第3話「神々の試練、写本台の灯」

 鴉が飛び去った翌朝、空はひどく澄んでいた。高いところで風が鳴り、畑の細い畝がささやく。村の空気は、井戸が生き返っただけでまるで別物のようだ。子どもらは走るたびに笑い、女たちは濡れた桶を掲げて陽を透かし、男たちは壊れた柵の修繕に手を入れていた。


 俺は廃祠の前に立っていた。昨夜、祭壇に掌を重ねたとき、ひび割れた石板の余白に光が走り、読めないはずの古い線がかすかに意味を持った。余白に満たす者、路を繋ぐ者。 耳の奥でその文句が何度も反芻される。

 扉は外れ、梁は黒く焦げている。かつて雷でも落ちたのだろう。床の板には穴が空いて、下の土が見える。祭具が収められていた棚は倒れており、蜘蛛の巣が銀の糸をひいた。だが、荒れ果てた空間のどこかに、手を入れれば整う気配がある。余白がある。


「ここで何か始める気?」

 背に声。振り向くと、包帯を新しく巻いたフィリスが立っていた。昨夜より顔色がいい。井戸水と薬草茶が効いたのだろう。

「始めるというより、続ける。ここで途切れているものを」

「途切れてる?」

「祭りだ。祈りだ。人がここに来て、何かを置いて、何かを受け取って帰る道筋。そういうのは土の中の水路みたいなもので、崩れたら淀む」

「……あんた、ほんとに“草いじり”なんだね」

 フィリスは笑って、剣の柄に落ちた樹脂を爪でこそげた。

「昨日の鴉、見た?」

「見た。三羽。街道の方へ」

「偵察だろうね。代官か、森の向こうの山賊か。どっちにしても、ここが動き出したってことに、誰かが気づいた」

「そうなると、なおさら整える必要がある。人が集まる場所の“路”を、先に作っておかないと」


 俺は祭壇の横を片づけ、床の穴に古い板を渡した。釘は錆びていたが、掌をあてると白い輪がじわりと熱を帯び、木の繊維が生き返ったように締まる。板を押すと、きしみがやむ。

「その輪……昨夜、見た。綺麗になったね」

「少しずつ、つながっていく。たぶん、俺が埋めた余白のぶんだけ」

「じゃあ、試してみよう」

 フィリスは剣の鞘先で祭壇の前を指した。

「祈るの?」

「祈るというより、相談する。土や水や風に。ここの“路”をどう通すべきか」


 祭壇の前で膝を折り、掌を載せる。冷たい石肌。白い輪が、石板の欠けの縁に沿って淡い光を流した。

 ――満たせ。

 声がした。昨日より深い、地下の石室から響いてくるような声だ。俺は目を閉じ、穴の形を頭の中でなぞる。かけらは三つ。小さく、薄い。どれも、このあたりの土の匂いだ。

 掌を離すと、祭壇の脇の土間に、水の輪が広がっていた。輪の内側に、薄い影のような三角形が三つ浮かんでいる。

「……埋める場所の目印、か」

 フィリスが息を呑む。

「どうする?」

「掘ってみる」


 小屋から鍬を持って戻り、印の中心を慎重に掬った。土は固くもなく、柔らかすぎもしない。鍬の刃に当たるものがあり、金属の手応えではなく、焼き物の感触がかすかに伝わる。指で土を払うと、薄い破片が現れた。白っぽい石に、墨のような線が走っている。線は途中で千切れ、欠けの縁を飢えているみたいに細く振動して見えた。

「一つ」

 ひし形の袋に破片を入れ、二つ目の印に移る。二つ目は少し深く、土が冷たい。指先が痺れて、破片を取り落としそうになる。フィリスが脇で鍬を支えた。

「肩、貸す」

「助かる」

「借りは返してるだけ」

 彼女は照れ隠しのように言い、けれど手の力はやさしかった。


 三つ目を掘り出す頃、太陽は村の中央の楡の木の影を長く伸ばしていた。汗が背中を伝い、掌の輪は心臓の鼓動に合わせて淡く明滅する。石板の破片を祭壇に並べると、白い輪がそこに滑り込み、あらかじめ描かれていたかのようにぴたりと合った。

