復讐死体

廿日堂

復讐死体



 ここに来て、中に入ることが躊躇われた。

 ふと後ろを見た。

 そこには新雪の上についた私の足跡と、吹雪の靄で若干隠れた私の乗用車が見えた。

 もうすぐで、保育園へ息子を迎えに行かなければならない。今出ると、少し早いけれど、それでも構わないだろう。

 そう思った。

 けれど、先程から轟音と共に身に吹き付ける雪と、芯まで身体が冷え切っていたことによって、私の手は自然とドアをノックしていた。

 反応はない。

 私はドアを開けて中に入った。


 ログハウスの中は外よりはマシだったけれど、暖かくはなかった。入って正面に薪ストーブがあったけれど、それは全く稼働していなかった。脇にも、薪はない。

 私は、正面からゆっくりと右へ視線を動かした。

 窓があった。吹雪が小刻みに窓を叩く。

 そして、その近く――窓際。

 そこに、ベッドがあった。

「……」

 横たわっていた。

 狩垣傑かりがきすぐる

 その男は、窓の外をじっと見つめている。

 私は、彼に近づいた。

 近づくにつれ、彼の顔のしわや、腕の細さ、不健康に浮き出た血管の様子がグロテスクなほど、詳細に見えた。

 私の記憶とは全く違う姿が、そこにあった。

 彼のベッドの傍らまで来たところで、私は彼を見下ろす形で、口を開いた。

「記憶喪失になったらしいですね」

 そう言うと、彼は私の方をゆっくりと見た。そして、今私の存在に気が付いたのか、目を丸くして、言った。

「……君は、誰だ?」

 その開いた口の端は肉が抉れていて、そこからよだれが垂れていた。目も、色素が薄くなり、皺も多かった。

 あの頃と比べ、酷く老いている。





「俺はトラウマが好きだ」

 茶色の髪をオールバックにした男はそう言った。

 白いワイシャツは、赤黒く濡れ、黒いスラックスには千切れた肉片が付着していた。

 そして、私の手もぬるぬるとした生温かい液体が覆い、段々とそれは渇いてカピカピになってきていた。音を立てて亀裂が入る。

 窓から入った月明かりが、それが赤いらしいことを私に知らせた。

 血。

「――今」

 男は静かに言う。

「お前にはきっとトラウマが植え付けられた。そして多分、復讐心もだ」

 男は、土足で入った私の家を、コツコツと足音を立てて出ていく。

「お前が大人になったら、俺を訪ねて来い。お前を殺すのは、その時だ」

 扉が、閉まった。

 薄暗い家の中が、更に暗くなる。

 けれど、目が慣れて、見える。

 見えるけれど。

 私は、目の前に広がっている景色が、よく理解できなかった。

 お母さんは、白目を剥いて。

 お父さんは、鼻血を出して、血を噴いて。

 裂かれた二人のお腹からは、庭にあったホースみたいな長さの、よく分からないブヨブヨとしたものが、血液と一緒に溢れ出ていた。

 二人は、固まっている。

 何も話さず、動かず。

 私は、ダイニングに行った。そこには、今日食べるはずだったグラタンがあった。さっき見た時には、温かくて、チーズがとろりと溶けていた。

 今はもう、固い。

 そして、私の前に座っていた二人も、もういない。

 どこに行ったのかと、思って振り返ると、玄関の前で二人は寝ている。

 混乱。

 混沌。

 私は、二人の下に走った。

 走った。

 走ったら、ぬるぬるとした液体で足を滑らせた。視界が反転して、背中と頭に強い衝撃を感じた。

 痛い。

 天井が見える。

 暗い。

 電気は何故、消したのだろう。

「お母さん? お父さん?」

 私は呟いた。

 そのときはもう、何もかもが、よく、分からなかった。


       〇


 精神病院での診察を終えた後、私は孤児院に連れていかれた。

 そこには、自分と同じような境遇の人が沢山いて、けれど、一緒に話したり、遊んだりすることはなかった。

 私は、ずっと一人だった。

 グラタン。

 それが、夕食に出た時。

「はっ……はっ……」

 急に呼吸が浅くなった。

 深く吸おうと思っても、絶対にできない。脳みそよりも身体の方が先に反応して、制御が効かなくなっていた。

 グラタン。

 ぬるぬる。

 ホースみたいなもの。

 それは腸。

 小腸。

 ぐちゃぐちゃ。

 血。

「……うぇっ」

 びたびた、と音を立てて、さっきまで食べていたレタスやピラフが胃液と一緒に床に落ちた。明るい茶色の液体が、口から、次から次へと出ていく。

「遺架ちゃん? 大丈夫?」

 施設の先生が、私に駆け寄る。

