第11話 平凡な朝には、危機が潜んでいる

「はぁ……」

頭の中がぐちゃぐちゃのまま、ため息をつきながらパジャマのポケットに手を突っ込むと、何かがそこに入っているのを感じた。

何気なくそれを取り出すと――

一瞬で眠気が吹き飛んだ。

仄かに花の香りが漂う、黒いハンカチが手のひらに広がったのだ。

……え?これって……。

「おじさん!?どうしたんですか!?さっきすごい音がしたけど!」

「はっ?あ、あぁ、大したことない。ただの朝のストレッチだ」

「そ、そうですか……ずいぶんハードなストレッチだったみたいですけど……。あ、もうすぐ朝ごはんが出来上がりますから、先に洗顔してきてくださいね!」

「……お、おう、悪いな」

……まぁいいか。今は考えても仕方ない。

まだ少し早いけど、今日はちょっと早めに家を出るとしよう。

どうせあのしつこい小動物も、俺がこんなに早く出かけるとは予想してないだろう。ふっふっふ……って、ん?

……いや、待て。

俺、さっき誰と喋ってたんだ???


歯ブラシをくわえながら鏡を見た瞬間、顔が固まった。

俺はそのまま、振り返りもせずに洗面所を飛び出す!

「……」

「……ん?」

キッチンでは、小動物のような印象の元気な少女が、エプロン姿で俺と目が合った。

その途端、何かを思い出したかのように、ぱあっと明るい笑顔を浮かべた。

「おはようございます、おじさん~♪」

「おはよう……じゃねえよ!?なんでキミが俺ん家にいるんだよ!?!?」

予想外の登場にビビって、思わず数歩後ずさりし、盛大にしりもちをついた。

「まさか……見た目は人畜無害なフリして、昨夜勝手に合鍵を作られたとか言わないよな!?」

「そ、そんなことしてませんってば!おじさんにそんな失礼な真似をするわけ……」

「……じゃあ、どうやって入ったんだよ」

「ちゃんとノックはしましたよ……でもいくら呼んでも反応がなかったから、どうしようかなって思ってたら、ちょうど通りかかった大家さんのおばあちゃんが鍵を開けてくれて……本当に親切な方ですね!」

……またあの悪魔ババアかぁぁああ!!いつもいつも余計な真似ばかりしやがって!

「これって、立派な不法侵入って知ってるか!?住人の許可もなく勝手に――」

「そういえば、おばあちゃんからこれ預かってるんだった。なんか……請求書みたいなの?」

「おわっ!?そ、そうだ!スープ、そろそろ沸いてるみたいだぞ!」

「……え? まだそんなに時間経ってないはずだけど……」

その隙に、俺は彼女が手にしていた請求書を、誰にも気づかれない速さでひったくると、ポケットの奥にねじ込んだ。

「こ、こほん。いい香りだな、ところでその食材はどこから手に入れた?うちの冷蔵庫には、こんな余分なもんなかったはずだけど?」

「余分って何よ……むしろ私の方が聞きたいです!」

ふふ、ちょろいもんだなこのガキは。

話を強引に逸らされたことにも気づかず、スプーンを握りしめたアンフィールがぷくっと頬をふくらませて抗議する。

「それで?何が言いたいの……まさか、トイレの水の流し方がわかんないとか?」

「違いますから!前から気になってたんだけど、おじさんのキッチンって……カップ麺とコーヒーしかないじゃないですか!」

「はっ、バカ言うな。昨夜までは、冷蔵庫にはビールも入ってるぞ?」

「……」

……そんな目で見るなよ。

「……私が言ってるのは、食べ物のことですっ!それと、お鍋もそろそろ新しいのに替えたほうがいいと思いますよ?」

「ちっちっち、新しい鍋だって?キミはまったく分かってないな」

俺は肩をすくめながら、目の前の無知な小動物に人差し指を振ってやった。

「いいか、よーく聞け、社会の厳しさってやつを教えてやる!大人の財布とは、リスクコントロールの命綱なんだ。無駄な出費ひとつで、ドミノの最初の一枚を倒すようなもんでな……今月の予算計画が崩壊して、赤字一直線!結果的に取り返しのつかない事態になる可能性だってあるんだ!」

「な、なるほど……まさか鍋一つでそんなことに……うん?でも、おじさんの言う通りなら、ビールを減らせば、もっとリスクを下げられるんじゃないの?」

「……」

ふん、小娘が何をぬかすか。大人の世界ってのはな、時には『冒険の勇気』も必要なんだ!

