第12話「王都への帰還、灯の波」

 南砦に晒(さらし)の柱を預け、舟で王都へ戻る道すがら、胸の輪は皆どこか軽かった。白木の枠は砦の士官と若い神官に託し、帝国の女・カシアの黒板にも“境路”が刻まれた。預けることは怖い。だが、預けた先で路が動き続けていると知ったとき、肩の力が抜けるような安堵が訪れる。

 川面は滑り、両岸の柳が風に首を振る。呼び管が舟の艫で短く鳴り、港から「帰・黒・安」の三つの印が届く。王都の晒の柱が、俺たちの帰還を見て、示したのだ。


 桟橋に舟が触れた瞬間、子どもたちが走ってきて、竹筒を掲げて叫んだ。

「帰ったよ!」「黒が増えた!」「『預』の印もついた!」

 『預』――俺が板に新しく作った列だ。預けた路/預かった灯/預かってくれた名。南砦の士官と若い神官の名、そして境の向こうの「カシア」が、王都の柱にも刻まれている。名が見えるということは、誰が責任を持つかが見えるということだ。責めるためではない。奪わずに守るために。


 商会の大広間では、すでに王家の監査官が待っていた。白い衣に金の紐、背筋をまっすぐに伸ばし、目だけが柔らかい。

「南砦の晒しを確認した。帝国側の『境路』とも数字が照応している。国境は初めて“見える形を持った」

 監査官は板を掲げ、堂内にいた役人たちへ向ける。

「王家は宣言する。晒の柱を王都だけでなく、各地の村にも設ける。小祠を清め、路を繋ぎ、灯を共有する。公租は公開にて徴し、徴発は先渡しに改める」

 ざわめきが石壁に反響した。拍手は起きない。だが、胸の底を押すような息の合図が、広間の隅から隅へと連なった。見えると、人は息を合わせることを思い出すのだ。


 夜。商会の屋上で、焚き火の火が低く揺れた。レグルスは指揮棒で砂に“図”を引き、ダリオは影の高さを紙に写し、エイベルは粉袋の口を結び直し、若い神官は祈りの呼吸を数えた。

「俺たち勇者隊は、南へ行く」レグルスが言う。「柱を立て、図で守る。剣は最後でいい」

「俺は影を数える」ダリオは短く笑う。「“隠”は消えない。だが晒があれば、隠は長居できない」

「粉で風を読んで、香を裂く」エイベルが粉袋を軽く叩いた。「剣先より先に、路を曲げる」

「祈りを見える形にして、子どもにも教える」若い神官は胸を張った。「“隠れた神意”より、“見える息”を」

 フィリスが俺の肩に頭をコツンとぶつける。

「エルン。のんびり暮らすんじゃなかったの?」

「のんびりは守るものだ。守るには、路を渡し、預け、見守る必要がある」

「ふうん。じゃあ今夜は“見守り鍋”だね」

 彼女は紙袋から胡椒の効いた肉団子を取り出し、湯に落とした。香りが広がる。奪わずに満たす夕餉は、火の周りの人の距離を自然に近づける。


 夜半、胸の輪が静かに鳴った。

 ――第六。預けた路を見守れ。奪わず、導かず、ただ見よ。

 導くな、というのは厳しい。手を出すことのほうが、よほど楽なときがある。けれど、見守るは“のんびり”の芯だ。俺は寝台で目を閉じ、南砦の柱、王都の柱、港の舟着き、職人街の白枠、聖署の回廊、そして村の祠を順に思い浮かべた。灯はどれも、小さく、しかし確かに、そこにあった。


◆“見守り”を作る


 翌朝、俺は写し板に新しい細い列を一本足した。見守(みまも)り。誰がどこを、どれくらいの間、見守ったか――それを記す列だ。

「“監視”じゃなくて“見守り”?」とフィリス。

「うん。監視は奪う方向に滑りやすい。見守りは預けと対だ。手は出さない。けれど、見えるところに居合わせる」

「なるほど。それなら子どもでもできる」

 俺たちは“見守り札”を作った。薄板に小さな穴を二つあけ、紐を通すだけの、安い札だ。名前/場所/時――三つを墨で記し、晒の柱の脇に吊るす。札は日に当たり、雨に濡れ、やがて板に写る。それでいい。見守りは、豪奢である必要がない。


