第13話「偽りの影、声の秤」

 夜明け、王都の空はよく晴れて、晒(さらし)の柱の白がやわらかい光を返していた。港の「見守り札」は風に揺れ、職人街の白い枠は窓の明かりを跳ね返し、聖署の回廊では祈りの呼吸が路に沿って数えられる。俺は写し板の縁を指で拭い、胸の輪に掌を当てて、息を合わせた。預の列は一晩でまた伸びていた。「南砦・士官(預)」「若神官(預)」「紙漉き頭(預)」――預けるが増えるほど、街の背筋は伸びる。


 そんな朝の波に、ひとつだけ異音が混じった。港の柱から渡ってきた呼び管の文が、いつもと違う。

「赤・多・柱」

 短く、荒い。子どもらの声ではない。大人の息の長さだ。俺は柱の前に立ち、写し板の“晒の骨”を光らせた。王都の網のどこにも、そんな赤の群れは灯っていない。だが、港の雑踏はざわめいていた。

 ――見えていない“赤”がある?

 胸の輪がわずかに熱を上げる。背後でフィリスが肩を回し、低く言った。

「見に行こう。剣は置いたまま」


 港へ急ぐと、人だかりの奥に、俺の知らない白い柱が立っていた。遠目には晒の柱と見分けがつかない。だが近づけば違いはすぐ分かる。白が冷たい。木ではなく、錫で塗られた薄板に石灰を噴いたものだ。足元の礎石は浅く、根がない。柱の上には、小さな覗き孔。

「“偽晒し”……」

 声に出した瞬間、胸が冷えた。見えるは信の柱だ。偽物は、信を折りに来る。柱の前には男たちが集まり、「赤だ」「また赤が増えたぞ」と囁き合っている。覗き孔の陰から、細い管が延びているのをダリオが見つけた。

「呼び管の逆刺しだ」

「声を注ぎ込んで、赤を装ってる」

 エイベルが鼻をひくつかせる。「錫の匂い、油。新しい。昨夜のうちだな」

 俺は偽柱に触れず、在る柱の影に立った。胸の輪が小さく強く鳴る。

 ――第七の試練。雑(ざつ)を澄ませ。偽を洗い、声を秤にかけよ。


 “雑(ノイズ)を澄ませ”。見えるを守るには、紛れを見抜く仕組みが要る。俺は写し板の余白に、新しい文字を刻んだ。秤(はかり)。

「“声の秤”を作る。声路を使って、同じ数字を同時に読ませる。濁りは、同時の場(ば)で浮く」

 ハルドが横で腕を組む。「やれるか?」

「やるしかない。導かず奪わず、見守るを越えて、澄ませる」

 フィリスが笑う。「名前が格好いい。実際も格好よくして」


◆合図唱(あいずしょう)