「と、とにかくっ!何を食べるかは俺が決める!それに、キミみたいな世間知らずのポンコツが作った手料理で、この『カップ麺の虎』の舌を満足させようなんて、百年早いっての!」

ぐぅぅぅ……

しかし、俺がドヤ顔で小動物相手に説教を垂れているその時――

腹の虫は、見事なまでに空気を読まず、正直に鳴きやがった。

「……」

「ふふっ、お腹の方がずっと正直みたいね♪ ところで、で、お皿て普段どこに置いてるの?」

「……右手の引き出しの中だ」

「ふむふむ、あと、他に気をつけることある?苦手な食べ物とか?」

そう言いながら彼女はエプロンのポケットから、可愛いクマの絵が描かれたメモ帳を取り出して、何やら丁寧に書き始めた。

……おいおい、そこまでメモるのかよ?

俺の生活にプライバシーってもんはないのか?

でも……よく考えたら、この子がここにいて、俺がパジャマ姿でもまったく動じなかった時点で……もう俺の負けは確定してたんだろう。

「……着替えてくる。あと、砂糖は控えめにな」

「むぅ……はい……」

しぶしぶ砂糖ポットをテーブルに戻す彼女を横目に、俺はようやく落ち着いて洗面所へと戻った。


……三十分後。

「ふぅ……げぷっ」

目の前の朝食を一瞬で平らげて、久々に『食ったぁ~』って感じの満足感に包まれながら、口いっぱいに広がるお茶の香りとともに、ここ数日の疲れがじんわりと溶けていくようだった。

「ふふっ」

その横で、顎に両手を添えてにこにこしてる小動物が一匹。

「どうですか?おじさん、私の料理、お口に合いますか……?」

「ふむ……まあまあ、ギリギリ合格ってところか。ガキにしては頑張った方だが、調子に乗るなよ?」

「むぅ……ほんと素直じゃないんだから、おじさんは」

リスみたいにほっぺを膨らませる彼女を無視して、俺は空の茶碗を置き、少しだけ真面目な口調に戻る。

「さて、本題に入ろうか。こんな朝っぱらから押しかけてきた理由……まさか、本気で朝メシ作りに来ただけじゃねぇよな?」

「そ、そうなんだけど……」

バッグから端末を取り出しながら、どこか落ち着きのない声で言った。

「昨日言ってた、『両立できる方法』……見つけたのか?」

「うぅ……実はそれ、昨晩ずっと考えてたけど……まだ、よく分かんなくて……」

……おいおい、このポンコツ小動物め、マジで朝メシ作りに来ただけだったのか!?

「普通なら、真っ先に群星協会(スターリンク)に相談行くとか、そういう発想にならないか?」

「だ、ダメだよそれはっ!」

「……なんで?」

「だって……」

反射的に俺の顔を見上げたアンフィールの視線は、さらに沈んだものになった。

「だって……おじさんは、私の端末をハッキングしたスーパー・ハッカーなんでしょ?もし群星協会(スターリンク)にバレたら……絶対に大変なことになるよ……たとえ私を助けるためだったとしても、罪に問われる可能性だって……あるかも……」

ああ……そういうことか。そういえばこの子、昨日の言い訳、まるっと信じ込んでるんだったな……。


まぁ、実際あの件は群星協会(スターリンク)にバレるとちょっと面倒なのは確かだけど。

でも……自分のことを後回しにして、他人のことばっかり気にかけるヤツなんて、ほんと久しぶりだな。

無意識のうちに『もしかして裏があるんじゃないか』なんて疑ってしまう俺は、やっぱり現実に毒されすぎたのかもしれない。

……はあ、だから俺はこういう、時々初心を思い出させてくるガキが苦手なんだよ。

「キミなぁ、人のことよりまず自分の心配を――うっ!?」

言いかけたその時、背筋にゾクリと悪寒が走った。

俺は即座に窓の外に視線を向け、椅子を蹴って立ち上がる。

「お、おじさん? どうしたの急に……?」

「伏せろ!」

「え、ええっ?!」

説明する余裕なんてなかった。俺は咄嗟に彼女の頭を押さえ込むと同時に、テーブルに置いてあった端末に手を伸ばした——

「ウィングス・スターライト!」

『オーダー・アライブド』

お馴染みのAIボイスが鳴り響き、蝶に包まれるようなまばゆい光に包まれながら、俺の容姿と服装は一気に変化していく。体感では長く感じるものの、実際にはほんの数秒も経たないうちに——

気づけば、俺はすでにあのキュート全開の魔法少女の姿となり、まだ手に馴染んでいない『シュークリーム』をしっかりと握りしめていた。

「シールド展開にゃ!」

ハート形の泡が弾けるような透明のシールドが、俺の腕の前に広がると同時に——

目の前の窓ガラスが『バキィン!』と派手に砕け散った。

「にゃっ……?!」

かみなりのような光刃が、凄まじい勢いで窓をぶち破って突っ込んできたのだ!

