第8話 休み時間の小競り合い

~ 小さな火花が飛び散る。対応一つでクラスは変わる ~



 週明けの月曜日。

 桜の花びらはだいぶ散り、校庭の隅に薄いピンク色のじゅうたんを作っていた。

 先週の夜、僕は教材を作り直し、大翔の興味に合わせた算数プリントを用意してきた。

 ――今日こそ、少しでもクラスを動かしたい。


 一時間目の算数。

 新しい問題を黒板に書きながら、子どもたちの反応を観察する。

「恐竜列車が時速80キロで走っています――」

 その瞬間、後ろの大翔の顔がパッと上がった。

「え、恐竜列車!?」

 小さな笑い声が起き、隣の子が「何それ」と聞き返す。

 大翔が得意げに説明を始め、教室に小さな活気が広がった。

 初めて、大翔がクラスの中で声を持った。

 胸の奥で小さくガッツポーズをしたくなる。

 授業はまだぎこちないが、先週よりもずっと進めやすかった。


 だが、二時間目の休み時間にそれは起きた。


 僕が職員室で印刷物を取りに行っていると、廊下から大きな声が聞こえた。

「やめろって言ってるだろ!」

「うるせー!」

 慌てて四年二組へ走ると、教室の中央で二人の男子――水野と岡崎が向かい合っていた。机がひとつ倒れ、周りの子どもたちが半円を描いて見守っている。


 心臓が一瞬で早くなる。

「どうした!」

 思わず大きな声を出してしまった。子どもたちが一斉にこちらを向く。


 水野が真っ赤な顔で言った。

「岡崎が俺の筆箱勝手に取った!」

「取ってない! ちょっと見ただけ!」

 岡崎も負けじと叫ぶ。

 僕は頭の中が真っ白になった。

 ――どうする? どう止めれば? 叱る? 話を聞く?


 一瞬の迷いの後、とにかく二人を引き離した。

「二人ともいったん離れよう」

 手を広げ、声を落ち着かせるように努める。だが、内心は動揺している。

 水野はまだ肩を震わせ、岡崎はふてくされた顔をしている。

 周りの子どもたちがひそひそ話す声が耳に刺さる。


「水野、岡崎、まずは座ろうか」

 二人を別々の席に座らせ、少し沈黙を置いた。

 その間に教室を見渡す。何人かが不安そうな顔をしている。

 ――落ち着け。まず事実を聞くんだ。


「水野、どうして怒ったのか教えてくれる?」

「岡崎が俺の机から筆箱取って笑ったんだ!」

「笑ってない!」と岡崎が叫ぶ。

「岡崎、君の話も後で聞くから、今は黙っていよう」

 少し厳しく声を出すと、岡崎は不満そうに唇を噛んだが、静かになった。


 次に岡崎の話を聞く。

「水野の筆箱のキャラがかっこよかったから見てただけ。取ったつもりはない」

「でも勝手に触ったよな!」水野がまた立ち上がろうとする。

「ストップ」

 僕は両手を広げ、制止する。

「水野が嫌だと思ったことは事実だね。岡崎はその気はなかったけど、結果として水野は嫌だった。それはわかる?」

 岡崎が黙ってうつむく。小さく頷いた。

「水野も、岡崎がわざとバカにしたわけじゃなかったって、わかる?」

 水野は腕を組んだまま、でも少し目をそらして「……うん」とつぶやいた。


 クラス全体が少し静かになったのを感じた。

 僕はゆっくりと続ける。

「じゃあ二人とも、お互いにどうしてほしかったか、ひとことだけ伝えよう」

 水野が目をそらしたまま「勝手に触んないで」と言う。

 岡崎は「ごめん」と小さく言った。

 まだぎこちないが、空気がようやく和らいだ。


「ありがとう。じゃあ二人とも今日はここで終わりにしよう。次からは、触る前に一言聞く。嫌なときは“やめて”って言っていい。ただし、暴力や大声はダメ」

 そうまとめると、周りの子がほっとした顔をした。


 休み時間が終わったあと、彩花が教室をのぞいた。

「さっきの声、聞こえました。大丈夫ですか?」

「なんとか収めましたけど……正直、頭が真っ白でした」

「それで大丈夫ですよ。止めて、話を聞かせて、まとめた。まずはそれで十分」

 彩花はそう言って肩を叩いた。

「叱るって、必ずしも怒鳴ることじゃありません。“線を引く”ことです。さっきの対応、ちゃんと線を見せられてましたよ」

 その言葉に、少しだけ胸が軽くなった。


 でも心の奥では、まだざわざわが残っていた。

 あの瞬間、僕は怖かった。怒鳴ってしまいそうで怖かった。

 広告の現場では怒鳴る上司を何度も見た。ああなりたくなくて、必死に自分を抑えた。

 けれど子ども相手に怒れないのは弱さなのかもしれない――そんな考えも頭をかすめる。


 放課後、学年会でその出来事を共有した。

 小谷はうなずきながら言った。

「初動は十分だ。まず止める。それが一番大事だ。次は“起きた原因を共有する”ことをもう少し子どもたち全体に広げてもいいかもな」

「原因を共有……」

「同じことが起きたら、クラス全体でどうするか決める。そうすると“線”がみんなのものになる」

 そのアドバイスを胸に刻んだ。


 夜。

 机の明かりの下で、今日の出来事をノートに書き込む。

「トラブル発生:水野vs岡崎/原因:筆箱を勝手に触る→嫌悪感」

「対応:止める→双方の話を聞く→謝罪→クラス共有は未実施」

「改善:次回はクラス全体で“物を勝手に触らない”を話し合う」


 書きながら気づく。

 怖いままでいいのかもしれない。

 怖さがあるからこそ、怒鳴らずに済んだ。怖いと自覚しながらも止めて話を聞く――それが今の僕のやり方だ。


 ふとスマホを見ると、彩花から短いメッセージが届いていた。


【今日、ちゃんと先生してましたよ】

 その一文が胸に沁みた。

 僕は少しだけ笑って、机に肘をついた。

 まだ足りない。でも、確かに前へ進んでいる気がする。





しかしその夜、一本の電話が鳴る――保護者からの初めてのクレームが、彼の胸をさらに揺さぶることになる。

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