 まず、声を揃える。俺たちは子どもらと帳付けの少女、港の船頭、職人、祈り人を集め、短い稽古を始めた。数字をそのまま口にすると、方言と呼吸でズレる。十声法を使う。

「ア=一、イ=二、ウ=三、エ=四、オ=五、カ=六、キ=七、ク=八、ケ=九、コ=零」

 十の位は「タ」、百は「ナ」、千は「ハ」。声を縫うように、短く澄む音で組む。

 “合図唱(あいずしょう)”と名付けて、柱の四方に人を立たせ、一斉に合唱する稽古をした。

「タ・コ、ア、ウ、ク」

「タ・コ、ア、ウ、ク」

 同じ節で同じ音が重なると、空気がきれいに揺れる。偽の管から異音が混じれば、揺れが濁る――そのはずだ。

 若い神官が手を挙げた。「祈りの呼吸も合わせます。息を路に沿わせると、声は澄みます」

 司祭が白壁の下で頷く。「見守りと同じ。在ることが、音も揃える」

 レグルスは砂に短い“図”を引いた。「この位置で輪になり、合図唱。ダリオは影の耳を数え、エイベルは風を折る。フィリスは柄で止める。剣は抜かない」

「“奪わずに満たす”の秤だ」

 ハルドが低く笑い、商会の書記が筆をとる。「“秤”の列を帳に入れる。偽柱の前で実施し、記録を公開」


◆声の秤、第一回


 夕暮れ、偽柱の前に円が広がった。子どもらの頬は少し緊張で赤い。大人は腕を組み、笑うのを我慢している。晒の柱の白が、偽柱の冷たい白を圧していた。

 俺は呼び管の口に短く息を吹き、開始の合図を送る。

「合図唱――はじめ」

 十の鐘の代わりに、竹の笛が柔らかく鳴り、四方の声が重なった。

「タ・コ、ア、ウ、ク(十、零、一、三、八)」

 同じ音が、同じ律で重なる。空気が揺れ、港の水面がわずかに震える。――そのときだ。偽柱の覗き孔の奥で、ズ、と濁りが走った。

「タ・コ、ア、ウ、ク」

 四周の声が澄み、偽柱の口からは、タ・コ、ア、オ、クと微妙なズレが漏れる。四が五に化けた。

 ダリオが影の耳を指折り数え、エイベルが風の筋を粉で染める。濁りの筋が、覗き孔から管へ、そして路地裏の荷車の下へと滑っていくのが見えた。

「そこ」

 フィリスが音もなく踏み込み、剣は抜かず、柄で荷車の車輪の楔を軽く叩く。車輪が半歩ずれ、下に隠された小箱がころりと出た。箱の蓋には、黒い扇の絵。

 俺は写し板を掲げ、柱の上に「偽:声改竄・箱一」と刻む。王都中の柱が同時にその文字を写す。晒は早い。

 箱の中から出てきたのは、細い簧(リード)と油で滑る錫の管、そして短い紙片。紙片には拙い筆致で「タ・コ・ア・オ・ク(十・零・一・五・八)」と書いてある。四を五に。

 人だかりに、笑いは起きない。ただ、静かな息が揃う。見えるものの前では、笑いは後からやってくる。先に来るのは、在ることを確かめ合う深い吸気だ。

「秤の記録を晒に」

 若い神官が板に黒の印を入れ、商会書記が帳に列を立てる。司祭が合図唱の節を短くだけ褒め、子どもらが肩を叩き合う。

 荷車の影から二人の男が出てきた。顔を布で隠している。逃げるそぶりはない。逃げないというより、逃げられないのだ。見えるところでは、影の足は遅い。

 フィリスが柄を下げ、彼らに近づく。「見えるところで話そう」


◆偽を洗う、責めずに晒す


 偽柱を立てた金はどこから出たのか。男たちは最初、黙っていたが、偽柱を折らず、奪わず、晒すだけだと知ると、口を開いた。

「……“古印”の連中からだ。港を揺らせと言われた」

 “古印”。代官と県伯周辺の古い利権の残滓。ハルドが短く息を吐く。

「名前は晒でいい」

 俺は板に「資:古印・銀三十」と記し、商会の帳にも同じ数字を立てる。偽柱は倒さない。錫の白は冷たいが、在るの証として、晒の柱の影に移す。子どもらの練習用にするためだ。錫の白に、合図唱の歌詞が墨で書き込まれていく。偽は教材へ変わる。

 司祭が静かに言った。「罪は裁きへ。だが、柱は壊さない。見える歴史として残す」

 監査官が頷く。「王家の名において――偽柱工作は罪。だが、秤で見抜く術を王都の規に加える」

 人々の顔が、少しだけ笑いに緩む。怒りよりも、やり方を手に入れた安堵が勝る。秤は人を責めない。澄ますだけだ。


◆声の秤、網になる


 “秤”は一度で街に根づいた。合図唱は子どもらの遊びになり、呼び管には「秤了(はかりおわり)」の短い印が新しく用意された。数字が多い市の朝や、税の締め日の夕刻には、柱の前で小さな合唱が起こる。