「はっ……はっ……はっ……」

 私は、そのまま床に突っ伏す形で倒れた。


「きも」

 と、私は蹴られた。

 顔――頬だった。

 先生から見えない、施設の裏で私は三人の女の子に囲まれた。みんな、私と同じくらいの背丈なのにも関わらず、とても大きい存在に見えた。

 彼女たちは、気が済むと帰って行った。

 私はしばらく動けずに、壁に身を預けて深く息を吐いた。

 あの子達は怖いけれど、グラタンほどではなかった。少なくとも、急に呼吸が浅くなるようなことには、ならない。

 ようやく、気持ちと頬の痛みが落ち着いてきたとき、私は立ち上がった。

 そのとき。

「大丈夫か」

 横から、声がした。

 男の子の声。

 見た。

 彼は、確か、承汰君。苗字は知らないけれど、黒髪の短髪で、いつも外で遊んでいる。その所為か、肌は焼けていて、なんだかいつも元気なイメージがあった。

「……うん」

 私は、彼の言葉に、少し遅れてそう応えた。


「へい」

 そんな声と同時に、サッカーボールは私の下に来た。

 サッカーなんてやったこともないし、ルールさえ知らないのに、承汰君は私を誘った。いつもは、男の子たちと一緒にやっているけれど、私を誘う時は、ふたりきりだった。

「おお、ナイスナイス」

 それに、サッカーだけではなかった。

 たまにだけれど、ご飯も一緒に食べるようになった。いつも食堂でひとりぼっちだった私からしたら、不思議なことのように思えた。

 見ていると、彼は面白いくらい沢山食べた。カレーも、最高五回、おかわりしていた。


       〇


 結局、告白をして付き合ったのは、私たちが高校生になったときだった。

 それくらいの年齢になると、放課後の外出も許されるようになって、私たちは街の方まで繰り出してスタバの新作を飲んだり、話題の映画を見たりした。

 二人とも、言わなかったけれど、それはデートだった。

「ははは」

「笑うなよ……慣れないんだから」

 彼は何度行っても、スタバの注文で戸惑っていた。

 かわいい、と心から思った。

「だって、あれマックと同じだよ?」

 私はちょっと馬鹿にする。

 この時間が愛おしくて、好きだった。


       〇


 就職すると、私たちは同棲を始めた。

 お互い、知識はあまりなかったけれど、ドラッグストアでコンドームを買って、割合スムーズな流れで、初めては始まって、そして果てて、終わった。

「はは……」

「……なに」

 二人とも、顔が赤かった。息も荒かった。

 それからしばらくの期間、それしか考えられなくなった。

 でも、それが幸せだった。


       〇


 一番面白かったのは、彼とドライブをしていた時だった。

 外は酷い雨で、ノイズの入ったラジオは雨音にかき消されてよく聞こえなくて、途中で切った。代わりに、二人で少し大きい声で話していた。

 その時に彼は言った。

 今? とは思った。

 普通、夜景が見える場所や、シンデレラ城、ちょっと良いレストランとかでするものだと、勝手に思っていた。

 私は、彼の言葉に、少し遅れて頷いた。


 子供ができると、そのときの話を夕食の時によくした。けれど、何回話しても途中で笑ってしまって、冷静に伝えられた試しはなかった。

「あんま言うなよ……」

 承汰は、少し照れながら、そう言う。


       〇


 けれど、大切なものが増えていくたびに、あのときのことを思い出すようになった。

 全部がなくなる、という体験を、夢の中で生々しく追体験するようになった。深夜に目が覚めて、気が付いたら泣いていることも、多かった。

「……ねぇ、どこにもいかないで」

 そういう時、私は承汰に抱きしめてもらった。彼の生きている温かさを感じて、彼の服で涙を拭った。

 いつでも、彼は頭を撫でてくれた。

「いかない、絶対。大丈夫」

 優しい声は、私を包み込んでくれた。


       〇


 そんな折に、私は自分と同じ境遇――あの男に大切な人を殺されたという境遇の人達の集まりがあることを知った。

 あの男。

 狩垣傑。

 名前も、その時に知った。

 公民館の一室で行われたその集会に、私は参加した。

 そこでは、心理カウンセラーの人を中心にして、会話が交わされて、今の生活のことなどを共有した。

 その会の後、狩垣が交通事故に遭い、記憶喪失になったことを他の参加者――三澄さんから教えられた。事故をきっかけに、警察の方でも取り調べが行われたが、その末の裁判で社会的責任がないとされて、釈放されたという。

