第5話「導く手、旧友の影」

 翌朝の空は、冷たい青だった。祠の屋根をなでる風は軽く、畑の芽は一夜にして揃いを増していた。掲示板の前には小さな人だかりができ、昨日書き加えた守の列に、子どもたちが黒い指で印をつけたがるのを、女たちが笑って止めていた。


 祠の前で、俺は木の枝を半分に割り、簡易の指揮棒をこしらえた。広場に描いた砂の地図の上で、印の石を移動させる。井戸、畑、楡の木、小屋、祠。外には森の守り石と、街道の三叉路。昨日まで散り散りに見えていた点と点が、細い線で結ばれていく。


「よし、見張り路を回す」

 俺が言うと、男たちが「おう」と声をそろえた。槍を持つ者、棒の者、鍬の柄しか持てない者。十人に満たないが、顔は明るい。

「見張りは二人一組で三つの路をぐるぐる回る。楡の木から北の畑へ、畑から井戸へ、井戸から祠へ。それぞれの角で合図の笛を吹け。どれかの笛が途切れたら全員祠に集まる」

「笛がない家は?」と、老人。

「柳の枝を切って作った。音は高いが通る。子どもにも吹ける」

「女は何をすればいい?」と、腕まくりの主婦が聞く。

「水の帳だ。桶に何杯、誰の家へ。掲示板の水の列に印をつけてくれ。あと、数を数えられる子は手伝ってやってほしい」

 女たちが頷く。俺の手元の写し板の枠が淡く光り、砂の地図が板の上に小さく浮き出た。フィリスが覗き込み、目を丸くする。

「それ、やっぱりとんでもない魔法具だね。頭の中だけに置いてたら、誰も同じ風景を見られないもの」

「祠の力だ。村全体で同じものを見て、同じ桟に手をかける。導くってのは、たぶんそういうことだ」


 そのとき、遠くで笛が鳴った。一つ、二つ……そこで、止まる。広場の空気が固まるのが分かった。見張りの若者が祠の角から飛び出してきた。

「街道の三叉路! 人だ! 十人以上、荷馬車二台! それから……」

 彼の顔色が変わる。

「霧が、一緒に来る!」


 霧は森生まれだけではない。人の群れが泥を巻き上げ、冷えた風を引きずるとき、道に沿って生まれることがある。疲労、怯え、恨み――そうした濁りが、路を曇らせるのだ。


「全員、合図通り! 子どもは家へ、女は水、男は楡の下!」

 声を張ると、動きは驚くほど滑らかに分かれた。昨日までばらばらに働いていた手が、同じ図面を見て動くと、こうも整うのかと、俺自身が感心するほどに。


 砂塵の向こう、三叉路から人波が現れた。荷馬車にしがみつく者、肩を貸し合って走る者。鎧の鈍い音、切れた鞘、折れた槍。先頭で見慣れた金の髪が、泥に重く垂れていた。

「レグルス……?」

 勇者隊の長。焚き火の影で俺に「明朝までに荷をまとめろ」と言い放った男は、今は泥の色の顔で、こちらへ手を伸ばした。

「た、助けを――! 村は無事か、井戸は、誰か、癒しは――」

 彼の背で、聖女ソラナが咳き込み、空の聖印を握りしめている。魔導師エイベルは目の下にくまを刻み、斥候ダリオの足は血で濡れていた。彼らの後ろから、灰色の霧が低く追ってくる。いつもの粘つく濁りではない。細かい砂鉄を含んだような重み。森の霧ではなく、道生まれだ。


 俺は息を吐き、掌を見た。白い輪が、祠の方向を指すように淡く脈を打つ。

「俺に続け! 右へ寄れ! 風の路に乗れ!」

 叫び、三叉路から村へ続く道の脇に、昨夜のうちに浅く切っておいた溝へ駆け込む。そこへ井戸から引いた細い水が、きのうよりはっきりと流れていた。レグルスたちをその上に誘導する。霧は水の上の風を嫌う。人の行列が水の上を踏むたびに、靴底が冷え、呼吸が楽になる。

「ソラナ、こっちに! 胸を開いて、深く吸え! 胸の奥を“ここ”に繋げ!」

 俺は彼女の背に掌を当て、輪を薄く広げた。空の祈りに、路を与える。無理に癒やすのではなく、道筋を通してやるだけだ。

 ソラナの肩が一度痙攣し、その後、呼吸が深くなった。喉の塞がっていたものが、井戸水に溶けるみたいにほどけていく。

「……楽になった。エルン?」

 彼女の目が驚きに見開かれる。俺は頷く。

「あとで話そう。今は路を保て」


 村の入口、楡の木の下に全員が駆け込むと、フィリスが合図の笛を短く鳴らした。二つ、三つ、合致する。広場の周囲の浅い溝に、女たちがバケツで井戸水を注ぐ。水面が細く光り、霧の縁がほどける。腰の曲がった婆さんでさえ、掲示板の前に腰を下ろし、水の列に「十」の印を記しながら、子どもに次の桶数を叫んでいた。

