第7話 夜の自問自答

~ 机の明かりだけを味方に、教材と向き合う深夜 ~



 四月五日、金曜日。

 一週間がようやく終わろうとしていた。

 新しいクラス、新しい肩書き、新しい責任。五日間という短さのはずが、体感では一か月分の重さがあった。


 今日も国語と算数をやった。昨日よりは指示が通り、空回りすることは減った。けれど、子どもたちの空気が完全にこちらに向いているわけではない。特に大翔は授業のたびに気まぐれに立ち歩き、窓の外を眺める。声をかけてもすぐには戻ってこない。

 他の子たちの集中も、それに引きずられるように崩れる瞬間がある。

 授業が終わるたびに、**“これでよかったのか”**という疑問が胸をかき回した。


 放課後、学年会を終えて職員室に戻ると、彩花が声をかけてくれた。

「おつかれさまです。だいぶ声が届くようになってきましたね」

「……そうですかね」

「でも、まだ大翔くんが気になりますね」

 彼女はそう言って、少し考えるように目を細めた。

「大翔くん、興味が持てるものを少しずつ差し込むといいかもしれません。授業のネタで。彼、好きなものが出ると急に集中するので」

「好きなもの……」

「前に聞いたときは、恐竜と電車が好きって言ってましたよ」

 心のどこかがざわついた。広告時代、僕は相手の興味を見つけることを仕事にしていたはずだ。なのに、子ども相手だとその力が使えていない。


 夕方、職員室を出て帰路につく。

 春の夕焼けはきれいだが、心は晴れなかった。

 スーパーで弁当とカットサラダを買い、アパートへ帰る。部屋の中は相変わらず狭く、机の上には未整理のプリントと名簿が山になっている。

 鞄を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せた。ソファに座り込むと、体が動かなくなる。


 でも――このままでは終われない。

 僕は机の電気をつけ、名簿を開いた。

 一人ひとりの顔を思い浮かべながら、特徴や気づきをメモしていく。


 北川:声が小さいが、観察力がある。昨日も静かに周りを見ていた。

 大翔:恐竜と電車が好き。集中が続かないが、興味が刺さると動くかもしれない。

 水野:活発。手を挙げるのが好き。だが人を押しのけがち。

 さやか:ノートをきれいに書く。グループでは控えめ。


 広告時代、僕はクライアントの会社を徹底的に分析した。ターゲット層のペルソナを作り、どんなメッセージが響くかを考え抜いた。

 ――あのときの分析力を、今ここで使えないはずがない。

 自分を少しだけ励ますように、ペンを走らせる。


 大翔の欄に「恐竜」「電車」と書き込む。

 算数の問題に恐竜の名前を混ぜるとか、電車の速度を例にするのはどうだろう。国語の読み取りも、恐竜の本や電車の本を持っていけば反応が変わるかもしれない。

 子どもを“顧客”に例えるのは乱暴かもしれない。でも、相手を知り、興味を探るのは教師も同じだ。


 次に、クラス全体の空気を書き出す。

「まだ先生を観察している段階。ルールを試している」

「発言が活発な子と控えめな子の差が大きい」

「僕自身が余裕を持てていない」

 最後の一行を書いたとき、ため息が出た。


 机の明かりだけが部屋を照らす。

 時計はすでに夜十時を過ぎていた。外からは遠くの車の音だけが聞こえる。

 胸の中の声がざわめく。

 ――僕は、この一年を乗り越えられるのか。

 ――“基準”って、何だ。

 ――叱れない自分は、教師失格なのか。


 昨日の学年会議で小谷が言った言葉が頭をよぎる。


「迷っていい。迷わないまま進む方が危ない」


 迷っていい。でも、迷ったまま止まってはいけない。

 僕はペンを置き、深呼吸した。

 何を大事にしたいか。

 ――“尊重”だ。子どもが自分や友達を尊重できるようにしたい。

 そのためには、僕がまず子どもを尊重しなければならない。興味を知り、認めることから始めよう。

 叱れなくても、否定から始めない教師になりたい。


 その言葉をノートに書いた瞬間、胸の奥のもやが少しだけ晴れた。

 大きな答えではない。でも、最初の旗印にはなるかもしれない。


 机の上には明日の授業プリントが広がっている。

 算数の問題文をひとつ変えた。「恐竜列車が毎時80キロで走っています――」。

 きっと子どもたちの目が少しでも輝くなら、それでいい。


 ふと、スマホに彩花からメッセージが届いた。


【明日、大翔くんへの声かけ、一緒に考えましょう】

 シンプルな一文。

 胸の奥が温かくなった。ひとりじゃないと思えるだけで、世界は少しやわらかくなる。


 時計は十一時を過ぎた。

 ノートを閉じ、明かりを消す。

 暗闇の中、まだ緊張と不安は残っている。でも、ほんの少しだけ“やれるかもしれない”という光があった。





だが週明け、予想外の保護者からの電話が彼を襲う――初めてのクレーム対応が始まる。

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