第2話 初めての食卓に私の居場所はない

家族は、壊れやすいものだった。


春の夕暮れ、住宅街にたたずむマンションの入り口に立った。

沈みかけた陽の色が淡く差している。

新しい玄関をくぐった瞬間、胸の奥がざわめいた。


靴箱の上には、整然と並んだ写真立て。

若い母親に抱かれる幼い少女の写真が、

古びたフレームの中で色あせている。


そこに“私の居場所”は、当然ながら写っていなかった。


「いらっしゃい」

母の隣に立つ男—浩司さんが、穏やかな声をかけてきた。

背広の襟には仕事帰りの疲れが残っているが、口調は崩さない。

その横に立つのは、私と同い年の少女。沙耶。

制服のスカートはきっちり折り目正しく、

髪は肩までの長さで整えてある。

落ち着いた雰囲気を漂わせているのに、

瞳の奥には隠しきれない警戒の色があった。


「……こんにちは」

小さく頭を下げると、沙耶は一拍おいて「どうも」と返した。

声の高さも抑えられ、必要最小限のやり取りだけ。


壁に掛かった時計の針の音が、カチカチと耳の奥まで突き刺さる。

四人分の椅子に腰を下ろすと、背中に冷たい空気がまとわりついた。

足先が自然と縮こまり、掌を膝の上で握りしめる。

周囲の笑顔や料理の匂いも、私には届かない。

空気だけが、胸の奥に重く沈んだ。

母は笑顔を作り、浩司さんは会話をつなごうとする。


「結菜ちゃんは、勉強は得意なのかい?」

「普通です」

「部活とかは?」

「入ってません」

質問と返事の間に、薄い膜のような沈黙が挟まる。

沙耶は会話に加わらず、冷えたお茶をすするだけだった。


母の横顔には“うまくやらなきゃ”という焦りが浮かび、

私は言葉を返せないまま視線を落とした。

そのとき母は一瞬、テーブルの端に視線を落とした。

「これでいいのかな」と自分に問いかけているように見えて、

私は胸の奥にざわつきを覚えた。


食卓に並んだのは、ハンバーグにソースの匂い、横には彩りのサラダと温かいスープ。

フォークの先が皿に当たるたび、軽い音が静けさを裂いた。


母が「家庭らしい夕食」を整えようとしたのが伝わってくる献立だった。

その温かさを前にしても、誰も「おいしい」とは口にしない。

ただ箸の音だけが、規則正しく響いていた。


「これから、みんなで暮らしていけたらいいな」

母が勇気を振り絞るように言った。

けれど沙耶は俯いたまま「……そうですね」と小さく答え、

浩司さんは曖昧にうなずくだけ。


そこにあったのは、期待よりも「まだ始まっていない」空気だった。

皿を下げる母の背中を見ながら、私は思った。


母は“家族を作る”と言った。

けれど、その言葉と現実の間には、深い溝が横たわっている。

新しい家に入ったはずなのに、温もりはなかった。


——リビングにいる四人の姿は、ただの“寄せ集め”にすぎなかった。

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