危険なダンジョンに潜り、モンスターを討伐し、富と名声を得る者たち。それが探索者だ。
一攫千金。人生逆転。
テレビやネットでは、そんな夢物語が毎日のように喧伝されている。
だが、今の俺には、その言葉が逆に魅力的に響いた。
今の日常から抜け出せるのなら、何でもよかった。全く違う世界の理に触れてみたかった。夜にいる虫が電灯に吸い寄せられるように、俺はギルドの自動ドアをくぐっていた。
深夜だというのに、内部は多くの人々でごった返していた。いかにも『探索者』といった風情の、屈強な男女が行き交っている。
場違いなスーツ姿の俺に、好奇の視線がいくつか突き刺さる。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。俺は受付カウンターの一つに向かった。
「あの……探索者になりたいんですけど」
対応してくれたのは、少し気の強そうな女性職員だった。彼女は俺の姿を上から下まで値踏みするように一瞥すると、業務的な笑みを浮かべた。
「はい、分かりました。では、こちらの書類にご記入ください。探索者になるには、ライセンスの取得と、『スキル判定』によるスキルの鑑定が必要になりますが、よろしいですか?」
「はい、お願いします」
言われるがままに手続きを済ませる。夢の中にいるような、ふわふわとした感覚。
やて、名前を呼ばれ、奥の特別な一室へと案内された。部屋の中央には、SF映画に出てくるような、人間一人が入れるサイズのカプセル状の機械が鎮座している。
「では、こちらの中へどうぞ。すぐに終わりますので、リラックスしてくださいね」
カプセルが閉まると、ふわりと体が浮き上がるような感覚に襲われる。目を閉じると、温かい光が全身を通り抜けていくのが分かった。
これが『スキル判定』か。
もし、俺にも何かすごいスキルがあったなら。
そんな力があれば、武田部長や佐々木、あいつらみたいなゴミを無視できる。そして、この理不尽な社会で、自分の力だけで生きていくことができるかもしれない。
なけなしの希望が胸の中で小さく膨らんでいた。
やがて、機械の扉が静かに開き、儀式が終わったことを告げた。
呆然とカプセルから出ると、先ほどの女性職員が真新しいカードを手に、待っていた。
「お疲れ様でした。こちらが、あなたのライセンスになります。スキル鑑定の結果ですが……」
彼女は手元の端末に視線を落とし、一瞬、その表情を曇らせた。そして、同情するような、憐れむような、そんな視線を俺に向けた。
「あなたのスキルは……『ゴミ箱』。ランクは、Fです」
「……ゴミ箱?」
聞き返した俺の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「はい。詳細説明によりますと……『不要物を収納することができる』、とのことです」
職員は申し訳なさそうにそう付け加えた。俺の顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
「ああ、いえ。しかしですね、収納スキルというのは、使い方次第では非常に便利ですよ!ダンジョンで出た素材とか、荷物が多くなった時にきっと役立ちますから!」
その空々しい励ましの言葉が、耳を素通りしていく。
不要物を収納する、か。ドロップアイテムは不要物じゃないだろう。それに、戦闘能力ゼロの俺が、どうやってアイテムを手に入れるっていうんだ。
「そう、ですか……」
俺ががっくりといった様子で言うと、職員はとうとうフォローを諦めたのか、気まずそうに目をそらすと、事務的な口調に戻った。
「……こちらがライセンスになります。ご武運を」
差し出されたFランクのライセンスカードを、俺は無言で受け取った。
会社だけじゃなかった。
この新しい世界でも、俺は『ゴミ箱』なのか。
やっと見つけたすがるような細い希望は、その場でブツリと断ち切られた。
手渡されたFランクのライセンスカードが、まるで自分の価値を示す値札のように、やけに重く感じた。
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