 瞬間、祭壇のひびが内側から押されるように盛り上がり、光が細い文字列へと変わって流れた。読めない文字だ。それでも、意味の骨格だけが皮膚の下に吸い込まれてくる。


 余白の試練、第一。満たす者は、奪わずに満たせ。渇きに渇きを加えず、路を塞がず、路を開け。

 文字はそこで途切れ、残る余白は静まった。


「奪わずに満たせ、ね」

 フィリスが肩で息をしながら言った。

「魔物を斬るばかりが答えじゃないってこと?」

「そうかもしれない。……いや、もっと実務的な話でもある。水場を増やそう。あの畑の上、浅い池を作る。溜めて、回して、干ばつが来ても回るように」

「池?」

「大きくなくていい。畝から畝へ、糸のように繋げば布になる」


 そこへ、村の入口から怒鳴り声がした。粗い声、複数。俺とフィリスは顔を見合わせ、外に出る。


 街道から、旅装の一団が土煙をあげて入ってきた。先頭は黒い羽飾り帽をかぶった男で、馬上から村を見下ろすように鼻を鳴らしている。後ろに二人、槍を持った従者。さらに荷車が一台。

「代官の使いじゃよ」

 老人が杖を握り直しながら言った。声が震えている。

「市なんぞ開いたと聞きつければ、すぐこうじゃ」

 使者の男が馬から降り、井戸の周りの人々を押しのけるようにして近づいてきた。指に嵌めた指輪が太陽に光った。

「誰の許しを得て、市など開いた? この村は代官様の保護下にある。勝手な商いは禁じられておる」

 男は目ざとく祭壇へ続く足跡と、畑の新しい畝を見つけ、鼻をひくつかせる。

「それから、井戸の件。報告によれば、不審な術式が使われたとか。魔法使用税と、施術税、それに市の税を――」

「待ってくれ」

 俺は一歩出た。人の輪の中から、フィリスが静かに位置取り、背中で子どもを庇う。

「税を納める意思はある。だが、代官の定める税は収穫に応じるはずだ。今は播いたばかりだ。まず路を作り、流れを整える。代官殿に会わせてくれ。話がしたい」

「おいおい」

 使者は笑い、手を振った。

「旅の若造が何を偉そうに。会わせるかどうかは、こちらが決めることだ。まずは徴発だ。麦と卵と、井戸の管理もだ。鍵を寄越せ」

 井戸に鍵などない。だが「管理」という言葉の意味は分かる。水場を彼らの権限下に置き、供給を握るのだ。渇きは人の喉元を掴む。これ以上なく簡単に支配できる。


 奪わずに満たせ。路を塞がず、路を開け。

 祭壇の文字が背骨を通って立ち上がる。俺は掌を見た。白い輪は、今は静かに輝くだけだ。力を、税を、権限を――奪い合う場に力を持ち込めば、路はすぐ塞がる。


「では――」

 俺は使者に向き直り、声を低くした。

「市での取引は、“穀貨”にしよう」

「穀貨?」

「麦を単位にした証文だ。収穫が出たら、証文を持ってきた者に麦と引き換える。今は物と物を直接やりとりするのではなく、未来の収穫の余白を扱う」

 使者の眉が上がる。村人たちがざわめいた。彼らにとって証文は馴染みがない。だが、余白は誰にでもある。これから生える麦、これから産む卵、これから汲む水――その“これから”をきちんと書き留め、皆で見えるようにすれば、奪い合わずに回せる。

「証文は村と代官で帳面を共有する。代官の印ももらう。代官が望むなら、証文の一部は税としてあらかじめ切り分ける。つまり、今、お前たちが持っていく分は、全部“減った”ものではなく、将来の収穫からの先取りになる。路を塞がずに流すための、路地図だ」

「はっ」

 使者は吐き捨てようとしたが、言葉が喉でつかえた。背後の従者が顔を見合わせる。代官の役宅でも、年に何度か出入りの商人が証紙をちらつかせていたのを見たのだろう。

「帳面は誰がつける?」

「俺がつける。もちろん公開する。村の広場に表を貼り出す。証文も複写する」

「複写?」

「写し板があれば早いんだが、今は紙を重ねて筆圧で写すしかないな。……いずれ、もっといいやり方を作る」

 使者は舌打ちした。

「代官の印は安くないぞ」

「代官の威光は安くあってはいけない。だからこそ、見える形に変える。印は代官の威信を保証する。村は印の代わりに路を作る。井戸、水路、畑、そして市の掲示。互いの“これから”が見えるほど、税の取りっぱぐれは減るはずだ」

