第9話 初めての保護者対応
~ 電話口の沈黙ほど怖いものはない。言葉が空回りする夜 ~
その夜、夕食を終えてようやく一息ついたころ、スマホが震えた。
画面には「学校」の表示。
胸の奥がひやりと冷たくなる。
「佐久間先生でしょうか」
落ち着いた女性の声だったが、すぐに名前を名乗られた瞬間、背筋がこわばった。
――大翔の母親だ。
「今日の休み時間の件、息子から聞きました」
静かな口調だったが、その奥にある感情の温度を測れない。
「まず、対応していただいたことには感謝しています。ただ……水野くんと揉めたとき、先生がもっと早く止めてくれたらと思いました」
胸がチクリと刺される。
僕は慌てて説明を始めた。
「すぐに止めるようにはしたつもりですが、少し距離があって……状況を把握しながら――」
自分の声が頼りなく聞こえる。
母親は少し間を置いてから、また静かに言った。
「息子は、先生が見ているのに止めてもらえなかったと感じたみたいです。だから、怖くて怒鳴ってしまったと」
返す言葉が見つからなかった。
本当は、あのとき僕はどう止めていいか迷っていたのだ。
迷っているうちに水野が立ち上がり、岡崎が叫び、空気が一気に熱くなった。
そのわずかな数秒が、子どもには永遠のように感じられたのだろう。
「……申し訳ありません」
やっと絞り出せたのはそれだけだった。
「明日、本人にも話を聞いて、改めて対応します」
そう伝えると、母親は少しだけ声を和らげた。
「お願いします。息子は感情のコントロールが苦手です。先生に止めてもらえると安心できると思うので」
通話が終わった瞬間、力が抜けた。
ソファに座り込み、しばらく天井を見つめる。
“もっと早く止めれば”――その言葉が頭の中をリフレインする。
翌朝、職員室で彩花に話した。
「……大翔くんのお母さんから電話をいただいて」
彩花は真剣な顔で聞いていたが、最後に小さく頷いた。
「そうですか。でも、誠実に謝って経緯を伝えたのはよかったと思います」
「でも、止めるのが遅かったのは事実で……」
「そりゃあ、初めてのトラブルなら仕方ないですよ。私だって最初は固まりました」
「彩花先生でもですか?」
「もちろん」
彼女は笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「大翔くんのお母さんは、息子の“安心”を求めているんだと思います。対応が遅い=安心できない、になってしまう。そこを意識してみるといいかも」
その言葉が胸に落ちた。
僕は、“安全”よりもまず“状況を理解する”ことを優先してしまった。
広告時代の会議なら、それが正解だった。だが教室では、まず安心させる動きが必要だったのかもしれない。
彩花はさらに続けた。
「クレームって思うとしんどいけど、あれは親のSOSでもありますから。大翔くんのお母さんは、先生に期待して電話をしてきたんだと思います」
少し肩の力が抜けた。
期待――それなら、応えたい。
その日、授業が終わったあと大翔を呼んだ。
「昨日はごめんな。先生、止めるのが遅くなって怖い思いをさせたね」
大翔は少し驚いた顔をしてから、俯いて「……うん」とだけ言った。
「でも、水野くんと話してくれてありがとう。先生も、もっと早く動けるようにがんばるからさ」
すると、大翔が小さく笑った。
「……恐竜の問題、おもしろかった」
思わずこちらも笑ってしまった。
――よかった。まだ繋がれる余地はある。
放課後の学年会で今日のことを共有すると、小谷がうなずいた。
「保護者対応、おつかれさん。ちゃんと話を聞いて謝って、改善を伝える。基本はそれでいい」
「でも……やっぱりクレームって怖いですね」
「怖いよ。俺だって今でも怖い。けど、そこから学ぶんだ。次は“とにかく止める”を先にやると決めればいい」
「はい」
小谷の声は重くも優しかった。
帰り際、彩花がふと笑った。
「佐久間先生、昨日の電話の顔してないですよ」
「……昨日は相当落ち込みましたけど」
「今日の対応、ちゃんと前に進んでました。大翔くんも先生のこと、ちゃんと見てますよ」
その言葉に、心がほんの少しあたたかくなった。
夜、机の明かりの下で振り返りを書く。
「保護者からの要望=安心を求める声」
「状況を理解する前に“まず止める”を優先」
「次回:安全→説明→改善」
書きながら、少しずつ呼吸が深くなっていくのを感じた。
まだ怖い。でも、怖さを知ったからこそ学べることがある。
スマホを確認すると、彩花から短いメッセージが届いていた。
【明日、ICT授業やってみましょうか。子ども、ワクワクするかも】
思わず笑ってしまう。
失敗とクレームの渦中でも、挑戦のチャンスは転がっているのだ。
翌日、初めてのICT授業に挑む佐久間。だが、成功と失敗の狭間で新たな気づきが待っていた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます