第2話 車

 都心から約30キロ離れた片田舎で暮らすヨウイチは、都内の中小商社で勤勉に働いていた。

 その商社はアパレル系の卸売業を手がけており、時代のわりには業績も安定している。

 日々の業務もそこまで過酷ではなく、ヨウイチは毎朝9時に出社し、遅くとも夜8時には退勤できる生活を送っていた。


 それなりに残業もあるが、その分給料も悪くない。

 職場の人間関係も良好で、ヨウイチは今の職場に概ね満足していた。


 ……ただ、一つだけ不満があるとすれば、それは通勤の問題だった。


 今年で38歳になるヨウイチは、いまだ独身で実家暮らしだ。

 もちろん、これまでに結婚や、実家を出て会社の近くに住むことも考えたことはある。


 だが、ヨウイチの両親は彼を高齢出産で授かったため、今では二人とも70歳近い。

 そのため、心配で実家を離れることができなかったのだ。


 しかし、それゆえにヨウイチは毎日30キロ近くを車で通勤しており、片道に少なくとも1時間はかかっていた。

 しかも実家は公共交通機関の便が悪く、車通勤以外の選択肢はない。

 そして── その車通勤こそが、ヨウイチにとって最大のストレスだった。


 ヨウイチの通勤ルートは、都心へと続く国道。

 この道は、山や住宅街に沿って走る片側一車線で、朝は特に混雑が激しいことで知られている。

 渋滞を避ける迂回路もなく、高速道路を使えばかえって遠回りになるという厄介さ。

 ……だが、何より厄介だったのは、その国道に現れる“迷惑車”の存在だった。


 その車は、独特な色合いのボディから、地元では通称「玉虫」と呼ばれていた。

 “玉虫”は、朝の国道を自転車以下の超低速── 時速10〜15キロでノロノロと走るのだ。


 当然、朝の渋滞の大きな原因となり、周辺住民から何度も苦情が寄せられている。

 しかし警察も、軽い注意をする程度しかできず、“玉虫”による渋滞は一向に改善されないままだった。


 ヨウイチは、もともと通勤時間が長い上に、“玉虫”のせいでさらに早起きを強いられていた。

 毎朝1時間早く家を出るその生活が、彼にとっては苦痛で仕方なかった。

 “玉虫”の存在が、憎くてたまらない。


── いつか俺の目の前で走ってたら、車を止めて怒鳴りつけてやる……!


 そう心の中で繰り返しながら、ヨウイチは日々の通勤ストレスをなんとか抑え込んでいた。


 そんなある日のことだった。

 いつものように出社したヨウイチの携帯に、一本の電話が入った。

 着信を見ると、父親からだった。


── 親父? 珍しいな……


 年金暮らしの父と母は、普段は家でテレビを観ながらのんびり過ごしている。

 携帯電話を使う姿など滅多に見たことがないし、同居しているヨウイチに電話をかけてくるなど、なおさら珍しい。


 ヨウイチは、不安が胸をよぎった。

 このタイミングで父からの電話……しかも仕事中にかかってくるなんて、何かよほどのことがあったのでは?


 恐る恐る電話に出ると── 嫌な予感は、見事に的中した。


「……ヨウイチ、母さんが倒れた! ……死んでしまうかもしれん!」


 いつもは酒を飲んで陽気な父の声は、聞いたこともないほどしぼんでいた。


「わかった! すぐ行く!」


 ヨウイチはすぐに上司に事情を伝えた。

 すると、上司は営業の代役を手配し、ヨウイチに早退を許可してくれた。

 ヨウイチは通勤カバンも持たず、会社を飛び出して母が運ばれた病院へ向かい、車を猛スピードで走らせる。


「母さん……頑張ってくれ……! すぐに行くから……!」


 幸い、昼下がりだったこともあり、病院までの道はさほど混んでいなかった。

 ……途中までは、だ。


 ヨウイチは焦る気持ちを必死に抑えながら、可能な限りスピードを出して病院へと急いでいた。

 ── しかし。

 神は彼を見放したのか?

 必死で車を飛ばすヨウイチの前に、まるで嘲笑うかのように、それは現れた。


 そう、“玉虫”である。

 なぜ、このタイミングで?

 なぜ、こんな時に限って──!


「クソッ……なんだよコイツッ!」


 病院へ急ぐヨウイチの前を、“玉虫”はいつも通りノロノロと、時速10キロそこそこのスピードで走っている。


「……ええい! 付き合ってられるかよ!」


 幸い、反対車線には車が少ない。

 今のうちなら、追い越せる──!