 港。新しい“見守り札”に一番乗りしたのは、片腕の船頭だった。

「夜明け前の水路見守り、一刻」

 彼は照れくさそうに笑い、札をぶら下げて去った。次に職人街で紙漉きの老婆が、聖署の回廊で見習い神官が、商会前で帳付けの少女が――それぞれの札が、柱の脇で風に揺れた。名が見えるだけで、街の背筋が少し伸びる。


 昼、王家の監査官が顔を出し、柱の下で立ち止まった。

「“見守り”は良い。――ただし、命令になってはならない」

「命令にはしません。札は自分で書く。見守りは“在る”ことで効くから」

「分かっているな」

 監査官は札に小さく名だけを書き、紐に通して吊るした。官の名が民の名と同じ紐で揺れるのは、思った以上に効く。誰もが“同じものを見る”土台に、ゆっくりと骨が増えていく。


◆“見守る”勇気


 その日の午後、王都の外れで小さな騒ぎが起きた。新しく入った商人の一団が、税の計算を巡って管理人と言い争っている。晒の柱には「隠:貨」の赤が一つ灯り、子どもらが指で数え始めた。

「行く?」とフィリス。

「——行かない」

 言って、自分でも驚く。

「“見守り”だ。手を出さず、見えるところに立とう」

 俺たちは柱の一歩手前で立ち、呼び管と板で状況だけを共有した。「入貨:布二十」「税:先渡し調整」「名:ハズム商隊」。管理人の女は、柱の前で淡々と数字を読み上げ、商人の男は最初こそ声を荒げたが、赤が長引くのを嫌い、やがて自ら黒に書き直した。

 “見守る”には勇気が要る。殴れば早いときもある。だが、手を出さずに済んだとき、街の“のんびり”は厚くなる。俺は胸の輪に掌を当て、第六の試練がほんの少し進んだのを感じた。


◆帰ってきた影


 夕方、港の柱の下で“あの”顔を見た。逃げたはずのスパーラ……ではない。彼の甥を名乗る小太りの男が、代官の古い印章を懐から出して、古い様式の「徴発書」を振ってみせた。

「先祖伝来の権利だ! 晒の柱になど従う必要はない!」

 柱の下で叫ぶ声は、柱の上では小さな赤になって灯る。「隠:古印・一」。

 俺は――近寄らなかった。

 “見守り札”に自分の名を書き、在ることだけ示した。

 人だかりの向こうから、紙漉きの老婆が歩み出た。背は曲がり、声はかすれているが、柱の下では妙に通る。

「権利ってのは、見えるところに出して、みんなで確かめ合うためにあるんだよ」

 老婆は甥の“古印”を柱の影にかざす。印影は欠け、線は歪み、新しい帳と照らせばズレが赤で光る。

 甥の男ははじめこそ喚いたが、笑う者も罵る者もいない“静かな視線”に耐えられず、やがて印章を懐に戻して退いた。

 老婆は“見守り札”に名を書き、柱に吊るした。名は、あらゆる扇より重い。俺は深く頭を下げた。

「師よ」

「師じゃないさ。見守りは誰でもできる」

 老婆は笑い、紙の匂いを残して去った。


◆司祭の悩み


 夜、聖署の回廊で司祭に会う。白壁に“晒の骨”は定着し、見習いの神官たちが列に呼吸の印をつけている。けれど、司祭の眉間には細い皺が寄っていた。

「“見守り”を増やすほど、介入しない勇気が必要になる」

「はい」

「祈りは、ときに刃より早い。病の子、泣く母、怒る父。すぐに手を出せる立場は、出さずにいることが難しい」

「“見守り札”に、祈りの数も記しましょう。誰が何度祈り、“手を出さなかった”か。見えるように」

「慈悲を数字にするのは、最初は抵抗があったが……在った慈悲を見失わないためには必要かもしれない」

 司祭は小さく頷き、札に自分の名と“見守り祈(い)の数・三”と記した。

 数は冷たいが、晒しの下では温かい。数字は人を責めるためでなく、在るものを忘れないために使うのだ。


◆“のんびり”の練習


 翌日の朝市、俺たちは“のんびり練習会”なるものを開いた。内容は簡単だ。


書く(札や帳に“在る”を記す)