 合唱は、祈りに似ている。路に沿った息で、在るを数える。

 エイベルが笑った。「粉を撒く前に、歌で風が見えるなんて思わなかった」

 ダリオは影を数え直し、紙に二重丸を書く。「影が減ると、影を数えるのが難しい」

 レグルスは肩をすくめる。「難しい稽古ほど、のんびりに効く」

 フィリスは合図唱の節に合わせて軽くステップを踏み、柄を回す。剣ではなく、柄。奪わず、止める。秤の守りも同じだ。


 俺は写し板に新しい小さな印を足した。澄(すみ)――秤をかけて濁りが薄れた場所/時/声。

 王都の柱の地図で見ると、“澄”は東から西へ、港から職人街へ、聖署から市場へ、ゆっくりと広がっていた。灯の波に、声の波が重なる。街は、また少し、のんびりになった。


◆黒板からの文


 夜、屋上で風を吸い込みながら、写し板を膝に置く。遠く南の方角から、短い呼び管が届いた。境路。カシアの黒板だ。

「帝国側、雑(ノイズ)増。黒板に“雑”の印。対策求」

 俺は笑って返す。「声の秤・教。十声法・節送。偽柱・教材化」

 少し間を置いて、黒板から短い文が戻る。

「あなた方の“うかつ”、効。歌、風越。礼。」

 “うかつ”。カシアがそう呼ぶのが、だんだん好きになってきた。うかつであることは、灯りを先に置くこと。見えるを先にすること。


◆第七の試練、通過


 深夜、胸の輪に掌を重ねると、声が落ちた。

 ――澄んだ。

 ――偽は洗われ、声は秤にかけられた。

 ――第七の試練、通過。

 輪は一度だけ強く脈を打ち、やがて日常の鼓動に戻った。試練が街の仕組みに溶ける。その瞬間の安堵は、祭で勝ちどきの声を上げるより深い。


◆のんびりの余白


 翌朝、フィリスが甘いパンを二つ持ってきた。

「“見守り休”を出したから、堂々と」

「よくできました」

「先生みたいに言わない」

 二人でパンを齧っていると、子どもらが駆けてきて、合図唱を披露する。

「タ・コ、オ、ア、ケ」

「十・零・五・一・九。朝の魚の数?」

「うん! 今日のは小さいから数が多い!」

 笑いながら、彼らの“見守り札”に「合図唱・四回」と書き足してやる。在るを褒めるのは簡単だ。嘘が要らない。


 聖署の回廊では、司祭が“見守り休”の札を青い紐に通していた。

「休むのは難しい。けれど、札が見えると休める。不思議ね」

「“休みも仕事”の列、効いてます」

「あなたの列は、いつも人を楽にする。……その代わり、あなたが休む列は?」

「書きます」

 俺は笑って、自分の札に「見守り休・一刻・甘パン」とふざけて書いた。司祭が肩をすくめ、でも少しだけ笑った。


◆無音の夜の前触れ


 その夜――。呼び管が、ふと、黙った。

 港の柱も、職人街の柱も、聖署の柱も、王家の監査台も。合図唱も、見守りも、風の息も、ぴたりと止む。

 風がないのではない。ある。だが、音を運ばない風だ。

 胸の輪が、とてもゆっくりと、一回だけ鳴った。

 ――第八。声を失くした時の路を引け。

 ――灯だけで通れ。

 黙示のような声。

 屋上に出ると、王都全体が薄い布で包まれたみたいに静かだった。鐘は鳴らない。犬も吠えない。水は流れているのに、音がない。

 フィリスが剣帯を締め直し、肩だけで息をした。

「合図唱が使えない。呼び管も死んでる。……どうする?」

「光路だ」

 俺は即答していた。

「声が死んだなら、灯を繋ぐ。港、職人街、聖署、商会前、王家の監査台。全部の柱に“灯の節”を刻む。合図は灯で打つ」

 ハルドが闇から現れ、短く頷く。「“灯の秤”を、今夜中に」

 レグルスは砂に図を引く。「屋根の反射、鏡、漉き枠。火事のときにやった“光路”を、街中で」

 若い神官が灯壺を抱えた。「祈りは息だが、灯でもある。息が死んだら、灯で祈る」

 エイベルは粉袋を閉め、ダリオは影の耳を諦め、フィリスは柄を握り直す。奪わずに満たす準備が、音のない夜に向かって静かに進んだ。


 のんびり暮らす――その旗は、こういう夜にも降ろさない。降ろせない。のんびりは、在るの集積だ。声が失われても、灯があれば、人は在るを示せる。

 俺は写し板に**灯(あかり)**の列を太くし、胸の輪に掌を重ねた。輪は静かに、しかし明確に応えた。

 ――灯で渡れ。

 ――声が戻るまで、街を光で縫え。


(第13話 了)

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