「楡の西面、締めろ!」と俺。

 男たちが持ち場につき、棒と鍬で霧の中から飛び出した残りの霧魔の骨格に向けて、石灰の袋を打ち破って撒いた。粉が水に落ち、霧の体に貼りついて重くなる。フィリスの斬撃が一閃し、骨の芯を断つ。

 霧は、来たときと同じように、路に沿って弱り、消えた。


 静寂。広場の向こうで、誰かが泣きだし、すぐに笑いに変わった。レグルスが膝に手をつき、肩で息をする。ダリオは広場の地面に座り込んだ。

「助かった……助かったぞ……」

 レグルスが顔を上げ、俺を見た。昨日までの「隊の長」の目ではなかった。飢えた旅の目だ。

「エルン。すまなかった」

 四つの音で、彼は言った。意外なほど軽く、しかし確かに重い。

 その舌の奥で――**“帰ってこい”**という言葉が準備されているのが分かった。隊に戻れ、お前が必要だ。あの頃の陣形に、穴が空いたのだと。


 俺は首を振った。

「俺は戻らない」

 彼の喉仏がひとつ動く。周囲が静まり返るのが分かった。聖女ソラナは目を伏せ、エイベルは手の中の杖をきしませた。

「ただし――頼みは聞く。路を繋ぐことなら」


 掲示板の前に立ち、写し板を掲げる。輪が淡く光り、広場の砂の地図と同じものが板に浮かぶ。

「君らは“道の霧”を背負ってきた。それは、道筋を失った証拠だ。獣や魔法に負けたんじゃない。指揮と段取りに負けた」

 レグルスの顔が赤くなる。ダリオが「ぐ」と唸る。エイベルの目が陰る。ソラナだけがまっすぐにこちらを見ていた。

「俺たちは剣の腕を磨いた。祈りの言葉を記憶した。呪文を増やした。だが、路を作らなかった。森に入る前に靴紐を結ぶように、村を出る前に風の抜けを確かめるように、見取り図を作らなかった。だから、“無能”と貼られた札は、実は隊全体のものだった」

 言葉は冷たくないように、しかし甘くもならないように、真ん中を通す。ざらついた真実は、路砂みたいに、滑るために必要だ。


「……返す言葉もない」

 レグルスが苦く笑った。

「許せとは言わない。できることを言え」

「三つある」

 俺は指を一本立てた。

「一つ。路帳にそろって名を記せ。誰が何を持ち、どこへ行くのか。最初に見えるようにする」

 二本目。

「二つ。風路に沿って陣を敷け。井戸から畑へ、畑から祠へ。疲れた者は水の上を歩かせろ。祈りは“ここ”に繋げ」

 三本目。

「三つ。奪わずに守れ。道中の村から無理に奪うな。代わりに写し板で穀貨を切れ。証文は俺が預かる。帰りに満たせ」


 レグルスはゆっくり頷いた。聖女ソラナの目が潤んだ。ダリオは唇を噛み、エイベルは杖で地を突いた。

「……借りができた」

「なら、返してもらおう」

 俺は指揮棒で砂の地図の端を指した。村の外れ、谷の向こうに印をつける。

「石盗りの連中が来る。代官と組んで、祠の石を持っていこうとするはずだ。祠は村の路だ。動かせば路が歪む。ここに、見せ場を作ろう」

 フィリスがにやっと笑う。

「ざまぁ、の出番だね?」

「“見せる”って言っただろ」

 俺は掲示板に白墨で大きく書いた。見せる守りの日。その下に、明日の陽の高さの目印。


 その日、村は忙しかった。男たちは祠の周囲に浅い水の溝を巡らせ、風が抜ける路を作る。女たちは井戸と祠の間で水を回し、水の帳に印を増やす。子どもらは写し板を持って走り、各家へ掲示板の骨を配る。老人は楡の陰で座り、番号のついた穀貨の証文を糸で束ねた。聖女ソラナは祈りを路に合わせる練習をし、エイベルは粉の配合を見直した。レグルスとダリオは、俺の差し出した指揮棒を握り、初めて**“図”を見て動く**ことだけに集中した。


 夕刻、祠の祭壇が薄く光った。余白の試練、第二――導け。 その下に、細い線が三つ、村の外へ伸びる。明日、人の流れと風と水がそこで交差することを、石は知っているらしい。


 夜、焚き火の輪で、レグルスがぽつりとこぼした。

「お前がいないだけで、俺たちはこんなに見えなくなるものか」

「俺一人のせいじゃない。見えるものを作らなかっただけだ」

「それを作るのが、お前だった」

 彼は笑い、頭を振った。

「いいさ。今はお前の図に従う」


 星が高く、風は乾いていた。フィリスが剣を磨きながらこちらを一瞥する。

「隊、戻れって言われなかった?」

「ああ」

「で?」

「断った」

「よし」

 彼女は短く笑い、刃に最後の油を引いた。

「ここでなら、のんびり強くなれる」


 翌朝。谷の向こうから、軋む車輪の音と、金具の触れ合う高い音がした。石盗りだ。代官の旗を掲げ、腕だけ太い連中が笑いながら近づいてくる。男たちは鉄の棒を担ぎ、楔を磨いている。荷馬車の上には割り板を積んだ枠組み。祠の石を分解して持ち帰り、城の庭にでも飾るつもりなのだろう。