見る(柱の前で、黙って三つ数える)


息を合わせる(祈りの呼吸で“ここ”へ繋げる)


何もしない(手を出したくなったら、柱の影へ一歩下がる)

 子どもらは大喜びで、何もしないを競い合った。何もしないのに競う、という矛盾が可笑しくて、大人も笑い出す。笑いは、見守りの最高の伴奏だ。

 フィリスは腕を組んで見物していたが、ふいに俺の腰をつついた。

「ねえ“何もしない”の練習、あんたが一番下手じゃない?」

「……努力する」

「努力しない努力、ね」

 彼女は肩をすくめ、笑って手を振った。のんびりは、練習が要る。剣と同じだ。


◆“預ける”が街に根づく


 “見守り”が回り始めると、“預”の列が膨らみ始めた。職人街の白枠は若い職人頭に、港の夜見張りは船頭たちに、商会前の小台は帳付けの少女に、聖署の回廊の灯は見習いに――それぞれが預かった灯を『預』に記し、預けた側は一歩引いて札を揺らす。

 預けることは、たしかに怖い。けれど、預けられた側の顔は、決まって良かった。背筋が伸び、目が少しだけ遠くを見るようになる。名が見えるからだ。

 ハルドが柱の下で帳をめくり、うんと唸った。

「数字の動きが変わった。預の列が増えるほど、隠の赤が薄まる」

「“在る”が増えるほど、“奪う”が居づらくなる」

「……商会の古狸たちにも見せてやろう。在るの数字に勝てる理屈は少ない」


◆影の報せ、影の手を取らず


 そんな折、噂が走った。「県伯が動いた」「代官が別の印章を手に入れた」「スパーラの名が港に戻った」。隠の赤がちら、と点り、すぐ黒に変わる。

 その夜、屋上で風を吸っていると、若い神官が紙束を抱えて駆けてきた。

「エルン殿、南砦から“見守り”の報告です。見守り祈の列が三十を越えました。……それと、境の向こうから『返茶』が二度」

「カシアだな」

「はい。『境路』に“夜見張り・二、風読み・一、返茶・二”と。帝国側の板にも晒が立っています」

「よし。……俺たちは見守る」

「行かないのですか?」

「うん。預けた路は、預けた先で育つ。俺たちが行って奪わないのも、今は大事だ」

 言いながら、胸の輪は少し疼いた。行きたい。手を出せば早い。だが、第六の試練が耳の奥で静かに言う。奪わず、導かず、ただ見よ。

 俺は札に“見守り・王都南砦・一夜”と記し、柱に吊るした。見守るための手はこうして小さく、しかし確かに存在する。


◆城下の一件、手を出さずにほどく


 翌朝、城下の市場で一件。日雇いの男が、晒の台の前で突然泣き崩れた。帳に「欠:賃」と刻まれ、彼は地に額をこすりつける。取り巻きの誰かが彼の雇い主へ詰め寄り、空気がざらつく。

 フィリスがこちらを見た。俺は首を横に振る。手を出さない。

 代わりに、呼び管を吹いて短く回す。「見守り札・求」。

 数息と置かず、三枚の札が揺れた。

「商会会計・見守り」「聖署祈・見守り」「職人頭・見守り」

 三人は柱の影に立ち、在ることだけ示す。

 賃金の“欠”はすぐに“黒”になった。雇い主が帳付けの前で震える指で数字を書き足し、子どもが「黒!」と叫ぶ。泣いていた男は呆然と立ち上がり、頭を何度も下げて去った。

 見守りは、在るを押す。在るは、欠を押し流す。

 俺は胸の輪に息を合わせ、試練の糸がひと筋、結ばれるのを感じた。


◆“見守り”のための“休み”