 ヨウイチはウィンカーを出して車線をはみ出し、加速して“玉虫”の横へと出た。

 ── だが。


「はぁ!? なんだコイツ!? ……危ねぇっての!」


 “玉虫”はヨウイチの車が並んだのを見て、突然スピードを上げたのだ。

 あろうことか、ヨウイチの進路を塞ぐように前に出て、車線に戻るのを妨害してきた。


「なんなんだよ……!? なんなんだよコイツは……!」


 その間に、反対車線の前方から対向車が迫ってきた。

 仕方なく、ヨウイチはブレーキを踏んで“玉虫”の後ろに戻るしかなかった。


「クソが……!」


 だが、車を戻した瞬間、“玉虫”は再びスピードを落とし、例のノロノロ運転に戻る。


「……なんだ? ふざけてんのか、こいつ……?」


 怒りは、爆発寸前だった。

 明らかな嫌がらせ。

 だが、ヨウイチにとって今この瞬間、こんなくだらない妨害に付き合っている時間など無かった。


「クソッ! なんとか……早く!」


 もう一度、追い越そうと試みるが、“玉虫”はまた加速してブロック。

 戻れば減速、出れば加速。

 その無意味なやり取りを何度も繰り返す。

 ヨウイチは完全に精神を削られていく。


「頼む……頼むからどいてくれ……!」


 ……だが、その祈りは届かなかった。

 どれほどの時間が経ったかも分からない中、再び携帯が鳴る。

 ── 父親からだった。


「……まさか……いや……ウソだろ、ウソって言ってくれ……!」


 恐る恐る電話に出るヨウイチ。

 だが、無情な現実は、声となって耳に届いた。

「……ヨウイチ……母さんな……死んでしもうたぞ……。どこにおるんや……お前、手ぇも握ってやれんで……母さん……」

「……」


 父の声は、もうヨウイチには聞こえていなかった。

 頭の中が真っ白になり、冷たい血が全身を駆け巡るような感覚だけが身体を包む。

 悲しみ? 絶望? 怒り?

 一体この感情はなんなのか、もう分からなかった。


 ヨウイチは通話中のまま携帯を手放し──

 次の瞬間、アクセルを踏み抜いて、“玉虫”の後部に自車を激突させた。


 ── ガシャァッ!!!

 ヨウイチの車のフロントが、玉虫の後部にめり込む。


「……」


 その衝撃に、“玉虫”がブレーキを踏んで停車すると、ヨウイチは無言で車を降りて、運転席へと詰め寄る。

 そして、怒鳴りながら降りようとした“玉虫”の運転席のドアを、いきなり蹴りつけた。


 ── ドカッ!

 凄まじい音が辺りに響く。


「痛っ! 痛たっ! なんだ!? なんだアンタ!?」


 中から出てきたのは、明らかに怯えた様子の中年男。

 ヨウイチは、その男の髪を掴んで力任せに引きずり出した。


「いだいっ! いだいいだいっ!」


 男の顔だけがドアから引っ張り出され、身体は車内に引っかかったまま、身動きがとれなくなっている。


「やめろ! なにしてんだアンタ!?」


 必死に抵抗する“玉虫”。

 だが、我を忘れたヨウイチの耳には、その声は届いていなかった。


 ── そして。

 ヨウイチは髪を掴んだまま、車のドアを思いきり閉めた。


 ── ガン!

 ドアが男の顔面を直撃し、鼻が潰れるような音が響く。


「んひぃっ!」

 悲鳴を上げ、バタバタと手足を痙攣させる“玉虫”。


 だが、ヨウイチは止まらない。

 まるで車のドアを凶器に変えたかのように──


 ガン! ガン! ガン! ガゴッ!


「うひっ!」

「んぎっ!」

「えひっ!」

「あひゃっ!」


 ドアの開閉音と、悲鳴がリズムのように響き合う。


 やがて、“玉虫”は悲鳴さえ上げられなくなった。

 顔は柘榴のように裂け、赤黒く腫れ上がり、身体はぐったりと力を失う。


「きゅぅぅぅ……きゅぅぅぅ……」


 最後は、イビキのような断末の呼吸。

 ……だが、それでもヨウイチは止まらなかった。


 原型を失った顔に、なおもドアを叩きつけ続ける。


 ガン! ガン! ガン! ガン!


……


 ── それから約5分後。

 ヨウイチの車の後ろに、一台の後続車が停車した。


「なんだ……? 事故か?」


 運転手は、少し前方に立つスーツ姿の男が、何かをしているのを目にする。


「……何やってんだ?」


 異様な雰囲気に気づいた運転手は、車を降りてゆっくりと前に歩いていく。


 そして──


「ひっ……ひぃぃ……!」


 そこには、顔面が潰れ、肉塊と化した死体の頭部を掴みながら、ひたすら車のドアを打ち付け続ける男の姿があった。

 ドアは歪み、ボディは血と肉片にまみれ、路面には異臭と絶望だけが広がっている── 。

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