 先頭の男が鼻で笑い、祠を見上げた。

「いい石だ。古い。高い。代官様の庭にぴったりだ」

 彼の靴底が祠の周りの土に踏み込み、水を薄く跳ねさせた。祠の周囲の水の路は、すでに細い輪になって巡らせてある。


「ここは路だ」

 俺は一歩出て言った。

「触れば、村じゅうの呼吸が詰まる。代官殿は、息が止まる庭を望むのか」

「偉そうに。代官様の命だ」

 男は楔を抜き、祠の土台に当てようと身をかがめた。フィリスの笛が一度鳴る。レグルスが手を挙げ、図の上で決めた通りに動く。

 女たちが井戸から水を注ぐ。風が路に沿って走る。祠の周囲の空気がひやりと下がる。楔を握った男の手の皮が縮み、力が抜ける。

「冷て……っ」

 彼は罵り、楔をもう一度構える。今度はダリオが背後から砂袋を投げ、楔の足元を沈ませた。エイベルの粉が水に落ち、薄い膜になって石に絡みつく。奪わずに守る――石を壊さないまま、路で囲う。


「なんだ、これ……! 足が、前に出ない!」

 石盗りの隊長が顔を歪める。祠の周囲の風路が、前へ踏み出す力を横に逃がす。彼らは進むたびに横滑りし、思うように石に楔を当てられない。

「代官の名で命じる! どけ!」

 彼らが声を荒げた瞬間、広場の掲示板の前で、老人が立ち上がった。杖を突き、声を突き上げる。

「ここに書いてある!」

 指は太い白墨の字を叩く。見せる守りの日。その下に並ぶ、村の名、代官の名、勇者隊の名。

「ここに見える! ここは村と代官の路じゃ! 祠は皆のもんじゃ!」

 村人の目が一斉に掲示板へ向かい、石盗りの目もつられて向く。見えるものに引き寄せられた視線の隙に、レグルスが一歩進み、隊長の手首を捻って楔を落とした。フィリスの刃が楔の頭を軽く叩き、泥に沈める。

「武器を抜けば折れる。抜かなければ濡れる。さあ、どうする?」

 フィリスが静かに言い、微笑んだ。見せるざまぁだ。暴力を一滴もこぼさずに、路だけで相手の足を奪う。


 隊長は、喉の奥で罵りを噛み殺した。代官の旗が風に鳴り、後ろの男たちが目を逸らす。掲示板の前で、聖女ソラナが小さく祈り、路に声を流す。怒りが、水の中で冷えていく。

「……引くぞ」

 短い言葉。石盗りたちは楔を拾い集め、荷馬車の向きを変えた。去り際、隊長がこちらを振り向く。

「代官様に伝える。お前ら、ただで済むと思うなよ」

「伝えてくれ」

 俺は頷いた。

「見える場所で話がしたいと。路の上で」


 土煙が遠ざかり、村に風が戻る。焚き火の火は消えかけていたが、誰の顔にも薄明るいものが灯っていた。掲示板の守の列に、白墨で新しい印が増える。祠守一。子どもが指でなぞり、老婆が笑う。


 レグルスが、俺の横に立った。金の髪はまだ泥っぽいが、目は澄んでいた。

「見事だ」

「路の仕事だよ」

「俺たちは……学ぶ」

 彼は素直に言った。

「図の読み方を。路の引き方を。お前のやり方を」

「なら、路帳に名を」

 俺は指し示す。彼はためらわず白墨を取り、護の列の端に「勇者隊」と書いた。ソラナが「祈」と小さく添え、ダリオが「道先」と殴り書きする。エイベルは黙って粉と書き、最後にちいさく「図」と付け足した。


 その夜、祭壇の文字は静かに光り、余白の試練、第二――導けの下に、細い線が幾本も増えた。村の中だけではない。街道へ、森へ、谷へ。見えるものの線が、世界に伸びていく。


 焚き火が小さくはぜ、星は冷たく瞬いた。フィリスが俺の隣に腰を下ろす。

「気分は?」

「のんびり暮らすには、今日も忙しすぎた」

「でも、嫌じゃない」

「ああ。……嫌じゃない」

 胸の輪が、静かに脈を打つ。余白が埋まる音が、日ごとに好きになっていく。


 遠く、夜道の向こうで鴉が一声鳴いた。誰かが、またこの村を見ている。けれど、もう怖くはなかった。見えるものを掲げ、路を通して、奪わずに守る。そのための図を、俺たちは手に入れたのだから。


(第5話 了)

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