 その晩、フィリスが妙に真剣な顔で言う。

「“見守り”って、休みが必要だと思う」

「休み?」

「柱の影に立つの、胸の奥が乾く。ずっとやると、怒りを飲み込む場所がなくなるもの。――だから、見守り当番の休みも晒そう」

 俺は膝を叩いた。

「見守り休の列、作ろう」

 翌日、“見守り”の札の隣に、青い紐の札がぶら下がった。見守り休(やす)――“休んだ時間/誰に預けたか”。

 最初に名を書いたのは、聖署の司祭だった。見守り祈・三/見守り休・一(若・受)。彼女は笑って言う。

「休みも見えると、休みが仕事になるのね」

「休む勇気も“のんびり”のうち」

 司祭は頷き、若い神官に小さな灯を渡した。


◆“灯の波”


 王都の四方で、灯の波が広がった。晒の柱の白、呼び管の短い声、子どもの指、祈りの息。港の波が石畳に触れるたび、柱の影が揺れ、その揺れに合わせて在るが増える。

 “隠”は消えない。だが、在るが厚くなるほど、影は輪郭だけになり、やがて名になる。名は、見えるところに置けば怖くない。

 俺は板に**灯波(とうは)**の小さな印を描いた。波が届いた先/届いた時/届いた灯。王都の端から端へ、南砦へ、村へ。印は遅く、しかし確かに増えた。


◆古い“扇”の最後


 そんなある日、広場の片隅に黒い扇が落ちていた。あの印章の扇と同じ骨。拾い上げて柱の影にかざすと、赤が一つだけ灯った。「隠:扇・零」。

「零?」

 ハルドが首を傾げる。

「数字が意味を失ったってことだ」

 扇は、ただの風の道具になった。見える場所に長く置かれすぎて、威圧の“意味”が蒸発したのだ。

 俺は扇を晒の柱の足元に置き、札に小さく書いた。「晒:扇の骨・風」。子どもが笑い、司祭が微笑み、レグルスが肩をすくめ、フィリスが涼む。

 のんびりは、こういうところに宿る。


◆“第六”の通過


 夜、屋上で星を見ながら、胸の輪に掌を重ねた。声は静かに、しかし深く落ちた。

 ――見守った。

 ――よく、奪わず、導かずに在った。

 ――第六の試練、通過。

 輪の鼓動が一度だけ大きくなり、やがて日常のリズムに戻る。その“戻る”が嬉しい。試練が日常に溶けるとき、のんびりは強くなる。


◆それでも、のんびり


 戻る途中、フィリスが欠伸をした。

「明日の朝、甘いパン二つ。……約束」

「“見守り休”の札、出してからなら」

「抜け目ないね」

 彼女は笑い、札に“見守り休・甘パン”とふざけて書き、紐に通した。子どもらがわっと笑う。

 笑いの波が柱に当たり、灯の波に重なる。王都の夜は少し明るい。南砦の灯は遠いが、呼び管の「安」が時折届く。

 俺は写し板を抱え、胸の輪に掌を置いた。預け、見守り、休み、灯の波。のんびりは、もう街の中に在る。あとは、次の試練が来たら――また、在るように在ればいい。


◆予兆


 最後の火を指先で潰したとき、遠い南の空の端で、小さな赤が灯って消えた。王都の柱には何も出ない。だが、胸の輪が微かに応えた。

 ——誰かが、こちらを見守っている。

 帝国の黒板かもしれない。村の祠かもしれない。あるいは、余白そのものか。

 いずれにせよ、見守られるのも悪くない。預けた路は、預けた先で太る。見守った灯は、いつか誰かの“在る”になる。


 のんびり暮らす——その旗は降ろさない。降ろす必要がない。もう、のんびりは“願い”ではなく、仕組みとして街に根づき始めたからだ。

 俺は空に息を合わせ、ゆっくりと目を閉じた。見えることと見守ることの間で、胸の輪は穏やかに、たしかに、世界を繋いでいた。


(第12話 了)

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