 そして、三澄さんは、探偵を雇って狩垣の今の居場所を特定したと言った。

 警察の方でも、保護をしているという訳でもなく、割合簡単に見つけられたとのことだった。

 何故その情報を得ようとしたのか、私は聞けなかった。

 聞かなかった。





 ベッドに寝た狩垣は、私を見上げる。

「知らない。俺は……何も知らない」

 私は近くにあった椅子に座り、彼を見た。

 狩垣は、寒いのか、ひどく震えていた。よく見れば、顔色も悪く、唇の色も紫だった。

 身体が痩せているために、きっと代謝がうまくできないのだ。熱を生み出せないから、布団の中にいても震えている。

「…………」

 憐れみ。

 私が生まれてすぐに死んでしまったおじいちゃん。

 きっと、生きていたらこんな風に衰弱していたのだろうと、何故か想像した。

 私は振り返って、こぢんまりとしたキッチンを見た。

「スープ、飲みますか」

 レトルトくらい、あるだろう。

 そう思って口に出した言葉に、狩垣は目を丸くしていた。

 彼は、静かに頷いた。

 キッチンに行くと、そこは酷く汚かった。多分、掃除もろくにしていないのだろう。けれど、水とガスがしっかりと通っていて、少しほこりで覆われていたけれど、ヤカンもあったため、スープくらいは作れそうだった。

 案の定あった卵スープのもとを、適当な底の深い器に入れて、沸いたお湯をそこに注いだ。不衛生だと思ったから、自分の分は作らなかった。

 狩垣は、持って行ったスープを大切な資源のように、ゆっくりと飲んだ。抉れた口の端からスープが零れる。ゴクリ、という大きな音とともに嚥下した後、狩垣はひどく咳き込んだ。私は、背中を擦ろうとは思わなかった。

 咳が落ち着くと、彼は大きく息を吐き、壁と天井の境目辺りに目を遣って口を開いた。

「事故に遭って、何が何だか分からないうちに取り調べをされて、裁判の後に釈放されるとき、警察から言われたんだ。『きっと、お前を殺しに来る奴が一人はいる』と。全く、覚えていないが、俺はそう言われるほど、人を殺したらしい」

 狩垣は、自分の口元の傷に触れる。

 少し間を空けて、彼は言う。

「……俺はまだ生きる。死期は遠い」

「そうですか」

「――だが、俺は寂しいんだ。警察関係のスーツの男が、たまに来るだけで、あとは一人。誰も、来ないんだ」

「……」

 狩垣は私を見た。

「君も、たまに来てくれるか」

 そんな風に言う。

「……」

 正直なところ。

 私は、この人間を殺したいとも、充実した余生を過ごさせたいとも、思わなかった。

 彼が昔言ったように、グラタンを見ると無条件にフラッシュバックするようなトラウマは植え付けられたけれど、そして、親を殺されたことによる復讐心も植え付けられたけれど、後者は段々と薄まっていった。

 殺されてから数年経った時。

 私は、復讐心というものが疲れるものだということを知った。

 普通の人が四六時中、親への愛を考え続けることが疲れるように、親の仇に向ける強い負のエネルギーは、体力を酷く消耗するのだ。

 最初の二年は、それでもよかった。

 何もできなかった自分と、子供だからという理由で殺されなかった自分に腹が立って、精神的な自傷行為のつもりで、復讐心を抱き続けた。

 けれど、次第に、施設で振るわれた女の子からの暴力と、それを救ってくれた承汰のことで復讐が二の次になっていって、感じたことのない正の感情と、心地の良い快感に塗れて、段々と薄まった。

