第10話 喜劇の幕引きは、悲劇の開幕

――ザアアアア……

それは、波の音だった。

――ザアアアア……


朱に染まる潮が、真珠のように白い砂浜を、途切れることなく打ちつけていた。

周りに誰もいない。鳥のさえずりすら聞こえず、まるでこの世界に俺一人だけが取り残されたようだった。

黄昏とも、黎明ともつかない日差しが、遥か水平線の彼方で揺れていて、海面を反射する波光が、夜と朝の境界を染め上げていた。

まるで雪原のように果てしない岸辺をひとり歩きながら、ほんの一瞬残った足跡さえも、すぐに押し寄せた波によって洗い流されてしまう……まるで、最初から誰もここにいなかったかのように。

遥か彼方に浮かぶ日差しを見つめながら、ざわめく波音に導かれるまま、どれほど歩いたのだろうか。


やがて先の方に、ぽつんと浮かぶ丸い影が視界に入った。

まるで池の中に浮かぶ、小さな一枚の葉のようだった。

だが近づいて見ていると、初めてそれが優雅なパラソルであることに気づいた。

けどこの傘の持ち主の正体に心当たりがない。

だが、こんな無人の海岸に、しかも強い日差しでもないのに、この目立つパラソルを立てているあたり……かなり変わった趣味の持ち主だろう。

木陰のように優しく包み込むパラソルの下には、控えめなデザインのベンチと、美しく装飾された一本脚のテーブル。

そこにはまだ湯気と芳香を漂わせる紅茶のカップと、使い古された日記帳が置かれていた。

まるで、誰かを静かに待ち続けているかのように……

だが、その芳醇な香りよりも――

俺の目を惹きつけたのは、その隣にぽつんと置かれていた、質素な日記帳だった。

どうせやることもなかったので……ちょっと気になった俺は、なんとなく手を伸ばして日記帳を取ろうとした、そのとき――

「挨拶もなしに、勝手に人の物を触るつもり?」

……えっ?

思わず振り返った。

足音も気配もなかった。その声の主は、まるで夢から抜け出してきたかのように、背後に立っていたからだ。

すると、風に乗ってほのかに漂ってきたのは、スズランの香り――

深い山の谷間にしか咲かないその花は、皮肉なことに「幸福の訪れ」という花言葉を持っている――。

そしてその、スズランの色にも似た、雪のように純白な銀髪、海風に吹かれて静かに揺れていた。

日差しを透かしたその髪の一本一本が透けるようにきらめき、まるで夢のように美しかった。

開けた海辺を歩くには不釣り合いな黒のドレスは、どこか神秘的な気配を放ち、それに合わせた黒の手袋が、細くしなやかな指先を包み込むように纏っている。

その手に、不思議な雰囲気を纏った洋傘をしっかりと握りしめていた。

人形のように整った笑みともつかぬ表情と、深紅にきらめく瞳。

まるで、魂まで引き寄せられそうな、不思議な魔力を秘めているかのようだった。

しかし、その掴みどころのない雰囲気の中で……長いドレスの裾から覗く裸足だけが、真っ白な砂浜に、小さな足跡を一歩一歩残していた。

「……」

視界が一瞬、かすんだ。

何か熱いものが目を刺し、同時に、心の奥底――胸の奥で、ずっと忘れていた感情が溢れ出してくる──

懐かしさ、後悔、悲しみ、罪悪感……数え切れない想いが、頭の中で押し寄せる。

何かを言わなければならない、そう心が叫ぶのに――だけど、どんなに口を開こうとしても、一言も声を出すことができない。


「……言い訳のひとつもないの?あんなに屁理屈こねるの得意だったじゃない……まぁ、別にいいけど……とりあえず、その顔……拭いた方がいいわよ」

「……あ……」

そう言って、高級そうなハンカチをそっと俺の手に押し当ててきた。

すれ違いざまに感じたスズランの香りと、氷のように冷たい言葉が胸の奥を容赦なく貫いてくる。

「もういい歳なんだから……そんな子どもみたいに悲しそうな顔、やめなさいよ、ライク」

「……レ、レイナ……!」

視界から消えてしまうことが怖くて、思わずハンカチを握ったまま振り返った。

幸いなことに……彼女はただ、さっきのベンチに静かに腰を下ろしていただけだった。

「ここには私しかいないんだから、大声出さなくても聞こえてるわよ」

「いや、それより俺は……」

「コーヒーばかりじゃなくて、たまには紅茶もどうかしら?」

「……」

まるで返事なんて最初から期待していなかったかのように、レイナは黙々ともう一つのカップに紅茶を注いでいた。

仕方なく、俺も居心地悪そうに彼女の隣に腰を下ろした。

目の前の紅茶は、高貴な香りこそ漂っていたが、口に含んでも味はしなかった。

「最後に会ったのは……あぁ、外の時間ではもう六年も経ってるのね」

紅茶を一口飲んだレイナは、ふっと目を細めながら遠くを見つめ、昔のことを懐かしむように小さく息を吐いた。

……なぜだ。

なぜ、あんなにも覚えているはずなのに、そんなに穏やかでいられるんだ?