ものすごい轟音とともに、シールドにぶち当たり、眩しく灼熱の火花を周りに撒き散らした。

「ひゃあああっ!?」

飛び散る破片と、アンフィールの悲鳴が入り混じる中、耳元の髪が強烈な風圧に煽られて大きく舞い上がる。

あまりの衝撃に、全力で踏ん張っても足元は後退を止められない——

だが、その謎の光刃との攻防がじわじわと押し込まれ、ついにはシールドが限界を迎えようとしたその時々、まるで最初から『そこまで』と決められていたかのように、刃の動きをあっさりと止めた。

次の瞬間には、俺たちの目の前からあっという間に離れ、来た時と同じく、空へと飛び去っていったのだった。

「……逃げた、にゃ?何だったんだ今の……」

俺はほんのわずかに息をついたが、それでも完全には気を緩めず、手にした、ところどころへこんだ盾を構えたまま警戒を解かなかった。

「うぅ、おじさん!?いったい……何が起きたの……?」

さっきの衝撃からようやく立ち直ったアンフィールが、頭を抱えつつ散らかった部屋を見回しながら、困惑気味に俺を見つめてきた。


……まぁ、こっちもまだ全然状況を飲み込めてないんだけどな。

「まだはっきりとは分からないが……確かなのは、遠距離から何者かが攻撃してきたってことだにゃ」

「攻撃って……まさか、また『陣線(パラダイス)』の……!?」

「その可能性は高いにゃ……」

昨日の一件を思い返すと、アンフィールが何らかの理由であの連中に狙われているという線は十分に考えられる。

ただ……試すように一撃だけ放って、あっさりと引き下がるなんて、どうも『陣線(パラダイス)』のやり口っぽくない。

それに、さっきの光刃の動き……あれほどまでに熟練されたエーテルの使い方……幹部クラスの異変者(イグニス)というよりは、むしろあれは――

「ところで、その『にゃ』って語尾……」

「細かいこと気にするなにゃ!」

「だ、だって……その姿に『にゃ』まで加わったら、もう完全に……」

……あっ。

そういや、こいつが俺のこの姿をちゃんと見るのって、初めてか。

じーっと俺を見つめているその顔……なんだか、ピクピクと引きつってるように見えるんだが。

これ……黒歴史になるんじゃないだろうな?!

だって、いい年した男が……いきなり目の前で、コスプレみたいなにゃんこ魔法少女に変身したんだぞ?

誰だってドン引きするに決まってんだろうが!!

──と思ったその時。


「か、可愛いっ! これが……これが『ギャップ萌え』ってやつだよね!」

「……へ?」

突然立ち上がったアンフィールは、問答無用で俺を抱きしめてきた。

そのままぬいぐるみでも扱うように、容赦なくナデナデと撫でまわしてきた。

「うぅ~わぁ~このサラサラの銀髪、何これ!?ずるいよ~、羨ましすぎる……私なんて、すぐ寝グセついちゃうタイプで、毎朝大変なのに……んむむ?このピコピコ動く猫耳!これはもう、反則級の可愛さだよ!」

口ではテンション爆上げでしゃべり続けつつ、腕の力はますます強くなる一方のアンフィール。

そして俺はというと、柑橘系のシャンプーのいい匂いと、柔らかく心地よい感触に包まれて、なぜか目を閉じて微妙に頬がゆるみはじめる――

――って、癒されてる場合ニャアアアアアッ!!

なんで猫みたいに撫でられて満更でもない顔してんだ、俺ぇぇ!!

「離せっ!空気読めこのバカにゃろう!!」

「きゃっ、くすぐったい~!」

おでこににゃんこパンチを食らったアンフィールも、ようやく正気に戻ったようだった。

「ご、ごめんなさいっ!……でも、あまりにも可愛くて、つい……!」

「……ここに留まるのは危険だ、とにかく、一旦外に出るぞにゃ」

「うん、それは私も分かってる!ヒーロー緊急マニュアルによると……襲撃を受けた場合は、まずは身を隠せる場所に移動するのが基本!」

「……そんなのあったニャ?」

「え?違うの?」

「い、いやいや、間違ってにゃいにゃ。そう、その通りだにゃ」


――実際のところ、これ以上部屋が壊されたら……俺、ガチで破産一直線なんだが!?!?

「でも……これからどこに行けばいいのかな……?」

「そんなことなら任せろにゃ。いいアイデアがあるから、ちょっとスマホ貸してくれにゃ~」

俺がニヤリと意味深な笑みを浮かべると、アンフィールは明らかに不安そうな顔で、じっとスマホの画面を見つめてきた。

「で、でも……」

「なににゃ?まさかロック画面がヤバい系とか?へぇ~人は見かけによらないってやつにゃ~」

「ち、違うよ!ただ、ちょっと気になってたのは……」

「なんにゃ、言いたいことがあるならはっきり言うにゃ。こんな状況で回りくどいのはナシにゃ!」

「……おじさん、お仕事……まだ間に合うの?」

「……」

それをもっと早く言えにゃあああああ!!

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