第4話「森の眠り、石の目覚め」
翌朝、村の空気は張り詰めていた。
昨日の“見本市”で村は熱気に包まれたが、同時に遠くの森から奇妙な気配が忍び寄っていた。夜のうちに畑の端で土が崩れ、柵を越えた獣の足跡が残っていた。普通の狼にしては大きすぎる。霧魔ではない、もっと硬質な――石の匂い。
俺は掌の輪を見下ろした。昨夜からずっと、白い光は静かに胸の奥で脈打ち続けている。祭壇の声が言った。「奪わずに守れ」。その意味をまだ掴みきれずにいたが、放ってはおけない。
「森に入るつもりね」
背後でフィリスが剣を肩に担ぎ、口元に笑みを浮かべていた。
「俺一人で十分だ」
「冗談。無茶して死なれたら困る」
「困るのか?」
「困るに決まってるでしょ。昨日の市だって、あんたが仕切らなきゃ崩れてた」
フィリスは真剣な目でこちらを見た。剣士らしい硬さの中に、昨日までより柔らかさが混じっていた。
仕方ない。一緒に行こう。
森はまだ霧を抱いていた。陽が差し込むと銀糸のように光り、木の間から差し込む光が斑模様を作る。足元は湿って重い。俺は掌を地に触れた。すると輪が淡く輝き、土の中の水の路が地図のように頭に浮かぶ。
「水脈だ」
「見えるの?」
「感じる。ここを外れて谷に向かえば、霧魔じゃない別の“眠り”に行き当たる」
その先にあるのは――祭壇の声が告げた“石の眠り”だ。
歩みを進めると、森の奥に岩の割れ目が現れた。苔に覆われた洞窟。冷たい風が吹き出している。
「中ね」
フィリスが剣を抜き、慎重に足を進める。
洞窟の中はひどく静かだった。滴る水音さえない。代わりに、低い唸りのような響きが耳奥を震わせる。壁の石に触れると、掌の輪が強く脈打った。
――奪わずに守れ。
洞の奥にあったのは、巨石の像だった。人の形に似ているが、目も口もなく、胸の中央に穴が空いている。そこから冷たい風が吹き出し、洞窟全体に振動を伝えていた。
「これが……」
「魔物?」
フィリスが剣を構えるが、俺は手を上げて制した。
「違う。これは眠ってる。守りの像だ。けど……目覚めかけてる」
巨石の胸の穴に近づくと、空洞が渇いているのが分かった。本来は水か光か、何かを満たすものだったのだろう。だが長い間放置され、渇きが溜まっていた。
「渇きを奪わずに、満たせ」
俺は呟き、掌を差し出した。輪が熱を帯び、井戸で起きたのと同じ水の気配が指先に集まる。だが今回は水ではなかった。
風だ。空洞に向けて掌をかざすと、洞内の空気が吸い込まれ、渦を作り、俺の胸を経由して再び像に注ぎ込まれた。
ゴウン……。低い音。巨石が微かに揺れる。
「おい、動いたぞ!」
フィリスが剣を構え直す。
像の胸に淡い光が宿り、空洞が閉じていく。まるで心臓を得たかのように、巨石全体が淡い鼓動を打ち始めた。
――良い。
祭壇の声が洞内に響いた。
――これで、この森の路は塞がれぬ。奪われずに守られる。
巨石の像は静かに膝を折り、地に座した。完全に眠り直したのだ。
「……守り神、みたいなものか」
「倒すんじゃなくて、眠りを整えるのね」
フィリスの声に俺は頷いた。
「これが“奪わずに守る”ってことなんだろう」
村に戻ると、井戸の水がさらに澄み、畑の芽がいくつも顔を出していた。子どもたちが歓声を上げる。老人が駆け寄り、俺の手を握った。
「森が静かになった! 霧も薄れた! おぬし、何をした!」
「少し、眠りを整えただけです」
「眠りを……?」
老人は目を瞬き、やがて深く頭を下げた。
その夜、掲示板には新しい列が加えられた。守。村を守る労力と成果を記録する欄だ。フィリスの名の横に「霧魔討伐一」。俺の名の横に「森の守り一」。
村人たちが焚き火を囲み、初めて歌を口にした。水と麦と路の歌。子どもが太鼓を叩き、女たちが拍子を取る。
俺は焚き火の影で掌を見た。輪は静かに光り、胸の奥に言葉を残した。
――余白の試練、第二。人を導け。己だけでなく。
炎の向こうでフィリスが笑っていた。剣士の硬さの奥に、確かな仲間の笑顔があった。
俺は小さく頷いた。もう一人ではない。これからは、導く側として歩む。
のんびり暮らすつもりだった。けれど、余白は俺に“路”を示し続けている。
それでもいい。スローライフも、路の上にあるのだから。
(第4話 了)
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