身も心もボロボロな自分とは対照的に、あの日から何も変わらない、記憶そのままの彼女の横顔を見つめながら――

心の奥に渦巻く複雑な想いを押し殺し、俺は苦笑した。

「……もうそんなに、経ったのか」

「ここに『時間』の概念がないのよ……どれだけ時が流れても、景色はずっと変わらない。だからこそ……こうしてまたあんたと会って、ようやく時の流れを思い出したの……特に……その剃り残したヒゲとかね」

「……悪いな。まさか夢の中でも、俺に色気がないとは思わなかったよ」

「……夢、ね。本当にそう思ってる?」

話の流れが変わった。

レイナは紅茶のカップを置くと、ふらりと浜辺へ歩いていき、くるりとこちらに背を向ける。

光と影の境界線に立つ彼女は、片側の髪だけが夕日に照らされ、もう一方の表情は影に覆われていて──まるで現実と幻想の狭間に存在しているかのようだった。

「……夢じゃないのか?」

「全部分かってるような顔をして……そんな下手な言い訳なんてやめなさい。ライク、あんた……また『鍵(ギフト)』に頼ったんでしょ?」

「……」


珍しく真剣な顔つきを浮かべたレイナ。

でも、彼女の本心までは読めなくて、俺は黙って手元の紅茶に目を落とす。

……そこ映っていたのは、自分でも呆れるほど情けない表情だった。

「相変わらず手厳しいな、レイナ。でも、あれがなかったら……今頃俺は……」

「分かってる。そうしなければ、あんたが助からなかったってことくらい……でも、意識が眠りの中でここに来るってことは、もう身体がかなり危ないってことよ。ライク、あんたが一番分かってるでしょ?このままじゃ──」

レイナの言葉がふっと止まる。代わりに、俺が静かにその続きを言った……

「──いずれ、レイナと同じになる。ずっとこの、エーテルで構成された世界に囚われたままってことだろ?」

「……」

肯定も否定もせず、レイナは何も言わずに目を伏せた。

夜も昼もない、光と影のあいまいな空の下で……その横顔は、どこか寂しげに沈んでいた。

その表情をこれ以上見ていられなくて、俺は無理にでも明るく話を続けた。

「でもさ……たとえそうなったとしても、案外悪くないかもな」

「……悪くない?」

……ぽつん。

手にしたカップの中に、さざ波のような揺らぎが広がっていく。

気のせいかもしれない……だが、ゆっくりと振り返ったレイナの雰囲気が、不穏なものへと変わっていくのを、俺は感じた。

赤い宝石のような瞳は、どこか焦点を失い、不安げな光を宿していた。

足元の白砂には、彼女の細い影が夕日でぐんと伸び、まるで束縛から逃れようとする亡霊のように、今にも這い寄ってきそうな気配を放っていた。

気づけば、耳元を吹いていた風が止まり、海は紅に染まりながら荒れ狂い、荒波は砂浜を激しく打ち続ける。

座っているベンチにまで、大地が小刻みに震えるのを、はっきりと感じ取れた――

「……くだらない冗談はやめて」

レイナが小さくため息を漏らすと、さっきまでの緊張に満ちたすべての気配が、まるで幻のように霧散していった。

水平線から差し込む柔らかな光が、再び穏やかな海と砂浜を照らしていく。

……けれど。

彼女の顔だけはどこか悲しげだった。

大切にしていたはずのパラソルも、いつの間にか、音もなくぽとりと足元に落ちていた――。

「ふざけてなんかじゃない、俺はただ──」

「ただ、何?」

……何って……そうだ、俺は……何が言いたかった?

過去の選択への後悔か?

周りを巻き込んだ罪悪感か?

それとも、ただ彼女に──

「レイナ……」

「あんた、自分の罪から逃げたいだけでしょう……」

──え?

「『鍵(ギフト)』の力を過剰に使って、私と同じ結末を迎えれば……長年抱えてきたその罪悪感からも、全部解放されるとでも?でも忘れたの?……私を、この世界に閉じ込めた張本人が──ライク、あんただってことよ」

「……」

……そうだ。


全部、バレてたんだ。

どんな立派な理屈を並べても──

どんな後悔や苦悩を語っても──

どんな綺麗な言葉で取り繕っても──

結局俺は――いつだって自分のことしか考えていなかったんだ。

『鍵(ギフト)』を使いすぎたことで、意識がここに引き寄せられたと知った瞬間、

俺の心に最初に浮かんだのは──後悔ではなく、むしろ、抑えきれない喜びと、都合のいい期待だった。

まるでその代償を、自分で納得していたかのように。

命の価値さえ、どこかで軽んじていた。

たとえそれが『悪魔との契約』だったとしても、彼女に会えるのなら構わない……

そう、本気で思ってしまった。

だけど。

さっき、レイナの冷たい言葉が、まるで冷水のように俺の熱を奪っていく。

『処刑人』である俺が……

『加害者』である俺が……

『裏切り者』である俺が……

彼女に救いを与える資格なんてあるのか?

自分自身を赦すなんて、そんな都合のいい話が許されるのか?

……わからない。

断言もできない。

怖い。

答えを突きつけられるのが、ただただ、怖かった。

そんな俺の惨めな表情見て、どこか満足そうな笑みを浮かべたレイナは、

ふわりと身を翻し、海の方を向いて裾を軽やかに回す。

まるで、ワルツの終幕で最後のターンを舞うかのように、長く優美なスカートが風を受けて、空中に美しい軌跡を描いた。

「ねえ、ライク……私の犠牲で、世都(ホープキャッスル)は少しでも良くなった?」

「……いや」

「そう……じゃあ、あんたは?私の犠牲で、少しでも変われた?」

「……」

その答えは、言うまでもなかった。

けれど、背を向け、表情を隠した彼女の姿。

まるで世界から見放され、それでも気丈に振る舞おうとしているように見えて。

最後の、かすかな願いまでも踏みにじるような残酷な現実を――俺は、とても告げられなかった。


「……今の生活に、満足してるよ」

「嘘つき」

すぐさま返ってきた、切り捨てるような一言。

振り返ったレイナは、曖昧で、どこか諦めに似た笑みが浮かんでいた。

「ライク、知ってる?私は……ずっと、ずーっと願ってたの。いつかあんたも、この果てのない世界に堕ちて、同じ孤独を味わえばいいのに、って」

「……それなら――!」

「でもね、今はもういいの。気が変わった」

赤く染まる瞳が、海よりも深く、どこまでも静かに揺れていた。

「少なくとも今のあんたが望む救いも、贖いも、ここにはない……帰りなさい、ライク。今日出会った、あの子のもとへ――彼女も、あんたを待っている。……もう、誰かを失望させないで」

「待ってくれ、レイナ! まだ、言えてないことが……お願いだ、もう少しだけでいい、時間をくれ!」

必死で手を伸ばす俺に、彼女は小さく首を振り、静かに数歩、後ろへと下がる。

その足跡すら、波にさらわれるように砂の上から消えていく。

「もう、ここへ来ちゃダメ。『鍵(ギフト)』の存在は、忘れてしまいなさい。あれは……危険すぎる」

「そんな、勝手に決めるなよ……!」

「はぁ……本当に、どうしようもないくらい頑固なのよね……でも、きっと—そんなあんただからこそ、私はずっと……ライク、あなたのことを——」

──ザァアアア……

打ち寄せる波の音が、レイナの言葉を飲み込んだ。

最後に彼女が何を言おうとしたのか聞き取れなかった俺は、思わず問い返そうとした——

その瞬間、地面が激しく揺れ、世界が崩れ始める。

「レイナーーーッ!!」

──ピピピッ、ピピピピッ!!

咄嗟に駆け出し、伸ばした手は何も掴むことなく虚空を切った。

そして——

耳を劈くようなアラーム音が鳴り響き、全身を包んでいた布団ごと、俺の身体はベッドの端を越え――盛大に床へと叩きつけられた。

「っつぅ……!」

散らかったホコリの上で、顔をしかめながら身を起こす。

夢の名残はもう消えかけていたけれど、残された胸の痛みだけが、妙にリアルで、温かかった。


「……いってぇ……くそ、もう朝かよ?」

まだ横になって数分しか経ってない気がするのに、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、容赦なく現実を突きつけてくる。

仕方なく、ぐしゃぐしゃになった髪を掻きながら、けたたましいアラームを止め、ギシギシと鳴る首筋を揉みつつ、重たい身体を起こした。

――もちろん、そこに白い砂浜も、紅に染まる波も存在しない。

あるのは、見慣れすぎた部屋の天井だけ。

「はぁ……肩がガチガチだ……全然疲れ取れてないな……」

あの変な夢のせいだろうか。

いや、果たして本当に、あれは『ただの夢』だと割り切っていいんだろうか。

「……レイナ」

誰も、答えてはくれない。

けれど、まるで耳元でまだ波の音が囁いているかのように、

朝日が部屋に差し込んでも、あの名前だけは……終わることのない悪夢のように、胸の奥で、いつまでも消えずに残り続けていた。


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