 最後の言葉に、使者の目が細くなった。彼らは保護と威光だけでなく、安定した収入を求めている。路が通えば、彼らの望みも満たされる。


「……いいだろう」

 やがて男は言った。肩をそびやかし、鼻を鳴らす態度は崩さない。

「代官に上申し、印の件は追って知らせる。だが、証文が紙切れにならぬよう、しっかりやれ」

「もちろん」

「それから、井戸の“管理人”は誰だ?」

「村だ。全員だ。鍵は作るが、鍵穴は皆の目にする」

「なに?」

「掲示板だ。水をどれだけ汲んだか、何に使ったか、毎朝書く。誰でも見られる。異論があればその場で声をあげる」

「ふん」

 使者は半ば不満げに踵を返し、槍持ちに合図した。荷車が軋み、土煙が遠ざかる。フィリスがいつの間にか剣から手を離し、ほっと息をついた。


「押し切るかと思った」

「押し切れば早い。けど、その分だけ“路”が歪む。歪んだ路は、あとで必ず詰まる」

「なんだか、剣の話みたい」

「剣の話かもしれない。道具はだいたい同じだ」


 村人のざわめきが上がる。老人が涙を拭い、笑いながら杖で地面を叩いた。

「エルン! 市の帳面じゃ! 板を用意する! 紙は……紙は、あの祠の裏にまだ残ってるかもしれんぞ!」

「紙は貴重だ。だから、まずは板に書いて、おおもとの表を作ろう。収穫の月までの路を、みんなで見えるようにする」


 午後、広場に大きな板を立て、粗い表を書いた。列は水、麦、卵、薪、労、護。横の行は各家の名。納めたもの、受け取ったもの、交換した証文の番号。すべて丸見えだ。

 最初は戸惑っていた女たちも、名前の横に壺の印が増えていくのを見るうちに、目の色が変わった。老人は指で線をなぞり、子どもらは炭の粉で手を黒くしながら数を数えた。誰もが、自分たちの村の“これから”に触っている。


 夕焼けが傾いたころ、廃祠の奥で風が鳴った。窓もないのに、どこかの路が通ったような、通気の新しい音。俺は祭壇に近づき、掌を載せた。白い輪が、さっきより濃い。

 ――満たしたなら、渡せ。

 声が来た。今度は、明確な命令の形で。渡せ。誰かに、あるいはどこかに。


「誰に渡す?」

 俺が小さく問うと、祠の隅で埃が舞い、隠れていた箱が見えた。蓋は半分焦げ、留金が錆び切っている。こじ開けると、中から小さな木の板が出てきた。掌にすっぽり収まる、白木の薄板。表面はすべすべで、中心に細い枠が彫ってある。枠の四隅には小さな穴があり、何かを留めるためのものに見える。

「写し板?」

 フィリスが覗き込む。

「写す、って言ってたやつ?」

「ああ。だけど、これ、ただの板じゃない」

 掌の輪が板の枠に触れた瞬間、薄い枠の内側に水模様が走った。周囲の空気の震えが板の上に集まり、さっき広場に立てた大きな表の一部が、板の上に淡く現れる。線は細く、しかし正確だった。数字も、名前も。

「……本当に写した」

「祠の持ち物だ。ここはもともと、路を繋ぐ場所だったんだろう。村の内側と外側、今と来年、祭りと生活。ここで写して、配って、皆で同じものを見ていた」

「なら、配ろう」

 フィリスは当然のように言った。

「写し板を使って、表の骨をあちこちに配る。市に来られない人にも分かるように」

「やろう」


 俺は写し板を胸に抱えた。輪の光は、板の中心で静かに脈打った。満たしたなら、渡せ。 この板を手渡すこと、それ自体が路になるのだ。


 その夜は、星がひどく近かった。祠の床に敷いた布に身を横たえ、天井の黒い煤をぼんやり眺める。外から、笑い声と、遠くで鳴く夜鳥の声。胸の奥の輪が温かい。昨日までは、体のどこにもなかった温度だ。


 眠りに落ちかけたころ、祠の扉の影が細く揺れた。フィリスか? 身を起こして見ると、細い影は少女だった。たぶん十四、五。髪に布を巻き、肩に小さな籠を提げている。月明かりが頬の産毛を白くした。