 そして、過去に死んだ人よりも、目の前の人を愛そうと思った時に、とうとう復讐心はゼロに近くなった。

 ただ、トラウマだけが残って。

 私は、不誠実だ。

 親不孝だ。

 人間的に、道徳的に、欠陥があると思われても、仕方がない。

 ただ私はもう、復讐に疲れたのだ。

「……下げます」

 私は、彼の手から器を取って、キッチンへと持って行った。

 見れば、洗剤もスポンジもないため、洗いようがなかった。腐って、虫が湧いてもどうでもよかったため、私は器をシンクの中に置いて、そのままにした。

 その時、自分の腕時計が目に入った。

 そろそろ、保育園に息子を迎えに行かなければならなかった。

「……すみません、失礼します」

 私はそう言って、扉へ向かった。

 また来るのかどうか、分からない。でも、こんな酷い立地にあるのだ、面倒くさくて来ないだろう。

 そう思って、扉を開けた。

 ――いや。

 開けようとした。

 私が開ける前に、扉が、ひとりでに開いた。

 一気に冷たい空気と吹雪の音が家の中に入ってくる。

 外。

 扉の枠で区切られたそこには、三澄さんが立っていた。真黒の服で、ニット帽をかぶっていた。そして、その手には、包丁が握られていた。

「三澄……さん?」

「波里さん……」

 言いながらも、彼女は家の中に視線を遣り、彼女から見て右側――窓際のベッドで視線を留めた。

「狩垣……お前」

 と、三澄さんは、進んでいく。

 そして、勢いのまま狩垣に馬乗りになり、包丁を逆手に持って、彼の左胸辺りを、思い切り刺した。

「ぐああああああああああああああ!」

「……私の……弟を!」

 もう一度。

「ああああああああああ!」

 もう、一度。

「がっああああっああああ……あ」

 もう、一度。

 狩垣の苦しみに満ちた叫び声が、ログハウス――そして、吹雪を掻き消して湖畔に響く。

 黄ばんだシーツは赤色に染まり、彼女の顔に血しぶきがかかる。

 狩垣は、しばらくして、動かなくなった。

 固まった。

 場に、沈黙が下りた。直前までの狩垣の叫び声の所為で、静けさが際立っていた。

最初に口を開いたのは三澄さんだった。

「波里さん」

そう言う。

「は……はい」

 私は、返事をした。

「殺さなかったんですか」

「……」

 すると、三澄さんは私に包丁を向けた。

 ――が、すぐに向きを変え、持ち手が私に向くようにした。

「刺します?」

 人を刺すというのは体力を使うようで、彼女はまた肩で息をしている。

 そして彼女の声は、少し、震えていた。

「……いえ」

 私の声も。

 三澄さんは、私の返答を聞くと、包丁を下げて、一人で頷いた。

「私を通報しますか?」

「しません」

 私はすぐに答えた。

 すると、三澄さんは、私を見て笑った。

「ふふ、よかったです。復讐できて」

 その笑顔は、晴れやかで、肩の荷が下りたような、安堵の表情にも見えた。

 私は。

 私は、そのまま何も言わずに家を出た。


     〇


 帰りの高速道路で、私は少し冷静になっていた。

 そして、三澄さんの強さを実感していた。

 話によると、狩垣が人を殺していたのは二十年前までで、それ以降は逃亡生活をしていたらしい。とすると、少なくとも三澄さんは二十年間、復讐心を抱き続けていたのだ。

「偉い……」

 あの人は偉い。

 新鮮な気持ちのまま、刺し殺せて。

 私にはできないことだった。

 私はそれよりも、目の前の衰弱した老人に暖を取らせようと思ったし、目先の幸せを大事にしようとしか思えなかった。殺しが露呈した時のリスクを考えると、絶対にできない。

 それに、そもそも私は、凶器を持って行っていなかった。

 最初から、復讐するつもりなんてなく。

 ただ、選択肢として存在していたから、狩垣の家に行ったという、それだけだった。

 私には、できない。

 前を向いて歩いていくことしか、できない。

「……間に合うかな」

 時計を見ると、あと三十分で延長保育に切り替わる時間だった。もう少し急がなければならない。

 迎えを待って、悲しくさせるのは嫌だから。

 私は、雪が降る高速道路を少し速く進んでいく。

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復讐死体 廿日堂 @hatsukadou

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