二段ベッドの下で、禁じられた恋が始まった
凪野 ゆう
第1話 母の突然の結婚宣言
香水とタバコの匂いが残っていた。
キッチンのテーブルには、買い忘れた牛乳のレシートと、
弱い筆跡で書かれた置き手紙—
「遅くなる、冷蔵庫にカレー」
いつも通りの夜。
そのはずだった。
電子レンジのガラス越しに、皿が回り続ける。
温め終わったカレーを一口食べたとき、
玄関の鍵が鳴った。
「ただいま」
いつもより早い帰宅。
母はヒールを脱ぎながら、小さく息を吐いた。
夜の店でつくった笑顔の癖が、
家に入ってもしばらく抜けない。
私は食器を持ったまま、わずかに会釈する。
母は私の向かいに座り、
湯気の向こうから「学校は?」と訊いた。
「普通」
返事は短く床に落ちて、
カトラリーが静かに当たる音だけが残る。
しばらく沈黙が続いたあと、
やかんが小さく鳴り、母は立ち上がって湯を注いだ。
マグカップの縁に口紅が淡く残る。
指で拭おうとして、やめる。
湯気の向こうで、母の声がわずかに震えた。
「結菜、話があるの」
その言い方を聞くと、胸の奥がぞわっとした。
言葉を口にする前に、手がカップの縁をぎゅっと握りしめる。
“話がある”――いい話だった試しがない。
思わず肩を小さく震わせ、息を止める。
しかも今夜は、妙に機嫌が良さそうだ。
私はスプーンを置き、指先を食器の上で揃えた。
母はテーブルに両手を置き、わずかに背筋を伸ばした。
「私、結婚する」
電子レンジの時計が、21:08で止まっているように見えた。
聞き間違いかと思った。
でも、母は続ける。
「ちゃんとした人よ。浩司さんっていうの。
南條浩司さん。娘さんもいて……沙耶、あなたと同い年なの」
相手のことを、母は少し息を整えて説明した。
——数年前に妻を病で亡くし、それ以来、娘と二人で暮らしてきた人らしい。
母は「優しい人よ」と続けたけれど、
私の胸のざわめきは収まらなかった。
「ずっと二人でやってきたけど、
これからは“家族”として支え合いたいと思うの。
結菜のためにも」
“私のため”。
そう言われるたび、心の奥にざらつきが走った。
母は、言い訳をするように笑みを足した。
「ちょうどいい時期でしょ。
新しい家に移って、学校も転校して……
春から二年生になるタイミングだから」
……春。
言葉の端に、桜の花びらのような重みが落ちてきた。
胸の奥が冷えていく。
私はマグカップを引き寄せ、
飲みもしないまま湯気だけを吸い込んだ。
「……私、どうなるの」
思っていたより幼い言葉が口から出て、
自分で驚く。
母はすぐに答えた。
「一緒に行く。もちろん」
それから少しだけ声を落とす。
「今まで、母親らしいこと、ちゃんとできなかったから。
やり直したいの」
……やり直す。
過去形がゆっくり沈み、
テーブルの木目に吸い込まれていく。
私はうなずきも首を振りもせず、
マグカップの縁を指でなぞった。
母は、言葉を継ぐタイミングを何度か逃し、
結局「来週、紹介するから」とだけ言った。
私は「……別に」と返し、皿を持ち上げる。
磁器がステンレスに当たり、
短い音を立てた。
ライトを消すと、部屋は一瞬で冷えた。
布団にもぐり込み、天井の小さなひびを見つめる。
目を閉じれば、さっきの言葉が違う声色で再生される。
“結菜のために”
“家族を作る”。
どこまでが本音で、
どこからが言い訳なのか。
わからない。
けれど、たぶん……どちらも本当なのだ。
母は自分を守りながら、私も守ろうとする人。
その手はいつも空中で止まり、
私もまた届かないところに立つ。
やがて隣の部屋の時計が正時を告げ、
遠くで救急車のサイレンが淡く伸びた。
布団の中で、小さく息を吐く。
“居場所”という言葉を口の中で転がす。
来週には、私の“居場所”は新しい名前を与えられる。
——私はそこに、うまく立てるだろうか。
答えは、まだない。
ただ、冷めたカレーの匂いだけが、
夜の底に取り残されていた。
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