「ごめんなさい」

 少女は囁くように言った。

「ナヤです。水、ありがとう。……これ、母が焼いたパン。少しだけど」

 籠の中には、小さな丸パンが三つ。粉の焼ける甘い匂いがした。少女はおずおずと差し出し、俺が受け取ると、少しほっとしたように笑った。

「掲示板の字、難しかった」

「難しいか」

「でも、面白い。みんなの名前が並んでて。わたしの家のところに、卵、って書いてあった。嬉しかった」

「君が持ってきたのか?」

「ううん。鶏が産んだ。でも、“わたしの家の卵”って見えるのが嬉しかった」

 ナヤはそう言って、祠の中をきょろきょろ見回した。

「ここ、怖かった場所だった。誰も近づかなくて。……でも、今は、明るい。ちょっとだけ」

「明るくしよう。君たちが来られる場所に」

「うん」

 ナヤははにかみ、すぐに踵を返した。足音は羽のように軽い。扉が閉じ、また静けさが戻る。俺はパンを一つ割り、口に入れた。小麦の甘さが舌に広がり、胸の輪が、まるで腹と会話するみたいに温かくなった。


 翌朝、村のはずれで狼煙が上がった。黒いではなく、灰色の煙。合図の数で分かる。森の縁、三。街道脇、一。谷の向こう、一。俺は祠から飛び出し、広場に走った。すでに男たちは槍を手に集まり、女たちは子どもを連れて家の中へ誘導している。フィリスは腰を伸ばし、剣の刃に油を薄く塗った。

「何が来る?」

「霧じゃない。人だ」

 見張り台に上った青年が叫ぶ。

「旅装の一団、三組! それと……荷馬車が二台!」


 俺はひと呼吸おいて、笑いそうになった。使者の噂は早い。市の匂いを嗅ぎつけて、商いがやってきたのだ。

「迎えよう」

「迎える?」

「迎えないと、彼らは奪う顔になる。迎えれば、渡す顔になる」

 フィリスは笑い、肩をすくめた。

「あんた、ほんとに道具を知ってる」


 村の入口で俺は両手を広げた。

「ようこそ、アッシュの市へ。まだ板の表ばかりだが、路は通った」

 先頭の商人は目を瞬かせ、俺の背後の掲示板を見た。太い眉が上下し、口の端が上がる。

「……面白ぇ。帳付けか。代官の印は?」

「申請した。追って来る」

「なら、今日は“見本市”だな」

 彼は荷車の覆いを跳ね上げた。中には粗織りの布、釘、塩、古い本の束まである。

「好きなもんを見ろ。金がなきゃ、証文でも」

「証文なら、これで写す」

 俺は写し板を掲げた。白い輪が薄く光り、商人の目が少し見開かれた。

「魔法具か?」

「祠のものだ。祠は、村の路だ。今は閉じていた路を、もう一度通す」


 その日の市は、奇跡のように滑らかだった。卵が釘に変わり、薪が塩に変わり、薬草茶が布切れに変わる。証文は写し板で複写され、板の表には番号が並んだ。子どもらが数字に黒い指をのばし、老婆が笑ってその手を叩く。商人たちは“見本市”と言いながら、夕刻には荷の半分を置いていった。明日また来ると言い、路の先を指差して笑った。


 日が傾き、祠に戻ると、祭壇の文字がまた浮かび上がった。余白の試練、第一――渡せ。 その下に、細い線が新しくのびている。線はやがて、三つの小さな点に分かれた。森、街道、谷。今日、写し板が渡った先だ。

 ――良い。

 声は満足げだった。

 ――次は、奪われることを恐れず、奪わずに守れ。

「奪わずに守れ?」

 口にすると、フィリスが剣の手入れを止め、首を傾げた。

「どうやるの、それ」

「分からない。でも、たぶん――堰を作るんじゃない。路を編むんだ」


 その夜、村の外れで風が変わった。霧ではない、もっと硬いものの気配。森の奥の、石の眠りが身じろぎする音。井戸の水面が微かに震え、写し板の上で表の線がひと筋、波打った。

 俺は立ち上がり、掌の輪にそっと触れた。熱は穏やかで、しかし方向を持っていた。森へ。石へ。路は、もう祠の中だけのものではない。


 明日の朝、森に入ろう。水路を見て、風の抜け道を探し、石の眠りが起きる前に、路で包む。奪わずに、守るために。

 俺は目を閉じ、浅い眠りに身を沈めた。輪が胸の内で、星のように瞬いた。誰かの寝息、板の軋む音、遠い商人の笑い声――すべてが細い糸のように絡まり、やがて一枚の布になっていく気配の中で。


 のんびり暮らすつもりが、今日もやることが多い。けれど、不思議と嫌ではなかった。余白が埋まる音を、俺は好きになっていた。

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